長野県史 民俗編 第三巻(3)東信地方[ことばと伝承」

                                     (昭和62年3月刊行)

  

 

 調査期間  民族編は、昭和四七年度に民族資料調査委員会を設けることから始まり、昭和五十三年度には全県の調査を終了しました。

 

緒言

歴史を明らかにするうえで、文字に残らぬ民族資料の役割を重視し、文献史料と対等に位置づけることとして、それにふさわしい規模の全五巻十四冊に編成しました。第一巻から第四巻(各三冊)を資料編とし、第一巻は東信地方、第二巻は南信地方、第三巻は中信地方、第四巻は北信地方、それぞれの民俗を収録しました。第五巻(二冊)は総説編として、庶民生活誌を中心に県内民族の実態とその変遷や伝播のあとを概観することにしました。資料編の各巻は、資料を社会生活から口頭伝承までの十二編に編別、さらに各編は三ないし十章別に分類収録しました。

 昭和六十一年三月には、第一巻(ー)東信地方「日々の生活」を刊行し、これには社会生活、人の一生、住居、衣生活、生業、交通・交易、年中行事、民間信仰の四編を収録しました。本書は第一巻東信地方の第三冊めで、民俗知識、民俗芸能、口頭伝承の三編を収め「ことばと伝承」をもって統括しました。

                                                                                                                         昭和六十二年三月三十一日

 

  調査地及び地方委員  

 塩田地区

 下組久保   塩入 秀敏  氏

 平井寺    丸山 知志  氏 

 塩田上本郷  宮本 達郎  氏

 手塚     金沢 直人  氏

 別所     荒井 三千人 氏

  話者関係者

 上田市塩田地区 

            明37    明35   明42    明36    明44   明40   明44

 上田市古安曽平井寺 塩入亀雄・ 窪田清巳・窪田しま子・塩入栄子・ 林 東一郎・窪田英司・窪田はつ

                                明39    明40   明39   明34    明37   明35   大7

 上田市上本郷 小林みつる・宮林ふみ・中島きよえ・若林忠袈・甲田巌・小林袈裟重・田中良治

                                明23   明38    明40    明39   明26   明32    明43    明45

 上田市 手塚 市村 誠・山極 稔・樋口勝人・市村儀市郎・関 政嗣・市村とく・石川直巳・池田きみ子

                                   明38   明38   大2   明34    明34   明39

 上田市別所温泉 小平元勝・深草栄蔵・前山とめ・横沢あや・坂中市松・倉沢佳吾

 上田市山田   東川多寿雄

 

       調査地及び地方委員  

   北佐久郡立科町

    塩沢  市川 日吉 氏

                            明36     明34      明40      明43

           塩沢上屋敷  市川 猛 ・ 市川あさ子 ・ 土屋正直 ・ 土屋まさよ

                        明37     明41

          塩沢下新田  村田武夫 ・ 村田なか 

                                 明36       明41

          塩沢美田沢屋敷  倉沢袈裟治 ・ 倉沢はさ乃

                 

           塩沢        六川長三郎 ・ 宮下友寿

                

 

      立科町塩沢は、うちの山の神の出身地なので。

(以下は(平井寺)・(立科町塩沢)のみ)   塩田地区において、除く地区もある。 

  第十編 民俗知識

 第一章 「俗信」                           

 俗信は人々が長い歴史の中で生み出し、しんじてきた知識であり信仰である。その内容は民間信仰と重なったりもするが、体系だっておらず断片的で、知らない人からは迷信だといわれるようなものである。ここでは予兆、卜占、忌み、まじない、妖怪・幽霊の五つを取り上げる。                              

 

   

    第一節 [予兆](P2)

 

 

 

  「太陽がかさをかぶると雨が降る」ということがある。太陽がかさをかぶったことを理由に、雨が降るというのちの事態を予測しているのである。こういうとき、「太陽がかさをかぶる」ことを、雨が降る予兆であるという。東信地方は北流する千曲川を中央に挟んで、東に太郎山、烏帽子岳、浅間山、平尾山、茂木山など、西に独鈷山、蓼科山、八ヶ岳などの山々がみられる。気象についての予兆はどこでも一般的に数が多いが、東信地方ではこれらの川や山々に、直接かかわりあっているものの多いのが特徴的である。例えば、北佐久郡浅科村下原では「千曲川の水の音が上流へゆくと雨が降る」といい、南佐久郡臼田町では「八ヶ岳に七回、浅間山に八回雪が降ると里にも降る」という。また小諸市耳取では「平尾ずきんに浅間帯」といって、朝、平尾山の山頂付近や浅間山の山麗に雲がかかっているとその日は雨になるという。

「雨の予兆」

(動物によるもの)(P4)

〇蛇が道を横切ると雨が降る(塩沢)

 

(自然現象によるもの。)

〇朝焼けがすると雨が降る(塩沢)

〇太陽がかさをかぶると雨が降る(平井寺)

〇西空が曇ると雨が降る(平井寺)

〇南東の空にかさ雲が出ると雨が降る(塩沢)

〇南風が吹くと雨が降る(平井寺)

〇山に横霧がまくと雨が降る(平井寺)

〇浅間山に雲がかかると雨が降る(塩沢)

 

 [その他]

〇おかま(釜)のはだが湿っぽくなると雨が降る(平井寺)

〇汽車の音が聞こえてくると雨が降る(平井寺) 

 「 雪が降る予兆」 (P8)

(動物によるもの)

すずめが騒ぐと雪が降る。塩沢)

 

(自然現象によるもの)

〇北風が吹くと雪が降る(平井寺)

〇静かで暖かくなると雪が降る(平井寺)

〇炭窯の額石の上に生細木をおいて火がつくと雪が降る(平井寺)

 「風が吹く予兆」

(動物によるもの)

〇とんびが輪をかくと風がふく(塩沢)

〇雲が尾を引くと風が吹く(平井寺)

〇山の峰が鳴るなどの音がすると風が吹く(平井寺)

                        

「晴れる予兆」

(自然現象によるもの)

〇夕焼けは明日晴れる(平井寺(塩沢)

〇夕焼けは明日晴れる(平井寺)

○北西の方向に雲があると天気になる(塩沢)

〇雨の泡粒が立たなくなると晴れてくる(平井寺)

 (その他)

○雨の泡粒が立たなくなると晴てくる(平井寺)

〇朝、飯かま(釜)のはだが乾くと天気になる(平井寺)

 

 

 「日照りが続く予兆」

(自然現象によるもの)

○赤い夕日は日照りの兆し(塩沢)

〇朝夕の太陽が赤くなると日照りが続く。平井寺)

○夜だけ曇ると日照りが続く(平井寺)

 「死の予兆」

(動物によるもの)

○からす鳴きが悪いと死者が出る(平井寺(塩沢)

○からす鳴きが悪いことは、当人の家の人は気付かず、他の家の人がわかる(塩沢)

  (食べ物によるもの)

  ○梅や味噌が腐ると不幸がある(塩沢)

(その他)

○家財道具が不意に壊れると死者が出る(平井寺)

「作柄の良い予兆」

 (気象によるもの)

○大雪の年は豊作である(塩沢)

○六月に雨が多く、七、八月に雨が少なければ豊作である(平井寺)

○寒の雨が降ると麦は豊作である(塩沢)

 (その他)

○碓氷峠の権現様のお札で判断する(塩沢)

○馬の寝息が高ければ作柄が良い(平井寺)

○はちの巣が低ければ作柄が良い(平井寺)

○はちの巣が横向きに作ってあると作柄が良い(塩沢)

○朝な朝な、なめくじがさおを渡れば豊作である(平井寺)

 「火事や代わりごとの予兆」

 (動物によるもの)

○ねずみが急にいなくなると火事になる(塩沢)

○きじが鳴くと地震がある(平井寺)

「その他」

○かまどの火が吹けば吹いた方から人が来る(平井寺)

○夜、塩を借りに行くと火事になる(塩沢)

○灯明の火が急に消えると変わりごとがある(平井寺)

○火柱が立つと、その倒れた方向に火事がある(平井寺)

 「旅立ち前の予兆」

(良い予兆)

○嫁入りのよき、葬列に会うと縁起が良いという (塩沢)

○わらじや下駄などの履物の緒が切れると途中で悪いことがある(平井寺(塩沢)

○七日の旅立ちは良くない(塩沢)

〇間口以外の口から出ると良いことはない(平井寺)

○嫁入りのときは庚申様をよけて通れという(塩沢)

 「生まれる子の性別判断」

(妊婦の状態によるもの)

〇妊婦の腹が前に突き出ていると男の子という。(平井寺(塩沢)

〇妊婦の腹が横に広いときは女の子という。(平井寺(塩沢)

〇妊婦の顔がきつくなると男の子という。(平井寺)

〇妊婦の顔が優しく柔和になると女の子という。(平井寺)

○つわりが強いと男の子、弱いと女の子という(塩沢)

(前に生まれた子によるもの)

 ○前に生まれた子の内またの筋が一本の場合は男の子、二本の場合は女の子が生まれると言う(塩沢)

 「その他」

〇茶柱が立つと縁起が良い(平井寺(塩沢)

〇朝ぐも(蜘蛛)は縁起が良い(平井寺)

○良い夢は一富士ニたか三なすびである(塩沢)

〇蛇の夢は良い(平井寺)

〇澄んだ水たまりの夢は良い(平井寺)

 「悪い予兆」

〇茶わんが割れると悪いことがある(平井寺)

〇はしが折れると悪いことがある(平井寺)

○からすが頭の上を通ると悪いことがある(塩沢)

○猫が前を横切ると悪いことがある(塩沢)

〇夜のくも(蜘蛛)は縁起が悪い(平井寺)

○田植えの夢は悪いことがある(塩沢)

○こい(鯉)の夢はよくない(塩沢)

〇水の濁った夢はよくない(平井寺)

 第二節 卜占 (P33)  人々は日常生活の中で起こる事件について、それを意味づけ、的確に対応しようとして占うことが多い。東信地方では北信地方同様、そのために修験者などの専門にやる人にお願いして易をみてもらうことが多かった。作柄も豊凶や天候の様子を知るための占いは、戸隠神社や軽井沢町峠の熊野皇太神社、上田市塩田の生島足島神社のおはんじなどが多く用いられた。

 「占い」

〇エキ(易)をみてもらうという(平井寺)

○ハッケ(八卦)をみてもらうという(塩沢)

 [占う人]

〇上田市半過で職業にしている人。(平井寺)

○北佐久郡立科町野方の御嶽行者(塩沢)

 (作柄の豊凶占い)

○軽井沢町の熊野皇太神社のおはんじをもちいる(塩沢)

 第三節 忌み (38) 身を慎んでいなければならないのは女性の月の物のとき、出産のとき、死者が出たとき、祭りに関与するときなどであるが、その期間はその事柄と関係とによって違っている。南佐久郡八千穂村佐口における死の忌みの期間は親は50日、兄弟は20日、いとこは3日という。忌みに服する期間は親は一三ヶ月、兄弟は90火、いとこは七日といい、正月行事や祭りの行事には参加しない。現在は忌みに服する期間とも短くなってきている。忌みあけは、喪があけた、あるいはモアケなどといい、てんぷら、赤飯、団子を作り近い親類や近所の人を招いて線香をあげてもらう。ていねいな家ではおっしゃん(和尚)にお経をあげてもらうこともある。

 「女性の忌み」

  (月の物のときの忌み)

〇神社や神棚へのお参りしてはいけない(塩沢)

(妊娠時の忌み)

〇かき(柿)を食べてはいけないといった(塩沢)

〇かます、刃物、砥石(といし)をまたいではいけないといった(平井寺)

〇かますに腰をおろすと口の大きな子が生まれるといった(平井寺)

〇八幡様へお参りしてはいけないといった(塩沢)

 「死の忌み」

(親の死における忌みの期間)

〇四十九日間忌みに服す。平井寺(塩沢)

(兄弟の死における忌みの期間)

〇七日間忌みに服する(平井寺)

〇四十九日間忌みに服す。(塩沢)

(いとこの死における忌みに服す)

〇定まっていない。(塩沢)

  (忌みの間の行為)

〇神参りはしない(塩沢)

〇正月の松飾りをしない(塩沢)

「忌みあけの呼び名」

〇キアケ(忌あけ)と呼ぶ(平井寺)(塩沢)

「忌みあけの行為]

〇法事をやる(平井寺)

 「いい替えをしたことば」

(死ぬ)

〇ナクナッタ(亡くなった)(塩沢)

〇メヲオトシタ(目を落とした)という(平井寺)

〇タカイシタ(他界した)という。(平井寺)

〇ショーテンシタ(昇天した)という(平井寺)

〇カミニナル(神になる)という(平井寺)

〇エイミンシタ(永眠した)という(平井寺)

〇フコー(不幸)という(塩沢)

 「蛇」

〇ナガムシ(長虫)と呼ぶ。(平井寺)(塩沢)

〇ナガモノ(長物)と呼ぶ。(平井寺)

「ねずみ」

〇キーキと呼ぶ。(平井寺)

 「忌む日」

(葬式を出してはいけない日)

○友引の日はいけない(東信地方全域)

(結婚してはいけない日)

○仏滅の日はいけない(東信地方全域)

〇赤口の日はいけない。(平井寺)(塩沢)

(麦まきをしてはいけない日)

〇土用後はいけない(塩沢)

(衣服を裁ってはいけない日)

〇女の厄日はいけない。(平井寺)

○月の四と七、九のつく日はいけない(平井寺)

「忌む植物」

(庭に植えるのを忌む樹木)

○さんしょうの木はとげがあるから植えない(平井寺)

〇もみの木を植えない(塩沢)

○ばらはとげがあるので植えない(平井寺)

 (畑に植えるのを忌む植物)

○産神様がひばり毛の馬から落ちたときに、ごまの木で目を突いたから

 といって、幟立から上と駒瀬川の西側の平井寺地籍ではごまを今も作

 らない。(平井寺)

 第四節 まじない (P54)  人間の不安と日常生活の中でひきおこされる事件に対して、人々はいつも有効と思われる方法で対応してきた。病気に対しては送り出したり、入ってくることを防ごうとしたりしたのである。かつては最も恐ろしい病気と考えられたほうそうも、種とう(痘)が行われてからは姿を消した。しかし、伝承の内では恐ろしい病気でありこの病気を送り出すために、ほうそう神をまつった。そして神社や寺へ送ったり、川に流したり、屋根へ送ったりする。多くは御幣を切、それをタワラバセ(さん俵)に立て、そこにほうそうをつかさどる神をよらせて送るのである。その方法に多少の変化はあってもそれほど大きな違いはみられない。病気が入ってこないようにするために、家の入り口に香りの高い植物やさまざまなものをつるしたりする。また神仏の力を頼んでお札をはることも多い。上田・小県地方では一月六日にはさわがにを取って来てくしにさし、家の出入り口にさしたが、今では紙に「かに」と書いて出入り口にはったりしている。また神仏に祈願することも多い。

 「病気に関するまじない」

(ほうそう送り)

〇紅白の紙を竹かよしに挟み、タワラバセに立てて川端の雑木に

 つるした(平井寺、大正時代)

 「人事に関するまじない」

(安産のまじない)

〇犬はお産が軽いといって、五か月目の犬の日にオビイワイをやって、

 犬と書いた腹帯をする。(塩沢)

〇鬼子母神の掛け軸を産婦に飲ませたり、お腹をさすってやる

 (平井寺)

「育児のまじない」

〇丈夫に育つよう御嶽様へ五年の願をかける(塩沢)

〇丈夫な子供のある家の軒下に捨て、その家の人に拾って乳をくれてもらった(大正時代、平井寺)

 「祈願と礼参り」

○病気のとき、氏神様へ一週間とか10日間とか祈願する。わら人形に

 自分の痛むところへ針を打って、おせん茶といっしょにあげて祈願す

 るのである。 (塩沢)

○病気のとき、村のお宮(古川神社)にさい銭、白米、灯明をあげて祈った。重病のときは肉親や同性の者がお宮にお百度参りをした

(大正時代、平井寺)

