記②

記41

令和3年 古川神社拝殿屋根修理


記42

松本郷と古安曽村

                     東塩田地区郷村名の変遷

   現在の上田市の範囲内で、同じ場所でありながら時代によって、村名を何と呼んできたか、またその村名はどの

   範囲を含んだのかという点で、この村名と範囲のうつりかわりが東塩田地区ほど錯綜しているところは珍しい。

   分からないことが多いが、古い方から検討してみよう。 延長五年(927)に上奏された【延喜式】の安宗郷が

   塩田平にあった郷だとされている。 そのころの人がどこにどのように住んでいたかの全貌は捉えられていない。

       平安時代の末期、【吉記】の記述によると、承安四年(1174)八月十六日までは塩田郷と呼ばれていたが

   その年の九月十六日、京都の最勝光院に寄進されて、公領から荘園塩田庄となった。

   木曾義仲の挙兵と敗戦・源頼朝の地頭職補任のことがあって島津忠久が文治二年(1186)正月八日に塩田庄

   地頭職に補せられた。

    島津氏の失脚後、塩田庄の地頭になったと推定される塩田北条氏の義政が、建治三年(1277)五月頃塩田庄に 隠居したが、館は東前山に推定されていて、標記の松本や古安曽の範囲とは重らないし、松本や古安曽の尾根川水系

も塩田庄とよばれていたと推定される。

  義政は、所領を分割して、子供の国時と時治に譲与したと推定される。 古安曽の中の鈴子に字【御所畑】や

【節月】があって、ここにいた中世領主は、義政庶流の時治が想定されるが、尾根川や駒瀬川の水を利用した塩田庄の東半分の地を何と呼んだかは分かっていない。

   東塩田の地域が地名として何と呼ばれたかがはっきりするのは、天文二十二年(1553)の武田晴信にこの地が攻め

取られたときの武田方の安堵状や記録によってである。

武田晴信は天文二十二年八月五日に塩田城を陥(おとしい)れ、その九日後現生島足島神社を安堵しているが、その

 安堵状には「下之郷上下宮」とあるから「下之郷」に諏訪上社・同下社が祀られていたことが知られる。

この安堵状から一ヶ月余りたった同年九月八日に、傍陽曲尾郷の曲尾越前守は「松本ノ郷二百貫」、さらにまた

一ヶ月ほどたった十月六日、曲尾越前守の被官や水出治郎左衛門ら六人は合わせて松本ノ郷の内五十貫文を

 宛行くわれている。 奈良尾の砂原池の西の上手が字水出だから、ここが水出治郎左衛門の給地になった可能性が

高い。

この天文二十二年の時点で、東塩田の地が松本ノ郷と下之郷の二郷の名が知られるが、これが東塩田地区を表す

初めての地名である。 この二十六年後、天正六年(1578)の「上諏訪造営帳」では松本郷が二つに分かれて、

 諏訪上社の御柱費負担は、

                     西松本郷・・・・・三貫五00文

                     東松本郷・・・・・三貫000文

                     下之郷・・・・・・・七十五文

  で、おそらく室町後期の水田面積を基準にして負担の高を割り出していると思われるので、それぞれの郷の水田の

広さの見当がつく。 東松本郷と西松本郷の境は、尾根川だったと「長野県町村誌」に書いてある。

 この以後は江戸時代の史料で、真田氏が千曲川以南の所領の把握ができた時点の史料と見られる慶長十三年

(1608)の「大井文書」では、東松本・西松本・下之郷のほかに「平井寺」があらわれる。

  真田氏と仙石氏が交代したときも、慶長十三年と同じ四か郷村である。

    仙石氏から松平氏に交替したときの「上田藩村明細帳」も郷村別に一帳を作製したから、帳の数では四帳と慶長年代と同数であるが、中の記載をみるとかなり変化が見られる。 下之郷と平井寺は別段の変化は無いが、東・西の松本郷は郷の中にいくつもの村ができている様子を伝えている。

   その帳の表紙には、次のように記されている。<

            宝永三年戌五月十五日  信州小県郡西松本村 鈴子村・石神村・柳沢村 差出長

            宝永三年戌五月十五日  信州小県郡東松本村 町屋村・奈良尾村 差出長

                 

  宝永三年(1706)の時点では、東塩田は、鈴子・石神・柳沢・町屋・奈良尾・平井寺・下之郷、合わせて七か村に

   わかれていた。 この段階で注意を要することは、旧東松本郷の町屋村と奈良尾村は、一般の村のように、

堺界線があって両村がわけられていたという形態の属地主義ではない。 町屋と呼ばれた場所に」住む家々と、そこの家々が所有する土地が町屋村、奈良尾に住む家々の所有地が奈良尾村で、二色のモザイク模様のような、いわば属人主義により、村が構成されていたことである。

