長野県民族資料

長野県史

長野県史の編纂刊行事業は、長野県の委託により、昭和四十三年度から史資料編三十五巻、通史編五巻、計四十巻の計画で発足しました。

途中、巻冊の構成を若干変更して三十八巻七〇冊となる。

民族編は、昭和四七年度に民族資料調査委員会を設けることから始まり、昭和五十三年度には全県の調査を終了しました。

 同年には巻冊の構成を五巻十四冊((東信三・南信三・中信三・北信三・総説ニ)に決定し、昭和五十九年度の「第四巻(1)北信地方」を皮きりとして、平成二年度の「第三巻(3)中心地方」の刊行に至るまで、四巻12冊の資料編を刊行しました。

このたび、既刊資料を用いて全県を概観する「第五巻総説Ⅰ」を上梓するはこびとなりましたことは、まことにご同慶にたえません。

 戦後、社会の急激な変化にともない、わたくしどもの日常生活も大きく変貌し、父祖伝来の民俗は年々姿を消し、あるいは消しつつあります。

こうした文字に残らない民俗を忠実に記録にとどめ、その変遷や伝播について考察をくわえて後世に伝えることは、

わたくしどもの責任です。

そこで長野県史民俗編では民俗資料を文献史料と同等に位置づけ、地区別の資料編の刊行を持って、総説の刊行をすすめたわけです。

 「総説」の執筆にあたっては、わかりやすい叙述で県民に親しみやすいものであること、長野県の地域性をそなえたものであること、学問的に意義づけられたものであることなどに心がけました。

 県下四百二十四集落の三千五百名を越す話者のかたがたをはじめ、多数の県民が参加して調査された四十万枚にのぼる調査カードにもとづく「総説」の刊行は、まことに空前のことであります。 研究者はもとより、ひろく県民のみなさんの愛読を期待してやみません。

 おわりに、本書の刊行にあたって、直接執筆編纂の衝にあたられた編集委員各位のご苦労を多とするとともに、資料調査などにご協力いただいた地方委員・話者のみなさん、貴重な写真を提供していただいたかたがたに心から感謝の意を表します、

  平成三年四月二十日

  社団法人  長野県史刊行会理事長

 長野県知事  吉村 牛良

                  緒 言

 民族編は、歴史を明らかにするうえで、文字に残らない民俗資料を文献資料と対等に位置づけることとして、それにふさわしい規模の全五巻十四冊に編成しました。 第一巻から第四巻までの四巻(各三冊)を資料編とし、第一巻は東信地方、第二巻は南信地方、

第三巻は中信地方、第四巻は北信地方としてそれぞれの民俗を収録しました。 第五巻(二冊)は総説として、資料編の資料などをもちいて、県内民俗の実態とその変遷や伝播のあとを概観することにしました。

 本巻は第五巻総説Ⅰにあたり、県下の民俗の概説を資料編の資料にもとづき、三章に分けて記述しました。 第一章「日々の生活」では社会生活、人の一生、住居、衣生活、食生活についてまとめ、第二章「仕事と行事」では生産・生業・交通・交易、年中行事、

民間信仰を、第三章「ことばと伝承」では民俗知識、民俗芸能、口頭伝承についてまとめ、県内民俗のありさまをあきらかにしました。

  平成三年四月二十日

  社団法人  長野県史刊行会

   長野県史 民俗編 第一巻(1)東信地方 [日々の生活」(昭和61年3月刊行)

 

調査期間  民族編は、昭和四七年度に民族資料調査委員会を設けることから始まり、昭和五十三年度には全県の調査を終了しまた。

 

 緒言

 歴史を明らかにするうえで、文字に残らぬ民族資料の役割を重視し、文献史料と対等に位置づけることとして、それにふさわしい規模の全五巻十四冊に編成しました。第一巻から第四巻(各三冊)を資料編とし、第一巻は東信地方、第二巻は南信地方、第三巻は中信地方、第四巻は北信地方、それぞれの民俗を収録しました。第五巻(二冊)は総説編として、庶民生活誌を中心に県内民族の実態とその変遷や伝播のあとを概観することにしました。資料編の各巻は、資料を社会生活から口頭伝承までの十二編に編別、さらに各編は三ないし十章別に分類収録しました。

 本書は第一巻東信地方の第一冊で、社会生活・人の一生・住居・衣生活・食生活の五編からなり、「日々の生活」をもって統括しました。残る生産生業・交通交易・年中行事・民間信仰の四編は、第二冊「仕事と行事」で、民俗知識・民俗芸能・口頭伝承の三編は、第三冊「ことばと伝承」で統括して、昭和六十一年度に、それぞれ刊行いたします。方言は都合により総説編に収録いたします。

                                                                                                                                                                                昭和六十一年三月三十一日

 

  調査地及び地方委員  

 塩田地区

 下組久保   塩入 秀敏  氏

 平井寺     丸山 知志  氏 

 塩田上本郷  宮本 達郎  氏

 手塚      金沢 直人  氏

 別所      荒井 三千人 氏

  話者関係者

 塩田地区

           明37    明35    明42   明36    明44   明40   明44

 上田市古安曾平井寺 塩入亀雄・ 窪田清巳・窪田しま子・塩入栄子・ 林 東一郎・窪田英司・窪田はつ

         明39    明40  明39    明34   明37   明35    大7

 上田市上本郷 小林みつる・宮林ふみ・中島きよえ・若林忠袈・甲田巌・小林袈裟重・田中良治

         明23  明38   明40    明39   明26   明32   明43    明45

 上田市 手塚 市村 誠・山極 稔・樋口勝人・市村儀市郎・関 政嗣・市村とく・石川直巳・池田きみ子

          明38   明38   大2   明34   明34   明39

 上田市別所温泉 小平元勝・深草栄蔵・前山とめ・横沢あや・坂中市松・倉沢佳吾

 上田市山田   東川多寿雄

 

      調査地及び地方委員  

      北佐久郡立科町

      塩沢  市川 日吉 氏

                      明36     明34      明40      明43

      塩沢上屋敷  市川 猛 ・ 市川あさ子 ・ 土屋正直 ・ 土屋まさよ<

                       明37     明41

      塩沢下新田  村田武夫 ・ 村田なか 

                         明36      明41

       塩沢美田沢屋敷  倉沢袈裟治 ・ 倉沢はさ乃

         

       塩沢      六川長三郎 ・ 宮下友寿

 (以下は(平井寺)・(立科町塩沢)のみ)  塩田地区において、除く地区もある。

                                                               1

 上田市平井寺

 旧小県郡東塩田村。 独鈷山の北側山麗の緩傾斜地に立地する集落である。 一戸当たりの耕地面積は焼く三反歩である。

水利が悪く溜池を利用して稲作をし、畑作や養蚕も行われた。共有山が多くムラの運営に寄与していた。薬用人参の栽培が多い。

近年兼業農家が増え待ちへ出て働く人が多い。元上田藩領。世帯数五十九戸、人口二百四十一人。

 第一節 ムラの発生 (P1)

 現在住んでいるムラがどのようにしてできたのかということについてのいい伝えを、その内容によってまとめると落人が作ったとするもの、門前にできたとするもの、豪族が作ったとするもの、牧場によってできたとするもの、街道筋にできたとするもの、移住によって出来たとするもの、新田開発によってできたとするものなどがある、落人が作ったと伝えるムラは各地にあり、平家の落人であるとか、武田氏の落人であるとかいっている。                  

 「移住によってできたとするムラ」

〇(石合氏は今川の残党であり、その人が本陣になったと言われている。)(長久保))

〇(天正十年(1583年)に中山道の宿場町になり発展した。(長久保)

 「新田開発によってできたとするムラ」

〇六川長三郎氏により、正保三年(1646)に塩沢堰(せぎ)が完成して、その堰の両側にタイショーサマと呼んでいる家を中心にムラができた。池があって、その池は藤沢の人が上がって造ったといわれている。(塩沢)

 第二節 ムラに最初に住み着いた家(P8)

 ムラに最初に住み着いた家の呼び名についてみるとクサワケと呼ばれている所のほかに、シバキリ、シバオコシ、シバマクリ、シバメクリなどと呼ばれている所がある。そうしたムラの中の古い家が、具体的にわかるムラもあるが、数は多くはない。

 「呼び名」

(古い家)

〇倉沢姓の家が古い家だと聞く。(塩沢)

 
 第ニ章 本家・分家 (P11) 家を継ぐのは、子供達の中のただ一人であることが多く、ほかの子は他出する場合が多い。男子は養子縁組をしたり、他出したり、女の子は他家に嫁ぐ者が多い。しかし、ときには新たに家をつくることもある。このようにして元の家から新しくでた家を分家といい、元の家を本家という。分家する者は長男以外の男子である場合が多いが、なかには女子が分家したり、インキョが分家に出ることもある。これらの血縁的な分家以外にも、奉公人などがその働きを認められて家を持たせてもらい分家に出ることもあった。このような分家には血縁的なものと非血縁的なものがあり、本家との交際において、差異がみられることもある。
 第一節 交際 

 本家とそれをとりまく分家のひとかたまりをクルワ、ウチワ、マキ、マケなどと呼ぶ。東信地方においてはクルワと呼ぶ地域が多く、次にマケと呼ぶ地域が多い。本家・分家それぞれの呼び名もあり、上田市入組では、本家をショーヤ、分家をシンタクと呼んでいる。本家と分家の付き合いは、末代まで続くとしている所が多い。本家と分家の間の付き合いの仕方で広く行われているのは、年始のあいさつに分家が本家に出向くもので、これは東信全域にわたっている。それ以外に年末、盆にあいさつに行く例がも多い。また、祭りの折に分家は本家にあいさつに行く所もあり、北佐久郡望月町高呂ではその際に本家は接待した。農作業の手伝いに分家が本家に顔を出すという慣習は北信地方にもみられたが、東信地方にも広くみられる。それは田植え、草取り、稲刈り、稲こきなど稲作にかかわるものが多く、養蚕の盛んな地域では蚕あげの手伝いに行くこともあった。

 「呼び名」

(本家・分家のひとかたまりの呼び名)

○クルワと呼ぶ(平井寺(塩沢)

 「付き合っている期間」

(十代前くらい以前)

○十二代くらい前にさかのぼる。 (塩沢)

「期限なし」

○本家・分家の関係の付き合いは末代まで続く(平井寺)

 「本家・分家の付き合い」

(年末・年始)

○分家は本家に年始のあいさつをする(平井寺)

(祭り)

○祭りのときに分家は本家に顔を出す(塩沢)

(農作業)

○分家は本家の農作業を手伝う(平井寺)

 「祝儀・不祝儀」

○本家と分家は、祝儀・不祝儀の際に顔を出し、手伝い合う(塩田、佐久川西、塩沢を除く)

○分家は本家の祝儀・不祝儀には中心になって働く(塩沢))

 「子供の名付け」

○昔、分家は本家に子供の名付けをしてもらった(塩沢)

 「墓参り」

○お墓掃除のとき、分家は本家へ寄って、ヤキモチでお茶をいただく。かつては総本家で、一杯ごちそうになり帰った(塩沢)

 第二節 分家慣行 (P18)

分家を出すときには、屋敷地や生活するために必要な田畑を与える必要があった。したがって分家を出すことができる家は、財産家でなければならなかった。北佐久郡望月町春日本郷では、土地や財産がないと分家は出せないといわれており、生活に余裕がない家では分家を出すことは無理であった。分家を出せる理由としては、小県郡東部町西宮のように、男の子が大勢いて、一族を増やしたいと思うときで、同族を増やすことにより、一族の繁栄を願おうとしたことがうかがえる。

 「分家を出せる家」

(分家を出せる家)

○財産のある家が分家を出した(塩沢)

 「分家に出る者」 

(男子の分家) 

○次男以下の男子が出た。塩田(別所は除く(塩沢)

(女子の分家)

○兄弟が少なく財力のある家では婿をもらって分家をした(塩沢)

 (女子の分家)

○兄弟が少なく財力のある家では婿をもらって分家をした(塩沢)

(親の分家)

○親が末子を連れて分家に出ることもあった(塩沢)

○インキョイエモチといった(塩沢)

○インキョベッケといった(塩沢)

 「分家に与える物」 

(家・屋敷)

○家・屋敷を与えた(東信全域)

(田・畑)

○田・畑を与えた(東信全域)

 位牌 ・・・・・(平井寺)

(屋敷神)

○希望で与えた(塩沢)

 「その他」 

 食器などの生活用具を与えた。(平井寺)

   「共有物」                                           

  祠・掛け軸・幟を共有する

 第三章  同族 (P24)

 同族というのは、家を単位として共通の祖先をもち、本家と分家とがお互いにその家系を認め合うことによって結ばれている集団であるといわれている。この集団は、一軒の総本家とそれからの分家、さらにその分家などから構成せれているもので、総本家を頂点とするピラミッド型の構成となり、何代たっても変わらないまとまりをもっている。

  第一節 同族

 本節では同族の呼び名、共有物、集まる機会についてまとめた。同族の呼び名には、ウチワ・クルワ・マキ・マケ・ドーセー・イチゾク(一族)などがある。同族をウチワ・クルワ・マキ・マケと呼ぶ所では、本家・分家のひとかたまりも同じように呼んでいる。しかし、ドーセーとかイチゾク(一族)とかという呼び方は、本家・分家のひとかたまりを呼ぶ場合には用いられない。同族の呼び名で東信地方において多く用いられるのはクルワである。

 「同族の呼び名」

(クルワ)

○クルワと呼ぶ(塩沢)

「共有物」

○山をクルワでもっている(塩沢)

 (その他)

○祠・掛け軸・幟を共有する。(平井寺)。 (その他) 

 「集まる機会」

(墓掃除)

○墓掃除をして総本家で一杯吞み合い、ヤキモチを食べた(塩沢)

 (その他)

○山林の手入れのときに集まり作業の後、一杯飲む(塩沢)

 第二節 親しい仲間 (P30)

 ムラの中にはいろいろな仲間があるが、これらの仲間と共同することによってムラの中で一人前として暮らしていけるのである。親しい仲間としては、血縁関係、仮の親子、葬式組、近隣、講仲間などがある。

  「血縁関係」

○本家・分家が親しい仲間である(塩沢)

(近隣・隣家)

○向こう三軒で両隣で親しく付き合う(塩沢)

  「その他」

講仲間が親しく付き合う。(平井寺(塩沢)

  第四章  ムラの共有財産 (P33)

 ムラは単なる家の集まりではなく、一つの社会組織として統合されている。それが最もよくあらわれているのが、ムラの共有や共同でる。

   「共有地」 
 山林原野を共有する

○山林を共有する(平井寺)

 (山林原野の所有面積)

○一町歩以上(塩沢)
○100町歩の以上の山林原野所有する(平井寺)

   「宮田」

 3町歩あった(平井寺)

 「宮山」

 五町歩の宮林があった(平井寺)

 「墓地・堂・庵」   

(堂と庵) 
 阿弥陀堂、薬師堂がある(平井寺)

 第二節 共有財産に対する権利 (P38)

 ムラという共同体で所有している財産に対して、だれでもが同じようにその権利を主張することができるとは限らなかった。東信各地においてはムラに住んでいればみな平等にムラもちの共有財産を使うことができるとする所がみられる。例えば、上田市平井寺では居住により権利をもつとし、小県郡和田村久保では分家、転入した家も皆同じ権利を与えているとしている。しかし、ムラに居住しても義務を果たさなければ権利が認められないとも考えられた。例えば、上田市越戸では、一年間ムラの義務を果たした人、部落費を負担している人、義務人足に出ている人がムラもちのものを使えるとし、共有財産を使用する以上はムラの費用を納めること、ムラヤクを務めることは当然の義務とされた。

 「権利の取得」 

○ムラ(区)に住んでいれば皆権利がある。(塩沢))

 

   「居住・永住」 

○居住することにより権利を持つことができた。(平井寺)

     「権利の喪失」(P42)
 ムラから出るときは権利を失う
 
 第五章  ムラの構成  (P43)     ムラは独自の慣行や行事を保持しており、そのための伝統的な組織を持っている場合が多い。他方、近世以来、国家による行政制度の最末端の単位である場合も多かった。
   ムラの役員名
「村の代表者」
 区長という(平井寺(塩沢)
   「村の副代表者」 
 副区長という(塩田、手塚を除く)(塩沢)
 「会計」 
 会計という(平井寺(塩沢)

  「評議員」 
 評議員という(平井寺)

 (小組の代表)

○班長と呼ぶ(塩沢)

(消防)

○消防組頭という(塩沢)

(神社総代)

○氏子総代という。(東信全域)

  (消防)

○消防組頭という(塩沢)

(神社総代)

○氏子総代という。(東信全域)

 

  「氏子総代の人数」

○一人である(塩沢)
○三人である(平井寺)

  第二節 役員の選出 (P49)  ムラの役員の選出方法には、選挙、推薦、順番、話し合いなどがある。小諸市与良では、昔は名主、組頭、世話人などのムラヤクは世襲であったといい、また北佐久郡望月町茂田井でも、昔はムラヤクを世襲したという。佐久市駒込では、以前は家柄が良い者がなったという。このように、昔はムラの役員は、家柄が良い家のなかから選ばれるのが普通だった。しかし、現在ではムラヤクが世襲されることはない。

  「役員の選出方法」

(選挙)

〇区役員は選挙で選んだ(塩沢、昭和初)

(順番)

〇 選挙を行うが、内容は順番である(平井寺)

 (役員の任期)

〇二年が任期である(平井寺)

〇氏子総代の任期は二年であった(塩沢)

 

  「交替の時期 
○1月に交替する(平井寺(塩沢)

    

「 寄り合いの日」
○昔は十日であったが、今は第ニ日曜日である。(平井寺)

〇なるべく早くやる。一定していない。(塩沢)

 「呼び名」 

〇ムラヨリイと呼ぶ。(塩沢)
○区民総会と呼ぶ。(平井寺)

〇ハツヨリイと呼ぶ。(塩沢)

 
 六章 ムラの仕事(P60)

○オテンマ・テンマと呼ぶ 
 ムラの人たちが共同で一つの行動をとるものとしては、ムラの仕事、共同祈願、氏神祭りなどがある。特にムラの仕事は全戸から一名づつ一斉にまたは順番に出て、無償で労働奉仕を行うことを求められた。

 「仕事の内容」

(道路修理)

〇ミチブシンといい、道路の修理をする。(塩田)

 (用水路修理)

〇センゲザライと呼ぶ。(塩沢)

〇セギザライと呼ぶ。(塩沢)

  (山仕事)

○山の手入れ、共有林の手入れを行う。(平井寺)

 「金額」

○その時の日当の額としている。塩田(別所は除く)