○子供の弱いときは、御嶽様に五年の願を掛け、治ったときはお礼参り

 をする。 (塩沢)

「厄病除け」

○端午の節供にしょうぶとよもぎを軒先へさす(平井寺・塩沢)

○戸口にスベリショー(すべりひゆ)の大きな株のものをつるす。平井寺)。

○トックリバチの巣を戸間口につるす(平井寺)

○一月六日にさわがにを採って来て、くしに刺し、家の出入口の

 軒にさした。 (塩沢)

○一月六日に小さい紙片に「カニ」「かに」「蟹」などと書いて

 家の入り口全部にはる。 (塩沢)

「同年齢者の死に際してのまじない」

○紙に人形を描き、年齢を記入し息を三回かけて川へながす(平井寺)

「人をのろうまじない」

  平井寺・塩沢は該当無し。

 「その他」

(雷除けのまじない)

○雷が落ちないように仏様に線香をあげ、その煙の巻く中にいた。

(平井寺)

○雷が落ちないように蚊帳の中に入り、「くわばら くわばら」と唱え

 た。 (塩沢)

○雷が落ちないように仏様に線香をあげ、その煙の巻く中にいた。

 (平井寺)

○雷が落ちないように「くわばらくわばら」と唱えた。(平井寺)

 

 

「火事を防ぐまじない」

○火事が出ないようにドンドンヤキの取り灰を持ち帰り、家の四

 隅にまいた。(平井寺)

○火事にならないように荒神様をまつり、火の神に安全を祈願す

 る。 (塩沢)

○俵を作り、真ん中に口を開けて、荒神様、豊受大神、天照大神

 の古いお札を中に入れ、家の一番高い所へおくと火事にならな

 いという(塩沢)

○ヘッツイやいろりを不浄にしておくと火事になるという。

 (塩沢)

 
 第五節 妖怪・幽霊 (P80)  妖怪も幽霊も何らかの理由でときとして人間世界にその姿を現したものである。人々はこの世のものでないものの出現を恐れるのである。妖怪は一般にオバケといわれるが、家や山野にあるものが特異な姿をもって出現するもので、そこには信仰的な性格を見出すこともできる。また、妖怪は出現する時や時間がおよそきまっているので、避けることができるという性格をもっている。

「妖怪」

(道に出る妖怪)

○ウワバミが出る。(平井寺)

○キツネが出る。(平井寺)

(家・屋敷にでる妖怪)

〇ヒトダマが出る。(塩沢)

 「山に出る妖怪」

○キツネが出る。(平井寺)

○ウワバミが出る。(平井寺)

(墓地に出る妖怪)

〇ユーレーが出る。(塩沢)

 「幽霊」

(幽霊の出る理由)

○恨みをはらすため幽霊になって出る。(平井寺)

〇親しい人に魂がのり移ったとき幽霊が出る。(塩沢)

「幽霊の姿」

○白装束で額に三角形の紙をはり、長髪の姿で出る。(平井寺)

〇丸い玉のような姿で出る。(塩沢)

「幽霊の出る場所」

〇恨みをもった人の家に出る。(塩沢)

○恨んでいる人の部屋に出る。(平井寺)

 

 第二章 しつけ (P85)

 

 

 

 第一節 しつけ 

 しつけというのは子供を社会の構成員として恥ずかしくない一人前の人間にするために教えたり育てることで、家庭においては両親が日常生活の中で特に心がけることであった。また、社会的にも地域の諸行事などにおいて一人前にそだてようとすることも多かった。家庭においてしつけたのは行儀作法や技能、信心など特に日常生活に関することであった。また仕事をどう覚えさせるかということにも注意したが、これは家庭内だけで覚えさせるのではなく作男や子守などになって奉公したり、あるいは弟子入りしたりして覚えることも多かった。そして年齢や技能、体力などが十分であると一人前として認められて、はじめて社会の構成員として扱われたのである。さらに結婚の機会も与えられた。

子供をどのように育てるかというしつけの内容からは、その地域社会における理想的な人間の姿をうかがうことができる。南佐久郡八千穂村佐口では、どこの家でも子供が他人に迷惑をかけたり、陰口をいわれたりすることのないように願ってしつけをした。ニ、三歳ぐらいになると各家庭では朝起きたら「おはよう」、寝るときは「おやすみ」というあいさつができるように家人と一緒にやらせた。

 「行儀」

(あいさつ)

〇来客にあいさつができるようにさせた。(塩沢)

○朝は「おはよう」夜は「こんばんは」とあいさつするようにさ

 せた。(平井寺)

 「食事」

〇たべるとき「いただきます」、食べ終わったら「ごちそうさま」のあ

 いさつをさせた。(塩沢)

○家中の者が一緒に食べるようにさせた。(平井寺)

〇「御飯をこぼすと目がつぶれる」といってこぼさないようにさせた。(塩沢)

○好き嫌いいわないで何でも食べるようにさせた。(平井寺)

「技能」

(身支度)

〇自分のことは自分でできるようにしつけた。(塩沢)

○小さいときから自分のことは自分でできるようしつけた。

(平井寺)

 「仕事」

○朝掃除をするようにさせた。(平井寺)

 「信心」

(神)

○朝夕神様に供え物をするようにさせた。(平井寺)

 「仏」

○朝夕仏様にお供え物をするようにさせた。(平井寺)

〇仏様に御飯をあげさせた。(塩沢)

 「生業を覚えさせる方法」

(農業)

〇親と一緒に田畑に出て働かせながら仕事を覚えさせた。

 (平井寺・塩沢)

〇仕事を手伝わせながらだんだんに覚えさせた。(平井寺)

〇かまなどの刃物の使い方や研ぎ方などを、大きくなるに従って

 手をとって教えた。(塩沢)

 
 第二節 一人前 (P95)  一人前というのは、たんに人並みということではない。社会の構成員として、分担した仕事をきちんと行い、それなりの責任を果たすことができると認められた人ということである。したがって一人前の目安は男女それぞれの仕事の能力によってはかられる。男の一人前は、米俵を一俵担げるなどという力の能力や、小諸市菱野ではわらぞうりを一日に七足から10促作れるというように、一定の仕事の量によることが多い。そして、女の一人前は仕事の量とともに着物が縫える、機織りができる。御飯が上手に炊けるというように家庭内での仕事の能力によるものが多い。このほか、北信地方に多くみられたような一定の年齢をもって一人前とすることは、東信地方では少ない。

 「男の一人前」

(農作業)

〇肥水が担げると一人前であるという。(塩沢)

〇ごぼうを根の先まで掘れると一人前であるという。(平井寺)

 「女の一人前」

(縫い物)

〇着物を仕立てられると一人前であるという。(平井寺)

〇本裁ちができる。(塩沢)

(機織り)

〇機織りができれば一人前であるという。(塩沢)

(家事)

〇飯がうまく炊けると一人前であるという。(塩沢)

〇そばが打てると一人前であるという。(塩沢)

(農作業)

〇一日にイッショーマキの田の田植えができると一人前であるという。(塩沢)

 第三節 いいならわし (P100)  長い間伝承されてきた人々の知恵や知識は、自然、生産、人事など生活全般にわたっている。こうしたものは、その記憶と伝達とを容易にするために、短いことばに要約されている。そのために、話し相手を容易に納得させ、子供のしつけにも用いることができるものである。また、弱い立場、不利な立場にある者が逆転をねらった武器としても用いることができるもので、「ことわざ」として用いられるものも多い。「一文惜しみの百知らず」というように、他人の行為を戒めたり批判したりするときにも用いられた。一種の話術としても用いられるので、「手つば鉢巻き」のようにその場の状況を端的に表現したり、「火事とへは騒ぎ出したところが本元だ」というような笑いを期待したものもある。また、小県郡東部町東田沢では「味噌とたき物福の神」といい、北佐久郡立科町塩沢にはエーッコ(労力の交換)をすることを、「ゴガッイエ(五月家)のようだ」という表現がある。いずれもその土地の生活に深く根ざしたものである。

「知恵・知識」

 「戒め」

 「批判」

 「比ゆ」

〇ゴガツイエのようだ。(塩沢)

 第三章 民間療法 (P106)   民間療法というのは病気を治し、健康を維持するために人々が長い生活の歴史の中で育ててきたもので、近代医療に対してこのように呼ばれている。これにはさまざまな方法があるが、ここでは病気、外傷の療法と子供のカンノムシの治療やしびれがきれたときの対応など、日常生活における療法を中心とし、家伝薬、きゅう(灸)の三つをとりあげる。
  第一節 病気療養    病気になったりけがをしたりしたときなどには、さまざまな方法を用いてそれに対応する。これらの中には長い経験から生み出されてきたものもあり、またまじないとして行われるものもある。こうした方法をある基準によって分類することはむずかしい。多くの対応法をわかりやすく整理するために、仮に外科的方法、物理的方法、漢方的方法、呪的方法、神仏への祈願の五つに分けてみた。そして幾つかの病気や外傷をとりあげ、それぞれの療法をこの五つに分けてまとめてみた。

 「下痢・腹痛の療法」

(物理的方法)

〇塩を一合くらいいって手ぬぐいで包み腹につけておく。

 (塩沢)

〇手ぬぐいで温湿布した。(平井寺)

 「漢方的方法」

〇げんのしょうこをせんじて飲んだ。(平井寺・塩沢)

〇生の小麦粉を水にといて飲んだ。(塩沢)

〇消し炭の粉を飲んだ。(平井寺)

(その他)

〇富山の売薬の赤玉を飲んだ。(平井寺)

 「歯痛の療法」

(漢方的方法)

〇梅漬の汁で小麦粉を練って痛い歯のほほにはる。(塩沢)

〇ねぎの白根を痛む歯でかんでいる。(塩沢)

〇まむし酒を痛む歯のある方のほほにつける。(平井寺)

〇塩水でうがいをする。(塩沢)

〇冷水で痛い歯のある方のほほを冷やす(平井寺)

〇おにぜりの葉をもんで右の歯が痛い場合は左の手首の動 脈上

 にはり、しばらくすると水ぶくれができる。水ぶくれを破らな

 いようにしておくとしだいに水が引き、歯の痛みも止まる。

 (平井寺)

 「呪的方法」

 ○小県郡立科町古町の人が半紙をたたんで水に浸し、何か呪文をいって、それをかませていたことがある。(塩沢)

 

「耳の悪いときの療法」

(漢方的療法)

○灯心の油を耳にさした。(塩沢)

 「ものもらい」 (麦粒腫)の療法

(呪的方法)

○木ぐしの刃先を炭火であぶり、熱くなったものでメカゴ

 (ものもらい)の頭をなでた。(平井寺)

○人にうつせば良いと糸を渡した。(塩沢)

○仏様へのお供えした御飯を食べさせる。(塩沢)

 

 (神仏などへの祈願)

○トーシを頭にかぶって井戸をのぞきこみ、「井戸神様とセッチ

 ン様、夫婦だそうだがおれも聞いたがメカゴに聞いた」と三回

 唱えた。(平井寺)

 「鼻血を止める方法」

(物理的方法)

○鼻血が出ると首すじを冷やす。(平井寺)

 

(呪的方法)

○鼻血が出たとき、ぼんのくぼの毛を三本抜くと止まる。(塩沢)

 

(その他)

○鼻血が出たとき、仰向けに寝かせると止まる。(平井寺)

○鼻血が出たとき、鼻の穴に紙で栓をすると止まる。(塩沢)

 「やけどをしたときの療法」

(物理的方法)

〇ほてりのさめるまで冷やす。(平井寺)

 

(漢方的方法)

〇菜種油を塗る。(平井寺)

〇生味噌を塗る。(塩沢)

〇かきのしぶを塗る。(平井寺)

〇きゅうりのつるを切り、そこから出る汁をつける。(平井寺)

〇きゅうりの水をつけた。(塩沢)

〇あおばをせんじた汁をつける。(平井寺)

〇まむし酒をつける。(塩沢)

〇墨を塗る。(塩沢)

〇北佐久郡北御牧村八反田の医者の家伝薬をつけた。(塩沢)

 「まむしにかまれたときの療法」

〇きつく止血し傷口から毒を吸いだし、はき出す。(塩沢)

 

〇かまれたところの上部を強くしばり、かまれたところを切り開いて毒を出す。(塩沢)

 

〇止血してからかまれた部分を切り取った。(平井寺)

 「うるしかぶれの療法」

(漢方的方法)

〇くりの木の生皮をむき、せんじてうるしにかぶれたところを湿

 布する。(平井寺)

○きゅうりの汁を患部に塗る。(塩沢)

○てんぷらを食べさせる。(塩沢)

〇酒を患部にに塗る。(塩沢)

 

 (呪的方法)

〇酒を持って行き、うるしの木に酒をかけ仲なおりをする。

   (平井寺)

 「日常生活における療法」

(カンノムシを起こしたときの療法)

〇上田市前山の龍光院へつれていってムシフージをしてもらう。

 (平井寺)

〇北佐久郡立科町細谷の勧修院でムシフージの祈とうをしてもらい、

 頂いたお札を少しずつ黒焼にして杯の水にといて飲ませる。(塩沢)

〇さんしょう魚の黒焼を食べさせる。(塩沢)

〇柳の木の中にいる虫を焼いて食べさせる。(塩沢)

〇雑木の中にいる虫を焼いて食べさせる。(平井寺)

 「寝小便を止める方法」

〇赤犬の肉を食べさせた。(塩沢)

〇赤がえるを焼いて食べさせた。(塩沢)

〇にわとこの木を切って風呂に入れ、入浴させた。(平井寺)

〇仏様へ線香をあげ、今晩は寝小便をしないようにとお願い

 させた。(塩沢)

 「のどにとげを立てたときの療法」

〇 象牙(ぞうげ)でのどをおろす。象牙で作ったたばこ入れの根け、

 はし、くし、三味線のばちなどを用いた。(平井寺)

〇象牙のはしでのどをなでて「ゾーゲ、ゾーゲサガレ」と繰り返した。

 象牙のはしがないときは竹のはしを用いた。(塩沢)

〇「オイ」と呼びかけ「ハイ」と声を出させ、のどをなでる。塩沢)

〇御飯をかまないで飲み込む。(平井寺)

〇御飯を丸めて飲み込む。(塩沢)

 「しびれがきたときの療法」

〇しびれのきれた足の親指をまわす。(塩沢)

〇しびれのきれた足の親指を反対に強く曲げる。(平井寺)

○しびれがきれたら額につばをぬる。(平井寺・塩沢)

 「いぼを取る方法」

○くさのおうの生汁をいぼにつけた。(平井寺)

○いぼをなでた石を古川神社に捧げていぼが取れるように祈った

 (平井寺)

○自分のいぼから棒で友達の身体へ渡し「いぼいぼうつれ」といった

 (塩沢)

「民間薬」

(どくだみ)

〇腹薬としてどくだみを用いた。(塩沢)

 (おおばこ)

〇切り傷におおばこを用いた。(塩沢)

(その他の野草)

〇虫刺されに豆の葉を用いた。(塩沢)

〇下痢止めにチブリを用いた。(塩沢)

〇切り傷にスズメノスイコを用いた。((塩沢)

 

 (まむし)

〇肺病にまむしを用いた。(塩沢)

〇やけどにまむしを用いた。(塩沢)

(まむし酒)

〇肺病にまむし酒を用いた。(塩沢)

(くま(熊))

〇腹痛にくまのいを用いた。(塩沢)

(赤犬)

〇寝小便に赤犬の肉を用いた。(塩沢)

 (魚類など)

〇胃病にこい(鯉)のい(胆)を用いた。(塩沢)

 第二節 家伝薬 P146 家伝薬というのは、ある家に代々伝えられた薬で、その由来について語る伝説があることも多い。製法は多く秘密にされている。東信地方には、目薬、やけど、せんき、はれ物などの家伝薬があった。これらはその家の人が使用するだけではなく近所の人々や、その評判を聞いてかなり遠くから求めに来る人もあった。特に北佐久郡北御牧村八反田の医者にあったやけどの薬は「八反田のやけどの薬」と呼ばれ、やけどのあとが残らないと高く評価され、遠く県外からも求めに来たという。しかし、医薬に対する規制が厳しくなり、現在ではほとんど使われることはなくなった。

