残しておきたい文字を載せています。

記1

司馬

太初元年(紀元前108年より史記の執筆を開始・天漢3年、友人の李陵を弁護し武帝に激怒され宮刑に処されるが、

征和年間(紀元前92~89年に完成
「本記12編」、「表10編」、「書8編」、「世家30編」、「列伝70編」、列伝の末尾は司馬遷の自序である

「太史公自序が附され、司馬氏一族の歴史や、「史記」の執筆のに至った経緯・背景を述べている。   
「和田武志氏解説」司馬遷は父の遺志を受け継ぐ形で太史令となった。生まれながらに歴史を記途する任務を

負わされた。
二十歳の時から東南と中原への壮游をはじめた。
 まず江淮(こうわい)地方、今の江蘇(こうそ)と安徽
(あんき)に行き、漢の劉邦(りゅうほう)の

功臣韓信(かんしん)の貧窮時代の話を取材した。
南下して、江西の盧山(ろざん)に上がり、

「兎(う)(伝説上の夏(か)王朝の始祖)の九江をひらいたさまを観」
、浙江(せつこう)・紹興(しょうこう)南の会稽山(かいけいざん)に登った。
ここは禹の葬られた地で、その墓は「禹穴(うけつ)」と呼ばれる。 
禹の後衛(こうえい)とされる越王勾践(こうせん)も、ここ会稽山で臥薪嘗胆(がしんしょうたん)して復讐を

とげたことが『史記』に描かれているが、実地に取材したものである。
禹穴をたずねた以上、舜(しゅん)古代伝説上の皇帝。禹に譲位した)の葬られた所を

たずねないわけにはいかない。
 そこでかれは舜の終焉の地であると伝えられている湖南の
九疑(きゅうぎ)山に登り、さらに湘(しょう)水を下って長沙(ちょうさ)へ行き。

汨羅(べきら)江に臨んで

屈原(くつげん、楚の政治家・詩人)の死を悼んだ。
楚文化の余恵を存分に吸い込んだかれは、さらに北上して姑蘇(こそ)「蘇州」と五胡で

呉王闔閭(こうりょ)と夫差(ふさ)の霊をとぶらかってから、斉(せい)と魯(ろ)へいったと思われる。
両地での滞在期間おそらくいちばん長かったのではないか。 魯では孔子の教化の遺風を実地にたしかめ、

孔子の人格に心から傾倒した。
そのあと、山東南部と江蘇北部に足をのばし、孟嘗(もうしょう君封是ぜられた薛(せつ)の地をおとずれた。

のちに彼はこう述べている。
「わたしは薛の地を訪れたことがあるが、鄒(すう)や魯とちがって、村里に乱暴無類な子弟が多かった。

そのわけを問うたところ、
『むかし孟嘗君が天下の任侠の士や無類の徒をまねいて薛に入れたのが六万余家もあったからだろう』

という返事だった。 
世に孟嘗君は食客を好み、かれらを歓迎したと伝えられるがその評判は大げさではないのだ」(孟嘗君列伝)
彭城(ほうじょう)(今の徐州)では、劉邦・蕭何(しょうか)・曹参(そうしん)・周勃(しゅうぼつ)

・樊噌(はんかい)といった漢初の英雄の生家や
 古戦場をたずね、 古老の話に耳を傾けた。
そのあとさらに、河南の開封(かいほう)へ行った。開封は戦国魏(ぎ)の都城大梁(たいりょう)である。
「もと大梁の廃墟をおとずれたとき、土地の人がこう語った。 

『秦が梁を破ったとき、河や溝の水を都の大梁に注ぎ込み、

三ヵ月で都城を陥落させた。王は降伏を申し出たが、とうとう滅んでしまった。』(魏世家)
 魏の減亡は、信陵(しんりょう)君が退けられて酒びたりとなって死んだのと関係がある。

司馬遷は信陵君を崇拝していたから、大梁では信陵君の故事をたずねてまわった。

それらの故事のうちもっとも精彩を放つのは、信陵君みずから轡(くつわ)をとって夷問(いもん)の
番人侯瀛(こうえい)をむかえる場面である。
「わたしは大梁の跡を通ったさい、いわゆる夷問をたずねてみた。夷問とは都城の東門のことだ。 