   「出不足金」

○ムラビトとしての義務であるムラシゴトに出ない場合の処置として最も多いのは出不足料とか出不足金とかいわれるものを徴収することである。

 (呼び方)

○デブソクリョー(出不足料)

 

 第八章 年齢集団 (P74)

 

    ムラの中である決まった年齢の者同士でつくる集団を年齢集団という。 一般には人の一生を子供、若者、大人、年寄りなどの層に分け、それぞれの集団を子供組、若者組、壮組、老人組などとするが、性別や同年齢別ににも集団をつくり活動する場合がある。
  第一節 子供組  子供組は七歳か十五歳ぐらいまでの子供たちが、小地域ごとに行事や祭りなどの折りにだけ集まってつくる集団である。子供組はテンジンマチ・テンジンコー、ドーソジン・ドーロクジンなどと行事名をつけて呼ぶ地域が多い。子供組への加入について、儀礼的なものがみられることがある。南佐久郡佐久町上本郷では、昭和十年ころまで、男の子はくしがき一束、みかん一箱を仲間入りとして出したという。しかし、多くの地域では、儀礼的なものはほとんどみられず、行事があるときに自然と集まり、終了と同時に解散するものとされている所が多い。

 「子供組の呼び名」

(行事名によるもの)

〇ドーソジンと呼んだ。(塩田、別所を除く)

〇ドーソジンマツリと呼んだ。(塩沢)

〇トーカンヤトーカンヤ(塩沢) 

 「加入者と年齢」

(加入者)

〇男女問わず全員であった。(平井寺)

(子供組の年齢)

〇小学校在学者(六歳から十二歳)であった。(平井寺)

〇六歳から十三歳までであった。(塩沢)

(入会退会時期)

〇一月十三日であった。(塩沢)

 第ニ節 若者組(P85)  子供組が行事の時だけに集まる集団であるのに対して、その上の年齢段階にある若者組は、ムラの組織の中で一つの役割を持ってムラを維持し、発展させるための大切な集団であった。

 「若者組の呼び名」

(青年会・青年団)

〇青年会と呼んだ。(塩田)

〇青年会から青年団と呼び名が変わった。(塩沢、戦前)

(その他)

 

   「活動内容」作業

 

    共有林の一部(ニ町歩ほど)を借りて経営をし、木を売って

    資金(約150万円)を得て貯金をしておき、その利子で小学校

    新入学児童にカバンを買ってやる。(平井寺)

  「教養」
○識者の話を聞く修養会を設けた。(平井寺)

(娯楽)

〇野球、芝居をした。(塩沢)

 「娘組」

〇処女会と呼んだ。(平井寺)

〇処女会から青年団に呼び名が変わった。(平井寺)(塩沢、S20年)

〇青年団と呼ぶ。(平井寺)

 (娘組の活動内容)

  第三節 その他の集団(P99)  ここでは若者組を退いた人たちの年齢集団についてまとめた。すなわち壮年組と老人組とである。壮年組は壮年団とかと呼ぶ所が多い。しかし、ムラにおける壮年組存在は非常に少ない。加入するのは、小県郡青木村馬場のように、青年会を退会した者としており、だいたい一致しているが、退会の年齢は40歳から60歳までであり、加入者の年齢の幅は場所によって大きく異なっている。壮年組の活動内容をみると、佐久市長土呂では、神社の献灯世話人を兼ねており、ムラの生活とのかかわりを認めることができる。このほかに、南佐久郡佐久町上本郷では、戦争勝利のため銃後の守りをしたといい、戦時下の戦争協力の団体として機能していた所も多い。

 「壮年組」

 (呼び名)

○壮年団と呼んだ(塩沢)

 「加入年齢」

 ○30歳から40歳までであった。(塩沢)

 「活動内容」

〇銃後の守り、集団訓練、供出、壮行を行った。(塩沢)

 「老人組」

 (呼び名)

〇老人クラブと呼ぶ。(塩沢、S-40)

 「年齢」

〇60歳以上である。(塩沢) 

 「活動内容」

〇公園、菊作り、和歌作り、研修旅行、神社やせぎの清掃、草刈りをする。(塩沢)

 「その他」

〇結婚した者から40歳までの男が入る協志会がある。農事研究、旅行、視察を行った。(平井寺)

 第九章 相続(P104)  家長や家族の死亡または隠居などに伴い、それらが所有していた財産や権限、地位などを受け継ぐことを相続という。そして財産の相続を財産相続とか遺産相続とかいい、家長の権限や地位などを受け継ぐことを家督相続とか身分相続などという。家長というのは、家の首長として外部的には家を代表し、内部的には家族の統制にあたる者で、その家長の持つ権限を示すのが家長の座である。また、家長の妻はその家の主婦として家長を補佐し、家庭生活を管理しており、この主婦の持つ権限を示すのが主婦の座です。家長の座を譲ることを、シンショウワタシなどと呼ぶことが多い。その時期は家長の死亡したときが最も多く、隠居して譲という形は少ない。
  第一節 家長の座  家長の座を譲るのは、東信全域にわたって死んだときに譲としており、つぎに老齢や病気になったときに譲る所が多い。時期をくぎり、節目節目のときに譲る所もある。隠居したときに譲ったり、息子が結婚したときに譲ったり、自分の子供たちを全部しつけたときに譲ったりするのである。家長の座を譲ることを、、サイフワタシとかシンショーワタシなどと呼び、財産を譲り渡すことを意味する所が多く、このほかにカトクユズリなどと読んでいる所もある。

 「相続の呼び名と時期」

〇アトツギという。(塩沢)

 「譲る時期」

〇死んだときに譲る。(塩田、別所を除く)

〇老齢や病気になると譲る。(平井寺)

〇隠居したときに譲る。(塩沢)

  「相続者」

〇長子相続・・・長男が相続する。(東信全域)

  第ニ節 主婦の座(P108)                                                                                                                                            譲られる時期は、家長の相続と同時である所が多く、次にしゅうとめが死亡したときに譲られる所が多い。また、老齢になってとか、嫁取り後、嫁が火事になれたころなどの例もある。主婦の座を譲ることをシャモジワタシ、シャクシワタシと呼ぶ所が多く、コメビツワタシなどと呼ぶ所もある。これらのことばは主婦が管理するしゃもじ、米びつ、カギツケ、かま(釜)などと深くかかわった呼び方である。

 「譲る時期」

○しゅうとめが(姑)が死亡すると譲る。(平井寺(塩沢)             ○老齢や病気にになると譲る。(平井寺(塩沢)                                                                 

 「呼び名」

○シャモジワタシと呼ぶ。(平井寺)              

  第三節 隠居(P110)  隠居とは、家長の地位や財産などを次の代の相続人に譲り渡してしまった人のことである。隠居をした後は、今まで居住していた場所を譲り渡すことが多い。

 「隠居する場所と呼び名」

(別居隠居)

○エンキョヤ(隠居屋)と呼ぶ。(塩沢)

 (同居隠居)

○ハナレ(離れ)に移る。同じ建物でもハナレ(離れ)の部屋に住

 むことが多い。(塩沢)

 「隠居する時期と持参する物」

○息子が嫁をもらったときに隠居する。(平井寺)

 第二編人の一生(P113)

 第一章 「婚姻」

 婚姻の形態は嫁が生家から婿方の婚家に引き移って住む、いわゆる嫁入り婚が普通である。縁組の最初はナコードまたはチューニンと呼ばれる世話人が娘を仲介し、世話するところから始まる。ハシカケナコード(ハシカケチューニン)またはハシカケと呼ばれる世話人が縁談を進める場合にはタノマレナコード(タノマレチュ-ニンを別に依頼することが多い。この縁談をもらい方とくれ方との双方が承知すると、酒入れ及びユイノーを行い婚約する。祝言の当日は嫁入りに先だってムコイリをし、嫁の荷送り、嫁のミタテが行われる。婚家では嫁が婿方の家に入る入家儀礼、杯事、披露などが行われるが、これらは地域の慣例にしたがって行われた。
  第一節 恋愛  恋愛関係にある男女をクッツキ、ネバリツキ、トッツキアイなどと呼ぶほか、ネツレ、ヒッツキ、ヨッタなどとも呼び、その呼び方はさまざまである。また、恋愛して一緒になることをツレダシ、ヌスミダシ、ニゲダシなどと呼び、親の知らないうちに関係を結んで一緒になることをヤゴーと呼ぶ所もある。これらの呼び方は大正時代から昭和の初めころまで使用されていたが、昭和三、四十年ころまで使用していた所もある。年寄りは今でもクッツキ、クッツイタ、ネバリツキなどと呼んでいる所もあるが、一般に若い人々は恋愛と呼んでいる。

 「恋仲の呼び名」

 (クッツキ)

〇クッツキと呼んだ。塩田(上本郷は除く)

 (ネバリツキ)

〇 ネバリツキと呼んだ。塩田(上本郷は除く)(塩沢)

(ネツレ)

〇ネツレと呼んだ。(塩沢)

 (その他)

〇ヤゴーと呼び、「親の知らないうちにあのしょうはヤゴーで一緒になった」などといった。(塩沢)

 

 第二節 婚約 (P116)

 

 

                      「やなぎだる」

   

  「指輪を送る」

○今は婚約が決まればくれ方に指輪を送る。(平井寺)

 「酒入れの返礼」

○酒または酒こう料を返した。(平井寺)

 第三節 初婿入り(P123)

  ムコイリとは嫁入り前に先立って婿とその同行者とが嫁方に 赴き、婿と嫁の両親、兄弟とが対面して杯事などをする儀礼である。小諸市菱野では嫁方に着くと庭から直接座敷に上がり、着席するとオチツキが出された。この後、婿と嫁の両親とのオヤコサカズキ、続いて嫁の兄弟とのキョウダイサカズキが行われた。杯事の後すぐ膳が出され、嫁方のイチゲンがトリモチヤクとなり接待された。佐久市上塚原では別の家にウマオリを設け、そこで仕度を整えて、迎えの使いが来ると、嫁方にムコイリをした。一般に嫁入りの午前中に行われ、北佐久郡望月町高呂ではこれをアサムコと呼んだ。

 「時期」

(嫁入り当日)

○昭和二十年ころまで嫁入り当日にムコイリした(塩沢、戦前)

○嫁入り当日の早朝または午前中にムコイリした(S-30、平井寺

「同行者」

 (ナコード【チューニン】・家族・近親者)

○(ナコード【チューニン】おじ、おば,結婚して夫婦になってい

   る兄弟が同行した。(塩沢、S-20)

 (家族・近親者)

○おじと兄弟とが同行した。(平井寺)

 第四節 荷送り(P128)

 

荷送りは嫁入りに持参する道具を婿方に運搬する風習で、ムラ以外からの嫁入りが一般化するのに伴い華やかさを増した。その運搬する時期は嫁入り祝言の当日が一般で、荷は嫁より早く出て、嫁が婚家へ入らないうちに到着するのが良いとされた。昭和二十年代の後半から出会い祝言が盛んに行われるようになるにつれ、その日までの双方の都合がよい吉日を選んで運搬するようになった。嫁の荷はたんすや長持、下駄箱などに鏡台やたらいなどの小物がつくのが普通であったという。しかし、実際に長持を持参した例は少なく、相当な物持ちの家でなければ持てなかったともいう荷の種類などは世話人の仲介で決められ、双方の経済状態や祝言のやり方によっても違っていた。これらの荷は到着と同時に婚家・の座敷などに飾られた。

 「荷送り人の呼び名」

(ニサイリョー・ニサイリョー)

○ニサイリョーまたはニビキと呼んだ。(平井寺)

(その他)

○ニンソクと呼んだ。(塩沢)

〇ニッキまたはソーリョーと呼ぶ親類や近所の人が運び、嫁婿の

   双方から御祝儀が出た。(塩沢)

 「荷の受け渡し場所」

 (ムラの堺)

〇部外などの遠方との縁組は群境で荷を受け渡しをした。(塩沢)

○嫁入り先の家で目録に合わせて親またはおじに荷を渡した。

(平井寺)

 

 「荷送りの期日など」

(期日)

○荷は祝言の当日または前日に運んだ。(東信全域)

(嫁入り先の家)

〇嫁入り先の家で目録に合わせて親またはおじに荷を渡した。

(平井寺)

 第五節 入家儀礼(P133)

 入家儀礼は嫁が婚家へ初めて入る際に行われる儀礼で、嫁の不安感を除くまじない的な儀礼が発達したものなどとされている。 東信地方で行われる儀礼としては門火の間を嫁が通る、嫁のしりをたく、嫁の履いた草履の緒を切って屋根に投げ上げる、しゅうとと嫁とが水杯をするなどがある。ほかに嫁に付くロード―は直接庭から座敷に入るのに、嫁は土間から勝手を通って座敷に入ったり、仏壇にお参りして座敷に入ったりもした。また、小県郡長門町立岩では勝手のいろりを一回りして座敷に入った。これらの儀礼は二つ以上重なったり、同時に行われたりすることもある。

  「門火」

(タイマツをたく)

○嫁が婚家へ入るときは、門口でタイマツをたいて迎えた。

(Sー30年、平井寺)

 「嫁のしりたたき」

(ツットコ、ワラズトなどでたたく)

○嫁が婚家へ入るとき、ワラツツでしりをたたいた(S-30年) (平井寺)

「履いた草鞋の始末」

(屋根へ上げた)

○嫁は門口で履いて来た下駄を草履に履き替えた。家に入るために

 ぬいだ草履の鼻緒を切って屋根へ投げ上げた(S-30年、平井寺)

○婿の家で手伝いをしている近所の若い衆が嫁の履いてきた草鞋の

 鼻緒を切手屋根へ投げ上げた(塩沢

「水を飲ませる」

(戸口で嫁に水を飲ませた)

○戸口でオヒラのふた、またはオカサ(汁椀)を使い、しゅうとが 

 嫁に水を飲ませた(塩沢)

(その他)

○戸口で嫁に何も飲ませなかった。(平井寺)

 (その他)

(他の地域では、入り口で、シニミズ、チカラミズ、シオミズ、水

 を飲ませる風習があった。)

 第ニ章 妊娠・出産 (P143)

 上田市小井田では妊娠したことをミモッタ、ミモコル、ハランダ、デキタ、ミオモなどといったが、今では妊娠というようになった。嫁が妊娠すると、しゅうとめまたはしゅうとと呼ばれる婚家の母親に嫁が直接知らせたり、あるいはサトカタの母親もしくは夫から知らせたりした。このようにして嫁の妊娠が認められると腹帯を締める祝いをする所がある。だが、この祝いは第一子だけが行われるのが普通である。佐久市駒込のように妊娠した妻がつわりで苦しんでいるときに、その夫も体の変調子を訴えるいわゆる夫のつわりがみられる所もある。

  第一節 妊娠の知らせ 

嫁が妊娠したことはしゅうとめまたはしゅうとと呼ばれる婚家の母親をはじめ、ときにはナコードまたはチューニンと呼ばれる世話人などにも知らされる。その時期は月の物がなくなった妊娠ニ、三か月日ころか、または医師に診てもらい妊娠が確実になってからであるのが普通である。知らせる方法は嫁が直接しゅうとめに知らせたり、または嫁のサトの母親および夫などを通してしゅうとめに知らせたりした。ことに初めての妊娠は気兼ねをすることが多いため、サトの母親が婚家に出向いて頼むこともあった。しかし、次の妊娠からは嫁が直接しゅうとめに伝えた。

「方法」

(里の母親が告げる))

○サトの親戚が来て、しゅうとめに知らせた。(塩沢)

○妊娠三か月を過ぎたころ、嫁の実家の母親がしゅうとに知らせる

 事が多かった。(平井寺)

「知らせることば」

(サトの親のことば)

○「子供ができたそうです」「○月ごろ産まれるから、ばあちゃん

  お願いします」という。(塩沢)

○こどもができたので、よろしくお願いします。という(平井寺)

 第二節 妊娠・出産と夫(P148)

 

 妻の妊娠、出産には、その夫もさまざまなかかわり方をする。佐久市駒込では妊娠した妻が苦しんでいるとき、夫も無口になったりいらいらしたり、他の人のいうことが耳に入らないで歩き回ったりするなどの状態になることがある。このような状態を一般に夫のつわりと呼んでいる。出産のとき夫は家にいるものではないとする習わしは各地にみられるが、夫は家にいてもよいとする所もある。また、夫は家にいてもよいが、産部部屋に入ってはいけないとする所もある。

 「出産と夫」

(夫は家にいない)

○出産のとき夫は家にいるものではない。(S-30年、平井寺)

(夫は家にいてもよい)

○夫は出産のときに、家にいてもよい。(塩田)

  (夫は産部部屋へ入らない)

○出産のとき夫がそばにいると産婦が夫に頼ったり、産の醜態もあるので夫は産の部屋へ入らない。(塩沢)

 第三節 安産のまじない(P150)

 子供が楽に産まれることを願うのは、いつの時代でも同じことである。しかし、かつては難産も多く出産は産婦の生命にもかかわる女の大厄とされた。そのため、出産前から神仏の加護を願ったり、出産に際してさまざまなまじないも行われた。これが盛んに行われたのは明治、大正時代までであるが、それ以後も行われ、神仏への祈願は今でも行われている。出産前のまじないとして腹帯を締めることがあった。腹帯は犬の安産にあやかって妊娠五か月目の日のオビイワイに締めたり、犬と書いた腹帯を締めたりした。このほか、佐久市駒込では産婦の寝床の足元へ二尺物差しを入れたり、まくらの下へ蛇のうろこを入れたり、小県郡真田町真田では布団や帯の口を少し開けたままにして縫ったりした。神仏にお参りして安産を祈願したり、安産のためのお札やお守りを受けたりすることもあった。

 「出産前のまじない」

 (まじない)

〇五か月目の戌の日に岩田帯を腹に巻く。(塩沢)

 「出産のときのまじない」

(祈願)

〇塩釜様へ御飯の茶わんに山盛りにした塩を供えて、安産の祈願をした。(塩沢)

(まじない)

〇鬼子母神の掛け軸を産婦に載せたり、おなかをさすったりする。(平井寺)

(その他)

〇安産のまじないはしない。塩田(平井寺は除く)

 第四節 産湯(P155)

 ウブユとは生まれた子供にたらいで湯を浴びせること、またはその湯のことで、その回数も地域ごとにほぼ決まっている。例えば、七日間湯を浴びせるが最初の湯だけをウブユとしたり、二十日間または三十日間のオミヤマイリまでの間浴びせるとしたり、あるいは100日間100たらい浴びせることをウブユとするなどである。               

 「たらいの数」

〇100たらいで、三か月間浴びせると、丈夫で頭が良くなるといった。(平井寺

 「日数」

(七日間)

〇一日一たらいで、産婆がヒトシチヤ(7日間)浴びせた。

(塩沢)