 「病気・外傷の薬」

(やけどの薬)

○北佐久郡北御牧村八反田の渡辺医院にやけどに良く効く家伝薬

 があった。(塩沢)

 (その他)

○北佐久郡北御牧村布下に母乳の良く出る家伝薬があった。(塩沢)

 第三節 きゅう P148  きゅう(灸)は皮膚の上にもぐさをのせ、線香などで火をつけて焼いたり温めたりして治療をするものである。きゅうは神経痛や肩こり、腰痛などを治すためにそのときどきにすえられた。中には特別にきゅうをすえる日がきまっていた所もあったが多くない。

 「きゅうをすえる理由」

(病気治療)

○神経痛の治療のためにきゅうをすえる。(平井寺)

○肩こりの治療のためにきゅうをすえる。(平井寺)

○神経衰弱の治療のためにきゅうをすえる。(平井寺)

○リュウマチの治療のためにきゅうをすえる。(平井寺)

  (その他)

○旅立ち前にきゅうをすえた。(塩沢)

(きゅうをすえる日)

○きゅうをすえる日は決まっていない。(平井寺)

  第四章 計測 P151  かつては生活が地域や風土と結びついてくりひろげられていた。そうしたときには長さを測る場合にも身体を用いることが多かった。指の長さ、腕の長さ、足の幅、脚の長さなどをもって、用具や物の長さや大きさを測った。例えば田植えををしながら苗を植える間隔や穴の深さなども指を広げたり、指を伸ばしたりして測りながら作業を進めることも多かった。ここでは、このように、指の長さや腕の長さを用いてどのような物を測ったかをまとめた。
  第一節 指による計測  指の長さを用いた計測の仕方にはいろいろあるが、ここでは人差し指の節の長さ、親指と中指を開いた長さ、握ったこぶしの四本ゆびの幅の三つの方法をとりあげた。人差し指の節の長さでは御飯を炊くときの水加減を、親指と中指を開いた長さでは五寸として物の長さを測る。握ったこぶしの四本指の幅は、三寸三分として用いられている。

  「人差し指の節の長さによる計測」

○御飯を炊くとき、その水加減を測るのに用いた。(平井寺)

(親指と中指を開いた長さによる計測)

○物の長さを測るのに五寸として用いた。(塩沢)

○わらじや草履を作るとき、長さを測るのに用いた。(平井寺)

 「握ったこぶしの四本の指の幅による計測」

 ○物の長さを測るのに三寸三分(10㎝)として用いる。

    (平井寺・塩沢)

 第二節 腕の長さによる計測 P153  両手を左右に広げた長さを「ひろ」といい、東信全域で縄の長さを測るのによく用いられており、身体を用いて測るものとしては、現在でももっともよく用いられているものである。

 「両手を左右に広げた長さによる計測」

○綱の長さを測るのに用いる。(平井寺・塩沢)

 「両手を左右に広げた長さの呼び名」

○一ひろ(尋)、二ひろ・・・・と呼ぶ。(塩沢)

○一ひろ、二ひろ・・・・と呼び、一ひろは五尺である。(平井寺)

  第十一編 民俗芸能 P155

  第一章 民俗芸能

 四季のうつろいの中で、地域の人々が神を招いて祭りを行い、豊かな実りを神に願い、ムラとムラ人の安泰長久を神に祈り、また神の恵みに対する感謝をささげてきた。こうして、繰り返される祭りの中で信仰と深いかかわりをもって、歌をうたい舞や踊りも続けられてきた。したがって、民間伝承である民俗芸能は、地域の住民の祈りの方法であり、感謝のしるしであり、喜びの表現とみることができよう。日常生活が改まる晴れの日に、そのとちに住む人々が力を合わせて祭りを盛り上げることで、明日への生活の意欲をかき立、同じムラ人としての連帯感を強めるという大きな役割を果たしてきた。東信地方では北信地方と同様に獅子舞が目立つが、一人がカシラをかぶり一人が尾部になる二人立ちの獅子舞と、小型の獅子頭をつけた一人立ちの者三人が組で踊る三頭獅子(みかしらじし)の分布が広くみられる。この三頭獅子は、県内では東信地方にだけみられるものであるが、北佐久・南佐久地方に隣接する群馬・埼玉両県にはおびただしいほどにみられるので、関東地方との関係を考えてもよさそうである。もっとも、南佐久郡小海町川平やその南の北相木村栃原では、上州経由で奥秩父の獅子舞が流入してきたとされている。東信地方の二人立ち獅子舞も、小県郡では鎮守の祭礼に出され、きたさく・南佐久地方では正月の道祖神行事の中で、各戸を巡回する子供組による獅子舞が主であり、大きく二分してその地域の特色を考えることができる。

 「祭りの催し」

(北佐久地方)

○氏神の秋祭りにお宮の前舞台で地芝居が演じられた。明治初年

 のことで、当時背景に用いた唐紙が小林利雄宅にあった。藤沢

 に回り舞台があって、そこで芝居をしていた地まわりの役者を

 頼んで、舞台をかけてやったこともある。大正時代から昭和十

 年ころまで、金毘羅祭りに青年会有志で歌や踊りの演芸をし

 た。(塩沢)

 「行われる場所」

(二人立ち獅子舞)

○各家の茶の間や座敷に上がって舞う。(塩沢)

 「資格・構成」

 

(二人立ち獅子舞)

○十五歳以上の子供が中心で、最上学年は親方と呼ばれている獅子役を

 つとめ、ムラ内の各家を回り、太鼓に合わせて獅子を舞う。(塩沢)

 

(役の決め方)

○役割は仲間の話し合いできめる。(塩沢)

 「練習」

(けいこ始め)

○一週間前から始める。(塩沢)

 (けいこの場所)

〇集会場か公民館でやる。((塩沢)

  第三節 装束・採りり物 P159

(イ)

  芸能には、それぞれの役にふんするための身支度がある。

かぶりもの、上体にまとうもの、下半身につけるもの、足に履くものなどの装束のほか、神楽のときに持って舞う採り物の数々、それに仮面をつけたり化粧をしたり、その身支度はさまざまである。まず、二人立ちの獅子舞における装束と採り物としては次のようなものがある。正月戸ごとに舞い回る北佐久・南佐久地方の獅子舞では、子供は普段着のままで参加し、朱塗りの大きな獅子頭をかぶり後持ちと一緒にほろに入る。三尺ほどの棒にシデ状にした紙を結わえたオンベは、別の子が持って悪魔払いをする所が多い。鎮守の祭礼などに出される小県地方では、獅子になる者は和服の着流しが一般的で、獅子方は着物の襟ぎわに豆絞り(築地)やあかねの手ぬぐい(入組)をかけ、たすきをする程度である。ほろを巻いたとき獅子頭をかぶる者が持つ鈴と御幣は、どこでも用いられる採り物になっている。獅子以外の登場者として鳥さし、面かぐらあるいは和藤内などの出た所では、それぞれの役に適した装束に工夫がみられた。派手なじゅばんなど目立つもので装い、男役でも厚化粧をして、当たり役が大見えを切る所作に彩りを添えた。獅子練の中で登場するシシジャランも、上田市矢沢ではたもとのついた女物のじゅばんに白だすき白鉢巻き、いっけぞうりを履いて、顔に紅化粧するなど、女装ということに重点をおいた例が多くみられる。なお、小県郡真田町真田、青木村馬場では悪霊を鎮める役の獅子が面かぐらでは退治される役にまわって、獅子の二面性をうかがうことができる。

 (ロ)

 一人立ちの獅子で三人が組で踊る三頭獅子に使われる獅子頭は、その形態から竜型と、しし型に分けることができ、上田市別所、尾野山、南佐久郡小海町川平が前者で、その他の地域は後者に入る。上田市別所の雄獅子は緑色で、魔除けを意識した赤塗りの多い中にあって、はっきりはっきり色彩が相違している。ここの獅子頭には眼球の動く仕掛けもある。小県郡真田町上郷沢の上原獅子は、一つをオージンと呼んで他の二つよりやや大きくできているし、南佐久郡小海町親沢と北相木栃原の獅子はサキジン・カマジン。アトジンと呼んで、雌である中獅子が頭上に宝珠をのせている。この芸能の主役をつとめる獅子役は、手甲、タッツケに足袋、わらじの旅装束という共通性がある。下あごから腹部にかけて垂らす布や、背中に長く垂らす髪型には若干の相違がみられる。上田市別所は前面に蚊帳地をはって窓をぬくが、小県郡丸子町尾野山、長門町長久保、北佐久郡立科町芦田古町は共に赤い布を垂らし、長久保ではこれをモミと呼んでいる。南佐久郡北相木むら栃原では、中獅子が紫とえんじ色の縫い合わせ、前獅子後獅子が紫と黒の縫い合わせを下げて、雌雄をはっきり色で分けている。獅子の頭髪が白や五色の紙をシデ状に細かく切って垂らす所が、上田市別所と小県郡の依田窪から北佐久郡立科町にみられ、あい染めの麻を長く垂らす所が真田町上原地区と、南佐久郡小海町川平、北相木村栃原にみられる。これらの獅子役はいずれも神格を表わすため腰に幣束をさす。

 (ハ)

   前節の役の構成でもみたように、三頭獅子にはさまざまな形でシシアヤシが登場する。真田町上郷沢の上原獅子は、鼻高の天狗面をつけた禰宜が立て烏帽子に白の襅(ちはや)、タッツケ、白手甲、白足袋に黒ひものわらじの装束で、腰に木製の太刀をさし、五色の大ぬさを持って、かつては囃子が奏される庭で片足で踊った。小県郡長門町長久保と宮ノ上にも天狗役があって、こちらは一本歯の高下駄をはき、木製の矛かやりを持った。大ぬさや大うちわが神霊を呼びよせるためのものであるように、この採り物の矛ややりも武具としてではなく、神の降臨のための目印であったはずだし、振り動かすことで悪気を除去しようとしたのであろうが、それらの機能もすっかり忘られている。小県郡依田窪と北佐久郡立科町では、このシシアヤシの役目が天狗からハイオイと呼ぶ。

    少年の役に移っている。小県郡丸子町尾野山ではこの役は着物の両肩を脱いで腰に巻き、たもとの長いじゅばんに赤だすきとかけわらじを履く。表面の顔に金時の化粧をして武者ひげを描き、めいめいが軍配うちわを持つ。獅子に風を送るためということで、獅子それぞれに分担してしてついている。

 (ニ)

  この軍配はどこでも金銀紙で日月の型をはっている。ところが、南佐久郡小海町川平、北相木村栃原の二地点のヘーオイは上田周辺で出ている天狗と意味の似たものになって、頭に烏帽子をつけ腰に脇差しを差して、手に軍配を持って獅子一緒に踊る。大々神楽の仮面として、佐久市上塚原には里神楽系のものが面ほどある。演目が一つだけに再編成されているため、舞人の役柄と仮面とが特定できないものになっている。しかし、三人ずつ登場して同じ所作をくり返す「種まき」の中にあって、おかめ、ひょっとこなどもどきの面形をつけた者が、いかめしい神の面形をつけた者の演技をまねて、おかしみを振りまいている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「獅子舞」

(二人立ち獅子舞)

〇正月戸ごとに舞い回る形のものでは、参加する男子小学生

 (最近は女子も混じる所が多くなっている)は普段着のまま、

  最上級生の親方が獅子頭をかぶり、後持ちと一緒にほろの中に

 入って舞わす。太鼓は外にいてたたく。その他、大勢が歌で囃

 す所もある。家の人たちの頭をかむまねをして、悪魔払いをす

 る。(塩沢)

 「その他の芸能」

〇(安浦の舞)

〇 (太々神楽)

○(式三番)

○(念仏芸能)

 

 「楽器」

 (二人立ち獅子舞の楽器)

○太鼓で囃す。 (塩沢)

  第七節 盆踊り P271  盆踊りは、盆に来訪する先祖の霊を慰め、再び送り出す供養のための踊りといわれている。東信地方では大方の所で盆を中心に踊られているが、そのほとんど昔はなかったが第二次世界大戦終了後に始められたものである。しかし調査地の中ではわずかに、小県郡武石村鳥屋、東部町西宮、南佐久郡八千穂村佐口、北相木村京の岩の四か所は大正時代からやたという。踊る日は八月十三日から十六日の四晩とする所が最も多く、踊る場所は公民館の庭と神社境内それに小学校の庭に集中しており、地域ごとの変化は乏しい。盆踊り歌も木曽節、炭坑節、伊那節、東京音頭などの民謡や、土地ごとに創作された音頭・小唄(こうた)などの新民謡をレコードを流して踊るもので、いずれも古い姿は伝えていない。

 「踊るときと場所・音頭取り」

 (踊る日)

○八月十四日、十五日の二晩踊る。 (昭和40年、塩沢)

○盆踊りはしない。(平井寺)

 「踊る場所」

○神社の庭で踊る。 (塩沢)

  第八節 旅芸人 P276

 (イ)

 今は全く姿を消してしまったが、かつては正月などのきまった季節

 や、あるいは季節にかわりなくムラに訪れてきた芸人がいた。人家の

 門口に立って芸をしたり、ムラのつじや神社の境内などの多少広い場

 所で芸を演じて見せ、何がしかの物や金銭を受け取った。これらの芸

 人は、明治末年にはすでに来なくなったものから、昭和十年代までや

 って来ていたものなど、芸人の芸人の訪れて来た年代はその種類や地

 域によって相違がある。しかし、各地をを訪れた芸人の種類は似たよ

 うなものであった。

 (ロ)

 正月に主として来たものに、万歳、春駒、獅子舞、俵ころが

 し、猿回しなどがあった。いずれも縁起のよい祝いのことばを述べて、正月気分を味わせてくれた。異郷の神がムラ里を訪れて、ムラや家の繁栄を約束してくれるという古い信仰に根ざしたもので、めでたいことばや動作を演じると、その通りのことが実現すると考えられて、祝いのことばを述べ歩く芸人が歓迎された。正月に広い地域を訪れてきた万歳は、大夫と才蔵の二人づれで、三河からやってきたものが多く、鼓と扇を持ってめでたい掛け合いをしてみせた。上田市越戸のように一人万歳が来た所もあった。

 (ハ)

 不定期に訪れた芸人はゴゼ(瞽女)がいた。先輩の手引きについて三味線をを持った盲目の女性が門付けしたもので、三人ぐらいで回ってきた。夜はゴゼヤドという毎年きまった家に泊まって、そこに人を集めて口説きや端唄(はうた)など悲しいものを、三味線のひき語りで聞かせた。猿回しも広い範囲でみられたが、つじなどで猿に芸をやらせて見物人から投げ銭をもらうものと、戸ごとに訪れ太鼓に合わせて猿を踊らせ、銭をもらうと親方の肩にのって次の家に回るものとがあった。越後獅子は正月だけに来た所と訪れる時期ががきまっていなかった所に分かれるようだが、小県地方ではこれを角間獅子と呼ぶ所もみられた。このほか、ヨカヨカァアメやセイセイヤッカの薬売り、それに浪曲師やその源流となった祭り文語りなどもよく各地を歩いた。ことに、浪曲師の場合は、大きな家や集会場で大勢の人を対象に浪花節を語って聞かせたもので、現在もムラの慰安会などで演じている所がある。

「正月に主として来た者」

(万歳)

〇三河万歳が来た。 (昭和年、平井寺)

〇太鼓を打ち祝いことばを述べ、つるかめ舞い込んだと結んだ。(塩沢)

 

(春駒)

〇「今年ゃ豊年蚕が当たる」などと歌い、きれいな支度で娘が踊

    った。(大正、塩沢)

 

(獅子舞)

〇獅子舞が来た。(大正、塩沢) 

 「季節を限らず来た者」

(ゴゼ・瞽女)

〇越後からゴゼ来た。(大正末、塩沢)

〇猿回しがきた。(大正、塩沢)

 

(その他)

〇虚無僧が尺八を吹いて門付けにきた。(大正、塩沢)

 「競技」

(相撲)