天下の諸侯のなかには士を好む者もいたが、しかし信陵君は巖穴(がんけつ)の隠者に接し、

微賤の者との交際を恥じなかったのは、この一事をみてもうなずける。

その名が諸侯に冠たるのも大げさではないのだ。 
されば漢の高祖は大梁をとおるごとに、人民に命じて
信陵君を祀らせ、その祭事を絶えさせなかったのである」(信陵君列伝)
開封の東、徐州にいたる一帯は戦国末期には楚(そ)の領地であった。 
当時、楚はすでに陳(ちん)(今の河南東部の淮陽(わいよう)に遷都し、のちさらに寿春(じゅしゅん)

(今の安徽北部の寿県)に遷ったから、戦国四公子のもう一人の立役者春申(しゅんしん)君の故城や宮室は

淮陽にあったのだろう。
開封に行く途中、司馬遷がこの地に立ち寄ったことは、「わたしは楚に行って春申君の故城・宮室を見たが、

まことに壮大なものだった」
と言っているからも確かであろう
大梁に行ったあと、さらに西に向い、簣(き)山に登った・ 

「わたしは簣山に登ったが、山上には許由(きょゆう)の家(つか)があるとのことだった」。
首都、長安に戻った。 のち朝廷の使命を帯びて二度目の外遊に出た。戻ったのは36才頃
周公が没して五百年後に、孔子が現れ、孔子の死後、五百年が過ぎた五百年前に孔子は『春秋』(魯国の年代記)を作ったが、

それ以後
今日まで記録は途切れ歴史を書き継ぐものはいなかった。この間に多くの忠臣、義士が現れたが、

私は太史でありながら彼らの事績を記録できなかった。 父、司馬談(たん)の願いだった、五百年間の歴史の空白を埋め、

『春秋』をつなぐために、父の死(司馬遷三十六歳)、三年後太史令になった。
(こう言う物事が好きなのでもう少し。)
人生は十中八九意のままにはならぬ。  過去にも多くの人が私と同じ不幸な目にあった。  

けれども彼らは不幸を乗り越えて不朽の名誉を完成させたではないか。
かつて文王は羑理(ゆうり)囚われていた時、『周易(しゅうえき)』を推断して拡めたではないか。  

孔子は陳蔡の厄にあって『春秋』を作ったではないか。
屈原は江南へ追放されて『離騒(りそう)』を著わし、左丘明(さきゅうめい)は失明して後に

『国語(こくご)』を編さんた。
孫びんは両足を切断されて兵法を編み出し、 呂不意(りょふい)は蜀の地に流されて『呂氏春秋』を作った。
韓非子は、泰国に囚われて『説難』、『孤憤(こふん)』の名篇を書いたではないか。
こうした不屈の業績はすべて心に怒りが積もってはけ口がないため、過去の出来事を書き記した後の人に

警戒を鳴らそうとしたのだ。
こうして司馬遷は宮刑の恥に絶えて『史記』を書き続けた。尭・舜など五帝から始めて漢の武帝が白麟(はくりん)を獲た年まで二千年の歴史を記述した。