(その他)

〇ウブユは嫁入りに持参したたらいを使う。(塩沢)

 第五節 産飯と七夜(P158)

 子供が生まれると当日または次の日に新しく御飯を炊いて祝うが、これをウブタキ、ウブヤノゴハン、オボタテなどと呼んだ。この日にはトリアゲバーサンまたはウマセバーサンと呼ばれる出産に立ち会った人、あるいは手伝いに集まった人々にも御飯お食べてもらった。

 「産飯」

○ウウブタキと呼び、赤飯と御飯とを炊いて組合やクルワ、近親者を招いて祝った。招かれた人々は一つ身の布を三尺持参し、お返しに赤飯や菓子などをもらった。(S-30年)(平井寺)

 (御飯など)

〇赤飯を炊き、サトの親や近い親戚の人を招き、さけまたはますで祝った。隣近所を招くこともあり、招かれた人々は味噌一重にかつおぶしを添えて持参した。(塩沢、戦前)

 第六節 後産とへその緒 (P165)  午産とはエナ、ノチザン、ノチノモノ、オリモノなどと呼ぶ胎盤のことである。この始末は人に踏まれる場所に埋めたり、逆に人に踏まれない場所を選んで埋めたり、あるいは母屋や屋敷内、墓やムラの共同の場所に埋めたりするなど、その方法も家ごとに違い地域性は明確ではない。このほか日陰やアキノホーの場所、あるいはジューベイシの下や畑などの隅に埋めたりする所もある。埋めるときには紙に包んで水引をかけたり、筆や墨、針や糸を添えて埋めたりする所もある。

  「後産の呼び名」 

○エナと呼ぶ。(平井寺)

「後産の始末」 

○墓地へ埋める。(平井寺)(塩沢)

 「へその緒の始末」

(保存する)

〇手箱や針箱へしまっておき、成人のころ本人に渡して保存させた。(平井寺)

(嫁入りのときに持たせる)

〇たんすにしまっておき、嫁入りのときに持たせた。(塩沢)

 (その他)

〇現在は産婆や医師が処理する。(東信全域)

 第七節 産婦の床上げと月小屋(P171)

 産婦が出産した部屋などから出て、家族とともに生活してもよいとされるときがトコアゲである。トコアゲは早ければ産後三日目で、このほか五日目、七日目、十日目、十四日目、二十一日目、二十三日目、五十日目などとしている。この時期は産婦の肌立ちや気候、初産であるかどうかという経験などによって一定していない。

 「産婦の床上げ」 

(産後五日目から七日間目)

〇産後七日目のヒトシチヤにトコアゲをした。(塩沢)

(産後二十一日目ころ)

〇産後二十一日目にした。(平井寺)

 「月小屋」

 (その他)

○月小屋はムラや家の一部にはない。(東信全域)、坂井、駒込、駒寄を除く。

 第三章 育児 (P174)

 生まれた子供は出産直後の諸儀礼を経るが、満一歳に達するまでにはなお多くの儀礼が行われる。初めて子供が外出するときに行われる便所参りや宮参りをはじめ、食い初め、初誕生、初節供などがその主なものである。便所参りは生まれて間もなく三日目または七日目、あるいは33日目ころに行われ、宮参りは33日目前後に行われる。これが子供の初外出になるが、一般には宮参りを過ぎるころまでは子供を日にあてることを避ける傾向にある。食い初めは生後100日目ころを過ぎた折りにおこなわれ、物を少し食べさせたり、食べるまねをさせる。この祝いのときに茶わんやはし、膳などを用意し、それに食べ物をつける。特に子供の健康を願って膳に小石を添える所がある。

 第一節 子供の初めての外出

 生まれて間もない子供が初めて外出するのは生後三日目、七日目、14日目、20日目、33日目などである。外出は近所の家の便所を訪れるセッチンマイリやベンジョマイリ、初めて氏神様などにお参りするオミヤマイリが主なものである。

  「宮参り」

○オミヤマイリが子供の初めての外出である。(塩田)(塩沢)

 

 第ニ節 子守と仮親 (P177)  生まれた子供が成長して頭がすわるようになるとツグラと呼ぶ育児の用具から出しておぶい始める。最初は子守を雇わないで家族が子守をするのが普通である。田植えや養蚕などで人手が足りず、母親も働かなければならないときには子守を付けた。子守は十歳から十五歳くらいまでの子供を頼んだり、また、十五歳から二十歳くらいまでの成長した者を頼んだりもした。

 「子守に頼む人」

(他人の子供)

〇他人の子供を学校へ通わせてやりながら雇うこともあった。

(塩沢)

(近所の子供)

 〇近所の十歳から十五歳くらいの適当な女の子を頼んだ。

(S-25年、平井寺)

〇近所の小作人や生活に困る家の子を頼んだ。(塩沢)

 (家族)

〇家の子供または祖母が子守をした。(塩沢)

(子守との付き合い)

○子守には盆や暮に小遣いや着物をあげたくらいで、深い付き合いはなかった。(平井寺)                                                                                   

 「育て親などとの付き合い」

(親戚同様の付き合い)

〇ソダテノオヤとは親戚同様の付き合いをした。(塩沢)

(当座の付き合い)

〇ソダテオヤとの付き合いは、当座の付き合いであった(平井寺)

  第三節 宮参り (P182)

 生後初めてムラの神社などへお参りすることをミヤマイリ、またはオミヤマイリと呼んでいる。お参りする神社は一社だけとは限らない。例えば、小県郡真田町真田ではムラの氏神様と屋敷内にまつる皇大神宮へお参りする。また、佐久市北岩尾では男の子は氏神様と天神様にお参りし、女の子は氏神様、天神様、十九夜様にお参りをする例がある。                  

 「期日」                        

 〇男の子は生後30日目、女の子は生後33日目にする。

(塩沢)

〇男の子は生後33日目、女の子は生後30日目にする。

(塩沢)

〇男の子は生後三十三日目、女の子は生後三十二日目にする。(平井寺)

 「供物」 

(お神酒)

とっくりに酒を入れて供える。(平井寺) 

(白米)

〇洗米を供える。(塩沢)

                 

「作法」

(顔に印を付ける)

〇子供をしゅうとまたはおばがおぶってオミヤマイリをし、帰りにはとっくりのお神酒を行き会った人に飲んでもらう。途中寄った家では男の子の額には墨ののクライボシ、女の子にはほっぺに紅をつけてもらう。(平井寺)

 (改まった着物を着せる) 

〇子供をひもでおぶってウチカケまたは紋入りのカケイショーをかけ、家の神や氏神に重箱の赤飯を上げてお参りする。(塩沢)                                                       

 第四節 食い初め (P188)

(その他)

男女とも生後半年過ぎにする。(平井寺)

 生後100日目か110日目、または120日目ころクイゾメの祝いをする。子供に膳、碗、茶わん、皿、はしなどの食具一式を用意し、初めて食べ物を食べさせたり、または食べるまねをさせたりするのである。

「期日」

(その他)

○男女とも生後半年過ぎにする。(平井寺)

 「膳を作る」

膳を作り、新しいはしで茶わんの飯や汁を子供になめさる。(平井寺)

(膳や茶わん、皿に石をつける)

〇拾った小石を皿におき、石のような強い歯になるようにといって石をかませる。神様や仏様に供えた御飯を一粒でもよいから、しゅうとが口に入れてやる。(塩沢)

 第四章 年齢に伴う儀礼 (P194)  人々は誕生から死に至るまでの過程において一定の年齢になると神仏の加護を願い社会の一員としての承認を得るための儀礼を行った。この儀礼には七五三の祝い、一人前に達した祝い、厄年、年祝いなどがある。

「七五三の祝い」

(始まった時期)

〇第二次世界大戦中ははとだえていたが、また盛んになった。(塩沢)

七五三の祝いはしない。(平井寺)

 「一人前の祝い」

(初潮の祝い)

○初潮の祝いをした。(塩沢)

第二節 厄年(P197)

厄年とはある特定の年齢は災いの多い年であるから、特に忌み慎まねばならないとされた年齢のことである。

 「厄年の年齢」 

(男二十五歳と四十二歳、女十九歳と三十三歳)

○塩田(平井寺は除く)

○厄年は男四十二歳、女十九歳と三十三歳である(平井寺)

 「大厄の年齢」

○大厄は男二十五歳、女十九歳である。(塩沢)

○大厄は女十九歳である。(平井寺)

(その他)

○女十九歳は嫁入り前の大事な年である。(平井寺)

「厄除け」

(神仏への祈願)

○別所の観音様や氏神様へニネンマイリをし正月になって再びお参りに行く。(平井寺)

 

 (神仏への祈願)

○別所の観音様へ前厄にはハツマイリ、二年目の本厄や三年目の後厄にはニネンマイリをする。(塩沢)

○一月十四日、長門町長窪古町のオタヤサマへおさい銭を上げてお参りし、年の数だけの金を人に知れないよう落として拾ってもらう。また、神主におはらいをしてもらい、お神酒と御飯を頂く。(塩沢)

 第三節 年祝い(P204)

 年祝いは特定の年齢を迎えた人の健康と無事を祈り、長寿にあやかるために子供をはじめ近親者が祝うものとされてる。

 「年祝いの呼び名」

(六十歳)

○還暦と呼ぶ。(塩沢)

(七七歳)

○喜寿と呼ぶ。(平井寺)

(八八歳)

○米寿と呼ぶ。(平井寺)

(九九歳)

○白寿と呼ぶ。(平井寺)

 「祝い方」

(六十歳の祝い)

○座布団、夜具一式、赤いチャンチャンを贈る。(塩沢)

(七十七歳の祝い)

○赤いチャンチャンコをこしらえて祝う。(塩沢)

「七七歳・八八歳・九九歳の祝い」

○近所や近親者を呼んで祝宴をする。(平井寺)

 第五章 死・喪(P210)

 死とは体内から魂が抜け出し、再び体に戻らない状態をいう。このように考えた人々は、体から遊離した魂を呼び戻して死者をよみがえらせようとした。このまじないが魂呼びである。このころ死に臨んだ人にシニミズヲトルといって水を飲ませるが、このころは死に臨む者に対する最初の儀礼である。

 第一節 臨終の儀礼

 

 

「シニミズ」 

(順番がきまっている)

○相続人、嫁、次男、次女などの順をとる。(塩沢)

 人が息絶えようとするとき、あるいは息が絶えたすぐ後にその人の名前を呼んで魂を呼び戻し、よみがえりを願おうとする魂呼びは大正時代まで行われた。それはもっぱら死者の名前を呼び、その方法はまくら元や耳元で叫ぶことが多かった。

 

「シニミズ」

 (順は決まっていない)

○ 塩田(別所を除く)

 第二節 死者への供物P213)  死者への供物はまくら元に供えるが、主に茶わんに盛った御飯とダンゴとである。ほかに線香を絶やすことなく立てることは東信全域で行われている。

 「御飯」 

 (マクラメシ)

○御飯が炊けた時、最初に盛って死者に供える。(平井寺)

(ハイトリゴハン)

○御飯を茶わんに盛ったハイトリゴハンにはしをさして供える。(塩沢)

 「ダンゴ」

(マクラダンゴ)

○小麦粉を水で練って三個作り、小皿に盛って供える。(平井寺)

(ナマダンゴ)

○米の粉または麦粉を水でこね、ナマダンゴを三個作って上げる。(塩沢)

「その他」

 (供物)

○仏葬の家では線香を添える(東信全域)

○コップに入れた水を供える。(塩沢)

 「供え方」

供物は脚のない膳またはハコゼンのふたを使って供える。

(平井寺)

第三節 死亡の通知 (P219)  死亡したことを親戚や寺などへ通知する人をツゲビト、ツイビト、ツゲ、ツゲトなどと呼び、ほかにオヒキヤクとも呼んだ。特に親戚へ知らせる人をツゲビト、寺へ知らせる人をオヒキャクと呼んで区別した所もある。

「告げ人の呼び名」

ツゲビト・ツゲビトと呼んだ。 (昭和25年、平井寺・塩沢)

「告げ人の人数」

○二人で行ったが、その後一人になった。( 昭和25年、平井寺)

○途中、事故が無く確実に告げられるよう、二人で各自がちょうちんを持ってわらじ履きでいった。(塩沢)

 「その他」

(告げ人への振る舞い)

○告げに来た家では、とっておいたますの切り身に一杯を出た。 (Sー25年、平井寺)

 (その他)

○かつては歩いて伝えたり、電報を利用して伝えたこともあったが、現在は電話で伝える。(東信全域)

 第四節 納棺 (P223)  納棺とは死者のなきがらを棺に収める儀礼である。

 「納棺する人の服装」

(左前の衣服・荒縄の帯)

衣服を左前に着て荒縄で縛り納棺した。(平井寺)

 (その他)

○荒縄は焼き、死者の寝具や衣服は洗濯する。(塩沢)

 「死者の身支度」

(キヨーカタビラ)

○キョーカタビラを着せる。(塩沢)

杖) 

○杖を入れる。(平井寺)

○まゆみの杖を入れる。(塩沢)

 (手甲・きゃはん)

○きゃはんを入れる。(塩沢)

「棺に納める物」

(銭)

○小銭を入れた。(平井寺)

○紙製の六文銭を入れる。(塩沢)

(ぬか・もみ殻・わら)

○もみ殻を入れた半紙で作った袋を四十九個入れる。(塩沢)

 「その他」

○愛用品を入れる。(塩沢)

○好物を入れた。(平井寺)

 第五節 野辺送りと位牌分け(P230)  遺体を埋葬するために、引導を渡す場所または墓地まで遺体を納めた棺を運ぶことをノベオクリまたはノオクリと呼んでいる。

 「ノベオクリの清め」

(カラウスと塩)

カラウスをきねでつき、塩を使って清める(塩田)

(その他)

〇ノベオクリから帰るとカラウスをきねでつくため、ふだん子供にカラウスをつくなという。(塩沢)

 「イハイワケ」

(イハイワケの作法)

位牌に死者が身につけていたカタミをつけ、生家を出てよそで生活している子供たちに分けてやる。(平井寺)

〇位牌に供養料や酒、米、てんぷら、うどんなどつけ生家を出てよそで生活している子供たちに分けてやる。位牌は風呂敷に包み背負って行く。子供たいは婚家へ帰り、坊様や婚家と関係のある人を招き位牌を供養する。(塩沢)

 「生家を出るときの作法」

イハイワケをするが、兄弟が同時に家を出ることはない。

(平井寺)

(その他)

〇亡くなった親が身につけていた衣服類などを分配する。

(塩沢)

 「幼児の葬法」 

(葬式)

○近親者だけが参加し、簡単に済ませる。(平井寺) 

〇寺から戒名をもらい、ミウチだけで葬式をする。(塩沢)                     

 第三節 弔い回りと年忌(P248)                 

 普段の生活において葬式に関係することや連想する行為は、これを不吉なこととして避けようとする傾向にある。例えば、カラウス(空臼)をきねでついたり、荒縄を帯やタスキにしたり、着物を左前や裏返しに着たり、兄弟姉妹がそろって生家をでたりするなどを忌み嫌ったのである。                               

「弔い回り」

ヒダリマワリといい、時計の針と同じ回り方を忌む。(平井寺)         

 「年忌」

○一年忌、三年忌、七年忌、十三年忌、十七年忌、二十三年忌、二十七年忌、三十三年忌を行う。(平井寺) 

 (神式)

〇一年祭、五年祭、十年祭、十五年祭を行う。(平井寺) 

「最後の年忌」  

 (十三年忌)

〇十三年忌が最後である。(塩沢)               

第四節 仏葬以外の葬礼(P253)  死者を弔う葬礼は、一般に仏式で行われることが多い。しかし、仏式以外にも少数ではあるが、神道の葬礼やキリスト教などの葬礼もある。

 「神道系、神葬祭」

(神葬祭)

戒名は俗名で、餅や魚を供える。祝詞をあげ、玉ぐしを奉てんして柏手をする。(平井寺)

 (神葬祭)

〇神官が行い、供物は普通の祭りと同じである。しょう(笙)に合わせた神官の祝詞や玉ぐしの奉てんがある。ノベオクリは○○○○大人(うし)と書いた墓標や旗を持って送り、終わって直会をする。(塩沢)

 第三編 第一章 屋敷(P257)

 日常生活の中心の場となるのは母屋であるが、その周りには生業や地域の自然条件と関係して建てられている幾つかの付属建物、農作業場を兼ねた庭、食料を確保するための野菜畑などがあり、こうした日常の住居に必要な建物や施設を含む敷地、地面のことをヤシキと呼んでいる。

 ムラの中でも目される旧家の屋敷位置をみると、氏神の近くや清水のそば、日当たりの良い所やムラの中央に位置したりしていて、先の諸条件の中でも良い条件が多くそろっている場所にある事が多い。  
 第一節 屋敷構え(P259)

 敷を、単にヤシキと呼ぶのが東信全域で一般的である。頭にイエをつけてイエヤシキと呼ぶムラもみられる。そのほかにカマエ、ケイド、カイドといった呼び名もみられる。ケイドやカイドという呼び名がある所では、屋敷地を指す所と屋敷への入り口の道路、つまり公道から分かれた私道を指す場合の二通りのいい方がみられる。

 「屋敷の呼び名」

(ヤシキ)

○ヤシキと呼ぶ。 塩田(手塚を除く)

「屋敷の面積」

(クサワケの家の場合)

○二百坪くらい。

〇200坪くらい(塩沢)

(クサワケの家の場合)

〇二百坪くらい。(平井寺、塩沢)

 「屋敷の形」 

(長方形)

〇長方形の屋敷である。(塩沢)

○沢が東西に方向のために、南西向きの長方形の屋敷が多い。

(平井寺)

 「好む場所と嫌う場所」

好む場所)

〇日当たりの良い場所。(塩田、別所を除く) 

○風当りの強くない場所。(平井寺、塩沢)

〇水の便が良い場所。(塩田、別所を除く)

○大水の心配がない高い場所。(平井寺、塩沢)

 「嫌う場所」

○低い土地で湿気の多い場所。(平井寺)

〇田の跡地は良くない。造るときは作土をはねてから屋敷にする。(塩沢)

(屋敷地の変化)

〇昔も今も屋敷地の変化はない。(塩沢)

 「旧家の位置・位置関係」

○日当たりや道路、水の便など条件が良くて、ムラの中央に位置る。(平井寺)

ムラでも上の方や高台の方で、水の便などの良い所にある。

(平井寺)

〇ムラでも上の方や高台の方で、水の便などの良い所にある。平井寺)

(地形)

〇清水や川のそばの水の便の良い所にある。(塩沢)

第二節 屋敷内の呼び名 (P269)