〇相撲はおこわなかった。(平井寺)

 
 第二節 その他の競技  P294  動物を主体とした競技では競馬と闘鶏があったが、その事例はきわめて少ない。大正時代には刈り取りの済んだ田んぼを使って、一直線にまっすぐにとびぬける鉄砲馬場を作って馬を走らせた。南佐久郡佐久町上本郷のように馬持ちの家の若者が騎手をつとめた所や、北御牧村八重原のように祢津(東部町)から騎手がきてやった所もあり、鉄砲馬場からまわり馬場に移った所もある。上田市築地では、ムラの馬が隣村の催しで優勝して大関(弓)をとってくると、次は自分のムラで競馬を開くしきたりがあったといわれ、相撲会と類似の習わしがみられて、こうした村同士のつき合いのルールの上で競技が運営されていた。道具を用いた技術競技では的射ちが行われた。技を競い的を射当てた数によって勝負をきめるものだが、元来は弓を射ることで神意を占うことに発したものが、祭りの催し事として余興にやるものになっていった。

  「動物を使う競技」

 (馬)

〇西の山の直線コースでテッパケイバをやった。昭和初期にマワ

  リケイバに移った(塩沢)

 
 第三節 かけごと P295                         

 金をかけてやったものでは花札と丁半がある。丁半はさいころを転がして、その上面に出た数が偶数か奇数かで勝負をきめたり、将棋のこまを振って表裏を当てたりするもので、つぼざるの代わりに茶わんを伏せてやった所もある。銭を回して手のひらで押えその表裏を当てることもやった。ひもの先へ一本だけ当たり印をつけてそれを引き当てるホービキは、東信地方ではごくわずかな所でやったぐらいだった。その他に拳(けん)、すごろく、むさし、カルタがあり、これらは勝ち負けに菓子や果物を取り合う程度で、もう子供の遊戯になりきってしまっていた。

「花札」

 

〇松、梅、桜、ふじ、しょうぶ、ぼたん、はぎ、すすき名月、  

 

  菊、もみじ、雨、きりの十二種類の植物などが描かれた四十八

 

  枚の札で、その図柄の組み合わせで役をつくり点数を取り合う

 

  花札をやり、勝負により金銭をかけた。 (塩沢)

 

         「丁半ほか」

 

〇さいころを投げころがして、その上面に出た数が偶数か

 

   奇数かで勝負をきめた。丁半といって金銭をかけてや

 

   った。    (大正末、塩沢)   

 

〇かけ碁やかけ将棋をした。(塩沢)       

 第三章 子供の遊び P297

 子供のふだんの生活に占める遊びの割合は実に大きい。

子供の暮らしが即遊びであったといえる。年かさの子供から習い覚えて伝承されてきたものや、大人の生活の模倣といわれていたものなど、

さまざまなものがある。南佐久郡八千穂村佐口では、昔の子供の遊び方としては、やはり屋外の遊びが断然多かった。男の子はムカデをした。

一列に並んで前の子供の腰へ手でつかまって並んで走る。鬼は勢いをつけてぶつかり、つかまっている手をきる。きられた者が代わって鬼になる。カリシキも刈らずにこんなことをして夢中になって遊んで、親たちにしかられた。タケンマでは片足で五、六歩とんでいくシンガラ競争やタケンマ合戦をした。地面からできるだけ高いところに足の乗る横木を結わえたり、横木を外側に出しているのりまわしたりした。小さい子は缶詰の空き缶に縄をつけて、カンカラにのって遊んだ。また「パッチンやらざあ」と誘いあって、パッチンをした。小さい丸型の厚手のボール紙を地面にたたきつけ、相手のものをめくったりきりこんだりすると勝って、相手のパッチンをもらえた。先端に布くずをまいた棒を、一尺ほどの竹筒に押しこんでミズデッポウを作った。タコアゲは田んぼで手製のものをあげた。障子紙を細長く切ってたこのしりにつけた。薪の積んである所からいいあんばいのものをひきぬいて刀とし、進め、かくれろ、止まれの大将の命令で、尾根の大日様と墓場の森の木に分かれてヘータイゴッコをした。道路を境界に領地に侵入された側が負けとなった。

 主として夏の夜にやったドキョウダメシでは、心月寺の庭に集まって、「小沢マケの墓地の石塔のこけを持ってこい」など、上級生の指示でおそるおそる足を運んだ。

ミズアビは佐口湖が危険で泳がれないので、窪(くぼ)の詰のむこ山の池で泳いだ。冬場は積雪が一尺ほどになり、日陰の畑でソリスベリをした。一尺に一尺五寸の板にサンダワラをのせてしりをかけ、前側に横さんをわたして足を置く。

そこに縄をつけ、二人で代りばんこにのっせっこしてひいた。ユキダルマは同人数に分かれて早くうまくつくった方が勝ちであった。ユキガッセンも二手に分かれて、雪玉を投げ合い当たれば死んで、生き残りが多数の側が勝った。

残りもみのついたわらを雪の上に立て、馬の尾の毛でわなを作り、もず捕りもした。女の子の遊びでは、あけびの雌花のしんをとってきて、粘るのを手のひらの上にのせ、「ジーバーネテロヨメハオキテハタラケ トントコトントコ」と動かして遊んだ。

小豆を入れた小さな布袋を、両手または片手で上に投げては受けとるオニンコは、「さらりとおひと おひと落としちゃ さらりとおふた おふた落としちゃ さらりとおおみ おおみ落としちゃ さらりとお手しゃん・・・・・・・」など、いろいろな歌に合わせてまごつかずに玉をとることで勝負をきめた。

 太い木綿糸や毛糸を用いたアジトリは、まくら、前掛け、欄干橋、はしご段、くまざれ、月に雲など、さまざまな形をとりあった。ガラス玉やしじみの貝殻でナンコもした。

片手にいくつ握っているのか当てっこや、クニトリといって指ではじいて領地を広くしていくものがあった。片足とびをしながら石をとっていくケダシは、ますの外へ石をけり出すもので、男の子のイシケリと同じだった。

また、お茶飲み遊びをオバサンコと呼び、アカ(赤ん坊)をおぶって里へよばれていったお客様ごっこをした

 乳児は綿を木綿布で包み黒砂糖水をつけたオシャブリなどがあてがわれて、周囲の大人たちにによってあやしてもらう。そうした片言やあどけない動作によって意志を表現したり楽しんだりする時代が終わって、楽しい遊びの世界に浸るようになる。そして、面白く遊ぶために自分の手で遊び用具をこしらえた。仲間と一緒に遊び方の約束を守ったり創意工夫をしたりして、そこから生活に欠かせない多くの技術や知恵を学びとってきたのである。この佐口の例にもみられるように、子供の遊びは四季ごとに変化があり、男女による相違もある。手作りなどの遊び道具を使うものだけではなく、歌の入る遊びもある。また、年齢が増すにつれて屋内から野外へ、さらに家の周囲から遠くにと遊びの場所が広がる。それにつれて、一人遊びから少数の友だち、さらには大勢の仲間ととびまわる集団の遊びへとその規模が膨らんでいく。子供はその発育年齢に沿って、保護者の手元から外部の広い所に順に遊びの場所を移していく。そうした子供独自の空間に注目して、子供の遊びを口遊び、軒遊び、外遊び、つじ遊びに分けて、遊びの呼び名や遊び方をまとめた。

  第一節 口遊び P299

 幼児が自分から遊びを覚えて身体を動かし初めるころ、周りの大人たちは肩ぐるまをしたり高く抱き上げたり、指の遊びをまねさせたりした。こうした幼児をあやして、遊ばせるときの動作に伴う唱えことばには、あまり地域による違いはみられない。ただ、両手のひらを合わせてたたきながら唱えることばが、「チョーチョ チョーチョ」の所が多い中で、上田市上塩尻大村や南佐久郡八千穂村崎田などでは「チョチ チョチ」と唱えたり、上田市国分や南佐久郡南牧村板橋のように「チョキ チョキ」という所もある。しかし、これらの地域も小県地方や南佐久地方にちらばっており、分布上の地域区分は明確ではない。同様に、両手首を胸の前で交差するようにまわし、「ワクワク」と唱えることばも、小諸市与良のように「ワックリ ワックリ」という所や、小県郡東部町赤岩や北佐久郡立科町山部のように「カイグリ カイグリ」という所があり、南佐久郡臼田町三分や佐久町平林では、両手首を踊らせる形で「カンカンノキューノリス」唱えるなど、動作と唱えことばに多少の変化もみられる。
全身遊びでは、幼児の両脇を両手で支えてさし上げ、「タカイ タカイ」とやるのが一番多い。つづいて肩車や、大人がよつんばいで幼児を背中にまたがせ、馬遊びをしてやる所が多い。こうして、機嫌よく遊ばせる事例が並ぶ中で、小県郡長門町立岩のように幼児の顔の両側を大人が両手のひらではさんでつり上げ、「エドミエタカ」とやる所があり、痛くてかわいそうなので佐久市長土呂では傍らから他の人が「ミエタ ミエタ」といってやるなど、あやす所作でも幼児にとっては厳しいものが混じっていた。もとより、口遊びといわれるものはいつとなく子供の間に伝えられてきた物いいであるし、ぴったりした場面で声高く口をついて出てくるものである。その呼びかける対象は煙であったり寒い北風であったり、自然現象に呼びかけることが多いのは全国的な傾向と共通している。ただ、出だしの呼びかけに続くことばにはそれぞれの地方差がみえる。  一般的である「ケブケブ山へ行け」に続くことばは、、上田市越戸や南佐久郡南相木村中島で「山からボヤしょってこい」といい、いやなものを追い欲しいものを招いている。迷惑ものや自分に害をもたらすものを「どこそこへ行け」という表現をとるものもあり、佐久市駒込では「いたいのいたいの あっちへ行け」といい、北佐久郡御代田町小田井などでは「カミナリ 上州へ行け」と、本場上州へ追いやったまた、「大寒小寒」とんできた小僧は南佐久地方では坊主になり、それも泣いてきた坊主を南佐久郡小海町親沢では「いろりでどんどんのくとめろ」といい、南佐久郡川上村御所平では「だんごの一つもくれてやれ」となる。小県郡丸子町練合では「寒けりゃあたれ あたれば熱い 熱けりゃ後ろへひっちゃれ ひっちゃりゃしりゃいてい・・・・・・・・」としり取りで長く続かせている。動物へ呼びかけるものでは、蛍、とんび、たか、からす、とんぼなど空中を飛ぶ動物をを対象ににする所が目立つ。人を対象に呼びかけることばとしては、「おらの前で立つ者は、正月しょうかに病み出して、盆にぽっくり死ぬように」というものが一番多い。春先の日だまりで日なたぼっこをしている子供たちにとって、日陰をつくる者へ増悪をこめて、悪口を浴びせたのである。また、佐久市跡部のように「ソーダ屋の総領息子がソーダくって死んだそうだ」などと語呂合わせでおかしく唱えた所もあり、ことばの遊戯になりきったものもみられた。

 「幼児を遊ばせるしぐさとことば」

(手遊び)

○両手のひらを合わせてたたきながら「チョーチョ チョーチョ」

  という。 (平井寺・塩沢)

○両手首を胸の前で交差するようにぐるぐる回しながら「オテテワ

  クワク」という。 (平井寺・塩沢)

〇自分の頭を両手で軽くたたきながら「アタマテンテン」という。

 (平井寺・塩沢)

 「呼びかけことば」

(人に対して)

〇カンカン坊主 くそ坊主 (平井寺)

 第二節 軒遊び (P309)

 軒遊びというのは軒下や縁側、庭先など、大人の目の届く範囲で過ごす子供の遊びをいう。男の子の遊びとしてはめんこでぐらいで、種類はきわめて少ない。これに対して女の子の遊びでは、お手玉、おはじき、あやとり、ままごと、まりつきなど豊富である。いずれも遊びの用具が伴うことに特色がある。男の子の遊びとして多く行われためんこはパッチンと呼び、円型のボール紙に武者絵などが印刷されていて、大判小判など何種類もあり、駄菓子屋などから市販のものを買って用いた。パッチンの遊び方には、自分のパッチンを相手のパッチンに当てて起こした方が勝つオコシ、一定の範囲をきめてそこに置いた相手のパッチンを自分のパッチンではじき出した方が勝つダシ、相手のパッチンの下に自分のパッチンがくい込んだ方が勝つモグリ、パッチンを飛ばして遠くまで行った方が勝つコーパッチンとがあった。このうち、広く行われたのはオコシである。オコシをするときに、羽織や着物のそでを使って風を起こしながらやる者もあった。佐久市香坂では、オヤパッチンを使ってオコシをらり、負けると別のパッチンを渡して遊んだ。オヤパッチンは起こしにくくするために、二枚以上を重ねて周囲を太めの糸で縫い、ろうを浸み込ませたりして工夫したものである。これらのパッチンの勝負には、負けると本当に相手に取られてしまうホンコと、負けても最後には返してもらえるカシッコとがあった。

 お手玉は東信地方では、オニンクと呼ぶ所とオテダマと呼ぶ所に大きく二分できる。前者は北佐久・南佐久地方に多く、後者は小県地方と北佐久・南佐久地方の一部である。このほかに南佐久郡南相木村中島と小海町親沢ではオカンショと呼んでいる。家にあるぼろ布や端ぎれを縫い合わせて小袋を作り、中に小豆を入れた。遊び方はいく通りもあり、一個ずつ両手に持ち、これを交互に投げ上げて左右あやに受け取ることから始まり、三個から五個も手ぎわよく操り、お手玉歌に合わせて落とさずにつき終わることで競った。数え歌ばかりでなく動作に即した歌もあって、曲芸のような変化も混ぜて、技を習得するにはかなり器用さを要するものだった。

 おはじきも女の子に人気のある遊びで、広い範囲でやっていた。キシャゴという貝殻を用いたので、市販のガラス玉や瀬戸物のおはじきが出まわるようになっても、キシャゴと呼んだ所が多い。遊び方は、佐久市北岩尾などではお互いに10個ずつ出し合い地面に一ぺんにまいて、キシャゴとキシャゴの間に小指を入れ、一方を指ではじいてもう一つに当ててとった。たくさんとった数で勝負をきめた。また、上田市国分や越戸では地面に半円や四角のます目を描いて、各自隅のますに陣どり、そこから隣のますにおはじきをはじいて入れ、一ますごとに進んで領地を増やしていくコケトリがあった。あやとりは北佐久・南佐久地方の一部ではアジトリとも呼んでいる。ひもを輪にして手の指にかけ、二人で交互にとり合うもので、小県郡真田町では箱まくら、麻の葉、富士山、鼓などの形を作った。木陰にむしろを敷いた上に客を招き、季節の木の実や草花を不用になった茶わん木の葉にのせて、ごちそうの名をつけて相手にすすめるままごとは、ヨバレッコ、ヨメサンコ、オバサンコなどとも呼んだ。調理や飲食、訪問など家庭の主婦のまねごとをしたり、着せ替え人形やオボッコズクリの人形遊びも加えて、育児のことまで含めた遊びもみられた。

「めんこ」

(呼び名)

〇パッチンと呼んだ。(平井寺・塩沢)

 

「お手玉」

(呼び名)

〇オテダマと呼んだ。(塩沢)

 

「おはじき」

(呼び名)

〇オハジキと呼んだ。 (塩沢)

 

 「あやとり」

(呼び名)

〇アヤトリと呼んだ。(東信全域)

 

「ままごと」

(呼び名)

〇ママゴト、ママゴトアソビと呼んだ。(平井寺・塩沢)

 

「その他」

(軍人将棋)

〇将棋盤の上で軍人の階級をかいたこまを動かして勝負をした。 (塩沢)