    この七か村構成は170年間続き、明治七年に町屋村と奈良尾村とで富士山村を、平井寺・鈴子・石神。柳沢の

 四か村が合併して古安曽村をつくった。 したがって、東塩田は、富士山・古安曽・下之郷の三か村となっ

十五年を経た。 明治二十二年の市制町村制施行の際は、下之郷と古安曽村が合併して東塩田村となった。

     さらに、昭和二十四年九月一日、東塩田村と富士山村が合併して東塩田村を称し、昭和三十一年五月一日、

 東塩田村と別所・西塩田・中塩田の四か村が合併して塩田町になった。 この塩田町も、昭和四十五年四月一日、<

上田市に合併した。

   たいへん錯綜しているので表示すると、「東塩田地区郷村名呼称の変遷」の表の様になる。

                  

                     年代                 郷村名

              平安時代(927ころ)                  安宗郷

              

               平安末期(1174まで)                  塩田郷

                 

             鎌倉室町(1174から)                 塩田庄

                  

                天文 二十二(1552)   下之郷             松本郷

               

                天正 十 (1582)  下之郷    西松本郷                       東松本郷

               

                慶長 十三(1608)  下之郷    西松本郷     平井寺村        東松本郷

               

               宝永 三 (1706)   下之郷  柳沢村 石神村 鈴子村  平井寺村     町屋村 奈良尾村 

            

              明治 七 (1874)   下之郷            古安曽村       富士山村

             

             明治 二十二(1889)      東塩田村                   富士山村 

            

             昭和 二十四(1949)                 東塩田村

                   

            昭和 三十一(1956)                 塩田町東塩田

                 

             昭和 四十五(1970)                上田市東塩田

                   

      さて、主眼の地名だが、松本盆地の「松本市」は、天正十年七月小笠原貞慶がかつての家臣に迎えられて

   深志城に入り、深志の地を松本と改めたという。

  「まつもと」の起こりは、父小笠原長時の代から追われて深志の地を空けていたが、三十三年目にしてようやく

   旧地に戻った。 待つこと久しく本懐をとげたから「まつ本」とか、貞慶が伊那の松尾小笠原の本家にあたるから

    「松本」とかをあげているが、真偽の程は不明だと記されている。「松本市史」

 

  「松本郷」が中世末から近世初期にかけて小県郡内塩田地籍にもあったことは驚きだが、なぜ「まつもと」なる

  地名があったのか。 この地名の起こりを解明することはできない。

 「古安曽」は前途のように、旧西松本郷と平井寺村が合併して明治七年に誕生した村名である。 柳沢の手洗池

 の東を南の方に上がった山ろくに暖傾斜の丘がある。 ここに「東安曽岡」「西安曽岡」と呼ぶ地名があるし、畑の

畔(くろ)の一角に、安曽甚太夫の五輪塔と呼ばれている五輪塔が立っている。 この項の初めに、平安時代

   【延喜式】の郷名「安宗郷」が、塩田の地の郷名と考えられていることを述べておいた。

明治七年、柳沢・石神・鈴子・平井寺の四か村が合併したとき、さて、新しい村名を何とするかを考えた。

 関係者に知恵者がいて、「このあたりは昔安曽郷といわれたところの一部じゃ。 

                                                そこで古い安曽・・・古安曽はどうじゃ」

                                     「それは良い名じゃ」

  ということになって採用登録されたのではなかろうか。

(もちろん、古安曽村の範囲だけが、昔の安曽郷の範囲だったのではないのだが。)

 

                             「ふるさと地名逍遥」 (桜井松夫)

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記43

 ひらいじむら  平井寺村  上田市

                  「近世」 江戸期~明治8年の村名。  小県郡のうち。

          上田盆地南部、塩田平の南端、独鈷(どっこ)山北麗に位置する。 上田藩領。 村高は、「元和石高帳」で

       貫高57貫675文・石高142石余、「政保書上」「元禄郷帳」とも同高、「天保郷帳」146石余、「旧高旧領」も同高、

 

      元禄7年中山道和田・長窪宿の助郷村に定められ、また領宿の道造掃除人足も割当てられた(上田小県誌)