 屋敷への出入口は一、二か所が一般であるが、クサワケの家などでは、三、四か所の出入口をもっている場合もある。ここをケダシとかカド、キドと呼んでいる。上田市平井寺のようにクサワケの家の出入口はカドと呼び、一般の家の出入口はケダシと呼んで区別しているムラもある。

 「屋敷の入口の呼び名」 

○ケダシと呼ぶ。

「屋敷への入口の数」

(普通の家)

〇一か所か二か所である。(東信全域、下桜井を除く)

 (草分けの家)

○一か所か二か所である。

東信全域(小田井、豊昇、和田、駒込、北岩尾、高呂、茂田井、下桜井、佐口は除く。

 「草分けの家」

サワケも普通の家も出入口の数は二つで変わりがないが、呼び名はクサワケの場合にはカドと呼び、一般ではケダシとぶ。

(平井寺)

 「屋敷前の空き地」

 (呼び名)

〇ニワと呼ぶ。(塩沢)

○ロジと呼ぶ。(平井寺)

「屋敷内にある野菜畑」

(呼び名)

○センザイと呼ぶ。(平井寺・塩沢)

○センゼイ(エ)と呼ぶ。(平井寺・塩沢)

 「作物」

大根・ねぎ・なす・うり・漬菜など季節の野菜を自家用に作ることが多い。(東信全域、塩田上本郷・尾野山・西宮・赤岩・臼田を除く。)

 第三節 節水 (P277)

 

 

「昔の飲料水」

○わき水、清水を利用した。(平井寺・塩沢)

○井戸水を利用した。(S-30平井寺・S-34塩沢)

上水道がなかった昔は、飲料水を確保できる土地が屋敷地を選ぶ条件の中で一番大切なものであった。そのため、水の便が良い場所を中心にして集落が発達してきたムラも多い。一般に飲料水は清水や川の水から井戸水、そして簡易水道へと変わってきている。清水や井戸水は現在も上水道と併用して利用している家もあるが、川の水は汚染が激しく、昭和三十年ごろからは、上水道の普及によって飲み水としては使われなくなった。飲料水以外の洗い物には利用している。洗い場のことを上田市小井田ではツカイバと呼んでいる。

 

「水道」 

簡易水道を引いた。(昭和30年から)(平井寺)

上水道を用いる。  (昭和30年から)(平井寺・S-35から塩沢)

 「現在の飲料水」

(水道)

○上水道を利用している。(東信全域)

 

 第二章 母屋と小屋 (P281)

  屋敷内には日常生活の場の中心となる母屋と、さまざまな用途をもった付属建物とがある。屋敷内にどのような建物がどのくらいあるかは、ムラにより家によって違いがあるものの、その主なものは母屋のほかに土蔵、物置、蚕室、外便所、たき物小屋などである。しかし、上田市西脇や小県郡東部町本海野など、町の中や旧宿場町においては付属の建物が少ない傾向がみられる。

 「普通の家の付属の建物」

(土蔵) 

○土蔵がある。 塩田(別所は除く)(塩沢)

○クラとも呼ぶ。 穀物の貯蔵と調度品を保管するのにつかう。

〇穀物の貯蔵と調度品を保管するのに使う。(平井寺)

〇穀物、貴重品、食器類などを入れる。(塩沢)

 「物置・納屋」

〇物置・納屋がある。(平井寺・塩沢)

〇モノオキと呼ぶ。(平井寺・塩沢)

○道具を入れたり、雨の日の作業場として使う。(平井寺)

「新しい建物」

〇車庫を建てた。(塩沢)

第二次世界大戦後、農機具を入れる小屋が増えてきた。(塩沢)

 「上層の家の付属の建物」 

(土蔵)

〇土蔵がある。(塩田)

○クラとも呼ぶ。(平井寺・塩沢)

 

 「物置・納屋」

○物置、納屋がある。(平井寺・塩沢)

〇ナヤと呼ぶ。(塩沢)

○蚕室がある。(平井寺)

 (新しい建物)

〇ハウスを建てた。(塩沢)

 第二節 母屋(P290)

日常、家族が寝起きして生活を営んでいる建物が母屋で、屋敷内において中心をなす建物である。この建物をホンヤとかオモヤとか呼ぶ。ホンヤという呼び方は東信全域に広がっている。オモヤというのは、上田市、小諸市、佐久市などの平坦部で用いられることが多い。

 母屋の呼び名」 

 (ホンヤとオモヤ)

○ホンヤと呼ぶ。(平井寺)

○オモヤと呼ぶ。(平井寺)

(その他)

〇タクと呼ぶ。(塩沢)

(入母屋造り)

〇昔は入母屋造りはなかった。ムラの寄棟造りだった。(塩沢)

 「屋根を葺く材料」 

(かや)

○かやで屋根を葺いた。(塩田・塩沢)

(わら)

○小麦わらで屋根を葺く。塩田(上本郷は除く・塩沢)

(板)

〇屋根板にはササイタが使われた。(塩沢)

「母屋の面積」

(普通の家の建坪)

〇三十坪以下が多い。(塩田、手塚を除く)

○四十坪以下が多い。(平井寺)

 

(上層の家の建坪)

〇四十坪以下が多い。(平井寺)

〇四十坪から五十坪くらい。(塩沢)

〇五十坪から六十坪くらい。(塩沢

 第三節 母屋の入口と土間 (P300)

 母屋の入口の呼び名はトマグチ、オート、オートマグチという三つ

 の呼び方が多い。トマグチと呼ぶ所は、北佐久、南佐久地方に多

 い。オートと呼ぶのは、上田市北東部や小諸市、佐久市に多い。

 オートマグチは、小県地方に多い。これらの呼び名には母屋の入

 口に建つオード(大戸)などと呼ばれる板戸の呼び名との関係も

 認められるようである。

 「入口の呼び名」

(トマグチ)

○トマグチと呼ぶ。平井寺

(オート)

○オートマグチと呼ぶ。(平井寺は除く・塩沢)

 

 

「入り口の建具」 

(オード・大きい戸】

○オードを建てた。(塩沢)

〇オードは六尺の板戸で松材が使われた。人の出入りする障子戸は

 コクグリと呼んだ。その後、オードショージを建てるようになっ

 たが、一本」立てと二本立てがみられる。(塩沢)

(オート・大きい戸)

〇オートを建てた。(平井寺)

(その他の建具)

〇オードショージという腰高障子の六尺戸の家もあった。(塩沢)

(新しい建具)

〇昭和三十年代からは玄関戸として腰板つきのガラス二枚戸が出回

 ったり、四十年代からはサッシ戸やドアーもみられるようになっ

 た。(東信全域)

 「土間」

○ドマと呼んだ。(塩田 、別所は除く)

 

第四節 とりつぎの部屋(P304)

母屋の土間部分から部屋へ上がる入口の場所のことを、アガリハナとかアガリットと呼ぶ。そこには、明治、大正時代までは建具が建っていない家が多く、居間であるチャノマなどが丸見えであった。その後、板戸などによる間仕切りをし、土間部分と部屋部分を分けるようになってきた。

 「とりつぎ部屋の入り口」

(建具)  

○建具がなかった。(平井寺)

 「呼び名のある柱」

(ダイコクバシラ)  

○ダイコクバシラガある。(平井寺)

(ショーコクバシラ)

〇ショーコクバシラがある。(塩沢)

  「その他」  

○タツミノハシラがある。(平井寺)             

 (その他)

〇座敷の床の間の左か右側にトコバシラがある。(東信全域)

〇ハンバシラ、ヒカエバシラがある。(塩沢)

 第五節 風呂 (P307) 

     風呂は快適な日常生活をすごすためになくてはならないものである。しかし、現在のように、どこの家でも風呂場を設けて毎日のように入れるようになったのは、昭和三十年代以降のことである。それ以前の風呂は据え付け式の簡単なものであった。そして、夏場は軒のショーベンダメの上や流しから流れ出す配水だめの上に桶を置き、冬場の寒い季節だけ母屋内の土間部分に移動させて入っていた。              

「風呂の呼び名」

(外風呂)   

○スエブロと呼んだ。(平井寺)

○フロと呼んだ。(塩沢)

〇フロオケと呼んだ。(塩沢)

(内風呂)

〇フロと呼ぶ。(塩沢)

「風呂の位置」

○夏は庭や軒先に、寒くなってくると土間にスエブロを移動させて

 使った。第二次世界大戦後、新改築が行われるようになり内風呂

 になった。(昭和30年、平井寺)

〇軒下やナガシサキに風呂桶を置いて入った。寒くなる冬場にはダ

 イドコロに入れて入った。その後、内風呂になった。

(昭和30年、塩沢)

 第六節 便所 (P313)

 便所は日常生活に欠かせない大切な場所であるとともに、昔は肥料源の確保の上からも大事なものだった。昭和30年代以前の便所は、ほとんどが外便所であり、ベンジョ、ソトベンジョ、チョーズバ、セッチンと呼んだ。                

 「外便所」

(名称)

○ベンジョと呼ぶ・・塩田(手塚を除く。)

○シモベンジョと呼ぶ。(平井寺)

○ナガシ(サキ)と呼ぶ(塩沢)

 「内便所」

(呼び名)

○カミセッチンと呼ぶ。(塩沢)

○カミベンジョと呼ぶ。(塩沢)

  第七節 馬屋 (P317)

 かつては馬は農耕や運送用に飼育され、一家の財産として家族同様に大切にされてきた。しかし、現在ではほとんど見られなくなってしまった。それにともなって馬屋の呼び名だけを残して、物置やお勝手、部屋などに改造してしまった家が多い。

 「呼び名」

(内馬屋)

○ウマヤと呼んだ。(塩沢)

 (外馬屋)

○ウマヤと呼んだ。(塩沢)

「馬屋と馬の飼育」 

(馬屋)

○大正時代の末期からは、馬屋は外に造られるようになった。それ

 以前は、母屋内の入り口を入ってすぐの土間にあった。(塩沢)

  第二節 座敷と居間 (P349) 大事な客を接待したり、冠婚葬祭の折りに使われる部屋をザシキと呼ぶ。家でも一番上等の大事な部屋で、ふだんは使われることが少ない。座敷でも床の間がついた奥寄りの上等な部屋をオクザシキとかカミザシキと呼び、その並の座敷をオモテザシキと呼ぶ。

 「座敷」

(呼び名)

○ザシキと呼ぶ。東信全域

○来客用の座敷の中でも、床の間がついた上等な方は、オクザシキ

 と呼ぶ。(塩沢)

○座敷のことをキャクマとも呼ぶ。 東信全域

 「利用」

○大事な客の接待やお祝いごとにはオクザシキとかカミザシキと呼

 ぶ床の間付きの座敷を使う。ふだんは使わない。(東信全域)

○オクザシキは祝儀などの儀式に使い、ふだんは物置がわりとして

 ゴッタク(散らかし)にしてある。家によっては祖父の寝室に使

 う場合もみられる。(塩沢)

 「居間の呼び名」

(チャノマ) 

○チャノマを家族がふだんいる部屋としている。

  ( 東信全域)

(イマ)

○イマを家族がふだんいる部屋としている。(塩沢)

○イマは昔のチャノマのことである。(塩沢)

    第三節 勝手 (P352)

 家族が日常食事をするために利用している部屋は、カッテ、ダイドコロ、セイジなどと呼ばれている。こららの部屋は、土間の奥側にある板敷の間であることが多く、中心にはいろりがある。カッテとダイドコロは同じ部屋をさすムラもあるし、別々の部屋であることもある。ダイドコロと呼ぶ部屋を食事をする部屋に使っている場合は、土間をドマと呼び、土間をダイドコロと呼ぶ場合は食事をする部屋をカッテと呼んでいるムラが多い。前者は南佐久地方に、後者は塩田や小県郡東部町に濃厚にみられる。

 「昔食事をとっていた部屋の呼び名」

(カッテ)

○オカッテと呼んでいた。塩田(平井寺を除く)

 「ダイドコロ)

○ダイドコロと呼んだ。(平井寺)

(ダイドコ)

○ダイドコと呼んだ。(平井寺・塩沢)

 「特別な日に食事をとる部屋の呼び名」

(チャノマ)

○チャノマで食事をとった。(塩沢)

(ザシキ)

○来客にザシキで食事をとってもらうことがある。(平井寺)

 「今食事をとっている部屋の呼び名」

 カッテ(オカッテ)

○カッテ(オカッテ)と呼ぶ。(平井寺)

 

 

 第四節 調理場(P356)

食事を調理したり膳立てをする場所は、カッテやダイドコロと呼ぶ板の間であることが多い。これらの部屋の一角には、水を使って調理する場所がある。その場をナガシバとかスイジバと呼ぶ。調理場の呼び名は調理する場所そのものを指す場合と、それを含めた部屋全体を呼ぶ場合の二通りがあり、調査資料には多少混乱がみられる。

 「調理場の呼び名」

○ダイドコロと呼ぶ。(平井寺)

 「特別な日の調理場」

(ふだんの場所)

○ふだんの場所と同じ調理場である。(東信全域、平井寺を除く)

 (ふだんと違う調理場)

○ふだんと変わりがないが、祝儀や葬式のときはオカッテが狭くな

 るので、軒下や土間、ニワにまで持ち出して煮炊きをする。

(平井寺)

 第五節 寝室(P358)

 家族が毎日寝起きする寝室は、もっとも私的な空間である。昔は三方が土壁にい囲まれた暗い部屋で、座敷や茶の間などの奥の北側に設けられている場合が多く、日当たりの悪い寝室は衛生上からもけっして良い条件の部屋ではなかった。小窓一つの寝室には万年床が敷かれている場合も多く、第二次世界大戦後、勝手や馬屋とともにいち早く改善された場所である。

 「オヘヤ」 

(オヘヤ)

〇オヘヤ (ヘヤ)と呼ぶ。 塩田

(ネドコ)

〇ネドコと呼ぶ。(塩沢)

 (コザシキ・コザ)

〇コザと呼ぶ。(塩沢)

 「その他」

〇子供が小さいうちは、セイジとかコザと呼ぶ部屋で一緒に寝た。(塩沢)

○キタノマで寝る。 塩田(別所は除く)

〇子供部屋で寝る。(塩沢)

第六節 仏間と神棚の間 (P361)

 仏壇は家族の心のよりどころとなる祖先をまつってあるため、特に清浄な場であると考えられている。同時に常に家族を見守ってくれているとも考えられ、家族がふだん集まるにぎやかな居間に置かれた。そのため、東信全域でチャノマにマツッテあるムラが大変多い。

 「仏壇のある部屋」

 (チャノマ)

〇チャノマにある、(東信全域)

○昔はキタノマにあったが、今はチャノマに置く家もある。

(平井寺)

〇お客がお参りする場合から、今はチャノマにある。(平井寺)

(キタノマ)

○キタノマにある。(平井寺)

○昔はキタノマにあったが、今ではお客もお参りしやすいようにチャノマに移した。(平井寺

「神棚のある部屋」 

 (チャノマ)

○チャノマとかザシキにまつる。神棚を足で踏まれないように二階

 のない所にまつった。もし二階がある場合には、天井に「雲」と

 

   か「空」とかを書いておいた。(塩沢)

(ザシキ)

○ザシキにまつる。 塩田(手塚を除く)

○ザシキの床の間に向かって右上にまつる。(平井寺)

 第七節 生と死 (P366)  出産は今でこそ病院で行われるのが普通であるが、昭和30年代までは産婆の手助けのもとに母屋内の寝室で出産するのが一般的であった。出産には、若夫婦の寝室としてふだん使っていたオヘヤやコザシキと呼ばれる部屋が使われた。オヘヤ・ヘヤでの出産は小県地方に多く、コザシキ・コザでの出産は南佐久地方に多い。しかしこの分布の違いは、ふだんの寝室として使っている部屋の呼び名とも関係し、呼び名の違いがあっても寝室であることは変わりない。

 「死者を安置する部屋」

(ザシキ)

○ザシキでも二間ある場合は上座の床の間の前へ北まくらにして安置する。東信全域(香坂、芦田古町を除く)

 

 第四章 いろりとかまど (P368)

 家屋内の生活の中心をなしていたいろりも、現在では山間部のムラの、それもある一部の家を除いてほとんど使われることがなくなってしまった。いろりは暖をとり、物を煮炊きする場所としてだけではなく、その周りで食事を取ったり、夜なべの縫い物やわら仕事をする場所でもあった。また、そこで来客と会談するなど、人々の心のよりどころでもあった。
 第一節 いろり(P369)  家庭内の生活の」中心をなしていたいろりも、現在では南佐久地方の山間地のムラなどにわずかに残っているだけで、ほとんど使われることがなくなってしまった。これも今から三十年ばかり前まではどこのムラでも使われていたものであった。暖をとったり物を煮炊きする場所のほかに、その周りで食事や夜業、来客の接待をする場所としても使われ、人々の心のよりどころとしての場所であった。

 「呼び名」

(いろり)

○イロリと呼んだ。(昭和35年、平井寺)(昭和30年、塩沢)

 「いろりの数」

(一か所)

○一か所であった。塩田

 「自在かぎ」

(自在かぎの呼び名)

○カギツケと呼んだ。 (塩田・塩沢)

「いろりの座」

 (主人の座)

○カミザと呼んだ。(塩沢)

「いろり端での接待」

(ムラ内の客の接待)

○いろり端には通さなかった。(塩沢)

(大事な客の接待)

○いろり端へは通さずに、座敷の床の間を背にした上座に通して接客した。 塩田、平井寺は除く

 第二節 かまど(P379)

 かまどは多少の違いはあるものの、ヘッツイと呼んでいた所が多く、東信全域におよんでいる。カマドと呼んだムラは、小県郡真田町などにわずかにみられるだけである。ヘッツイはなべ(鍋)やかま(釜)をかけて煮炊きするために石組みの上に土を塗り固めて作ったもので、多くはいろりの中やそのわきに置いて使われた。そのほかに勝手場のの流し場近くに置かれていた、床上のヘッツイは主に家族の食事用の煮炊きに使われた。

 「呼び名」

○ヘッツイと呼んだ。(平井寺)

〇ヒッスイと呼んだ。 (塩沢)

 「置き場所」 

(いろりほの中)

○いろりの中に置いた。(平井寺・塩沢)

(いろりのそば)

〇いろりのそばに置いた。(塩沢)

(土間の隅)

〇土間の土間の隅にあった。(塩沢)

 (勝手場の隅)

〇勝手場にあった。(塩沢)

〇勝手の流し場のそばにあった。(昭和40年、塩沢)

 第五章 家具・調度 (P382)