 第三節 外遊び P319

 戸外の遊びでは、男子の遊びがその大半を占め、こま、竹馬、石けり、片足跳び、輪まわし、くぎ打ちなどをしたが、遊び道具を使うものが多かった。こまは上田市金剛寺などでは柳の木を削って手作りのチンポコマを作ったが、鉄の心棒で鉄の輪をはめたカネゴマを買って、ぶつけ合って遊んだ所が多い。また南佐久郡臼田町清川では、こまを回すときに用いる細いひもをぴんと張って、端から端へこまの綱渡りをさせる曲芸的なこともやった。竹馬は南佐久地方の一部でタカシと呼ぶほか、小諸市耳取りではハシラッポと呼び、佐久市横根ではガツキと呼ぶなどその土地だけの呼び名もある。竹やから松、モロンボなどを材料として自分でこしらえたが、ネズキバラの木が強くてよかったという所もある。主な遊び方としては、足をのせる横木の位置を高くすることを競ったり、区間をきめて早足競争をしたり、身体をぶつけて相手を落馬させたり、片方をかついでシンガラ遊びをやったりした。

石けりは、地面に円形や長方形の区画をかき、自分の石を投げ入れて、片足跳びをしながらけって順に進み、早くゴールに達することを目指す遊びで、これは男子だけと限らず女子も行う。小県郡真田町真田ではマルケンケン、小県郡丸子町和子ではマルトビ、上田市越戸ではワトビと呼んだが北佐久・南佐久地方ではケダシと呼ぶ所が多い。片足跳びでは自分の片手で上げた片方の足を持った姿勢で相手に身体をぶつけ、上げた足を落とす遊びがあるが、その中に小諸市耳取りのように「シンガラカイタ カラカイ・・・・・・・」などと歌をうたいながらやる場合もみられた。不用になったたるのたがを外してタガマワシをしたが、やはり金輪の方が倒れずによく転がすことができたので、太い針金のかじ棒で押してワマワシをよくやった。かたし(凍)みのこない時期に、刈り上げた田んぼの土へ五寸くぎをたたきこみ、相手の打ちこんだくぎを倒すくぎうちもした。南佐久郡臼田町三分のように、くぎのかわりにくい棒を使った所もある。

 冬の田んぼを使った遊びにはたこあげもあった。自分で竹を削って骨を組み、麻糸でくびり和紙をはり、左右の均衡や糸のつき方、尾のつけ方など、高く上手にあげるための工夫をこらした。同様に竹を使ってタケトンボやミズデッポウなど作る喜びを味わう遊びも各所にあった。また、糸で編んだモジどじょうをすくったり、竹のすでつくったもので千本つきをして魚とりをしたりした所や、ワナを仕掛けてうさぎやすずめをとった所などもあって、池や川や野山の自然の中で、生き物を捕獲するという大きな楽しみを伴う遊びも多かった。

 「石けり・片足跳び」

 (こま・竹馬)

(石けり)

〇ケダシと呼んで石けり遊びをした。 (塩沢)

 

 (片足跳び・輪まわし・くぎ打ちなど)

 「その他」

  (たこあげ・縄跳び・タケトンボ・ミズデッポー・

  カミデッポー・マメデッポー・ゴムカン・押し合い)

 (ビーダマ)

〇ガラスの丸い玉を親指と人差し指ではじいて、次の玉に当たればとることができた。 (平井寺)

 

(ヨーヨー・魚とり)

 

 第四節 雪の上の遊び P326

 雪の上で道具を使った遊びでは、そりが一番好まれた。そりにはサンダワラをしり敷きにして滑る簡単なものから、小県郡真田町真田のかじとりの小そりをつけてハンドルでカーブの操作ができるものまで、いろいろ工夫がなされた。大方はみかん箱に竹や板、丸太をとりつけたハコソリが多かった。積雪量はそれほど多くないがし(凍)みることで特色をもつ東信地方では、スケートの類がよく利用された。北佐久郡軽井沢町発地や南佐久郡佐久町下川原では、下駄の裏にかすがいを打ち、北佐久郡御代田町小田井では太線の針金を打ち付けて、共にゲロリt呼んでいた。雪の中を竹馬で歩いた所は東信地方のあちこちにあり、雪の多い信越境で春先にみられるシミワタリという遊びを、北佐久・南佐久地方の平ではユキワタリと呼んでおり、一面の雪の原を駆けまわったようである。

 「雪すべり」

(ソリ)

〇雪の上をソリにのって滑った。 (塩沢)

 「雪を使った遊び」

(雪合戦)

〇雪投げをした。 (塩沢)

〇雪だるまを作って遊んだ。 (塩沢)

 第五節 つじ遊び P329

 戸外に出て行う遊びは、子供の年齢が高くなるとその行動範囲が広くなり、遊び仲間の人数もふえてくる。その群れの中から年長の元気のよいガキ大将が出て、遊びのルールを教えてくれる。きめられた約束ごとを守って、仲間と一緒に遊ぶ楽しさを覚えるのである。子供の遊びで人気の高いものに、鬼役選ばれた者と他の子供たちとが対立する鬼ごっこがある。これは古くは祭りの行事として行われたものであったが、子供の遊びにとりこまれたものといわれている。また、陣とりのように二つの群れに分かれて対抗する遊びにも人気があった。鬼ごっこで鬼のやくを最初に決める方法としては、じゃんけんによる場合がほとんどである。大方がこれをジャンケンポンと呼んでいるが、小県郡真田町横道などのようにチッチッポイと呼んだり南佐久郡八千穂村佐口のようにヤンヤノヤンチなどと呼ぶ所があり、その唱(とな)え方に相違がみられる。じゃんけん以外の方法として、南佐久郡臼田町三分では、握りこぶしにした両手を前に出し、ガキ大将が人差し指でそのこぶしを指しながら「ずいずいずっころばのとちぐるま ちゃかはい いちのけタ」と唱え、終わりのタに当たった者から順に手を引っこめ、最後に残った者を鬼にした。これは佐久市長土呂で各自が片方ずつ履物を脱いで並べ、それを指しながら唱えごとをし、最後のことばに当たった履物を次々と除き、最後に残った履物の主を鬼とするやり方と類似する。そのほか、小県郡東部町東田沢では棒づかみと呼んで、つき出された棒を下からの順につかんでいき、完全につかめなかった者が鬼をやる場合もあった。

 鬼ごっこではカクレンボとメクラオニ、オイカケオニの遊びが多い。こうした単純なものでも、ケントオニでかくれている者の一人が鬼のすきをみて、ケントーといってきめられた場所に手をつけると鬼はもう一度やり直したり、テツナギオニで鬼の数をふやすものなど、その方法にはいき通りもあった。鬼ごっこで主に女の子がやっていたものに、人を当てる遊びがある。これは円陣をつくり、歌によって遊びを進めるもので、その代表といえるものがカゴメカゴメであった。手をつないで輪を作り、鬼が一人中にしゃがんで目かくしをする。鬼の周りを回りながら歌をうたい、歌い終わったところで止まり、鬼にその背後の子の名を当てさせる。当たるとその子が鬼を交代し、当たらなければ再び鬼をくり返す。上田市越戸では、カゴメカゴメの途中から歌の文句が変わって、「朝早く起きてコケコッコー」というところで周りの子が逃げ、中の鬼が追いかけて捕える遊びになっている。同様に円陣を作って行う遊びとして、ボーサンボーサンやナカノジゾーサンやヤーランセなども各地で行われていた。そのいずれも、中の鬼が人の名を当てるものだったが、佐久市跡部や南佐久郡佐久町平林では、坊さん後半で中の鬼と周りの子とで問答があり、「蛇の死んだの押っつけるぞ<font size="-1">お</font>」と叫んで周りが一斉に逃げ、鬼が追いかけて捕らえるのである。このように、多少の変化がみられても、同一地区でいく通りもの遊び方があったようで東信地方だけに行われる遊びはみられなかった。

 二手に分かれて行われる集団の遊びには、ジントリ、イクサゴッコ、片足合戦などがある。これは単純に争うばかりでなく後から陣地を離れた者が優位になるとか、捕虜になって敵陣に連れて行かれた者は、救出にきた味方の手に触れることによって生還できるなど、面白く遊ぶためのルールが工夫されていた。この遊びの呼び名には北佐久郡御代田町豊昇のシロトリ、小県郡長門町宮ノ上のトリッコ、北佐久郡望月町春日本郷のジャテジャテボーボーなど、地域ごとに変化がみられた。イクサゴッコでは、カンチョースイライなど三種の役割を持った者の間で、お互いに強弱のルールに従って相手を捕まえ合うものや、大将から斥候まで階級と兵料に分けて目印をつけ、その役割と序列でぶつかり合って人取りをしたものがあった。片足合戦は片足をひざで曲げて上げ、それを片手で持ち、片足で跳びながら攻め合い、相手の足を落とすか転ばしたりするものであるが、佐久市長土呂のように集団で敵陣に突入して一定時間を争い、残った者の数で勝負を判定する場合と、北佐久郡御代田町小田井のように両方から中央線に出て一対一で攻め、勝った者の数で決める場合とがあった。そのほか、二組に分かれ行われる集団遊びに、男子では馬のりや、女子では花いちもんめと呼ぶ子取り遊びなどがあった。

 「鬼ごとの遊び」

(最初の鬼ぎめ)

〇ジャンケンポンできめる。皆が手でイシ、カミ、ハサミの印を出し合い、負けた者が鬼になる。(平井寺・塩沢)

 

「遊び方」

〇カクレンボをする。カクレッコ、カクネッコとも呼ぶ。「かくれんぼするもの寄っといで」と仲間を集めて鬼をきめる。鬼が木や柱などのきめられた場所で目をつむっている間に、それぞれ適当な場所に隠れる。「もういいかい」という鬼の呼びかけに「もういいよ」と答えると、鬼が隠れている子を探しはじめる。隠れている者を見つけると「〇ちゃんみいつけた」という。全部見つけると最初に見つけられた子が次の鬼となる。(東信全域)

 

〇メクラオニと呼び、鬼は手ぬぐいで目かくしをする。子たちは「鬼さんこちら 手のなる方へ」と手拍子で声をかけながら定められた狭い区域内を逃げまわる。最初に鬼につかまった者が交代して鬼になる。 (東信全域)

 

 

 「二手に分かれて戦う遊び」

(ジントリ)

〇ジントリと呼び、二組に分かれてそれぞれ立木か電柱を陣地ときめる。攻める者と守る者との二手になり、攻める者は相手に触ってじゃんけんで勝つと、自分の陣地に連れてくる。捕虜になった者は手をつないで、味方が救出してくれるのを待つ。味方が捕虜になった者に手を触れることができれば、救出に成功したことになる。一方陣地では敵が近づかぬよう警戒にあたる。すきをねらって相手の陣地に触ったり、相手の主将を捕らえれば勝ちとなる。(平井寺)

 

〇ジャテジャテボーボーをした。甲乙陣地は線を引いて定める。甲乙二手に分かれて陣地を出て、敵を自分の陣地に引っ張てきて捕虜にする。捕虜の数により勝負をきめた。(塩沢)

 

〇センソーゴッコと呼び、二組に分かれて攻め合った。(平井寺)

 

〇二組に分かれ馬になる者と馬に乗る者とをきめ、何組かの騎馬をつくる。合図で相手の乗り手をひき落としたり、馬をつぶし合う。残った数の多い方が勝ちとなる。(塩沢)

 「円陣を作って行う遊び」

(カゴメカゴメ)

〇手をつないで円陣をつくり、鬼が一人中にしゃがんで目隠しをする。その周りを「かごめかごめ」と歌いながら回り、「後ろの正面だあれ」で歌が終わるといっせいに立ち止まり、鬼は後ろの子の名前を当てる。当たればその子が鬼と交代し、当たらないと再び鬼を繰り返す。(平井寺)

 

  (ナカノジゾウサン)

〇地蔵様役の鬼がしゃがみ目隠しをする。その周りを円陣になって「中の中の地蔵さん なぜ背が小さい」と歌って回る。歌い終わるといっせいにしゃがみ、鬼はうしろの子の名前を当てる。当てられた子が鬼を交代する。(塩沢)

 (ヤーランセ)

  〇子供が輪になり、その真ん中に鬼が入る。「ヤーランセヤーランセ」と歌いながら周りを回り、歌い終わって止まると、鬼は目隠しのまま一人を捕まえてその名前を当てる。(塩沢)

 第四章 伝統の歌 P341

 ここに集めた歌は、だれからともなく歌い出されて口伝えで広がり、それぞれの地域の生活を背景に、長い時間歌われてきた伝統の歌の数々である。それらは、生活活動や行事、遊びなど、人々の暮らしのそれぞれに深くかかわって歌われてきたものである。そのために、生活様式の変化などによって、その歌がうたわれる基盤がなくなると自然に消えてしまうような歌でもある。仕事の歌、祝いや祭りの歌、わらべ歌と三つに分け、歌詞だけを対象としてまとめた。

 第一節 仕事の歌 P342

 生産に伴う作業歌には、歌う場所や仕事の内容によってさまざまな歌がある。この仕事の歌を歌う場所を基準にして、野良仕事の歌、庭仕事の歌、地つき歌の三つに分けた。野良仕事の歌には、かつての農家の生活で一番大事であった稲刈りに関して、田植え歌や田の草取り歌がある。また、山の草刈り歌や木刈り歌もある。庭仕事の歌は農家の土間や台所を仕事場とした粉ひき歌などである。そして、家屋を建てるための地固めのときの歌が地つき歌である。これらの歌は、気分をまぎらわして労働の苦痛を軽減したり、仕事のリズムにのせてはかどらせたり、作業の拍子を合わせたりするなど、大きな役割を果たしてきた。かつて山で働く人が歌ったという南佐久郡小海町親沢の「山人甚句」や、西上州へ馬の背で米を運んだときの馬子歌が、信濃追分節と関係づけられて伝えられたという。「親沢追分」は、野良仕事に歌われたばかりでなく、酒の座で手拍子に合わせて歌うものにもなっている。家の土台を固める地づき作業は、大勢の力が必要であった。作業の足並みをそろえさせる音頭取りの力量は、歌を通して発揮された。縄の引き手の力を結集するためには、特に囃子ことばに重点がおかれたようで、ハーサンギョー(真田)、ヨーイヤチョンダイ(西脇)、アードン アーサンヨ(久保)、トコエンヤーラーナー(耳取)、ショータンダ(御所平)などと、各地ごとに特色ある囃子が唄えられた。また、歌の文句には北佐久郡御代田町豊昇や立科町山部のように「つるとかめとが舞い遊ぶ」などなど、祝いことばをふんだんに使うほか、あきさせずに作業をさせるため、目につくものを勝手に歌いこんでいく即興性もあった。

 「野良仕事の歌」

(田植え歌)

〇(真田)、(親沢、歌、5)

 

(田の草取り歌)

〇(真田、親沢「歌、3」、駒込)

 

(草刈り歌)

〇(駒込「歌、2」)、与良「歌、3」、親沢「歌、10」

 

(木刈り歌)

〇真田、「歌、1」、菱野、「「歌、1」、親沢「歌、5」

 「庭仕事の歌

 

(するすひきの歌)

〇豊昇、与良

 

(粉ひきの歌)

〇茂田井、親沢、佐久町上本郷

 

(どの庭仕事にも歌った歌)

〇真田「大正末、歌、6」

 

 

 「地付の歌」

(呼び名)

〇ドーズキウタという。 (平井寺・塩沢)

〇ジガタメウタという。

〇キヤリオンドという。

〇キヤリという。

〇タコツキという。

 「地つき歌」

(36種類有り)

〇さあさ皆さん頼みます。ここは大事な床柱ヨイサヨイサ

 (平井寺、昭和25年)

〇めでたな ヤレヤレ めでたやめでたや この家のご地ぎょう

 枝も栄える若松様 ドシン ドシン (塩沢、昭和20年)