   宝永3年の家数31・人数180、馬21、諸役として馬草・大豆・すぐり藁(わら)・葺萱(ふきかや)・渋柿・糠・

  すき藁・ 漆(うるし)・薪を上納した(上田藩村明細帳)。

 また諏訪部の橋掛人足や諏訪部船頭切米も割当てられた。

      水田の用水は来光寺池の池水が主で、堰は池への入堰として1筋、ほかに6筋の堰があった。

   女稼ぎとして木綿が織られ、男稼ぎは木草取り。 村内に権現宮・荒神宮・八幡宮・諏訪明神宮・叶権現宮・

  山之神宮・飯綱宮・神明宮・天狗宮・浅間権現宮・阿弥陀堂・地蔵堂・観音堂・十王堂があった。(同前)。

   なお村の特産物であった東馬焼は明治初年まで生産されていた(上田小県誌)。

  明治2年の村高家数人別帳による家数56・人数236。

  同4年上田県を経て長野県に所属。 同8年古安曽村の一部となる。

                

                      日本地名大辞典NO,20 P945 長野県(角川書店)

 

 

 栗生沢と栗尾

                            栗生沢・栗尾・句領

               

         東御市の新張から横堰を経て奈良原を結んでいる道は湯ノ丸高原を経て新鹿沢温泉に通じる地蔵峠道である。

  横堰の東にあるのが、字栗生沢(くりおざわ)である。明治以降道筋に家が12出来た程で、太平洋戦争後に入植者に

  よって散村集落があったが「くりおざわ」と呼ばれる地名が着いた頃から長い期間、人家の見られない山すその野原や

 沢の奥であった。

    東塩田の生島足島神社から東内へぬける平井寺トンネルの方へ進と、来光寺池を過ぎ、右手に平井寺の集落が続く。<

 集落の南端、古川神社を少し過ぎたところから右手の沢が「栗尾」の沢である。 沢の口もとに大久保・常斎・中原

などの地字が有り、栗尾はその奥である。 道筋の木々に視界を遮られて、多くの人が見落としてしまう沢で、平井寺大橋を過ぎて、すぐに右に見える沢であり、そこに架かる橋が栗尾橋である。 料金所跡を過ぎて、トンネル入り口の右側に見えるのが入峠の沢である。

 他にも長和町大門の字栗尾や南佐久郡南相木村に栗生集落や栗生川が有り、小海町馬流の千曲川を渡って奥へ 

入った所にも栗生の沢は続く。この先は関東地方の分水嶺である。

    「くりお」に似た発音で「句領」と呼ばれている地名が春日の奥にある。  ここは「くりょう」である。

 この春日温泉の五百メートル手前が字「句領」で、その右手(西)の沢が字「句領久保」である。

 人家が無く、句領の奥の谷と、谷を取り囲む山を句領久保と呼んでいる。

「くりお」と「くりょう」について五例をあげたが、この五例に共通なことは、かなりの山奥だということである。

     広島県生まれの吉田茂樹氏が執筆された「日本地名大辞典」(2004年刊新人物往来社)には、兵庫県但東町栗尾 の例を上げ、南北朝期の史料に載る地名で「栗林のある丘に由来する」と書いてある。栗生とか、栗尾というと、

漢字から連想して、栗の木が多い沢と思いがちだが、そうではない。

栗生がどんなところか教えてくれたのが「句領」と書く漢字であった。 「くりょう」に本来の文字を当てると「公領」なのである。 普通「公」は漢音で「こう」と読んでいるが、呉音は「く」と読む。 公示・公益・公民館など新しい時代の言葉は「こう」と読むが、公卿・公家・公文・公方など、中世の言葉は呉音である。

 それぞれの荘園所領は私領であった。古代以来、国が所轄してきた土地を国衙領とか公領といった。

荘園の土地はどこからどこまでという範囲を限って申請し、それぞれの領家の領有が認められ登録されて、私領として承認される。 これが立荘の原則であった。

  古代末から鎌倉時代にかけての時代は、荘園の数が増加しただけでなく、一つの荘園内においても自然のままだった原野に新しく開発が進み、新しく荘園領に組み込まれる開発地や、力を持つ武士の私領となる開発所領が際限なく

増加してきた、というのが実状であろう。 したがって、かつての公領は、条件のよい中心部分からだんだんと

私領の開発に蚕食されてよくよくの片隅に追いやられ、ついに、沢の奥に残るだけとなった。 しかも、その場所は、ごく少ない数でしかない。こうした状況が、栗尾・栗生・句領と、公領がぽつぽつとしか残っていない原因であろう。

  公領は荘園領のような個人の領有地ではないのだから、共有的な要素があったと思われるが、中世末期の使用の

実態については、十分に解明されていない。

        

               「ふるさとの地名逍遥」 (桜井松夫)


記44

令和4年 古川神社

      神社拝殿屋根修繕  

   昭和3年に行われた屋根裏の棟板。

屋根裏修繕工事に於ける棟板