 家は雨露を避けるだけの施設ではなく、その内において生活がい営まれるものである。そのために、生活に必要なさまざまな用具や道具がその内に含まれている。それが家具であり、調度である。そうしたものの中から本章では特に発火具や火具、照明、暖房・寝具を取り上げる。今でこそ火をつけるにはマッチがふつうに用いられ、さらに自動点火装置なども工夫され、広く使われているが、昔このマッチですら貴重品であった。

 第一節 発火具・火具 (P383)

 火を起こすための発火具として火打ち石が使われていたのは、明治時代までのことであった。その後、付け木やマッチが現れてからは、火打ち石を使うことはなくなってきた。しかし、老人などはたばこを吸うのに火打ち石をその後も使い、昭和初期ころまで実際に使用しているのを見た人も多い。

   「発火具」 

○火打ち石をを使った。(平井寺・・・戦時中)

○明治時代以前に使われていたものだが、第二次世界大戦中にも使われた。(平井寺)                

 「付け木」

○付け木を使った。(塩田)

    「火具」      

 (十能)

○ジュウノーと呼ぶ。(東信全域・・小井田・入組は除く)

 「火消しつぼ」

 (ヒケシツボと呼んだ。) 東信全域(矢沢、国分、別所、和子、坂井、本海野、小田井、香沢を除く)                          

「火起こし竹」

○ヒフキダケと呼んだ。(東信全域・・入組、立岩、久保、赤岩、発地、北岩尾、下原、下桜井、余地、御所平を除く)

 「火ばし」

○(東信全域・・東田沢、香坂、京の岩を除く)

 第二節 照明具・暖房具・寝具(P389)

 電灯がともるまでは、やみを照らす大切な照明具として石油ランプがどこの家でも使われていた。三分芯(しん)・五分芯・丸芯などの種類があり、しんの太さによってあかるさも違っていた。ランプのほやみがきは子供の仕事であり、小さな手がほやの中に入るので毎日手伝ったのである。ランプ以前はあんどんやとうしんが使われていた。燃料には菜種油を使っていた。それより以前にはたいまつも使われており、松の根を細かく切ってたいたり、松ヤニのしみたしんを燃やしたものである。これを燃やすには、石製のヒデバチといったものが使われていた

 「照明具」 

(石油ランプ)

○石油ランプを使った。 (大正12年、平井寺 ・塩沢)

「灯しん・灯明」 

○灯しんを使っているのを見た。

 (あんどん)

〇あんどんを見たことはあるが、使わなかった。(塩沢)

(灯しん・灯明)

〇灯しんを使っているのを見た。(平井寺)

(ろうそく)

○ろうそくを使った。(平井寺・塩沢)

〇ろうそくには糸のしんと紙のしんのものがあった。(塩沢)

(その他)

〇カンテラを使った。(塩沢)

 「暖房具」

(こたつを入れる時期)

〇九月に入れる。(塩沢)

○十月中旬に入れる。(平井寺)

 「こたつをあげる時期」

 ○ 五月上旬にあげる。(平井寺)

〇六月に上げる。(塩沢)

「こたつ以前の暖房」

〇いろりのたき火で暖をとった。(塩沢)

「寝具」

(わら布団)

○ワラブトンと呼んだ。(平井寺・塩沢)

「使用年代」

○大正時代末期まで使った。(平井寺)

〇第二次世界大戦の終戦まぎわまで使った。(塩沢)

 第六章 建築儀礼(P398)

 家を新築したり増改築、屋根の葺き替えなどをすることを普請という。家を新築することは人一代の大事業であり、家運の隆昌(りゅうしょう)を祈り、家族の無事安泰を願って、建築工程の各節目節目において、さまざまな儀式を行った。まず家を屋敷内のどこに建てればよいか考え、その方向と位置の選定をする。そして新築の家の安泰を祈り地鎮祭、地つき基礎工事、柱を建てて骨組みを造る建前、それに続く棟上げ式、新築し終わって新居に移る家移りの行事などが行われる。

「普請」

 フシンという言葉は、家のほかに道路やせぎの修理にも使うが、ここでは家のほか新築または増改築、屋根の葺き替えなどの建物に関する場合に限定する。

「新築の呼び名」

○フシンと呼ぶ。 (塩田(別所を除く・塩沢)

〇タテジと呼ぶ。(塩沢)

 「増改築」

○フシンと呼ぶ。 塩田(別所を除く)

〇タテマシと呼ぶ。(塩沢)

〇コブシンと呼ぶ。(塩沢)

 「屋根の葺き替え」

○フシンと呼ぶ。塩田(別所を除く)

〇ヤネブシンと呼ぶ。(塩沢)

 

 第二節 建物の位置選定と地鎮祭 (P400)

 建物を新築する場合に、屋敷内のどこにでも建てて良いというものではない。家主は今後とも家が発展し続けることを願い、位置を選定するにあたっては方角をみてもらうこともある。家に災難がふりかからないように鬼門をみてもらい、家相図などをもとに易者などから家の吉凶を占ってもらったりした。

 「地鎮祭」

ジマツリと呼ぶ。(平井寺・塩沢)

 「まつり方」

○予定地の中央に青木かさかきを立てて、注連縄で囲む。神官、

 工事責任者を呼び、祝詞をあげてもらう。(平井寺)

〇神主や勧修院を招いて、塩、ゼンマイ、清酒、水、魚、野菜を

 供えて祝う。ジマツリは南東の向きで祝う。(塩沢)

 第三節 地つき (P402)

地鎮祭が終わると、新築工事の第一歩である土台固めの地つきの作業が始まる。今では基礎工事もコンクリートの基礎打ちになっているが、第二次世界大戦後まもなくまでは、土台石をすえる場所に小石を敷き、土台固めを大切に行った。これを地つきという。 

 「地つきの呼び名と方法」

(呼び名)

○ドーズキと呼んだ。 塩田

(方法)

〇丸太をつく場合に、小さいものは三、四人で、大きなものは10人

 以上でついた。(昭和30.年、塩沢)

 「地つき歌」 

(地つき歌を歌う人)

○ドーズキをしている人の中で、歌の上手な人や声のよい人が音頭

 取りとなって歌った。(平井寺・塩沢)

(地つき歌)

〇ヤーレーメデターナー ヤレヤレ(この間におめでたい松竹梅の

 歌を入れる)ヤレヤレ ドシン(10回ぐらいつく)(塩沢)

第四節 建前と棟上げ(P410)

ドーズキが済み、地固めがすっかり整うと建前になる。これをタテマエとかタテジと呼ぶ。北信地方でタテマエと呼ぶのに比べて東信地方はタテジと呼んでいるムラが多い。大安吉日を選んで、朝から柱を建てて家の骨組みを完成させる。タテジが済むとムネアゲの式がとりおこなわれる。タテジの最後に棟に棟木をのせ終わると、屋根に簡単な祭壇を設けてムネアゲが始まる。神事の進行一切は大工の棟梁が行うが、ムラによって神主がやってくれる所もわずかながらみられる。

「棟上げ式」

(呼び名)

〇ムネアゲ(ムネアゲ式・ムネアゲイワイ)と呼ぶ。(東信全域)

○ムネアゲの式はムネアゲをしてゴシモチマキ、振る舞いをする。(平井寺)

 「招待者」

大工棟梁、大工、左官、屋根屋、かわら屋、トビ職、クロクワ(石屋)、ジガタメの手伝いの人、電気工事屋など工事に関係した職人のほかに、親類、隣組、マケ、近所の手伝い人、特に親しい人、中にはムネアゲの神事をしてくれた神主など全員を呼ぶ。(東信全域)

親類は兄弟が主である(平井寺)

「祝儀」

酒や現金を持って行く。(東信全域)

 「祝儀」

〇大工棟梁には六寸と一尺二寸のサオモチ二枚と祝儀お出す。宴が

 終わるとトーリョーオクリといって、棟梁の自宅まで猿田彦と書

 いた柱を持って祝い歌を歌いながらみんなで棟梁を送り届ける。(塩沢)

第五節 家移り(P414)  新しい家ができあがり、家財道具一切移して一段落すると、良い日を選んで家移りの祝いをする。この祝いをヤウツリ・ヤガタメ・イエミ・ワタマシ・ヒッコシなどと呼んでいる。

「呼び名」

○ヤウツリと呼ぶ。(平井寺)

〇ヤガタメと呼ぶ。(塩沢)

「招待者と祝儀」

 (招待者)

○工事に携わった職人を呼ぶ。(上田・・上塩尻大村を除く)

○親戚を呼ぶ。(東信全域・・築地、別所、高梨、香坂、沓沢を除

 く)

「祝儀」

金包みを祝儀として持っていく。(東信全域・・東田沢を除く)

 

第六節 建築祝い(P418)  建築祝いの餅まきは、東信全域で広く行われている。この餅はゴシモチとかゴチモチ、ゴーチモチと呼ばれている。北信地方で呼ばれているグシモチという呼び方は、北信と接する上田市近辺にわずかにみられるだけである。ゴシモチは上田市を中心としたムラに、ゴチモチは北信地方のムラ、ゴーチモチは南佐久地方のムラで呼ばれており、分布はわりあいにはっきりとしている。

「餅まき」

(餅の呼び名)

ゴシモチと呼ぶ。塩田

〇スミモチと呼ぶ。(塩沢)

〇ゴシモチと呼ぶ。まくときに雨が少しでも降ると縁起が良いとい

 って喜ぶ。(塩沢)

 「時期」

○棟上げのときにまく。(東信全域・・越戸、平井寺、手塚を除

 く)

〇屋根ふきのときにもまく。(平井寺)

〇ゴシュモチは屋根葺きの後と棟上げのときの両方まくが、屋根葺きのときは米の粉の餅をまき、棟上げのときは餅米でついたひし形の餅をまく。(塩沢)

○屋根葺きのときにもまく。(平井寺)

 「餅の形」

○ひし形で紅白の餅をまく。

〇スミモチは五寸くらいの大きな餅である。(塩沢)

「餅と一緒にまく物」

○餅まきの餅しかまかない。

「粥まき」

粥をまいた事例の報告がない。(東信全域)

 第一節 男性の野良着(P426)

 家で着ていて古くなった着物を野良着とする所が多かった。身丈の長い着物は特に裾(すそ)の部分が邪魔になる。そこで下体にあたる着物の裾をはしょり、裾の先端を帯の下に折り込み、動きやすいようにした。これをヒッパサミ、ヒッパショリという所が多い。だがこれは、左右の裾の部分が足にからまったり、激しい仕事のときは、はしょったものが落ちてしまうというようなわずらわしさがあった。そのため、上体と下体とを分けたものが多くみられるようになってきた。これは、上体と下体とが分かれているために身体を屈伸させるのに抵抗が少なく、着物が落ちるようなこともなく野良仕事がずっとやりやすくなった。さらに、上体に着るものの腰の部分の両側には、二寸内外のウマノリをつけてあり、上体の前後、左右への動きをよくしている

 「上体」

○ヤマバンテンを着た。(平井寺)

 「下体」

○モモヒキをはいた。(塩田)

○水田に入るときにはモモヒキは、はかなかった。(平井寺)                 

 

第二節 女性の野良着(P431)     

女性の野良着の上体は、多くは着物であった。身丈と同じものとやや短くしたものとがあった。野良で仕事をするときには裾(すそ)をはしょり、ひもで縛って動きやすくし、家に帰ると裾をおろして家での仕事着に速変わりさせるというものであった。そして下体には上田・小県地方では着物の裾をはしょって腰巻を出すだけで何も着けなかったとする所が多く、北佐久、南佐久地方では、モモヒキをはいたとする所が多い。上田市日向小泉では、第二次世界大戦前まで養蚕が盛んに行われ、女性は屋内の仕事ある養蚕に携わって野良に出ることは少なかったため、仕事をする時も普通の着物であったという。                         

 「野良着」

(上体)

○着物を着た。(平井寺)

 「下体」

○着物をはしょり、腰巻を出した。(昭和10年、平井寺・塩沢)

 「前掛け」

○前掛けをつけた。 (昭和25年、平井寺・大正10年塩沢)

 (呼び名)

○前掛けをマエカケと呼ぶ。(塩田)

 「田植えの身支度」

○身支度を改めた。 (塩田、別所を除く)

「その他」

(改めたもの)

○タスキを改めた。(平井寺)

 第二章 手甲 (P439)

 野良仕事のときにひじから手首や手の甲に及ぶ部分につけて、外傷や風雨、日光、寒暑、虫などから手を保護しようとした布製のものを手甲と呼ぶ。男女とも同じ形式のものを用いるが、女性はできるだけ多くの部分を覆うものを使用しようとする傾向がみられる。

 第一節 男性の手甲  手の甲や腕を保護するために用いられた手甲には、およそ三つの型があった。ひとつは手の甲と手首とを覆うもので、手の甲の保護を中心に考えられた短めのものである。もうひとつは、手の甲と腕との両方を覆うもので前者より長めのものである。これらはおもにテッコー・テッコ・エガケなどと呼ばれている。三つめのものは、手の甲の保護はあまり考えず、手首からひじ、二の腕までを覆うもので、筒状になったものである。

 「呼び名」

(手の甲を覆うもの)

○テッコーと呼ぶ。 塩田・・別所を除く

○エガケと呼ぶ。(昭和20年,塩沢)

(腕(二の腕)を覆うもの)

○エガケと呼ぶ。(塩沢)

○ウデマキと呼ぶ。(平井寺)

 「腕(二の腕)を覆うもの」

(手の甲とうで(二の腕)の両方を覆うもの)

○エガケと呼ぶ。(塩沢)

○テッコウマキと呼ぶ。

 

 「使用されたようす」

 (種類)

○手の甲を覆うもの、腕(二の腕)を覆うもの、手の甲と腕(二の

 腕)の両方を覆うものの三種類を使った。

 

 第二節 女性の手甲 (P442)

 女性の手甲も男性の手甲と同じように三つの型があった。手の甲を覆うもの、手の甲と二の腕との両方を覆うもの、二の腕を覆うもの三つの型である。

 「呼び名」

(手の甲を覆うもの)

テッコーと呼ぶ。 (塩田、別所を除く)

 「腕(二の腕)を覆うもの」

 ウデマキと呼ぶ。(平井寺)

(手の甲とうで(二の腕)の両方を覆うもの)

○エガケ呼ぶ。(塩沢)

 「使用されたようす」

手の甲を覆うもの、腕(二の腕)を覆うもの、手の甲と腕(二の腕)の両方を覆うものの三種類を使った。(平井寺・塩沢)

 

 第三章 かぶりもの (P445)

野良仕事のときに日光をさえぎり、雨や雪を防ぎ、頭部を保護するためにかさあるいは手ぬぐいなどをかぶった。かさの呼び方は、その材料や編み方、形などによることが多い。したがって同じものであっても地域によってそれぞれ異なる呼び名を用いることがある。手ぬぐいは持ち歩くことが多く、簡単に頭の保護や保温ができるので多く使用された。頭から顔全体を手ぬぐいで包むホッカブリや、頭部を手ぬぐいでしばるハチマキは東信全域で行われていた。女性の場合は東信全域ではネーサンカブリが圧倒的に多い。 

  第一節 男性のかぶりもの

男性が野良仕事をするときはかさをかぶることが多かった。その代表的かさはスゲガサである。これは東信全域の半分以上の地域で用いられているものであり、最も多く使われ、親しまれてきた。地方により、人により呼び名に違いはあるけれど同じかさである場合が多い。 

 「かさ」

(呼び名)

○スゲガサと呼んだ。(塩沢)

○むぎわら帽子をかぶる。(平井寺)

 「ほおかぶり」

(呼び名)

○ホーカブリと呼ぶ。(塩沢)

○ホッカブリと呼ぶ。(平井寺)

 「ハチマキ」

ハチマキをした。 東信全域

 

  第二節 女性のかぶり物(P449)

 女性が農作業をするときは手ぬぐいをかぶるか、アミガサもしくはスゲガサをかぶって頭や顔の保護をした所が多い。上田市西脇では手ぬぐいでホッカブリをしてその上に、スバガサと呼ぶ編みがさを大正時代の初期までかぶったという。また、小県郡長門町宮ノ上では男性と同じスゲガサを使用したが、女性のものはあごひもの色が赤だったという。使用したかさの種類としては、男性がスゲガサを多く用いたのに対し、女性はアミガサの使用が多くむぎわら帽子がこれに次いでいる。

 「かさ」

(呼び名)

○スゲガサと呼んだ。(塩沢)

○むぎわら帽子をかぶる。(平井寺)

 「ほおかぶり」

(呼び名)  ネーサンカブリと呼ぶ。

  第四章 脚支度 (P453)  野良仕事のときの脚支度には、履物のほかに足を保護するためにつけるものや、すねを守るためにつけるハバキといわれるものなどがある。これらは、田畑の仕事のときばかりではなく山仕事をするときにはなくてはならないものであった。
 第一節 はばき  野良仕事や山仕事のときは、足のすねにハバキを巻きつけた所が多い。特に東信地方では、野良仕事よりも山仕事のときにつけたという所が多い。

 「男性のはばき」

(ハバキの使用)

 野良仕事のときハバキをつけた。塩田(別所を除く)

 山仕事のときハバキをつけた。塩田(別所を除く)

 「呼び名と材料」

ハバキと呼び、木綿でできている。(平井寺)

 「女性のはばき」

(ハバキの使用)  

○ハバキをつけなかった。(平井寺)

 
 第二節 野良仕事の履物 (P457) 野良仕事にわら草履を履いた所はあまり多くないが、履いた所のそのほとんどがアシナカという足裏より短めの草履であった。これは、歩くときに砂や泥のはね返りがなくてよかったので、田仕事に履いたとする所が多い。しかし、この短めの草履を履くとかかとが汚れてしまうので、家の周りの仕事で家へ出入りの激しいときは不都合である。そのようなときは長めのものを履くようにした。

 「わら草履」

 ○足裏より長めのものを履いた。

昭和15年、平井寺・大正末、塩沢)

 ○足裏より長めのものをゾーリといった。(平井寺)

 「わらじ」

 ○野良仕事にわらじを履いた。(大正15年、平井寺・塩沢)

 「コーカケ」

○コーカケと呼んだ。(大正15年、塩沢)

○フルタビと呼んだ。 (昭和15年、平井寺)

 「足の甲だけを覆うものの呼び名」

○コーカケと呼んだ。 (昭和15年、平井寺)

 第五章 晴れ着 (P463)  日々の生活の中で特別な日や行事や祝い事のあるときは着物を改め、晴れ着を着る事が多い。

 第一節 子供の晴れ着 (P464)

 生まれた子供に初めて着せる着物を、ウブギと呼ぶところが多いが、オボギという所もある。このウブギは出産前に作る所ほとんどであるが、出産後に作る所もある。生まれたときに困らないようにあらかじめ準備しておくという所の方が多いが、出産前にウブギを作っておくと子供の育ちが悪いといって出産後に作る所もある。そうした所では、生まれた子供は、使い込んで柔らかくなったぬき綿に包んだり、柔らかくなった木綿布に包んだりした。