 第二節 祝いや祭り歌 P350

 この屋敷はめでたい屋敷 つるとかめとが舞い遊ぶ」とか、「めでためでたの若松様よ」などが、婚礼、年祝い、新築祝いなどの祝宴に欠かすことのできない歌となっていた。よいことばを唱えればことば通りの吉亊到来するという信仰に支えられて、このような歌を高唱し繁栄長久をことほぐ習わしであった。酒宴の座敷で座興に歌う座敷歌として、追分節、塩名田節、長久保甚句、親沢追分など、元は労働の歌であったものが、それぞれの地域において郷土民謡として大事に歌い継がれている。年中行事で歌われる歳亊歌では、正月に歌われてきたものを主として、七草の歌、道祖神獅子舞の歌、長虫除けの歌、正月を喜ぶ歌をまとめた。これらは子供が中心となる行事のため、わらべ歌というものにもなっている。正月七日の七草粥に入れるセリ。なずななどをまな板にのせて刻むときの歌は、農作物を荒らす害鳥を追い払う鳥追い歌ともいわれてきた。北佐久・南佐久地方の一帯では、大みそかから小正月にかけて、子供たちの道祖神の獅子舞があり、各家を訪れて悪魔払いをする。そのときの歌は、土地ごとでかなり特色をもっている。この獅子舞歌の中には、「みな三尺のおぬさを持って、悪魔を払う目出たいな」という神事の舞いらし歌詞だけではなく、くだけた歌詞や卑わいな歌詞まで含まれている。また、「破れやかんの底抜けた いかけて持ってこい」という歌詞が、北佐久・南佐久地方の一部に集中しており、この種の歌の流行性もうかがうことができる。さらに、「蛇もむかでもどおけどけ」は、一月二十日の行事で小正月のモノックリの際にノリデの木で作った大小の刀をさして、大麦をいったこうせんか、ドンドンヤキの灰をますに入れてまくときに歌うもので、これも南佐久地方の各地に集中している。

「祝儀の歌」

 (長持歌など) 30種類

  〇この家の座敷はめでたい座敷 つるとかめとが舞い遊ぶ 

 

                   (塩沢)

〇めでためでたの若松様よ 枝も栄える葉も茂る(塩沢)

 

(木曾節) 5種類

(伊那節) 4種類

(塩名田節) 3種類

(追分節) 4種類

(追分節) 7種類

(長久保甚句) 5種類

(その他) 5種類

「歳時のの歌」

(七草の歌) 5種類  

(道祖神獅子舞の歌) 28種類

(長虫除けの歌) 2種類 

(正月の歌) 3種類       

 第三節 わらべ歌 P359  わらべ歌には、子供が遊びの中で歌い伝えてきたものと、子供に歌って聞かせるものとがある。ここでは、子供の遊び歌として、お手玉歌と手まり歌のほか、カゴメカゴメの遊びのように真ん中に鬼を入れその周りを子供たちがとりまき、背後の人を当てさせる人当て鬼の歌などをとり上げる。また、子供に歌って聞かせる子守歌には、赤子を眠らせたり遊ばせたりする歌のほかに、子守の子自身のつらい苦しい心情を歌った仕事歌的なものがある。お手玉歌は道具を用いた遊び歌の一つである。これには「ヒーフーミー」と10まで数えるだけの単純なものから、上田市小井田などのように「一番めは一の宮 二また日光東照宮」というものや、佐久市駒込の「一れつ談判破裂して 日露戦争始まった」のような数え歌もある。これは数と語呂の合うことばを歌いこんだものだが、前者では、四は「信濃の善光寺」と「四国の金比羅さん」、六は「村々鎮守様」と「昔のお侍」、10は「東京博覧会」と戸隠九頭竜様など、地域によって歌詞に多少の変化もみられる。「おひとつおろしてサーラリ」などと動作内容を歌いこんだり、「小さい橋こぐれ 大橋こぐれ」と、歌で指示をしていくものなども多い。

 お手玉のやり方と歌の文句が対応し、しだいに遊び方が難しくなっていくとともに、歌も長くなっていく。 これらの中にはリズムにのせて、口伝えで歌い継がれてくるうちに、聞き損ないや覚え違いで、意味のわからない文句に変わっているものも多い。     手まり歌は、よく弾むつきまりをトントンとついて、そのつき方を競った遊びに伴う歌である。これは大部分が長いものになっており、物語性の強いものも含まれ、古くから歌い継がれてきたと思われる詞章がうかがわれる。子供は年齢が高くなると、しだいに家から離れて大勢の仲間と遊ぶようになる。 つじなどに集まって遊ぶ集団の遊びをつじ遊びなどといい、この遊びの中に、円陣を作り中の鬼が周りの一人を当てる鬼遊びがある。 このときに歌われてきた歌は、地域によって変化がみられる。カゴメカゴメの歌詞では「夜明けの晩に」というわかりにくいことばが、小諸市菱野では「ゆうべの晩に」、上田市西脇では「あしたの晩に」、小県郡真田町では「十日の晩に」、北佐久郡浅科村矢島では「十五の夜の晩に」などと変わっている所もある。 また、多くの地点で「つるとかめが出やる」と歌うところも、小県郡丸子町坂井では「すっこんだ」、北佐久郡望月町茂田井では「つっぺった」、佐久市大地堂では「つっついた」などと歌う所もある。 上田市小井田では、「月夜の晩に雪駄をはいてチョロチョロ出やる」と歌っており、地域的にさまざまな表現をみせている。さらに、小諸市与良などのように「晩かけてコケコッコー」と歌えば、遊戯の中味も変わったものになる。

 子守歌には、眠らせる歌が一番多い。ねんねんのくり返しことばで、やさしく眠りの国へ誘う形がとられていた。全国的に普及している「里の土産に何もらった でんでん太鼓にしょうの笛」の歌の末尾へ、北佐久郡御代田町豊昇のように「鳴るか鳴らぬか吹いてみな」などとつけたりするが、これは小県地方と北佐久・南佐久地方の地域差がみられる。また、上田市西脇の「ねればねぶかの嫁見せる 泣けば長持ちかつがせる」のように、喜ばしたりおどしたりするものや「ねんねん猫のけつにかにはいこんだ」と、歌って聞かせる子守自身が赤子と共に楽しんでいるようなものもある。遊ばせる歌である。「ののさんいくつ十三、七つ」の歌では、「滑って転んで油一升こぼした」で終わっている所があるが、それだけではなく、南佐久郡佐久間町高野町のようにそれを犬がなめてその犬を太鼓に張ってワンワン、ドンドンと歌う所や、さらに南佐久郡八千穂村崎田などでは、その太鼓を火にくべて、その灰を麦にまいて、その麦は鳥がつんで、「三里も先へつん舞った」という展開をみせている所もある。子に泣かれてその親にしかられ、子守のみじめさを歌った類歌が佐久の数か所で歌われていた。

 「遊びの歌」

 (お手玉)51種類

〇  一番はじめは宇都宮    二また日光中善寺

     三また佐倉の宗五郎  四また信濃の善光寺

  五つは出雲の大やしろ 六つは村々鎮守様

 七つは成田の不動さん  八つ八幡の八幡様

 九つ高野の弘法さん  十はところの氏神様 (塩沢)

 

〇 湯たち酒たち  お茶たち  それでも添わしてくれなけりゃ 

  諏訪の湖水に身を投げて  三、四ひろの蛇となり

  七重八重にとり巻いて  ついにあなたを取り戻す (塩沢)

                  

 (手まり歌) 14種類

 

(つじ遊びの歌) 30種類

〇中の中のおん坊さん どうしてそんなに小さいの それならお前

 がお立ちなさい (塩沢)

 

(子守歌) 45種類

〇ねんねんころりよ  おころりよ  坊やは良い子だねんねしな  (塩沢)

 第十二編 口頭伝承 P379

 第一章 昔話

昔話は、文字として記されないので、口から耳へと代々語り継がれてきた口伝えの文芸の一つである。具体的な事物と結びつけて語られる伝説と異なり、空想的な世界を内容として、冒頭を「ムカシ、ムカシ」などの句で始める話である。昔話は、「冒頭に必ずムカシという一句をそえて語る『ハナシ』が昔話であり、その発端の句が昔話という名称の起こりでもある。」(柳田国男『二本昔話名彙』)などと説かれてきたが、現在では、昔話・伝説・世間話を概括して、「民話」と総称する考え方も行われている。長野県の昔話の特徴は、八県と境を接し、東日本と西日本の接点となっている本県の地理的立地条件を反映し、隣接地域の昔話の要素、内容の影響も受けた。いわば複合地帯的様相を呈している点にあるといわれている。このような昔話のうち、東信地方の昔話について、第一節昔話の形式、第二節昔話の実際に分けて具体的に述べる。

 第一節 昔話の形式

昔話は、語ることを重んじて、口から耳へと口伝えで継承していこうとする文芸(日承文芸)であるために、語り手が自らの創造性を発揮して語ることが許容されている一方、基本的なポイントははずさないという形式の厳格さをもつ。これが、「昔話の形式」といわれるものである。わが国で、昔話の形式といえば、「語り始めのことば」、「語り納めのことば」、話の区切りごとにつける「中間のことば」(多くは文末ごとにつける「ソーナ」「トサ」などの句)、「相づちことば」などについていうのが一般的である。このような形式を重んじた語り方は、口承の中でも、昔話固有のもので、伝説や世間話などでは、とりたてて型式を整えないで、これも、昔話と伝説、世間話などとを識別する外形上の特徴の一つとなる。東信地方では昔話のことを、ムカシ、ムカシムカシ、ムカシバナシ、オトギバナシ、イーハナシなどと呼ぶ。多くは、ムカシバナシであるが、昔話の原初的な呼称であったともいわれるムカシ、ムカシムカシなどが一部に残存していることは、注目される。今でも、南佐久郡小海町宮下の昔話の催促は「ムカシ語っとくれ」であり、南佐久郡八千穂村佐口では、「ムカシを語っておくれ」であるといわれる。昔話のの語られる場(季節や場所)については、特に定められた制約はないが、こたつやネマ(寝床)での寝物語として、また冬の夜なべのジロバタなどで語られている場合が多い。上田市西脇では「早く寝かせたいとき寝床で語った」、南佐久郡南牧村板橋では「寝せつけるとき夜話にはなした」などという事例が、小海町宮下のように、「冬の夜なべの場では、わら仕事をする男が語り手だった。女はオをウムのが夜なべの仕事だったので、糸をなめながら行う。そのため話は仕事の邪魔になる」という所もある。一方、上田市金剛寺では蚕のコシリをとる手伝いのときであったり、北佐久郡立科町塩沢では「縄ないやわらじ作り、くず繭をゆでる夜なべ仕事をしながら語ってもらった」というように仕事をしながらという例もみられる。また、佐久市駒込では「冬の寄り合いの後」、南佐久郡臼田町清川では「近所に遊びに行って人が集まったとき、風呂を借りに行ったとき」、小県郡青木村馬場では「温泉に行ったとき」、小海町宮下では「越後のゴゼや富山の薬屋、お子安さんのお札を配ってくる修験者などの定宿に、『おもしれえ話をするから集まっしゃれ』と呼び、集めて」などのように、隣近所の者が集まって話を聞く機会を設定して行われている例もみられる。

 語り始めのことばは、ムカシムカシ、ムカシムカシアッタトサ、ムカシムカシアルトコロニ(アルトコニ)などの基本的なものと、その一部が変形したムカシムカシノソノムカシ、ムカシムカシナー、ムカシムカシソノマタムカシアッタトサなどが全域に点在している。語り納めのことばは、多彩な地域性を示す点に特色がみられるというが、これで話は終わったと語りの場の終結を宣言する形のものと、めでたしめでたしと話の成立を祝福する形のものとにニ大別できる。この地方では、ソレッキリ、ソレバッカリ、コレデオシマイなどの前者の系統が圧倒的に多い。しかし、小海町宮下では、「ちちんぴよどりを語るときには、メデタシメデタシでおしまいにする」といわれ、話によって使い分けをするという意識をうかがうこともできる。中間のことばは、語り始めのことばの句末表現に呼応させて使われるので、「・・・・・ト」「・・・・・・トサ」が圧倒的に多く、「・・・・ソーナ」「・・・・・・ソーナ」を併用している地点もみられる。また、小県群丸子町練合、北佐久郡立科町塩沢、佐久市桜井などの数地点では、「・・・・・トイウ」「・・・・・・タトイウ」のなまった「・・・・ツー」「・・・・タツー」が使われている。相づちことばは、話の納得を表す「フーン」がこの地方全域に広がり、それと並存する形で話の進行を促すための「ソレカラ」「ソレデ」などが分布する。また、進行の強い催促のことばとして、「マット」「マットハナシテキカセナヤー」「ソノアトワ」を使う所もある。さらに、上田市諏訪形では、「フーン」と相づちをうたなければ、途中で話をやめてしまうという厳しさをもっておこなわれていたという。昼間、昔話を語ることを禁ずる昼昔の禁忌は、特にないという地点が多いが、小海町宮下では、昼間、「昔話を語っとくれ」というと、「こりゃあ、晩だよ。今んころそんな話していると、鬼に笑われる」としかられたという。また逆に、小県郡真田町真田では、「昼昔はよい。夜、昔話をすると、一つ目小僧や鬼が出てきて、話が本物になるからいけない」といわれていたという。

 当地方の代表的話型は、「猿がに合戦」「かちかち山」「すずめ孝行」「ほととぎすと兄弟」などの動物昔話、「蛇婿入り」「蛇女房」「つるの恩返し」「桃太郎」「うり姫」「花咲かじじい」「夢見小僧」「鳥飲みじい」「ねずみ報恩」「笠地蔵」「まま子話」「かに報恩」「三枚のお札」「地蔵浄土」「大歳の客」「赤米の悲劇」などの本格昔話、「ばか聟話」「へっぴり嫁」「和尚と小僧」「おろか村話」などの笑い話、「果てしない話」の型式譚で、全般にわたって古各をとどめた均衡のとれた伝承が認められる。

 また、昨今のいわゆる民話の再話ブームによる影響でもあろうか、本来はこの地方の伝説であるべきまた、昨今のいわゆる民話の再話ブームによる影響でもあろうか、本来はこの地方の伝説であるべき小泉小太郎や手塚太郎の伝承、隣接する北信地方のおばすて山伝承が、昔話風に語られている。さらに、太郎山のつづじ伝説も、昔話風に語られていたが、太郎山という地名がはっきり出ているので、伝説で紹介することにした。

「昔話の呼び名」

 (ムカシバナシ)

〇ムカシバナシと呼ぶ。(平井寺・塩沢)

 

(オトギバナシ)

〇オトギバナシと呼ぶ。(塩沢)

 「昔話の語られる季節と場所」

〇冬、こたつで語る。 (塩沢)

 

「語り始めのことば」

(ムカシ・ムカシムカシ)

〇「ムカシムカシ」と語り始める。 (平井寺)

 

(ムカシアッタトサ)

〇「ムカシムカシ、アッタトサ」と語り始める。(塩沢)

 

 

 

「語り納めのことば」

 (ソレバッカリ)

〇「ソレバッカリで終わる。 (塩沢)

 

 (コレデオシマイ)

〇「コレデオシマイ」で終わる。(平井寺)

〇「コレデオシマイダ」で終わる。(塩沢)

 「相づちのことば」

 (フーン)

〇「フーン」と相づちをうつ。(塩沢)

 

 (ソレカラ・ソレデ)

〇「ソレカラと相づちをうつ。(平井寺・塩沢)

  「昼間の禁忌」  

 〇特にない。(平井寺・塩沢)

 

 地域によって、昼間、昔話をすると「ねずみが笑う」「鬼が笑う」といわ

 れる。            

  

 第二節 昔話の実際 P390

 

 本節では、この度の調査で得た昔話の実際を文字化して紹介す

る。調査は、調査地点の話者を直接訪ねて、語りを録音し、その語り口をできるだけ忠実に文字化しようと務めた。そのため、五句や表現法が前後でずれている場合もあるが、あえて手を加えなかった。この調査では膨大な昔話資料を得たが、本節では、そのうちの欠落部分の少ない話を選び、動物昔話、本格昔話、笑話、最後に語る昔話(型式譚)の四つに大きく分類して載せた。昔話の分類には各説があり、もっと細かな分類もおこなわれているが、ここでは、この地方に伝承されている伝承の語り口と内容をでき得る限り生の形で紹介することに重きをおいたためその細部にこだわらなかった。なお、各昔話の話型名は、その話者の語ったものを使用し、その下に「昔話名譚」(柳田国男 昭和二十三年)と『日本昔話大成』(関敬吾 昭和五十五年)の話型名、大成番号、アールネ・トンプソンによる国際基本番号 A.Aarne&amp;S.Thompson:TheTypesofFolktale