 史記の思想より                                       戻る


記2

高野山 蓮華定院と塩田 塩田関係の「蓮華定院に残されている過古帳」一部分 「しおだ町報昭和40年11月5日 第113号

天文年間
塩田関係十五・ 真田(実田)関係十四・ 浦野関係五・ 丸子関係三
弘治、永禄、元亀年間
真田(実田)関係二十二・ 塩田関係二・ 祢津関係八 ・浦野関係六
 戒名  年  月  日  俗名号等
 位一房  天文十年(1542年)    五月十四日  塩田城
 帰空秀義 天文十一年(1543年)   三月十七日  塩田、 東光寺 
道 泉  天文十二年(1544年)   三月十日  塩田、 尾張 守 
妙 西  天文十三年(1545年)   六月十六日  塩田、 飯嶋の母 
妙 善  天文十四年(1546年)   三月三日  塩田、 肥前守母儀 
善 高  天文十四年(1546年)   十一月 塩田弥 宣 
 妙 寿 天文十九年(1551年)   体月四日  塩田、 竹内丹波守 
良 儀  天文二十年(1552年)   三月一日  塩田庄、 手塚新左衛門 
 貞操妙忠 天文十九年(1551年)   十月七日 塩田、 出羽殿尼公 
 妙 貞  天文二十二年(1554年)  二月二日  塩田前山、 福沢殿ノ局
 塩田城  天文二十二年(1554年)  八月五日
 塩田城 落城
 権大僧都泉光  永禄七年(1564年)     五月二十六日  塩田ノ庄、 前山寺西光坊
 道 林  永禄六年(1563年)  七月二十六日  塩田、  世尊院
 道  繁  永禄十年(1567年)  三月吉日 手塚郷、 中沢源右衛門
  妙 範  元亀二年(1571年) 七月二十一日  塩田、 平井寺中原
 真興大徳  元亀二年(1571年) 六月二十一日  塩田、  似 心  (塩田肥前守
 道 幸  天正八年(1580年) 三月二十一日  塩田、手塚又右衛門為父
 祐仁大徳  天正十八年(1560年) 三月二十一日  塩田、 中禅 住満月坊
 道 清  慶長二年(1597年) 正月二十一日  塩田ノ住、 西松本甚右衛門
 道 海   慶長六年(1601年) 二月十八日日
 塩田荘、 小嶋九右衛門
 道 正  慶長九年(1604年) 三月二十一日  塩田荘、 前山郷 宮沢喜兵衛
 道 慶  慶長十四年(1609年) 十月二十一日   塩田柳沢、関田平右衛門
 月桂妙窓  慶長十六年(1611年) 八月二十一日  塩田松本、池田長門守内儀
 桂山妙覚  慶長十七年(1612年) 三月二十一日  塩田下之郷、工藤善作
 玉雲妙清  慶長十七(1612年) 九月五日  スズコ、  助兵衛内方
 毛利妙範  慶長十九年(1614年) 八月六日  スズコ、 飯島宗心妹
 浄  琳  元和七年(1621年) 正月六日  塩田別所、 桜井市左衛門
 妙 海  元和九年(1623年) 四月九日  下之郷、 神宮寺内盛卯
 月空妙霜  寛永二年(1625年) 十一月十一日  スズコ村、 関次左衛門
 妙  璃(注)  寛永十一年(1637年) 正月  ゴカ村、 高田九右衛門為母

 

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記3

( 

 

         

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『平井寺について 』             紙上講座      東川多寿男氏
〇 平井寺村は、旧東塩田地籍から内村に越す、平井寺峠の入口にある集落で、富士山東塩田が西松本・東松本に分かれた時代も
 平井寺村は小さい集落であるのに独立した一村をなしていた。
 其の原因は現在のところ明らかではないが、何か歴史的支配関係か、あるいは寺院関係か、また特殊な事情があったのか、

まったく不明である。
〇 平井寺は塩田からの内村街道と、 塩田城から柳沢の羽二重の湯、 石神の吉沢城を経て砂原峠に向かう古い

街道の交差点にあたり塩田平として重要な場所であった。
 集落の南方にある古川神社の附近に駒形城(小屋城)があって内村街道をおさえている。 附近には、小屋岳、

小谷久保、

若宮、小産田、垣結というような山城関係の地名が残されており、また豪族関係の牧場もあったとみえて、

平井寺峠のふもとには、「駒形下、駒形、常斎、中原、飼馬口、馬除、栗尾(くりょ)、」等の地名があり

駒形神社がありまつられている。
〇 なお平井寺という地名のおこりを考えてみると、寺院関係地名であるかも知れない。
 天台宗や真言宗が盛んであった平安時代に独鈷山を中心にした山岳仏教が盛んであった。

内村にも塩田にもその遺蹟が残されている。
 そのころこの平井寺にも
殿城山平井寺といわれるお寺あったといわれている。
 奥の院が独鈷山の頂上に近い入峠という所にあつて現在でも寺やしきと呼ばれ、井戸(清水)が残されている。
 その奥の院にあった鐘と「殿城山」という額が保存されていたが、鐘は戦時中供出してしまったので、額だけが残されている。(窪田家)

 

しおだ町報   昭和37年10月5日  第77号     

 

 

      (上田小県誌歴史研究紀要(昭和49年度)では第一次塩田城址総合調査のまとめより)