 「ウブギ」

(呼び名) 

○ウブギと呼ぶ。 東信全域

 「ウブギを作る時期」

○出産前に作った。 東信全域

 「オミヤマイリの着物」  

(呼び名)

○カケイショーと呼んだ。(平井寺・塩沢)          

 ○特別な着物は作らない。(塩田、平井寺を除く)

          佐久川西(茂田井、山部、塩沢を除く)

 

 「三歳の祝い着」 

○特に祝いをしない。(塩田)

          (佐久川西、塩沢を除く)  

                            

 第二節 女性の晴れのかぶりもの(P469)  人生で最も大きな晴れの機会の一つである婚礼に女性がかぶりものをする。それはかつては真白なワタボーシであった。真綿で作られているのでこう呼ばれているが、その形からオケワタとも呼ばれていた。また、後に普及した布で作られたものをツノカクシと呼んだが、真綿でできているものでもツノカクシと呼ぶこともあった。

 「嫁入りのかぶりもの」

○ワタボーシと呼んだ。(明治、平井寺 ・大正5年、塩沢)

 「材料」

○ワタボ-シ、オケワタは、真綿をのりで固めて作ったものであ

 る。 (東信全域)

 「葬式のかぶりもの」

○何もかぶらない。(平井寺・塩沢)

 「手ぬぐい」

 他家を訪問したり、客に対応したりするとき、改まって手ぬぐいをかぶることはなかった。 (東信全域)

 第二節 喪章と履物 (P473)  葬式のときに喪主が襟に白い布をかけるのは東信全域でほぼ平均的にみられる。しかし、これは同じ集落内であっても宗派によって白い布をかけたりかけなかったり一定ではない所と、宗派に関係なく全戸が行う所とがある。白い布は、細く折った白いさらしの布で、これを喪主が肩から胸元まで襟にそってかけるのである。この布をカタギヌと呼んでいる所が多いが、特にきまった呼び名のない所も多い。東信地方では現在も行われている。

 「喪章」 

(カタギヌ)

○カタギヌといって白布をかける。(塩沢)

○呼び名は決まっていないが、白布をかける。(平井寺)

 「棺付きの履物」

○わらじを履いた。(大正、平井寺・大正、塩沢)

(履物の始末)

○お寺のお供にやる家もある。(塩沢)

 第四節 衣服の新調と中間着 (P475)

「お盆と正月がいっしょに来たようだ」 ということばは、うれしさをあらわすことばとして使われている。それは、盆と正月にはいろいろなごちそうが食べられるとともに、新しい着物を着ることができたからであろう。

 「正月や盆の衣服の新調」

(正月に新調した着物)

○セチイショーと呼んだ。(塩沢)

 「ふだん着と晴れ着との中間着」

(チョイチョイギ)

○チョイチョイギと呼ぶ。 塩田(平井寺を除く)

(ヨソユキ)

○ヨソユキギと呼ぶ。(塩沢)

 第六章 雨具・雪具・防寒具(P479)

 屋外での仕事や遠出の際には雨や雪が気にかかる。それに対する備えとして代表的なものはみの(蓑)、かさ(笠)である。梅雨のときや夕立のある時期は、家を出るときはたとえ晴ていても雲行きによってはみのとかさを持って行くものであるといわれており、農家にとってはなくてはならないものであった。東信地方では雪のときにおける脚支度は簡単であり、ワラグツやワラハバキの類は北信地方に比べると、その数は少ない。カンジキの類も雪を踏むカンジキはほとんど見られず、滑りどめのためのテツカンジキが多く使われた。

 第一節 雨具・雪具 

 雨降りにみのを着たのは東信全域においてである。しかし、雪降りになるとその利用はずっと少なくなる。これは北信地方に比べて大きな違いである。特に北信地方においては雪が多く降っているときにみのとかさをつけて雪かきをすることが多いが、東信地方では雪の小降りになるのを待つか、雪がやんでから屋外に出ることが多い。したがって、みのとかさを着て雪かきという姿はあまりみられなかった。

 「みの(蓑)」

(材料)

○藁でわらで作った。(東信全域)

○わらで作ったみのを買った。(平井寺)

 「呼び名」

○ミノと呼んだ。(昭和30年、平井寺・塩沢) 

 第二節 雪のときの脚支度(P483)

 雪が降るとわらで作ったくつを履いた。その利用度については北信地方に比べると少ないが型として三つあった。長めのもの、短めのもので、スリッパ型のもの三つである。

 「ワラグツ」

(長めのもの)

○フンゴミと呼んだ。(平井寺)

○コモグツと呼んだ。(塩沢)

 「短めのもの」

○短めのものを使った。(塩田、別所を除く・塩沢)

○ワラグツと呼んだ。(塩沢)

「スリッパ型のもの」

○スリッパ型のものを使った。(平井寺)

○ツマガケと呼んだ。(塩沢)

 「ワラグツを使っていた時期」

(大正時代まで使っていた。(平井寺・塩沢)

 「カンジキ」

(鉄のカンジキ)

○鉄のカンジキをはいた。(平井寺)

○カンジキと呼んだ。(平井寺)

(カンジキを使った年代)

○大正時代まで使っていた。(平井寺)

 「ハバキ」

(ハバキの使用)

○雪の中を歩くときにハバキを使った。(平井寺)

(布製のハバキ)

○紺木綿の布で作り、ハバキと呼んだ。(平井寺)

 第三節 防寒具(P489)

 冬の寒いときには、真綿で作ったものをかぶった。これはワタボーシと呼ばれ軽くて保温力があり、家にある材料で作るために金もかからなかったので多く使われた。このワタボーシは、頭と顔をすっぽりと包むため暖かくてよいが、耳まで覆うので人の話がよく聞こえないという欠点はあった。しかし、子供や老人の冬のかぶりものとしては重宝がられ、昭和20年ごろまで使用された。それ以後は防寒用の帽子の普及により使用されなくなった。このほかにズキン、オコソズキンもあった。

「かぶりもの」

○ワタボウシをかぶった。(平井寺 大正時代)

(その他)

○特にきまったかぶりものはなかった。(塩沢)

「綿入れの袖無し着」

○チャンチャンコという。(平井寺 大正時代)

 

 第七章 紡績・染色・保存(P492)  かつて家族のきものは主婦が自分で作った。家で糸をとり、家で織り、家で仕立てるということは農村ではごくあたりまえのことであった。そのため嫁入りの大切な条件として幡が織れる、縫い物がができるということがあげられていた。家族の着物を自分の家で一切作り上げるためには、まず材料が家にあることが大事なことであった。

 第一節 紡織 (P493)

麻布を織ったとする所は北信地方よりわずかに多く、それは小県地方、南佐久地方に多い。織った布をアサヌノ、アサオリという所が多く、単衣の着物やカタビラなどに使われた。これは肌につかないので、夏の汗ばむときに着るのはよいが、暖かさや柔らかさという点では木綿に劣ってった。したがってアサヌノハ木綿の普及とともに着物として用いられることはずっと少なくなり、織ることも少なくなった。しかし、本来この布は丈夫なので布そのものが残っている家もある。木綿糸は、綿をよって作るのであるが、その布を竹の管などに巻きつかせたものがヨリコである。コヨリを買ってきて、それから糸とりしたという所も多かった。原料である綿は自分の家で栽培するが、種をとり、ほかしてヨリコにするのは商店などに頼む所が多っかた。このヨリコから糸にするのは女の人たちで、ヨナベの仕事として行っていた。だが、木綿糸が比較的手軽に入手できるようになってからは買うことが多くなった。

 「麻布」

○麻布を織った。 (平井寺 大正時代)

 (呼び名)

○アサオリと呼んだ。(平井寺)

「用途」

カタビラや単衣物などの着物として使った。(平井寺)

つむぎを織ったのは昭和の初めまでとする所が多いが、昭和三、四十年まで織っていたいた所や現在も織っている所などもある。布を織るときに床に腰をすえ、両足をのばした姿勢で織る機械を使っていたという所がある。これをジバタ(地機)と呼ぶ所が多い。この呼び名は機械の型からいわれているもので、タカバタ(高機)に比べて低いためである。また、織るときの動作がいざるようなしぐさであることからイザリバタと呼んでいる所もある。そのほかにジバタゴ、ヒキバタ、ハタシ、シキバタシなどと呼ばれている。つむぎを織ったのは昭和の初めまでとする所が多いが、昭和三十,四十年まで織っていた所や現在も織っている所などもある。

「山野の植物による紡織」

(ふじ)

○ふじ布を織ったという所はない。 (東信全域)

 「ヨリコ」

○ヨリコから糸取りをした。(大正、平井寺 ・大正10年、塩沢)

「つむぎ」

(つむぎ織り)

○つむぎを織った。(昭和30年、平井寺・塩沢)

(用途)

○自家用にした。(平井寺)

○販売もした。(平井寺)

 「ジバタ」

 (使用)

○ジバタを使っていた。(明治末、平井寺 明治20年、塩沢)

 「呼び名」

○ヒキハタと呼んでいた。(塩沢)

○バッタオリと呼んでいた。(平井寺)

 第二節 手染めと保存 (P498)

 科学染料が普及する前は、自分の家で糸や布を、茶、ねず、黄、黒などに染色するのに草や木を用いることが多かった。これは草木染といわれるもので東信地域全体で行われた。草木染めに用いる染料の原料は多く、茶色に染めるくるみ、黄色に染めるこなし・きはだなどのほかにくぬぎ、ぬるで、ずみ、たまねぎなども使われた。

 「草木染め」

○くるみの皮を使った。(明治、平井寺)

 (こなし)

○こなしの木の皮を使った。(塩沢)

  (鉄など)

○鉄くず類で染めた。(大正5年、塩沢)

(保存)

虫除けにたばこを紙に包んで用いた。(大正、平井寺・塩沢)

  第五編 食生活 (P503)

 人々は生活を営むために食事をする。その食事などにおける食物の材料を食料という。食料は毎日の食事においてもっとも主要な食物の材料となる主食料と、それにそえて出す食物の材料である副食料とに分けることができる。東信地方の昭和初期の食事のようすをみると、どこでも米の中に麦や雑穀をはじめ野菜類を細かく刻んで混ぜて食べることが多かった。このほか、一日一食は粉物を用いる所が多く、特に夕食の献立には、小麦粉で作るめん類が欠かせなかった。

  第一節 主食料 

 長野県のなかでも東信地方は、内陸の地にあるため寒暖の差が大きい。また、菅平高原をはじめ浅間山麗の村々は、高冷地のため冷涼な気候である。このような厳しい自然環境の中でも、日常生活における主食料は米をたてまえとしていた。それだけに、今から五、六十年以前には、とれた米は一粒もむだにすることなく大切に扱われてきた。上田、佐久盆地などの水田地帯でも、米を節約するためにほかの物を混ぜ合わせて食べる傾向が多くみられた。その大半が大麦を混ぜ合わせた麦飯であったが、そのほかあわ、きび(黍)などの穀物を混ぜ合わせて食べていた所もみられる。また、穀物以外に野菜類を生のまま、あるいは干して細かく刻んで入れた混ぜ飯が作られた。これらは、たとえ混ぜ飯でも米の飯であった。しかし、地域や時代、季節によって、いつでも米を主食料として用いることができたわけではない。ときには、小麦やそば、ばれいしょ、さつまいも、かぼちゃなどが用いられることもあった。

  「米」  

 (麦飯)

○麦を三分ぐらい混ぜた。(平井寺)

○麦を二分ぐらい混ぜた。(平井寺・塩沢)        

 「米以外食料」

(穀物)

○小麦を食べた。(平井寺・塩沢)

 第二節 救荒食料 (P509)    

 かつては天候不順や災害、あるいは戦乱などにより、食物に不自由することがたびたびあった。そうした困窮時に食べる食料を救荒食料という。救荒食料といわれるものの中には、ときには雑穀も含まれているが、そのほとんどが山野で採取した草木や木の実であった。東信地方の場合、よもぎ、トトキ(つりがねにんじん)ふき、くず、わらびなどの葉・茎・芽・根などが多く利用された。また、どんぐり、くり、とちなどの木の実も利用されたこのようなものを凶作時には、餅や団子にして食べることが多かったのである。天明の大飢饉(1783~1789)の際にはとくにひどく、小県郡真田町では田畑や道路の草は根まで掘りつくして食べてしまい、ろくな物が無かったといわれている。また、小県郡武石村鳥屋ではわらを臼でひいて団子にした物を食べたという。このほか、小県郡真田町真田、佐久市小宮山では松の木の甘皮を食べたりするなど、食べられる物はすべて食べて飢饉をしのいだといわれている。上田市久保では、大正時代末ごろ、わらびの根、もち草、ごぼうの葉などを餅について食べたという。救荒食料として、一方においてはいつ襲ってくるかも知れない凶作や飢饉に備えて貯蔵しておく備荒食料があった。米、麦、あわ、ひえなどの穀類を貯蔵しておいた所が各地にみられるのである。南佐久郡臼田町清川では、明治時代初めにムラに<b>郷倉</b>があり、毎年各戸で米、麦、豆、そばなどの収穫物の中から少しずつ出し合って備荒用として貯蔵しておいたという。(平井寺には、平井寺峠へ通ずる旧道の林東馬碑の西側にあった。) また、小県郡丸子町和子では、大正時代初期まで区で郷倉を持ち、もみを保管しておいて、食糧不足の家々に八月、九月ごろ貸し出し十二月ごろ返済させたが、常時、郷倉にはニ十俵から三十俵くらい保管してあったという。備荒食料としてはこのほか小県郡東部町東田沢、南佐久郡八千穂むら佐口などのように、御飯を干したホシイイや大根葉、野沢菜などの野菜を乾燥させて蓄えておいた所もあった。また、上田市小井戸では、昭和二十五年ごろまで備荒用としてすべりひゅを乾燥して俵に入れ、土蔵に数俵蓄えていたという。                        

 「救荒食料」

(雑穀類・芋類・草木の実・草木の根・草木の葉、茎、芽・

 その他) 

○わらびの根を食べた。平井寺

〇おけらの根を食べた。(塩沢)

(草木の葉・茎・芽)

〇よもぎの葉を食べた。(塩沢)

 「備荒食料」

(穀類)

〇米、もみを蓄えておいた。(塩沢)

 第三節 野生の植物 (P514)

 食料としては、かつて山野に生えている植物に依存することが大きかった。特に山が多く自然に恵まれている東信地方では、山野に自生する山菜や木の実、きのこ類を多く利用した。

 「昔利用した植物」

○わらびを食べた。 塩田

○ふきを食べた。 (塩田(平井寺を除く)

〇ぜんまい食べた。(塩沢)

〇うどを食べた。(塩沢)

〇コーレッパ、コーレンバ、コレンバ、コレ、ギボシ、

  ジビキ(おおばぎぼうし)を食べた。(塩沢)

○竹の子を食べた。(平井寺)

 「芽を食べたもの」

○たらの芽を食べた。(塩田)

〇トトキ(つりがねにんじん)を食べた。(塩沢)

○かやの芽、つばなを食べた。(平井寺)

 

 

 

 「葉を食べたもの」

○ トトキを食べた。(平井寺・塩沢)

〇なずなを食べた。(塩沢)

○おけらを食べた。(平井寺・塩沢)

 「根・葉を食べた物」

○せりを食べた。 (塩田 平井寺を除く)

○わらびを食べた。(平井寺)

○くりを食べた。(平井寺・塩沢)

○あけびを食べた。 (塩田、平井寺を除く・塩沢)

○くるみ、鬼ぐるみを食べた。(平井寺)

○かやの実を食べた。(平井寺)

「きのこ」

(しめじ類。しめじ・むらさきしめじ・いっぽんしめじ・きしめじを食べた。 (塩田、平井寺を除く・塩沢)

○リコボー、リコーボー、ジコボー、ナメタ(ぬぬりいぐち)を食

 べた。(塩沢)

○くりたけを食べた。(塩沢)

○あみたけを食べた。(塩沢)

○ウシビタイ、ウシビテエ(くろかわ)を食べた。(塩沢)

○フジタケ、フジキノコを食べた。(塩沢))

○ならたけを食べた。(塩沢)

 「今利用している植物」

(茎を食べる物)

○わらびを食べる。 塩田

○ふきを食べる。 (塩田 平井寺を除く)

○ぜんまいを食べる。(塩田 別所を除く)

○竹の子を食べる。(平井寺)

○コガミ、オガミ、コゴミを食べる。(塩沢

「芽を食べるもの」

○たらの芽を食べる。塩田

○トトキを食べる。(塩沢)

○かやの芽(つばな)を食べる。(平井寺)

 「葉を食べるもの」

○トトキを食べる。(平井寺)

○なずなを食べる。(塩沢)

○せりを食べる。(塩沢)

○おけらを食べる。(平井寺)

 「根・葉を食べるもの」

○せりを食べる。 (塩田(平井寺を除く)

○わらびを食べる。(平井寺)

 「実を食べるもの」

○くりを食べる。(平井寺・塩沢)

○あけびを食べる。(塩沢)

○くるみ・鬼ぐるみを食べる。(平井寺・塩沢)

○イビ、エビ、クマエビ、マツエビを食べる。(塩沢)

○山なし、こなしを食べる。(塩沢)

○じなしを食べる。(塩沢)

○ヨツズミを食べる。(塩沢)

○かやの実を食べる。(平井寺)

○山桜の実を食べる。(塩沢)

 

「きのこ」 

○しめじ類。しめじ・むらさきしめじ・いっぽんしめじ・きしめじ

 を食べた。(塩田、平井寺を除く・塩沢

 ○リコボー、リコーボー、ジコボー、ナメタ(ぬぬりいぐち)を

  食べた(塩沢)

 ○くりたけを食べた。(塩沢)

 ○あみたけを食べた。(塩沢)

 ○ウシビタイ、ウシビテエ(くろかわ)を食べた。(塩沢)

 ○フジタケ、フジキノコを食べた。(塩沢)

 ○ならたけを食べた。(塩沢)

 

 

 

 第四節 魚介類の利用 (P529)

 海に接していない長野県でも、さらに内陸の地域にある東信地方では、海でとれた魚介類を食べることは容易ではなかった。しかし、人間に必要なたん白質を補うとなると、海、川、湖沼の魚介類などによるところが大きかった。

 「海産の魚介類」

○にしんを食べた。(塩田 平井寺を除く)

○越後産のにしんであった。(塩沢)

○にしんは商店から買った。(塩沢)

○さけを食べた。(塩沢)

 

(ます)

○ますを食べた。(塩沢)

○越後産のますであった。(塩沢)