                  (1961.Helsinki) (AT番号)を示した。

 動物昔話は、昔話のうちでも最も古い歴史をもつといわれている話である。動物(植物)たちが主人公として登場するものをここに納めるが、大まかに動物の由来を説く話と、動物同士の競争を語る話とに二大別することができる。「すずめ孝行」「からすとふくろう」「ほととぎすと兄弟」などは前者、「猿がに合戦」「かちかち山」などは後者である。本格昔話は、昔話のなかでも本格的な形の話という意味をもち、主として人間が主人公となって、その人の一生が語られるというような、長編の話が多い。柳田国男は、これにほぼ同じ内容の話を完形昔話と分類している。「桃太郎」や「うり姫」のような人間としての一代記、「蛇婿入り」「蛇女房」「つるの恩返し」のような婚姻の話、「ぬかぶく米ぶく」「まま子のくり拾い」「まま子と鳥」などのまま子話、隣人との対立の問題を語る「花咲じじい」「鳥飲みじい」「ねずみ報恩」などにみられる、人が人生で体験する複雑な問題をテーマとして語っている話である。

笑話は笑わせることを主な目的として語る昔話である。現実生活の中での身近な出来事を取り上げてことさら誇張し、ユーモラスに構成することが多い。東信地方でも、「和尚と小僧」のように、平生は力の弱い立場にある者が、そのとんちのの力で、最後には力の強い者をやりこめて、その勝利を語る話、「へっぴり嫁」「ばか聟話」のように、表面的にはどこまでもおろかな言動を繰り返しながら、しまいにはその底力で逆に世間を笑い返すという典型的な形の笑い話が、いくつも語り継がれている。この地方にもいくつかの内容で語られている「おろか昔話」などは、この笑話の総括された形のものだと考えられてももいる。

 最後に語る昔話は、型式譚などとも呼ばれる。語り場の雰囲気を作る形式的な話の意で、語り手の話の種が尽きてもなお語りをせがまれる際に、聞き手の要求をかわす意図をもって語られる場合が多い。ここで使用した、「最後に語る昔話」という呼称は、そういった「とりの話」としての機能上の性質をとらえてのものである。したがって、この種の昔話は、内容的にはほとんど意味がなく、ことばや語り方のおもしろさで興味をひかせるものが多い。ここで紹介する「果てなし話」のいくつかも、全国各地に伝播しているこの種の昔話と同質であり、最後に語る昔話の典型的なものである。

 たくさんあるお話の中から、(すずめ孝行) 

〇すずめとつばめ(1)

  むかしむかしの話だがなあ。すずめとつばめはきょうだい(姉妹)だったとさ。すずめが姉で、つばめが妹だったとさ。それで、大きくなって、すずめもつばめも嫁に行ったとさ。幾年かたって、すずめとつばめのところへ、おっかさんが急病だという知らせがあったとさ。それですずめはとるものもとらず、化粧もしないで、ふだん着のまま病気のおっかさんのところへとんで行ったとさ。おっかさんとてもよろこんだとさ。つばめは、すずめよりもずうっと遅れて、きれいにお化粧して、きれいな着物を着て、つばめがやって来たと。ところがそのときには、おっかさんの病気は重くて、口もきけなかったと。そうして、二人のきょうだいの看病のかいもなく、ついに死んでしまったとさ。二人が帰るとき、おとっつんがいったとさ。

「すずめよ、お前は、とるものもとらず、ふだん着のままとんで来たので、おっかさんと話ができた。だから、おまえは、これからお米を食べて暮らすがいい。つばめは、お化粧し、きれいな着物を着て来たので、遅すぎておっかさんと話もできなかった。おまえは、これから、虫をとって暮らしていきなさい」といったとさ。

それで、それからの後、すずめは米を食べ、つばめは虫を食べるようになったとさ。

                  (佐久町上本郷 木内和太郎)

 〇すずめとつばめ(2)

むかし、すずめとつばめとはきょうだいだったとさ。あるとき、おっかさが危篤になって、連絡が来た。

 ところが、すずめは、とるものもとりあえず見舞に行って、死にめに会うことができたが、つばめは、手間かけて化粧をしてから行ったので、まにあわなかったと。

 それで神さまから、すずめは穀物を食べることが許されたが、つばめは姿はいいが、土で巣を作ったり、虫を見つけて食べたりしなければならなくなってしまったそうな。(宮下 井出潔)

 

   (からすとふくろう)

    〇昔、ふくろうは、紺屋(染め物屋)だったと。

 それで、鳥たちの羽を、美しく染めてくれるのが仕事だったそうな。その店に、あるとき、からすがやって来た。そうして、からすは、一番後まで待っていて、ほかの鳥たちの染めぐあいを見てっからに、

 「おれのは、今までの鳥のだれよりかも、一番美しい色に染めてくれ」

 というので紺屋のふくろうは、いろいろの色を全部使って染めたところが、真っ黒に染まってしまったと。それから、からすは真っ黒い鳥になってしまったし、ふくろうとからすの仲は悪くなってしまったのだそうだ。(宮下 井出潔)

「うり姫」

 うり姫(1)

〇むかしむかしなあ。おじいやんとおばあやんがあったとさ。おじいやんは山へしば刈りに、おばあやんは川へ洗濯に行ったら、川上から大きなうりが、ウカン、ウカンと流れて来たと。それで、

「いいうりはこっちい(へ)来い、悪いうりはあっちい行け」

と呼ばったら、こっちい来たから、それをしろって(拾って)うちい(家へ)持って来て、じいやん帰って来るまで大事にとっといた。じいやん山から帰って来たから、

「さあ、ふたりでうりを食べるか」

と、うりを割ったら、中からかわいい娘が生まれたと。二人はたいへん喜んで、大事に育てているうちに、娘もだんだん大きくなって、機(はた)も織れるようになって、嫁入りするようになったと。それで、おじいやんとおばあやんと、嫁の仕度を買いに里へ出かけたと。

「うり姫や、だれが来ても、けっして障子を開けちゃいけないよ」とよくいい聞かせて出かけたと。うり姫が、チャンコロリン、チャンコロリンと機をおっていると、あまのじゃくが出て来て、

「うり姫、うり姫、ちょっと機を織って見せてくんねか」

といって、

「ちょっと、どれだけでも、障子を開けてくんねか」

と一生懸命頼むが、

「おじいやんたちが、開けてはいけないといったから、開けないよ」

と断ったと。だが、あまのじゃくは、

「どれだけでも、指の入るだけでいいから、開けてくんねか」

と頼むから、指の入るだけ開けてやったと。そうするとあまのじゃくは、今度は、

「顔の入るくらいでいいから開けてくんねか」

という。それで、頭の入るほど開けると、急にうちの中へ入って来て、本性を現して、うり姫を機から降ろして着物を脱がせて、自分がその着物を着て、うり姫はうちの裏のかやの木に縛りつけて、うり姫に化けて機を織っていた。

まもなく、おじいやんとおばあやんが帰って来て、うり姫に嫁入りの仕度をしてくれていると、うり姫の悲しい声が、

「あまのじゃくはいいことじゃ。うり姫のべべ着て、すまして織っている」

と繰り返し聞こえてきたと。うり姫の悲しそうな声が、外から聞こえるので、不思議に思って、裏に出てみると、うり姫が屋敷の境木(さかいぎ)のかやの木に縛られている。それで、あわてて縄を解いてやって、あまのじゃくを機から引き降ろして、裸にして、頭をつかんで、かやの中を引き回した。あまのじゃくは血を流して死に、その血はそこに生えていたかやが吸ったと。それで今でも、かやの茎は赤いのだそうだ。そればっかし。(宮下・井出潔)

 「うり姫」

 うり姫(2)

〇むかし、おじいとおばあがあったそうな。おじいは山へ薪取に、おばあは川へ洗濯に出かけた。おばあが洗濯していると、川上から大きなうりが流れてきた。おばあは、

「いいうり、こっちへこ、よた(悪い)うりはあっちへいけ」

といったら、いいうりが寄ってきた。おばあは、そのうりを拾って家へ持ち帰ったと。おじいが山から戻って来たので、二人でうりを食べようとしたら、うりは自然にポカンと割れて、中から小さい女の子が生まれた。二人は喜んで、

「何と名をつけやしょう」

「うりの中から生まれたから、うり姫とつけやしょう」

と相談し、うり姫と名をつけて、かわいがって育てたと。うり姫はずんずんと大きくなり、炊事洗濯から機織りなど、女の仕事がみんなできるようになった。そして、うり姫が嫁にもらわれることがきまったある日、おじいとおばあが里へ嫁入り仕度を買いに出かけることになって、うり姫に、

「おじいもおばあも出かけて、留守にするから、だれが来ても戸を開けてはいけねえぞ」

といい聞かせて出て行った。うり姫は一人で留守居をしながら、チャン、チャンコロリン、チャンチャンコロリンと機を織っていると、あまのじゃきという毛だらけの男がやってきて、

「うり姫、うり姫、戸を開けてくろ」

といった。うり姫は、

「きょうは、じいさまもばあさまも留守だから、戸はあけられねえ」

と答えたと。あまのじゃきは、

「そうか、それじゃ仕方がねい。指の入るだけでいいから開けてくろ」

と、しつっこくいうので、指の入るぐらいならいいと思って、少し開けてやると、今度は、

「頭の入るだけ開けてくろ」

という。こうして、だんだんと開けさせて、ずるりと家の中に入ってきてしまった。あまのじゃきは機屋で、いたずらばかやって、うり姫を困らせたあげくに、

「裏の畑へなし取りに行かねか」

という。うり姫は、悪さをされるよりましだと思い、二人で出かけることにした。あまのじゃきはなしの木に登って、一人で甘い実を食べたと。それで、下から見上げたうり姫が、

「おんにも一つくれや」

というと、うまない(熟さない)なしをもいで落とした。

「うんだのを落としてくれねえか」

というと、一口かじって、つばをつけて落としたり、小便をひっかけたりするので、

「今度は俺が登って取るから、おりておいで」

といって、あまのじゃきは木からおりて、うり姫が木に登ってなしをもいで食べはじめた。すると、あまのじゃきはばらを持ってきて、なしの木にしばりつけて、うり姫がおりてこられないようににして、自分がうり姫に化けて、機屋に戻って、機を織っていた。そうとは知らずに、おじいとおばあが帰ってきて、仕度を整えて、次の日に馬に乗せて、送り出した。それで、馬がなしの木の近くにさしかかると、うり姫の乗る馬に、あまのじゃきが乗って行くと、悲し泣き声がした。おじいとおばあは、

「さては留守中に、あまのじゃきにだまされたか」

と急いで追いかけて、萱野(かやの)中であまのじゃきを打ち殺したと。それでかやの茎の髄は、今も血がついたように赤いのだそうな。うり姫はすぐ木からおろされて、めでたく嫁入りすることができたと。これでおしまい。(真田、西牧喜吉)

「うり姫」

  うり姫(3)

〇むかしむかしなあ。

おばあやんが、川い(へ)、洗濯に行ったら、川上から大きなうりが、流れて来たと。おばあやんは、

「いいうりはこっちへ来い、悪いうりはあっちい行け」

つって(といって)、それをしろって(拾って)来て、じいやん帰って来るまで、大事にとっといて、じいやん帰って来てから割ったら、かわいい娘が生まれたと。

二人で大事に育っているうちに、娘もだんだん大きくなって、機も織れるようになって、おじいやんとおばあやんとで、嫁入り道具を買いに里へ行った留守に、あまんじゃくが出て来て、

「ちょっと機を織って見せてくんねか」

つうが(というが)、

「おじいやんとおばあやんも、決して開けちゃいけねぞていうから、開けないよ」

つって、断ったと。だが、あまんじゃくは、

「どれだけでもちょっと開けろ」

つって、一生懸命頼むから、指の入るだけ開けた。そうしたら入って来てえ、本性を現して、うり姫に、

「おこわをふかせろ、こわ飯作れ」

つう。それで、こわ飯をどんどんと一生懸命ふかさせて、それを鉢ん中へ開けさせて、

「もっと炊け、もっと炊け」

つって、足で踏んで、鉢ん中いどんどんとつめさせて、それで一杯んなったときに、それを足で踏んでるうり姫もそのまま頭い乗っけて、山い逃げてった。うり姫もそのまま積んでった。だけど、うり姫や、途中でいい枝があったからつかまって、逃げられたと。あまんじゃくはそのまま行って、途中で気が付いたら、うり姫がいない。それで引き返して来た。うり姫は、かやん中へ逃げた。追いかけて来たあまんじゃくは、かやの葉で目をついたと。それでうり姫は助かった。それでかやの根が、あまんじゃくの目をついた血で、赤いという。

そればっかし。(宮下 井出潔)

 「夢見小僧」

(夢見小僧)

〇むかし、あるとこに、お大尽があったとさ。そのお大尽は、番頭を五人も六人も使っていたそうだ。それで、正月の二日の晩に、いい初夢を見られるようにというので、紙で宝船をたたんで、その船のところへ

「長き夜の遠の眠りの皆覚めて波乗り船の音の良きかな」

と歌を書いて、それをまくらの下せ(に)引いて寝たとさ。そうして、

「あした起きたら、みんなして見た夢語らざ」

「語らねもんは庭の松の木に結わいつけるぞ」

そういって、みんな寝ただ。それで、次の朝起きて、覚め順にみな話したが、一番下の小僧が話さねっつわけで、松の木い結わいっつけられたとさ。そうして、みんなで朝飯食べてると、天狗(てんぐ)さまが降りて来て、その小僧に、一尺ばかりの棒をあずけて、「お前を助けてやるから、この棒を持って飛べ。百里飛べってば百里飛ぶし、千里飛べってば千里飛ぶ。なんぼでもいうなりに飛ぶから、この棒を持って行け」

というわけで、その小僧が、

「百里飛べ」

っつて(といって)飛んで行ったら、いい村だった。それで、下を見たら、たんぼの中に人が大勢集まって、がやがや騒いでいたと。何だろうと思って行ってみると、いい馬だが具合が悪くて、みんなで困ってるって。村の衆がいくらやっても、獣医が来ていろいろやっても、ちっとも動かねえってわけだってね。それでその小僧が、「おれが治してやるか」

 つったら、村の衆は,

「獣医さまだって治らぬものを、うぬの(おまえ)ような小僧に治せるはずがねえ」

と怒ったわけだと。そうしたら小僧が、

「治してみせたら、何くれるい」

というと、そこにいた一人の男が、

「家に娘が一人あるから、その婿にしてやらあ」

「ふんとかい(本当かい)」

「ふんとさあ」

「この馬治すは、わけがねえや」

そういって、天狗さまにもらった棒でもって、

「治れ、治れ」

ってさすったところが、その馬がむっくり起きあがった。それで、みんなの前で、婿にしてくれるって約束したから、その男は困ってしまったが、約束をしたから、その小僧はそこの家の婿になったっつ。それがまあるで、夢に見た通りだったと。それで、昔から、変な夢は朝起きたらすぐ話せ。いい夢は話すなといわれている。

これっきりだ。(御所平 油井貞夫)

 「鳥飲じい」

 ちちんぴよどり(1)

〇 むかし、あるところに、おじいやんとおばあやんがあったとさ。おじいやんは毎日、山の畑へ仕事に出かけたって。ある日、おじいやんが山の麦畑の」手入れをしていると、おばあやんが、おこびれ(中食)持って来て、

「おじいやん、休みっしゃれ。おこびれ持って来たから」

といったそうな。おじいやんは、さっそく土手に腰を下ろして休むと、ばあやんが、

「ほれ、ぼたもち持って来たから、おあがり」

と出しているくれたから、それをうまそうに食べていた。そうしたら、そばの桑の木にちちん(せきれい)がとまって、食べたそうに、こっちを見ながら鳴いている。それで、じいやんが、