 

      「平井寺の牧について」牧場

 

    平井寺には牧場に関係する小字名が多くある。

古川神社から見て、東側、尾根川を挟んだ所に小谷岳(こやたけ)、その下部には駒形下、上部には駒形、があり、また、ませぐち、飼馬口、馬除、などの地名がある。

  旧平井寺峠、馬頭観音の手前には山の神社が祀られ、耳切りの川を渡った左側には、御諏訪様が南向きに祀られ、かつては御柱祭が行われました。

  上田小県誌歴史研究紀要(昭和49年度)では第一次塩田城址総合調査のまとめが記載されています。

   信濃塩田北条氏について(特に鎌倉幕府との関係)について・・・・長野県史主任編集委員の黒坂周平氏。

        信濃守護所とその歴史的考察・・・・長野県史編集委員長文学博士の一志茂樹氏。

        塩田前山地方の地形・・・・長野大学教授高野豊文氏。

       用水堰と耕地・・・・信濃史学会評議員小穴喜一氏。

 

  昭和50年8月、各先生方が塩田城の後ろ側、独鈷山を目指して平井寺側から登って行く時に、大事な事を発見したと一志茂樹先生お話の中に、ありました。

   (抜粋)

    なお、ここで一つ大事な事を発見したことを申し添えておきたいと思います。

それは、平井寺の奥の独鈷山の真裏まで調査にゆきまして、そこに私牧の跡を見つけたことです。

 前々から、北条氏が 塩田城に拠っている以上、牧場がなくてはならない、相当な私牧をもっていない限り信州に号令することはできない。 北条氏ともあろうものが有力な牧場をもたないはずはない。 わたくしは、この牧場はその一つだろうと、とっさににらんだわけです。

   おそらく、北条氏は、上田市川西から青木村の入奈良本の奥地にまで及んでいるかつて勅旨牧(御牧)であった

塩原牧を重点的に使っていたにちがいないが、最も手近かな私牧は、この平井寺の牧場であったと思います。 

 ここには「駒形」とか、「駒形下」とかいう地名がみられますが、これは牧場の神を祀った個所であります。         それから「ませぐち」という地名もあります。 これは牧場の入口ということで、北佐久郡御代田町の塩野牧跡の

馬瀬口などと同じ意味のことばです。 また、「飼馬口」という地名もあり、「馬除(うまよけ)」という地名も

あります。 この「馬除」というのは、古い地名でして、望月牧跡や長倉牧跡に残っている「野馬除け」と同じ地名

でありまして、放牧地域周辺柵と堀とを指した言葉であります。 このような牧場関係の地名をたくさん拾うことのできる個処です。 しかも、ここには小さい砦が残っていますが、これもおそらく牧場に関係あるものと思います。この私牧跡を発見したということは、今回の大きな成果の一つだと思いますが、こういう新しい史跡は、今後、

克明に探せば、まだ出てくるような気がするのでございます。

 しかし、それを篩い分けて、村上氏時代に入ってのものなのか、、遡(そ)って北上氏の年代のものかを区別することは、なかなか難しいのであります。 いまは、北条氏こpろの研究をしておりますので、何でも北条氏に贔屓しまして、北条氏の方へもってゆきますと、かえって贔屓のひきだおしとなって、とんでもないことになりますから、なるべく点を辛くつけ、年代を下に下げて見、どうしても下がらないとき、だんだん上にあげてみるといった工夫と態度とか、地方史研究では非常に大事なことであります。 どうしても過度の郷土愛が学問研究の邪魔になる場合が少なくいのであります。

                   【今回の調査で、ほぼ信濃守護所跡の推定が出来、上田市教育委員会が文化庁に対し、発掘の補助申請を出されているいる。】

 

 

                    (上田小県誌 第一巻 歴史篇上(ニ) 古代、中世より)

                    