 「淡水産の魚介類」

(かじか) 

○かじかを食べた。(平井寺)

○かじかは付近の川にいた。(平井寺)

○かじかは自分でとった。(平井寺)

(どぶ貝)

○どぶ貝を食べた。(平井寺)

○どぶ貝は付近の池とった。(平井寺)

○どぶ貝は自分でとった。(平井寺)

 第五節 肉類及び特色ある食べ物(P536)

かつては獣肉を食べることを避ける傾向があった。四つ足の動物の肉を食べるのを避けたのは仏教の五戒の一つ、殺生戒の影響もあったからだといわれる。しかし、山がちな所では古くから狩猟が行われ、山うさぎやしか、いのしし、くまなどをとって食べていた。さらに、明治時代以降の食生活の変化は、しだいに農山村部にも広がり獣肉を食べる機会が多くなっていった。また、小県郡東部町西宮のように古くから各家庭で卵や毛をとるために飼育されていた鶏やうさぎなどの肉、は災難がくるといって食べなかった所もある。その反面、佐久市高呂などのように正月や年の暮れ、祭りなどの特別な日にはつぶして(殺して)食べたり、古くなって卵を産まなくなった鶏をつぶして食べたりした所もある。南佐久郡南牧村板橋では事故死した馬の肉を食べた。一貫目くらいずつに分けて食べたが、その肉の代金は死んだ馬の供養として馬頭尊の碑を建てるお金にしたという。

 「昔食用とした動物」

(うさぎ)

○山うさぎの肉を食べた。(昭和25年、平井寺)

○鶏肉を食べた。 (塩田 手塚を除く)

○馬肉を食べた。(塩沢)

○豚肉を食べた。(塩沢)

○山羊の肉を食べた。(平井寺)

 (飼育した動物)

○鶏を飼った。(塩沢)

 「特色ある食べ物」

(はちのこ)

○地ばちを食べる。(平井寺)

○はちの子をいって食べる。(平井寺・塩沢)

 ○いなごは油でいため、しょうゆと砂糖で味付けして食べる。

    (塩沢)

○蚕のさなぎをいって食べる。(塩沢)

○蚕の蛾を洗い、いって食べた。(塩沢)

○どじょうをごぼうやねぎなどと一緒に煮てドジョージルにして食

 べる。(塩沢)

○たにしの泥をはかせて煮て食べる。(塩沢)

 第二章 貯蔵 (P543)

 四季の変化のある我々の地域で、年間を通して物を不足なく食べるには、特に冬季間の貯蔵が必要である。また、凶作や飢饉に備えての貯蔵は、人間が生存していくためにはどうしても必要なことであった。穀類の貯蔵では、長期に貯蔵するものは土蔵や物置、納屋などに収納した。ふだん食べるものは、台所の板の間のコクビツなどに入れておいた。

 第一節 穀類の貯蔵 (P544)

 米、麦などの穀類や、そば、大豆などの雑穀類は、長時間の貯蔵に耐えられるように十分に乾燥させ、通気性のある俵やかますに入れて、土蔵や物置などに収納しておいた。土蔵や物置のない場合は、台所の板の間などを利用した。さらに、土蔵や物置などの中に、コクビツ、コクバコ、ツブシなどと呼ばれる一定の収納施設をつくり、その中に穀類を入れ、虫やねずみなどの害を防ぐようにした所も多い。

 「米の貯蔵」

(容器)

○俵へ入れた。 (塩田)

○かますに入れた。(塩沢)

○もみでコクマスへ入れた。(塩沢)

 「収納場所」

 物置、納屋へ収納した。(平井寺)

「貯蔵量」

○一石以上貯蔵していた。(平井寺・塩沢)

 「麦の貯蔵」

○俵へ入れた。(平井寺・塩沢)

○かますへ入れた。(塩沢)

○コクマスへ入れた。(塩沢)

 「収納場所」

 土蔵へ収納しておいた。(平井寺・塩沢)

「そばの貯蔵」

(容器)

○かますへ入れた。(塩沢)

○コクマスへ入れた。(塩沢)

○布袋、麻袋へ入れた。(塩沢)

○一斗未満の貯蔵であった。(塩沢)

 

「大豆の貯蔵」

 (容器)

○かますへ入れた。(塩田、平井寺を除く・塩沢)

○俵へ入れた。(塩沢)

○コクマスへ入れた。(塩沢)

(貯蔵量)

○一斗未満の貯蔵であった。(塩田、平井寺を除く・塩沢)

 

 第二節 越冬野菜の保存 (P552)

 雪の多い北信地方では、屋外に大根や野菜を積み、周りをわらで巻いて土寄せして保存する方法が特色となっていたが、寒さの厳しい東信地方では、水分の多い野菜を生のまま保存するのに気をを配る必要があった。

 「大根・にんじん・ごぼうの保存」

(野外)

〇ソトムロを作って入れておく。(塩沢)

〇アナカコイを作って入れておく。(平井寺)

 (屋内)

〇ウチムロに貯蔵する。(塩沢)

 

 その他の野菜の保存

(ねぎ)

〇根に土をつけて片屋根をかけておく。(塩沢)

〇物置においてもみがらをかけておく。(塩沢)

「芋類」

〇じゃがいもは一時使いにウチムロに入れておく。(塩沢)

○じゃがいもはアナカコイに入れておく。(平井寺)

〇じゃがいもは穴を掘って入れ、土をかぶせてわらをかさののよう

 にして覆う。取り出し口をわらでふさいでおく。周囲に灰をま

 く。(塩沢)

 第三節 保存の方法 (P562)  食料の貯蔵法ののなか、生の物を乾燥させて保存する乾蔵と呼ばれる方法がある。この方法には、原料をそのまま太陽に当てて乾燥させる丸干しをはじめ、原料を加工してから乾燥させる切り干し、開き干し、煮干しなどがあり、食料ごとにその方法が工夫されてもっともよい状態で保存されるようになった。丸干しをするものに大根葉や野沢菜がある。これらは縄で編んだり、棒にかけたりして軒などの日陰につるして乾燥させたのでカケナとも呼ばれ、汁の実に利用した所が各地にあった。

 「日干しによる保存」

(丸干し)

〇葉、野沢菜を干す。(昭和30年、塩沢)

〇かきを干す。(塩沢)

(切り干し)

○大根を切って干した。(平井寺・塩沢)

○夕顔を薄くむいてほす。(平井寺・塩沢)

○夕顔を薄くむいてほす。(平井寺・塩沢)

 「煮干し」

○ぜんまいをを煮て干した。(平井寺)

「塩漬けによる保存」

○野沢菜、サンジャクナを漬ける。(塩田)

○白菜を漬ける。(平井寺)

〇大根を付ける。(塩田、別所を除く)

○なすを漬ける。(平井寺・塩沢)

〇うりを漬ける。(塩沢)

〇みょうがを漬ける。(塩沢)

 「味噌漬け」

○大根を漬ける。 (塩田、塩田上本郷を除く・塩沢)

○にんじんを漬ける。(塩田、別所を除く・塩沢)

○野沢菜を漬ける。(平井寺)

〇なすを漬ける。(塩沢)

○うりを漬ける。 (塩田、塩田上本郷を除く・佐久川西、塩沢を

          除く)  

○しその実を漬ける。(平井寺)

○昆布を漬ける。(平井寺)

(塩沢のお袋さんの作ってくれた味噌漬けのおくわは、三本の指に

 入ります。)

 「かす漬け」

〇うりを漬ける。(塩沢)

○しろうりを漬ける。(平井寺)

 

 「ぬか漬け」

○大根を漬ける。 (塩田)

○かぶ、こかぶを漬ける。(平井寺)

〇うりを漬ける。(平井寺)

○なすを漬ける。(平井寺・塩沢)

(酢漬け)

〇大根を漬ける。(塩沢)

〇らっきょを漬ける。(塩沢)

〇みょうがを漬ける。(塩沢)

 第三章 調製(P569)

 食品の調製には炊事、醸造、製造、調理などの方法がある。この章では炊事、醸造、製造などを扱うことにする。炊事は、米・麦・あわ・ひえ・きび(黍)などの主食料や芋類を煮炊きして食品を作ることである。米だけを主食として食べるようになったのは、戦後の昭和三十年代になってからであり、それ以前は米と麦、その他の雑穀、野菜などを混ぜて食べた所が多い。この章では種々の穀類や野菜類を入れた飯と、水を多くして炊事する粥についてまとめた。

 第一節 炊事(P571)

 現在は米だけの飯を毎日食事の中心としている家が多いが、昭和二十年ごろまでは米を節約したり、米が不足していたため、米に麦・あわ・きび(黍)大豆などの雑穀や大根・大根葉・芋類などの野菜、きのこを入れて炊いた飯を常食としていた家が多かった。米と大麦を混ぜた麦飯、米とあわを混ぜたあわ飯、米ときびを混ぜたきび飯など、それぞれ粒のまま混ぜて炊いて食べた。このほか、米と大豆を混ぜた豆飯、米と小豆を混ぜた小豆飯などを食べた。これらのうち東信地方の各地で見られるのは、米と大麦を一緒に炊いた飯である。

 「雑穀の炊事」 

(大麦) 

○粒のまま米と混ぜて炊いた。(平井寺)              

 「野菜類を入れる」

(芋類)

○米にじゃがいも、さつまいもを混ぜて炊いた飯をイモメシと呼ん

 だ。(平井寺・塩沢))

(菜)

○米に葉っぱを混ぜて炊いた飯をナメシと呼んだ。(平井寺)

(大根) 

○米に大根を混ぜて炊いた飯をダイコンメシと呼んだ。(平寺)・

 塩沢)

 「雑炊」 

(雑炊を作る機会) 

○御飯が足りないときに作る。(平井寺)・塩沢)

 「粥」 

(その他)

○病人や産婦が食べるように作ってやる。(塩田、別所を除く・

 塩沢)                      

第二節 味噌・スマシ・タマリ・甘酒(P575)  味噌は毎日の食事に用いられるもっとも重要な調味料であるとともに、副食品としても重要であった。そこで各家庭では、古くから自分の家で製造することが多かった。昔は三年味噌が一番おいしいといって、毎年仕込んだものを順次三年たった味噌から食べていた所もあった。そのころになると、塩と大豆、そして各家の味噌桶とがなじみ、家庭の味が出たのである。味噌の原料は、かつては大豆と塩だけであった。これは空気中の天然のこうじ菌を利用して仕込んだのである。したがって、味噌を「ミソではなく、ニソ(ニ素)である」といった言葉さえあった。南佐久郡南牧村板橋では昭和四十年ごろにも、家によっては豆と塩だけで仕込んでいたという。今は大豆と塩、こうじで仕込むが、こうじは米こうじが多くなってきている。

「味噌の原料の割合」

(こうじ)

○大豆一升に対して三合未満のこうじをいれる。(平井寺)

 「塩」

○大豆一升に対して四合未満のこうじをいれる。(平井寺)

 「作る味噌の量」

(昔作った量) 

○一人当たり一斗未満であった。(塩田・塩沢)

「今作る量」

〇一人当たり五升未満である。(塩沢)

○一人当たり五升以上一斗未満である。(平井寺)

 「味噌玉」

(並べる)

○七日くらい並べておいてからかきこみをした。(塩田・塩沢)

〇10日くらい並べておいてからかきこみをした。(塩沢)

 「味噌造り用の用具」

 (釜)

○釜で大豆を煮た。(塩沢)

(桶・樽)

○ハンギレを使った。(ハンギレと呼ぶおおきな桶)(平井寺)

 

「つぶす」

○煮豆を臼に入れてきねでつぶした。(平井寺)

○わらじを履いて煮豆を踏みつぶした。(平井寺)

○ウソカケを履いて煮豆を踏みつぶした。(平井寺)

〇大きな板・のし板・ブチバン・ブチマナイタを使った。(塩沢)

 「新しい機会」

○機械(味噌すり器・大豆の粉砕器・味噌つぶし器械・ミキサー)で煮豆をつぶすようになった。(しおだ 手塚を除く)

 「スマシとタマリ」

(スマシ)

○ミソコシですってスマシをとった。(平井寺)

〇スマシをとった。(戦前ー塩沢)

「甘酒」

(祭り)

〇ムラの祭りのときに作った。(昭和15年塩沢)

第三節 豆腐としみ食品 (P586)

 自家製の豆腐を作るには、ほとばした大豆を石臼でひき、大釜で煮て豆乳を作る。これを木綿のコシブクロに入れてしぼり。手を入れてかきまぜることができるくらいの温度になったら、ニガリを入れてかき回す。少し固まりはじめたところで入れるのをやめ、カタバコ(豆腐箱)に流し入れて固めた。佐久市香坂では、大正時代中ごろまで、村祭りや法事、年取りなどのときに作った。一箱は大豆二升にニガリを一合ぐらいの目安で作った。東信地方で豆腐を作る機会は、法事や祭り、正月、婚礼、盆などのときである。しかし、自分の家では作らず、豆腐屋で買っていた所がほとんどである。また、小県郡丸子町高梨のように豆腐屋に大豆を持って行き、大豆と交換した所もある。しみらせて作る食品には、シミドーフ・コーリモチ・カンザラシ・シミダイコンなどがある。東信地方は冬寒気が強いので、しみ食品をたくさん作っている。

 「シミドーフ」

  シミドーフはその代表的な食品であり、冬場の寒気の強いときに作る。豆腐より硬めに作り、およその大きさに薄く切って夜しみらせて、わらにはさんで編み陰干しにして乾燥させる。乾燥したシミドーフは、水にもどしてやわらかくし、味噌汁や煮物に入れて食べた。

 「コーリモチ」

 コーリモチはシミモチとも呼び、ついた餅を切ってわらで編み、水に浸して軒先につるして凍らせてから干す。上田市平井寺では、寒中四、五日水に浸しておいて日陰でしみらせ、一切れずつ紙に包んで、わらで編んで裏の軒先につるしておいたという。

 「カンザラシ」

 カンザラシは、佐久市香坂では凍らせた餅を陰干しにし、それを粉にしたものをいい、小県郡東部町本海野ではふかした米を寒い時期にさらして粉にひいたものである。食べるときに熱湯を加えて食べるか、病人の代用食として用いられた。

 「シミダイコン」

 シミダイコンは、大根を二つ割りにして縄で編んだり、あるいは輪切りにしてゆでたものを縄で真ん中を通したりして、軒先につるしておいて凍らせて作った。北佐久郡軽井沢町発地では、最も寒気の強い一月下旬から二月中旬、大根を洗って皮をむき、輪切りにしてゆで、ふじつるで中心部をさし通して大きい輪を作った。これを川に浸して一週間ぐらいあく抜きをしてから、日当たりのよい所につるして乾燥させた。乾燥させたものは袋に入れて蓄え、適時水に浸してもどして味噌汁の中に入れて食べた。

 「しみ食品」

「コーリモチ」

コーリモチを作る。(平井寺 大正時)

コーリモチは餅を水に浸して日陰で凍らせ、一切れずつ紙に包んでわらで編んでつるしておく。

コーリモチは熱湯をかけて食べた。

 第四節 調味料 (P593)

 飲食物の味を調える調味料にはいろいろなものがあるが、ここでは塩、砂糖、香辛料、食用油、だし汁など、食料の味付けに用いられたものについてまとめる。塩は、生きていく上で欠くことのできない最も大事な調味料である。ここでは塩の保存と、塩に関する習俗についてまとめる。塩はかつては精製されていないあらじお(粗塩)であって、俵やかますに入れて運ばれてきたが、東信地方は北信地方と同様にかますに入れたものが多かった。かますのまま買って、桶やかめの上に二本の棒やすのこ板、編んだ竹を乗せ、そこにかますを置いて保存した。こうしておくと、塩の中に含まれているニガリがとけ出し、下の桶やかめにたまった。このニガリは多く自家用の豆腐を作るときに使った。

 「塩」

(保存) 

○かますに入れたまま、桶やたる、かめなどの上に置き

  ニガリを垂らした。 (昭和二十五年、平井寺)

 「砂糖」

 黒砂糖を使った。 (塩田 手塚を除く)

 ワジロを使った。 (平井寺)

 「食用油」

○菜種油、種油を使った。(塩田 手塚を除く)

○ごま油を使った。平井寺

 「だし」

(動物) 

○煮干しからとる。(塩田 手塚を除く)

○かつおぶし(削りぶし・かつぶし)からとる。平井寺

  第四章 粉食(P601)

 食品の中で、水車や石臼でひいた粉で作った食品の占める割合はかなり多かった。それはたんに、お茶うけや食事の合間にたべるというだけでなく、主食料を食品化するのに利用した重要なもので、その種類も多い。現在では小麦粉が多く利用されているが、ほかにそば粉、米の粉なども使われている。かつては、大豆やもろこし、ひえ、きび、とち、どんぐりなどの粉や、小麦粉を作るときにできるふすまという小麦の皮のくず、くず米なども用いた。粉の食べ方にはいろいろある。粉をそのまま食べるものとしては、大豆をいって粉にしたきなこや、大麦をいって粉にひいたこうせんが東信地方各地でみられる。このほか、黒豆のきなこ(大地堂、中島、親沢)や、しいな粉のこうせん(小宮山、余地)が作られた。さらに、そば粉には湯を入れてかいて食べた。
   「煮るもの」

(呼び名)

○ツミイレと呼ぶ。(塩沢)

○ハサミコミと呼ぶ。 (平井寺・塩沢)

○スイトンと呼ぶ。 (塩田)

  「使用した粉」

○小麦粉を使った。(平井寺)

○米の粉を使った。(塩田、平井寺を除く)

○今も小麦粉を使う。(塩田)

 「ゆでるもの」

(うどん)

○夕食に食べた。(平井寺)

○主食たしとして食べた。(平井寺)

○ときどき食べた。(塩沢)

 「焼くもの」

 (ヤキモチ)

○夕食に、残り飯と小麦粉を混ぜてコネツケを作った。(塩沢)

○小麦粉でヤキモチを作る。(塩田、平井寺を除く)

(ウスヤキ)

○コビル(間食)にウスヤキを作る。(塩田・塩沢)

○小麦粉でウスヤキを作る。(塩田・塩沢)

 (その他)

○主食がわりにしいな米の粉でホドヤキを作った。(塩沢)

「蒸すもの」

(オヤキ)

○七夕にヤキモチを作る。(塩沢)

○お盆にヤキモチを作る。(塩沢)

 (使用する粉)

○小麦粉でオヤキを作る。(塩沢)

「いるもの」

(コーセン) 麦をいってコーセンにした。 平井寺

○コーセンに砂糖と塩を加えてなめる。 平井寺

 「きなこ」

○大豆できなこを作った。(塩田・塩沢)

○きなこを餅、団子、握り飯などにつける。(平井寺・塩沢)