「ほれしょ」

と投げてくれると、餅が羽にくっついてしまったので、おじいやんが、

「やれやれ、こりゃ困った。どれ取ってあげよう」

と、ちちんを手に取って、餅を取ろうとしたところが、ねばってうまく取れないので、なめて取ろうとしたところが、ちちんを飲み込んでしまったそうな。それで、おじいやんもおばあやんも困っていると、へそのあたりが、むずむずしてきた。手をやってみると、そこにちちんのしっぽが出て来て、いたと。おじいやんがしっぽをしっぽを引っぱると、

 ちちんぴよどり ごようのおんたから ピッササと 

鳴き出したそうな。引っ張るたびにそう鳴くので、次の日にじいやんは、

「へっぴりじじいまあいった(参った)、へっぴりじじいまあいった」

と、村から村を歩いていると、殿様が通りかかって、

「これは珍しい。一つやらせてみよ」

と家来にいいつけたそうな。そこでさっそく腹を広げて、しっぽを引っぱると、

 ちちんぴよどり ごよのおんたから ピッササ

と鳴いたそうな。殿さまはたいへん喜んで、たくさん褒美をくれたそうな。そうしたら、この話を聞いた、隣の欲深じいやんが、向こうのじいやん、へをひって褒美をもらったっていうから、おれももらおうと、あかざの餅を作って、それを腹一杯食べて、向こうのじいやんの通った道を、

「へっぴりじいさんまあいった、へっぴりじいさんまあいった」

と歩いていると、きのうの殿さまがお帰りのところで、

「きのうのじいさんか。また、やらせてみろ」

と、いわれたので、家来がつれて来てやらせると、欲深じいやん、あんまりあかざを食べたので、腹を下して、

「ううん」

とうなったひょうしに、布団いっぱい汚すやら、においやらで、殿さまはたいへん怒って、欲深じいさんをこらしめさせたって。じいやんはたたかれて、血だらけ真っ赤になってとぼとぼと足を引きずり、泣く泣く家の方へ歩いてきたそうな。家では欲深ばあやんが、じいやんの帰りの遅いのを待ちきれずに、屋根に登って見ていると、向こうから、真っ赤な着物を着て、重たそうに足を引きずって来るじいやんをみつけて、

「これはたいへんな御褒美をいただいて来たにちがいない」

と、急いで下に降りようとして、足がすべって転げ落ちて、ずしんと腰をぶったそうな。

「あそこへじいやん、たいへんな御褒美をいただいて来たから、こんなきたねえ家も道具も、何もいらないわい」

といって、火をつけて、家も何も焼いてしまったそうな。そうしたらそこへ、欲深じいやんが帰って来て、いちぶしじゅうを話したって。欲深じいやんとばあやん、

「あいたた、あいたた」

と、うなりながら暮らしたそうな。めでたし、めでたし。

(宮下 井出潔)

 ちちんぴよどり(2)

〇おじいが、山の畑い(へ)行って、おばあのこしらった(作った)お餅を食べていたら、そこいちちん(せきれい)が舞って来て、あんまりいい声で鳴くから、そいから、餅をくれてやったら、ちちんの羽にもべたべたと餅がくっついて、どうしても取れね。それで、おじいは、ちちんをとっつかめて(つかまえて)、口でなめて取ってやらっか(やろうか)と思ってやったら、お餅と一緒に、ちちんが口にへっちっやただ。それで、困ったと思っているうちに、おじいのへそんとこい、ちちんのしっぽの羽みたいのが出てきて、その出たところをしっつったら(ひっぱったら)、

  ちちんぴよどり  ごようのおんたから  ピッシャリシャー

って鳴くっつわけだ。それで、村中、ちちんのしっぽをしっつっちゃ鳴かせて、それを聞かせてあいて(歩いて)お金をためたと。そういう話だ。(御所平 油井貞夫)

  ぴぴんぴよどり(3)

〇むかし、よいじいさんと悪いじいさんがあったと。

ある日、よいじいさんは、山の畑にすきぶち(鋤ぶち)に出かけた。お昼になったので、むすびを食っていると、一羽のとてもきれいなすずめぐらいの鳥が来て、すきの上にとまって、じいさんの方を向いた。じいさんは、自分のむすびを少しわけてやると、喜んで食べていたが、だんだん慣れて、じいさんの肩や指にとまるようになったと。ところが、どうした拍子か、じいさんの口から腹の中に飛び込んでしまった。さあ、おじいさんは驚くまいことか、すぐ立ち上がってみたが、どうにもならない。裸になってみると、先ほどの小鳥の足が一本出ていた。そこで、これを引っぱった。そうすると不思議にも、

 ぴぴんぴよどり  ごようのさかずき  ちょっともって とんでこいと、とてもよい声をして鳴いた。そこでじいさんは面白がって、家に帰ってばあさんにもやってみせたりしていた。この事がだんだんと有名になって、殿さまに聞こえて、殿さまがぜひ聞きたいというので、じいさんをお召しになった。そこでおじいさんが、殿さまの前でやってみると、とてもいい音がして鳴いたので、たいへんおほめにあずかって、たくさんの褒美をいただいた。これを聞いた隣の欲深じじいは、おれも一つもうけずと思って、お昼をもって、山の畑に行って、すきをぶっていた。お昼になったので、すきを畑のあぜに立てて、持っていた握り飯を食っていると、前に立てておいたすきの上に小鳥が来てとまった。そして、じいさんの飯を食いたそうにしていたが、じいさんは少しもくれずに、みんな自分が食ってしまった。。そして、すきの上にとまって動かない小鳥をとらえて飲んでしまった。それで、バタバタするやつを、やっとの事で飲んでしまうと、へそのところへ足が出たので、隣のじいさんと同じだというので、さっそく山の畑をおりて、御殿に行って、

「鳥の声を出すじいでござい、鳥の声を出すじいでござい」

と大声で呼んで歩くと、殿さまのお耳に入って呼び込まれて、殿さまの前でやると、いい声は出ないで、へのような声しか出なかったと。じいさんは、殿さまのお怒りに触れて、さんざんしかられて、ほうほうのていで逃げ帰ったと。(真田 宮島清)

  ちちんぴよどり(4)

〇おじいさんとおばあさんがあったとさ。

おじいさんは山へ麦刈りに、おばあさん、後からおこびれ(中食)に餅を持っていったとさ。それで、おじいさん、一休みして、餅を焼いて食べていたら、そこへ、ちちんが(せきれい)一羽飛んで来て、しきりにしっぽをふって、ものほしそうに鳴いたとさ。

「そうか、そうか」

とおじいさん、お餅を投げてやったら、ちちんの羽にねばりついてしまった。ちちんは苦しがっているので、おじいさんが餅を取ってやると、口で餅を取ろうとしたひょうしに、ちちんを飲んでしまったとさ。そのうちに、腹が痛みだし、家に帰ってお風呂に入ったら、へその穴から、ちちんのしっぽが出てきたと。それで、それをつまんで引っぱると、ちちんぴよどり、ごよのおんたから、と鳴いたとさ。それで、だんだん評判になって、ところの殿さまに呼び出され、その前でやってみせたら、すばらしいことだと、山ほどたんと褒美をもらったとさ。おしまい。 (親沢 新井美雄)

 

 「ねずみの浄土」

 (ねずみ浄土)

〇むかし、いいおじいやんといいおばあやんとがあったとさ。ある日、おじいやんが、山い(へ)木こりをしい行って、おしる(おひる)になったから、おばあやんのにぎってくれたおむすびを食べようともったら、手はずししちまって、コロコロコロコロと転んでしまったと。それで、おじいやんは、ホイホイホイホイと追ってたら、穴ん中い転がり込んじゃって、しょうねえ、帰って来てえ、またもう一つ食べようと思ったら、またコロコロと転がって、追ってたら、また穴ん中い転がって入っちゃった。ほうしたら、ねずみのおっかさが出て来て、

「今は、ありがとうございました。子供も私も、たいへんおいしい物をいただきました。どうぞ、いらっしゃってください」

と穴ん中い案内してくれったって。それでその後いついて行ったら、穴ん中は広くなってて、そこで、いっぱいのねずみが、ねずみの浄土、ねこがいなけりゃ極楽だ、トンカン、トンカン、と歌を歌って、餅をついたり、湯をわかしてくれたりして、もてはやしてくれてそうしていろいろのものをもらってけえって(帰って)来たあと。そうしたら今度、欲ばりの隣のじいさんが、このことを聞いて、ねずみの穴を尋ねて行ったが、とんでもねえときに

 にゃあん にゃあん 

と鳴きまねをしてしまって、正体がばれて、ねずみたちにかみつかれて、血だら真っ赤になって帰って来たと。 (宮下・井出潔)

 「ねずみの報恩」

 (ねずみの恩返し)

〇むかしむかしなあ。

むかし、あるとこに、正直なじいやんがいて、隣には、欲深なおじいやんが住んでいたそうなに。正直なおじいやんは、まじめに毎日、山い(へ)行って、畑を耕していたとね。そうして、薪を取ったり、木の実を取ったりして、おばあやんと楽しく暮らしていたと。

ある日、いつものように、山へ行って、薪を取っていると、穴の中から、けがをしたねずみが一ぴき出て来て、ぴくんぴくんしながら、そこにすくんでいたと。おじいやんはこれを見ると、これはかわいそうだと思って、自分の着ていた野良着のはじをさいて、包帯をしてくれて、さすってやるやら、親切に介抱してくれたと。そうしたら、ぼつぼつお昼になるので、おばあやんのにぎってくれたにぎり飯を食べ始めると、その子ねずみは、いかにもほしそうに、じっと、じいやんの方を見ているって。それで、半分分けてくれたら、うまそうに食べて、元気が出ただか、穴の中い入って行ったとさ。おじいやんはそのままそこで、昼寝をしてしまった。

それで目を覚ますと、そこに、親ねずみがいて、

「さっきはどうも。自分の子供の子ねずみがけがをしたら、たいへん介護してもらって、本当にありがとうごわした。おかげで、ねずみも助かって、お礼のしようもありませんが、何かといっても、別にないから、そのお礼にこれを」

といって、小づちをくれた。で、

「もしほしいもんがあれば、ほしいもんをいって、この小づちで地べたを打つと、何でもきっと出てくるから。それで、それをそれをさしあげますから」

こういってくれた。それで、おじいやんは、その小づちを持って、うちい(家)帰って来て、おばあやんに、「ばあやん、ばあやん、今日は、こういう事があって、そうして、こういう小づちをもらって来たよ」と話したら、おばやんも、

「そらあ、よかったでごわすねえ」

と、おばあやんもいい人だから。それで、おじいやん、

「じゃ、ためしに、お米がどうもないから、お米を出してみるか」と、

「お米がでろ」

と、小づちをはたいたら、お米は出るし、「お米っきりじゃ、食べんに困るから、お魚もほしいなあ」っと、それから,

「お魚出ろ」

って、地べた打ったら、お魚が出て来たと。けれども、このおじいやんもおばあやんも、ねっからまじめな、いい人だったから、そういう物があっても、毎日毎日、いつものように働いた。ところが、家はだんだんお大尽になって、幸せになってきたと。ところが、それを見ていた、隣の意地悪の欲深じいやんは、隣のいい様子を見て。どうも変だということで、その正直じいやんのとこい行って、そして、

「どうして、こんなに、お米もあるし、魚もあるし、食べ物がいっぱいあるだろう」

と聞いたら、

「この小づちがあって、小づちを打つと、何でも出て来る」

と教えたら、それから、

「じゃあ、それを、おれに貸せろ」

といったもんで、これをねずみからもらったとはいわねで、

「これは、家の宝だから、貸すわけにはいかねえ」

といったが、

「いや、隣同士で、そんな自分ばか使うことはねえから、貸せろ」って、無理やりに、借りて来て、うちい帰って、この村一番のお金持ちになりたいって、お米をたんと出そうと思って、その米をしまっておく蔵も出したいと、

「米蔵でろ」

と、米と蔵と一緒に出ろと、そのつちを打ったら、出るは出るは、小さいめくらの二十日ねずみが、千匹も二千匹も、いっぱい出て、そのたんとのねずみが、米でもあわでも豆でも、食べられる物は何でもかんでも、みんな食べちゃった。それでその欲深じいさんは、食べ物がなくなって、どの村にいられなくなって、とうとう、よその村へ逃げてった。夜逃げして行ったという。そればっかり。

(宮下・井出潔)

 

 「笠地蔵」

  (笠地蔵)(1)

〇むかしむかしあるところに、貧乏なおじいとおばばがあって、何もねえ、米も魚もねえって。それでばあやんの織ったぬの(布)一反あったから、

「おじい、これ持ってけば、ちったあ、米も魚も買えるから、行ってこう(行ってきてください)」

つったと。それで行ったら、雪がもかもか、もかもかと降ってきて、地蔵さんのとこい来たら、雪かぶって、鼻水を垂らして、いかにもさぶい(寒い)ようだ。それでおじいは、おばばが売ってこうっていうののを、みんな地蔵さんに巻いてきて、何も買わねで帰って、おばばに、

「あんまり地蔵さまが寒いふうして鼻水垂らしているから、おら、あのののみんな地蔵さまに巻いてきた」

といったら、おばばは、

「そりゃあ、いいことしやした。そりゃ、お地蔵さんも喜んずら(喜んだでしょう)」

といって、何もねえから、二人でお湯を飲んで、それで寝たと。

そうしたら夜中になって、よいしょら、よいしょらっつう音が聞こえてくる。それで、その音がだんだんと近づいて来て、よいしょら、よいしょら、とだんだん近くい来て、

「おかしいなあ、今ごろ、何の音づら」

って、それで寝ていたら、そのうちに、家の庭あたりで、どっさりと、何か下した音がした。それで、

「何下したずら」

と思って行ってみたら、お金がたあんとあって、それでもって、

一生楽に暮らしたってな。これっきり。(御所平、高見沢とくよ)

(笠地蔵)(2)

〇むかし、じいやんとばあやんが、ばあやんが家にいちゃ機を織り、じいやんがそれを町へ持ってって売って、暮らしてた。町へ行く途中、地蔵さまが雪だらけになっていて、帰るときに気の毒と思って、雪を払ってやったり、買ってきた笠をかぶせてやったりして、家へけえっていった。それで、夕飯も食うや食わずで寝てしまった。夜中になって、家の戸をドンドンたたいて、

「じいやんいたかい」

と呼ぶ声がするんで、飛び起きてみると,リヤカーみたいな車に乗ったお地蔵さんがいて、ねずみにひかせてきただか知らねえが、

小判が車にたくさん積んであった。ねずみは、疲れただかわかんねえが家のあがり端でたばこを吸っとった。けぶがもうもうしてて、よく見えなかったが、お地蔵さんが昼間の笠のお礼をいって、帰っていくのがわかったって。じいやんとばあやんは、それから金持ちになったという話だ。(真田 荻原真一郎)

 

「まま子話」

(まま子のくり拾い)

〇むかし、まま母がまま娘と自分の子に、くり拾いに行かせたと。実子には穴のあいていない袋、まま娘には、穴のあいた袋を持たせてやったと。それで、

「この袋にいっぱいになるまでは、絶対に帰っちゃいけないから」といってやったと。山へ行くと、くりはいっぱいあって、大勢くりを拾っていたが、姉の袋には穴がないから、すぐいっぱいになった。まま子の妹の方には、穴があいてて、夜になっても帰ることができなかったと。それでまだ、泣き泣き拾っていると、子ねずみが出て来て、

「私の家では、冬のぶんのくりを、穴ん中い拾いだめる。私の家へ来なさい」

といって、つれてってくれたと。そうして、子ねずみが中いつれてったら、親ねずみが出て来て、

「それはかわいそうだ。おまえたちがこれをせっかく集めたけども、ねえちゃんは家へも帰れなんでるから、みんなして持っておいで」

といって、持って来てくれて、袋いいっぱいにしてくれたと。

(宮下・井出潔)

 

  (類話)

〇まま子が、泣き泣きくりを拾っていると、白い鳥が舞い降りて来て、

「お前のおっかさんだよ。さあ、このくりを持って帰りな」

と、袋にいっぱい入れて、穴をとじてくれた。それで娘は、家に帰ることができたと。

(宮下・井出潔)