             平井寺の牧遺跡

    旧東塩田村平井寺部落の南端にある古川神社(旧熊野権現)と平井寺湖(人造の用水池)の間の道に沿って、

明治10年古安曾村地順帳によると牧関係の地名(駒形・駒形下・飼馬口・馬除)と遺構とみられる石積が残っており、伝承地名では馬寄場、駒背橋が伝えられている。 該地字の現状をみると「駒形」は、北面する急斜面であり、斜面上端に物見跡がある。  物見跡へは、急坂ではあるが若宮を通って達することができる。 この斜面の中途の岩棚に小祠が祀られていたが、急な斜面のため、お祭りがしにくく現在は「駒形下」へ分祀され、古川神社とほぼ向き合って石の小祠が立っている。 土地の人はコマガタサンと呼んでいるが祭神、由来については、詳かでない。

  三月初旬、関係の一族が集まって、氏神祭をおこなっているが、現在馬に係わる行事は行われていない。

飼馬口・馬除は、人造の平井寺湖の下側にあり、平井寺峠への旧道の両側に接している。 「飼馬口」は現状は

水田・畑地で、小盆地状の地形の入口に当たる約一反歩程のほぼ平地である。 すぐ北側に接して川ぞいの地峡状の所に「馬寄場」とよんでいたという小平地があ る。 「馬除」は旧道の西側にあり、現状は畑地(旧状は水田)と、これに続いている西側から下ってきている山麗部の山林からなっており、東へゆるく傾斜をしている。 東側は飼馬口と共に尾根川の沢に接し、北は栗尾(くりょう)の奥から流れる沢で中原と対し、東側・北側共深さ2~3Mの谷で区切られている。 西側は急峻な山地となり南側は小胡桃・横尾の方面へ谷ぞいに開けている。 

    馬除地区には、牧の遺構らしいものは見当たらないが、馬除の北側の栗尾・中原の傾斜面を東西に一直線に200m位の長さにわたって、高さ1mから1.5m位の人口の石積み(ヤツクラ)がある。 石積み内部は、中小の石であり、薬用人参を作る時に、まわりの畑の石を拾い出して寄せたものだという話もあるが、一直線に下っていること、畑の両側に石を寄せてないこと、また、石の量からみて、単なるヤツクラとは考えられない。

断面をみると場所により石積断面略図のようであり、                     

斜面の上端方㋑では低く、下端方㋺では高い。 また、中原地区の道端に㋩のようなM型の一部と思われる箇所も見受けられる。 なお、この石積みの両側の畑地は、いずれも高い石垣をとってほぼ平地化されており屋敷地跡を思わせる。 またこの中原地区は、木曽義仲に縁のあった中原某の居住地であったという伝承もある。 字駒形下の

「馬場」「駒背橋」の地名が伝えられている。

「馬場」は尾根川に沿った段丘上で、古川神社のほぼ前面にあたる場所にある。南北70~80m、東西15~20m位の帯状の平地で、西側を尾根川に削られて次第に細くなってきているが馬場の形状を残している。 中原地区から駒形下へ渡る橋を「駒背橋」と呼んでいたというが現在は、架かっていない。

   以上の地名・地形・遺構・伝承等から、当地における牧地の範囲を推測してみると平井寺周辺図の実線で囲んだ地域、即ち飼馬口・馬除と駒形・小屋岳の地区が相対している谷の細まった部分を下端(入口)にして、それよりも上方に伸びている尾根川に沿った

  栗尾・平井寺峠・入峠方面の窪地一帯が牧地と考えられる。 概観すると、三方は、独鈷山を主峰とした奥に入るにつれて急峡になる山なみに囲われ、尾根川ぞいの平井寺側にだけ構築物を設ければ、牧地形成ができる地域である。 平井寺湖南方の小胡桃・大胡桃は、現在でも畑と、一部に水田がみられ、湧水と草生は豊かであり、牧地形成には事欠かないが、入峠方面は急坂・断崖・岩場が多く牧地には適さないとみられる。

  牧場の規模は、地域の状況からみて30頭前後の放牧が可能ではないかと思われる。 経営の時代については、江戸期、及び明治以降においても当地が、番所・牧地として使われた記録・伝承がないこと、また、地名の成立・存続からみて、戦国時代以前の成立が考えられ、栗尾と背中合わせになる塩田城や、平井寺に近い吉沢城に拠った土豪による経営が想定される。