 

「田植え」

 (昔の間食)

○むすびを食べた。(塩田、平井寺を除く・塩沢)

○ヤキモチを食べた。 平井寺

○シイナダンゴを食べた。(平井寺)

 (今の間食) 

○むすびを食べる。(塩沢)

○パンを食べる。(平井寺)

○ラーメンを食べる。(塩沢)

 「刈り入れ

 (昔の間食)

○むすびを食べた。(塩田、平井寺を除く・塩沢)

○ヤキモチを食べた。 平井寺

○シイナダンゴを食べた。 平井寺

(今の間食) 

○パンを食べる。(平井寺・佐久川西、茂田井を除く)

 「山仕事」

 (昔の間食)

○ウスヤキを食べた。(平井寺)

○ウスヤキヤキモチを食べた。(平井寺)

○シイナダンゴを食べた。(平井寺)

 (今の間食) 

○パンを食べる。(平井寺・佐久川西、茂田井を除く)

○餅を食べる。(塩沢)

 第三節 煮物 (P618)  副食品の一つに煮物がある。煮物を作る機会は大きく分けると、盆、正月、モノビなどの改まったときと、日常の生活におけるときとである。改まった日には、豆腐や芋類を使用するなどの共通点を見出すことができる。田植えのときにはにしんと昆布を使って煮物を作る所が多い。日常の生活での煮物は、各家ごとに工夫して家庭の味をいるため、その材料は種々雑多であり、そこに地域性を見い出すことはむずかしい。しかし、煮物の材料は身近に入手できる野菜類を多く利用しているので、収穫時期とあわせて季節感を味わうことができる。春から夏、秋にかけては、なすやかぼちゃ、ささげ豆などが用いられ、秋から冬、春にかけては、大根やごぼう、芋類などを用いた煮物を作る所が多い。特に冬場は、体を温めるために、大根を利用した煮物が多く作られた。年間を通じて利用されたものには、保存のできるばれいしょ、ごぼう、にんじんなどの野菜がある。

「日常の煮物」

 (春から夏、秋にかけて作るもの) 

○大根・にんじん・かぼちゃの煮物を作る。(平井寺) 

〇大根、にんじん、ばれいしょで煮物を作る。(塩沢)

 「日常の煮物」

(秋から冬、春にかけて作るもの)

じゃがいも・菜・大根干しで煮物を作る。(平井寺)

 第四節 改まった折の食品 (P624)  

 

 年中行事の折々の祭り、人の一生における誕生・結婚・葬式・建築儀礼など、ふだんと異なる改まった日には、それ相応の食品が用意された。こうした改まった折の食品には、餅、ダンゴ・コワメシなどがある。餅は、餅米を臼ときねでつき、形を整えて作る。餅をつく機会は、年の暮れや正月、道祖神祭り、三月節句、五月節句、十日夜などがあげられる。それぞれ正月に神々に供えるオソナエモチ、正月に食べるノシモチ・マメモチ・ノリモチ・アワモチ、道祖神祭りのアンコロモチ、ヒナマツリのひし餅、十日夜のボタモチが作られた。また、間食としてのアラレモチやオカモチもついて食べた。農事に関連して、田植え後、稲こき後のノーモチ(久保)、蚕あげのコナモチ(金剛寺)などが作られた。人の一生においては誕生の祝いに作るボタモチ、結婚式に出す座づけの餅、葬式後の四十九餅がある。

 「餅」   

○ 年末にオソナエ(モチ)をつく。(平井寺・塩沢) 

○年末にアラレをつく (昭和25年、平井寺 )

○年末にカキモチをつく。平井寺

(二月から夏にかけてつく餅)

〇道祖神祭りにはドーロクジンモチを作る。(塩沢)

(祝いにつく餅)

〇お祭りのときにオソナエモチを作る。(塩沢)

  「団子」

(冬に作る団子)

〇1月31日に米の粉でオニノメダマを作った。(塩沢)

〇初牛に米の粉でマユダマを作る。(塩沢)

 (春から夏にかけて作る団子)

○彼岸に米の粉でダンゴを作る。(平井寺)

〇十九夜念仏に米の粉でダンゴを作る。(塩沢)

〇花見のとき、米の粉でアヤメダンゴを作る。(塩沢)

(葬式に関係して作る団子)

○葬式に米の粉でダンゴを作る。(塩田、塩田上本郷を除く・

                 塩沢)                  

「こわ飯」

(祭りに作るこわ飯)

○祭りのときに赤飯を作る。(平井寺・塩沢)

○祝い事のあるときに赤飯を作る。(平井寺・塩沢)

(こわ飯を配る範囲)

○親類・親戚に配る。(塩田・塩沢)

〇近所に配る。(塩沢)

〇来客に出す。(塩沢)

「慈養食」

(穀類)

 ○米の粉をかいたタテコを食べた。(平井寺)

(魚介類・肉類・乳製品)

○魚・小魚を食べた。(平井寺)

○卵を食べる。(平井寺・塩沢)

○やぎ乳を飲んだ。(平井寺)

(野菜類)

〇かんぴょを食べた。(大正、塩沢)

(その他)

○くず湯を飲んだ。(平井寺)

 「大みそかの年取り魚 (昔)

○(塩)さけを食べた。(平井寺)

〇さけか、ますを食べた。(塩沢)

「大みそかの年取り魚 (今)

 ○さけか、ぶりを食べる。 (塩田 手塚を除く)

〇さけか、ますを食べる。(塩沢)

 「正月の年取り魚 (昔)

 〇ムイカドシ、14日のマツメドシ、ハツカヨウガツ、クラビラキに

 はさけか、ますを食べた。(塩沢)

 

 「正月の年取り魚 (今)

〇六日にはさけを食べる。(平井寺)

 〇ムイカドシ、14日のマツメドシ、ハツカショウガツにはさけか、

 ますか、ぶりか、こいをクラビラキにはさけか、ますを食べる。  (塩沢)

(節分の年取り魚)(昔)

〇さけを食べた。(平井寺)

 「雑煮」

(食べる日)

○ 正月一日の朝食べる。(塩田、平井寺を除く・塩沢)

 ○正月三日の朝食べる。 平井寺

 

 「 雑煮に入れたもの」

○ シミドーフを入れた。(平井寺)

○ちくわを入れた。(平井寺)

○かつおぶしを入れた。(塩沢)

○ねぎを入れた。(平井寺・塩沢)

 雑煮に入れたもの」

○ちくわを入れる。(平井寺・塩沢)

○なるとを入れる。(平井寺)

○肉を入れる。(平井寺・塩沢)

○にんじんを入れる。(塩沢)

○ねぎを入れる。(平井寺・塩沢)

 (雑煮以外のもの)

○正月二日にはとろろを、三日にそばを食べる。(塩沢)

 第五章 食制 (P647)  食生活のうち、食事の回数、呼び方、献立、場所、作法などをどのように行うか、その行動が社会生活においては自然に一定の習慣が形成される。食事についてもその回数や時間は、それぞれの季節における、仕事の量や内容から定まっている。また、家族が集まって食事をする場所や座席、分配方法も一定していた。さらに、結婚式や葬式などのとき食べる食べ物や、神仏への供物などもきまったいた。さらに、これは食べるのを避けたほうがよいなどというものもいい伝えられてきている。
 第一節 夏季の食事の回数

 かつて日本人の食事の回数は一日に二回であったという。今日では一日三回が普通になっているが、農家では仕事の量や季節の日照時間に合わせて、食事の時間が異なっていた。夏は日が長く農繫期のため、夜が明けないうちに野良に出て働き、日が暮れてから家路を急ぐという生活をしていた。そのため、一日に三度の食事では体がもたず、その前後にも食事をした。一番多い所では、上田市諏訪形のように朝食前・朝食・昼飯前・昼飯・昼飯後・夕飯・お夜食と七回とる所もあった。しかし、最も多いのは、朝食・昼食前・昼食・昼食後・夕食の五回の食事で、朝食は午前六時から七時、夕食は午後八時前後の一時間以内にとっている所が多い。それぞれの食事の呼び名はアサハン・アサメシ・ヒルメシ・オチャズケ・ユーメシ・オヨハン・ヨーメシという三度の食事以外は、すべてコビレ・オコジョハン・オチャなどと呼んでいた所が多い。上田市平井寺では、午前五時ごろにオチャ、七時ごろにアサハン、十時ごろにオチャ(お茶)、正午にはヒルメシ、午後三時ごろにコビレ、八時ごろにユーメシをそれぞれ食べた。これは現在でも同じように行っているようである。

 「一日に六回食事をする」 (平井寺)

○朝昼晩と朝食前、昼前、昼過ぎに食事をする。

○朝食前の食事を午前五時に食べる。

○朝食を午前七時に食べる。

○昼前の食事をオチャという。

○昼食をオヒルという。

○昼食を正午に食べる。

○昼過ぎの食事をコビレという。

○昼過ぎの食事を午後三時に食べる。

○夕食をユーハンという。

○夕食をユーメシという。

 「一日四回食事をする」 (塩沢)

○朝昼晩と昼過ぎに食事をする。

○朝食をアサメシという。

○午前六時に食べる。

○昼食をヒルメシという。

○昼食を正午に食べる。

○昼過ぎの食事をオコビレという。

○昼過ぎの食事を午後四時に食べる。

○夕食をユウハンという。

○夕食を午後八時に食べる。

 第二節 冬季の食事の回数(P656)

 冬になると日が短くなり、夏のように朝早くから日が暮れるまで、戸外で仕事をすることも少なくなる。そのため七回も食事をする所はない。朝食前の食事、午前と午後の間食が少なくなったり、四回もしくは五回の所が多くなる。特に冬の長い夜にヨナベシゴト(夜業)をするために、夕飯を早く済ませてヤショク(夜食)を午後10時ごろとるとことがあった。各食事の呼び名は夏の場合と同様で、季節による変化はない。佐久市横根では、冬期にはアサハン・ヒルメシ・ユーハンを食べ、ヨナベシゴトの終わった夜の11時ごろに、そばや餅をヤショクとして食べて寝たという。

「一日五回食事をする。」

朝昼晩と昼前、昼過ぎに食事をする。平井寺

朝食を午前七時に食べる。

昼前の食事をオチャという。

昼前の食事を午前10時に食べる。

昼食をヒルメシという。

昼食をオヒルという。

昼食を正午に食べる。

昼過ぎの食事をコビレという。

昼過ぎの食事を午後三時に食べる。

夕食をユーハンという。

夕食をユーメシという。

 「一日に三回食事をする」(塩沢)

(朝)

○アサメシという。(塩沢)

(昼)

○ヒルメシという。(塩沢)

(晩)

○ユウハンという。(塩沢)

○午後六時に食べる。(塩沢)

 第三節 食事をする場所(P662)

 ふだんの食事は一家そろってきまった場所でとっていた。多くはお勝手やいろりのある部屋で、調理する所に近い場所にあった。しかし、小県郡真田町真田、小県郡青木村馬場では来客のある場合は茶の間で客と一緒に食べたり、真田では盆の期間には仏様の前で、正月には歳神様の前で食べたりした。また、上田市小井戸のように季節によっても場所が変わることがあった。例えば、冬の寒い朝はお勝手から暖かい茶の間に食事をとる場所を移した所もみられるのである。食事をする座席はきまっており、いろりの座と同じように、主人は上座に、主婦は調理場に近い主婦のの座に位置するということが考慮されていた。主人と主婦の座がきまり、その間に老人と子供の座がきめられて、めいめいがハコゼンで食事をした。なべ(鍋)かま(釜)は食事の世話をする主婦の近くに置いたり、家族の座の真ん中に置いたりする所が多かった。第二次世界大戦後の民主化によって、個人個人が尊重されるようになるなかで、食事の座が明確でなくなった。また食事の場所もいろりからこたつに、ハコゼンからテーブルに変わり、さらにテレビの普及によって、テレビが家族の座をきめる条件になっている傾向もみられる

 「食事をする部屋」

○勝手で食事をする。(昭和35年、平井寺・塩沢 ) 

○いろりの周りで食事をした。(昭和35年、平井寺・塩沢 ) 

 「座席」

(家族の座席)

○上座に主人が諏訪両社、その向かいに主婦が座った。(塩沢)

(子供の座)

〇主人の右手と左手に座った。(塩沢)

 第四節 食事の作法(P666)

 家族で食事をする場合は、めいめいのゼンバコ(お膳)をならべ、中に入っている茶わんに目上の人から順に御飯をよそってもらい食べた。御飯をよそうのは主婦の役割であったが、このような権利もやがて跡取りの嫁に渡されていった。これを小諸市与良では「シャモジを渡す」といっている。汁やおかずはめいめいが自由にとって食べていた所が多い。特に漬物や煮物は、なべやおお皿から各人が自由にとったりするほか、どんぶりに盛った物を年寄りから回してとることもあった。しかし、よその家から餅や赤飯などのもらい物をしたときは、小県郡真田町真田では主婦か主人が分配してくれたり、上田市矢沢では特別な魚類などは主人が分配したりした。あるいは北佐久郡望月町高呂では缶詰やこいなど、貴重な品は主人がめいめいに分配した所もある。

「食品の分配」

(分配するひと)

〇主婦が分配する。(塩沢)

○母、嫁、娘などの家にいる女性が分配する。(平井寺)

 

 「とりまわす順序」

○主人、兄、姉妹の順にとる。(平井寺)

○特に順序はなく、めいめいが好きなだけとる。(塩田、平井寺を除く)

「めいめいがとるもの」

〇漬物はめいめいがとる。(塩沢)

〇煮物はめいめいがとる。(塩沢)

「とりまわす順序」

〇主人、兄姉妹の順にとる。(平井寺)

〇特に順序はなく、めいめい好きなだけとる。(塩田、平井寺を除く・塩沢)

 「大食・偏食」

(人一前以上食べる者)

○オーマクライという。(平井寺・塩沢)

 「偏食をする者」

○カタク(グ)イという。(塩田・塩沢)

 「食前・食後の作法」

(毎日の食事)

 食前に「ごちそうさま」という。(平井寺)

 食前に「いただきます」という。(塩田、別所を除く・塩沢)

 食後に「いただきました」という。(平井寺)

 

 第五節 改まったときの食事(P671)

 お祝いごとや不幸などがあると各家々では、親しい人々や社会的なつながりをもつ人々を招待する。いわゆる人呼びをするのである。その際、ふだんの日に出す食事と異なる食事を出す。東信地方では地域によって、祝儀の主食には赤飯(オコワ・コワメシ)餅、そばなどを不祝儀にはダンゴ、黒豆入りのオコワ、餅、チマキなどを出す副食品についても、おおよその献立がきまっていた。小県郡丸子町高梨では、昭和30年ごろまで、祝儀のときにはオコワ、しょうゆ汁、吸い物、皿、刺身、ハチザカナ(鉢魚)、ヒラ、三種、テシオ、盛り込み、ムシ、酢の物を作るのが例であった。皿にはさけを、刺身にはまぐろ、つまを、ハチザカナにはますを使った。ヒラには長芋・なると・昆布を、三種にはするめ・たつくり(ごまめ)かずのこの三品を、テシオには浸し豆・きんぴら・浸し物を、盛り込みには昆布・すし・里芋・にんじん・板つけ・ちくわ・りんごを盛り合わせた。ムシのなかには、卵・鶏肉・ぎんなん・板つけを入れ、酢の物には生いか・大根・にんじんを入れたという。葬式には、豆腐の汁、吸い物、ヒラ、トリズマリ、盛り込みを作るのが例であった。吸い物にはしいたけ・青み・なるとを、揚げ物にはごぼう・にんじん・さつまいも・豆・長芋をつかった。ヒラには長芋・ちくわ・しいたけを、トリズマリには豆・青み・きんぴら・ひじき・豆腐を四つほどに切ってす(簀)で巻いてから煮たチマキなどを使い、盛り込みにはれんこん・丸芋・にんじん・こんにゃく・ちまき・ごぼう・きのこなどをつけたという。

「祝儀のときの献立」

○赤飯をふかし、吸い物を作る。(平井寺)

〇赤飯、オチツキノモチを三個から五個作り、そば、れんこんを用

 意する。(塩沢)

 「不祝儀のときの献立」

ダンゴ、餅を作り、てんぷら、ショージンアゲの魚を出す。(平井寺)

〇黒豆入りのオコワ、ダンゴ、ショージンアゲ、野菜のてんぷら、

 きんぴら、ひじき、れんこん、豆腐のお吸い物、おから、油揚げ

 を使う。(塩沢

 「酒盛り」

(ムラ組)

○区総会のとき、集会場、公会場で酒盛りをする。(平井寺)

 「祭り」

○春秋のムラの祭りのとき、社務所で酒盛りをする。(平井寺)

〇秋祭りのとき、氏神様で酒盛りをした。(大正、塩沢)

〇金毘羅様で酒盛りをした。(昭和17年、塩沢)

 第六節 供物と俗信(P682)

 神仏へ供え物をする機会は、年取り、正月、盆、祭り、初物がとれたときなどの特別の日だけでなく、毎日供える所も多い。しかし、神棚に供える機会は、年取り、正月、祭りなどの年中行事の折に供える所が多い。仏壇には命日、彼岸、盆などに供える所が多い。供え物は、神棚には茶わんや皿を使って御飯・赤飯・餅・お神酒などのほかに、生の米(高梨)・初穂(茂田井)・生の魚(高野町)など、生物が備えられる。仏壇にはお仏器や皿などを使って、御飯・ダンゴ・てんぷらなどを供える所が多い。

 「神への供物」

(年取りの日の供物)

〇神棚にいり米を供える。(塩沢)

 

 (正月の供物)

○神棚に餅を供える。(平井寺)

 「祭りのときの供物」

○神棚に餅を供える。(平井寺)

「特別な日の供物の処理」

○下げて食べる。(平井寺)

〇家族で食べる。(塩沢)

 

(供物の容器)

〇茶わんに入れておく。供える。(塩沢)

〇重箱に入れて供える。(塩沢)

 「仏への供物」

(毎日の供物とその処理」

○仏壇に供物を供える。(塩田)

○仏壇に御飯を供える。(塩田)

〇仏壇に供えたものは下げて家族で食べる。(塩沢)

(命日の供物)

〇仏壇に御飯を供える。(塩沢)

〇仏壇に水を供える。(塩沢)

(特別な日の仏への供物の処理)

〇家族で食べる。(塩沢)

(供物の容器)

〇金わんに入れて供える。(塩沢)

 「食い合わせ」

(食い合わせをさける物)

○すいかとてんぷら (平井寺・塩沢)

〇うなぎと梅、梅干し。(塩沢)

○各行事、食事(食い合わせなど)すべてにおいて、東信地方だけ

 でも、いろいろな違いががある。