 一志茂樹氏は、昭和五十年八月に、この地を踏査したとき「塩田北条氏の私牧と考えられるのではなかろうか。」と語っていた。

                                                                                                                                              戻る


記4 

「平井寺青年会創立70周年」
昭和33年5月5日、平井寺青年会は、本年創立70周年を迎え、午後1時より塩田町公民館長はじめ

来賓多数のもとに盛大に挙行した。
 当青年会は明治二十三年、時まさに日本は文明開化の息吹も高く急速な進歩発展の途上にあり、
 

この時に当たり青年こそ

郷土発展原動力であると自覚し、時代の進歩に遅るる事なく相寄つて修養に励み、郷土の発展を計るべく時の

青年有志によって結成され集成会と称して発足したが後に平井寺青年俱楽部と改称し明治二十七年に至り

日清戦役が起り義勇奉公の儀を入れ、平井寺青年義会改称して十五才より三十才迄の青年を網羅し、夜学会の開催、青年文庫の設置等を行って修養に専念した。
 爾来七十年時代変遷にともないその姿は幾様にも変化を重ねて来たが、常に時代の先覚として活発に運動を展開し、大正二年改年記念として現共有山林組合より山林を借り受け植樹を行い、その収益金により次代を背負う学童に対しより有能な社会人として

成長する様就学奨励を計る就学奨励部事業をはじめとして郷土発展に幾多の偉大な功績を残しているが、

特に過去七十年の間一貫として

学習精神を尊重して来た事はに意義深いものがある。 

現在会員一同は、この大先輩諸氏の尊い意志を信条として目的達成につとめている。

    「しおだ町報」昭和33年6月5日 第37号(集合写真有)           戻る


記5

〇 平井寺から江戸時代になって林徳左衛門という儀民がでている。 約二百九十年前、

(この記事は昭和37年です)延宝三年という年は大飢饉の年で、
  上田藩の収納米が六六、八一七表のところ二二、000表も減じた「この飢饉のため農民はのびるをとり

塩に和し、木の芽をつみ草の根を堀或いは焼酎のかすをあら慷にてこし、
  団子に練りて一時をしのがんとせしに、その毒にあたりて膨張し死せるもの道路に充満す」という有様であった。上田藩はこの飢饉に際しても年貢をなお加増して、米にして四斗五升俵を収納せんとしたため、徳左衛門は百姓の苦しみを救わんとして、三斗八升を一俵にせんと、藩強訴した。
 その罪により延宝三年十二月二十六日死刑に処せられたが、その翌年からは、徳左衛門強訴した、

三斗八升を一俵として、藩に納めるようになった。
 平井寺村では徳左衛門の徳をしのび、平井寺山に自然石でその碑を建立した。そして「林徳扇大神」の幟をたてて、その霊をまつった。

   しおだ町報   昭和37年10月5日  第77号

 林徳左衛門顕彰祠 徳左衛門は平井寺の人       平成17年12月26日

 

 

 

顕彰祠は、「古川神社」境内の石祠の前に、命日の十二月二十六日に建立されました。
除幕式には、古川神社氏子総代・岡森武雄氏はじめ関係の方々が参列され、故人を偲びました(重田武一郎)

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記6

馬頭観音

 

 旧平井寺峠口の丸彫立つ像「亍時(ときに)安永七 戊戌竜集(ぼじゅつりょうしゅう)(1778)九月日造立

(安山岩)
平井寺の集落を通る一本道は、古川(ふるかわ)神社を過ぎると新道を横切りトンネルの少し手前で峠道に続いています。さらに尾根川を渡りしばらく行くと
 左手台上の木立の中に馬頭観世音の石造が見えてきます。
像の高さは約88㎝、胴回りは44㎝です。  

四角の安山岩基礎石3段の上に八角の蓮華座と像の受座があり、背面に造立年月を刻した馬頭観音立像が
安置されています。
印相(菩薩が成し遂げようと定めた誓いを手と指の動きで示す形)は菩薩像に多い合掌印(がっしょういん)です。
かつては上屋があったと伝えられていますが、今はうす暗い林の静寂の中で風雨にさらされて立っています。 

いつの日か地震で倒れたのでしょう。 
首元で頭部が折れ 顔面や手の指にわずかに傷を負っているのが痛々しく感じられます。
ふっくらとした穏やかな顔で目を閉じ合掌しています。 幼子や年老いた親の手を引いて通る家族、重い荷物を背負って
あえぎながらおうらいする旅人、息をはずませながら坂道を行き交う人馬などの無事を祈り続けた仏の姿です。立派な彫刻である上に仏像の損傷も

少なく、上田地域にとって貴重な文化財です。受け継ぎ伝える為の保護の策を講じたいものです。

   上田地域の石造り文化財ーその石質と石材地ー甲田三男氏            


記7

(2017年7月 馬頭観音 移設工事)

 

 

 

 

 

 

 

(2018年4月 平井寺住民の寄付により、すこし東側に移し、

      説明看板を設置し除幕式を行いました。

 

 

 

 

 

 

 

       

       工事の様子

 

 

 

 

 

       工事の様子

      (垂直確認)

 

 

 

 

 

        草刈りは7月の林道虚空蔵線(独鈷山への道)、峠線、大胡桃線、耳切り線、穴場線の時におこないます。

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記8

文珠道の寄進       各村々の出開帳                  紙上講座
 内村に「大智山勧化帳」という古い帳面が残されている。
  この帳面は今鹿教湯温泉文珠堂を建立したときのもので、それをみると、
 宝永4年(約二百六十年前「昭和39年」文珠菩薩を御輿に安置し出開帳と称して、それをかついで

小県郡と佐久郡の各村々をまわって建立資金の浄財をうけている
 御輿はまず青木村の沓掛・奈良本から、はじまつて順に各部落を廻り、小泉福田を経て塩田町にはいっている。 

今塩田平の分をみるとつぎの人たちが寄進している。
 「保野村」  原理兵衛・田中市兵衛・石井惣左衛門・柳沢文蔵・原小左衛門・和田次右衛門  
 「中野村」 清水岡右衛門・工藤源左衛門・小出角兵衛
 「舞田村」 高橋助左衛門・中村弥左衛門・宮沢半左衛門・上原曽助 

 「八木沢村」 前島権左衛門・森次郎右衛門・工藤茂左衛門・中田弥右衛門・前島仁右衛門
 「山田村」 川忠助・竹内市兵衛・斎藤善ノ丞   
 「別所村」 桜井市左衛門・南条吉左衛門・温井十右衛門・庄村八三郎・斎藤六兵衛・倉沢七大夫・山極二郎右衛

 「野倉村」 曽根平ノ丞・滝沢惣左衛門・坂口藤右衛門・    

 「手塚村」 山極源右衛門・曲尾市兵衛・池田勘助・中沢次助・箱田藤八・塩沢藤七
 「新町村」 保科勧右衛門・関谷半右衛門   
 「西前山村」 児玉文七・金城善兵衛・保科次郎右衛門・宮沢平左衛門・児玉半ノ丞・山浦源左衛門・

        宮沢文右衛門
 「東前山村」 吉田七郎右衛門・黒坂甚左衛門・鷲原伝右衛門・黒坂吉左衛門 

 「十人村」 塩沢平介・斎藤幸七同文右衛門・武田吉左衛門武田戸兵衛
 「本郷村」 綱島九助・八幡勘之丞・宮林半左衛門・手塚惣兵衛・甲田勘右衛門
 「五加村」 神津文之丞・甲田清右衛門・同久左衛門・
同勘右衛門・塩沢善人・水野与五左衛門
 「柳沢村」 坂田十兵衛・桜井源六・宮原五兵衛・坂田伊右衛門・宮原彦兵衛
 「石神村」 竜野市兵衛・金井源右衛門・関源七・中条平右衛門・竜野市兵衛・上原勘之丞・
同曽兵衛
       丸山勘左衛門・竜野清右衛門  「鈴子村」 小野儀左衛門・塩入平左衛門・清水又兵衛 
 「平井寺村」 林文左衛門・久保田七右衛門・林勘右衛門・
林字左衛門
 「奈良尾村」 林儀兵衛・綱島六右衛門・山寺源五右衛門・清水藤左衛門・林善兵衛・松崎藤兵衛・西沢九兵衛・

        室加新左衛門
 ・
黒沢市左衛門・松崎喜右衛門
 「町屋村」 山寺源五衛門・峰村甚右衛門・同喜平太・山極弥左衛門・同五左衛門・室加小平治・峰村喜平太
 「下之郷村」 横関源五左衛門・同源五兵衛・村山藤四郎・同善五郎  以上のほかに、各村ごとに寄進してる。
 宝永四年八月御普請初、大工棟梁諏訪郡下原村牛山平左衛門、 宝永五年八月一日地祭、 

佐久郡長土呂村今津山長福寺慶誉法印同年八月十九日御棟上げ。
 同年十月二十一日屋根茸方成就屋根ふき、大工棟梁松本亀井忠兵衛同弟由兵衛・  

宝永六年九月二十五日、御入堂霊泉寺泉貞和尚、
  宗竜寺閉居之老和尚、同寺現在仙竜和尚、伴僧二十三人也。  

正徳元年九月十一日御台門階成就石切伊那郡木之町飯島与五衛門となっている。
〇 江戸時代塩田平ではこの文珠堂を「おもんじょさま」と呼んで春秋のこう四五人の仲間で市峠(沢山池の西峠)

を超えて日帰りに参拝するものが多かった。
 そして「おもんじょさま」のお祭りに雨が降らなければ、泉田の大日さまのお祭りに雨がふるといわれたとものである。 

〇 しおだ町報 昭和39年1月1日 第92号                       戻る


記9

紙上講座   東川多寿男
 三十三番の札所といえば、西国三十三番の札所、または秩父坂東三十三番の札所が思いだされる。 
  この三十三番の札所というのは観世音菩薩が衆生を救い給うとき
  三十三種類の姿に化身して、時、場所を問わず、なやみ苦しむ人々に救いの手をさしのべられるという信仰から、
  その三十三種類の中の観世音を安置する。
 仏堂三十三か所を選んで順番をつけたのが、三十三番の札所になったのだといわれている。
  今から約ハ百五十年前(S36年から) 平安時代の末期に観音信仰が行われ、そのころ西国三十三番札所が定められ

札所の御詠歌までつくられて、御詠歌唱えながら、信者は巡礼の姿となって巡拝する習慣が、そのころから行われた。 

 その札所巡拝する習慣が鎌倉、室町を経て、江戸時代に入ると、
 一般民衆まで盛んに、  三十三番の札所巡りが行われるようになった。  塩田平に残されている札所巡りの旅日記や

集印帳などを見ると、交通機関の発達しなかった当時の 旅のようすがよくあらわれている巡拝が終わつて帰ってくると、

「西国三十三番札所巡拝供養塔」または「秩父坂東巡礼供養塔」が村の旧道や お寺の大門、堂庭などに残されている。  
 札所を巡拝する信仰が盛んになった塩田平では、西国三十三番、また秩父坂東三十三番の札所を巡るかわりに、
 この平に建立されている寺堂に順番をつけて、巡拝されるようになった。
 元禄六年(約二百七十年前)(昭和36年)塩田平では西国三十三番八十八仏の霊場を定め
「阿波・土佐・伊予・讃岐・四国遍路八十八仏は、塩田組二十二か村に御座候」として御詠歌まで定められている。
   しおだ町報  昭和36年8月5日  第63号                        戻る


記10

塩田平八十八仏の霊場      紙上講座  東川多寿男
  塩田平四国遍路八十八仏の霊場について、
史料をみると表紙に「阿波・土佐・伊予・讃岐・四国遍路八十八番」とあり、
 裏に「四国遍路八十八仏は塩田二十二ヵ村に御座候。
 諸仏番次並詠歌」 「元禄六癸酉ハ月さだめ、享和三年癸亥五月十一日写之」とかいてあり、また「道中心得書」

には当時の遍路姿の笠、白衣にかく文字のかき方、 遍路の規律、道中食料宿泊の心得等を細部にわたってかいてある。
  四国遍路塩田八十八仏

 下之郷村  一番  釈迦 阿波   霊山寺  十四番  弥勒 阿波   常楽寺  二十一番  虚空蔵 阿波  大竜寺
    三十一番  文珠 土佐   五台山  六十一番  地蔵 伊予  香園寺  六十五番  十一面観音 伊予 三角寺
   八十三番  正観音 讃岐 一之宮  八十八番  薬師 讃岐  大窪寺    

   誓をば只幾度も結びおけ 大非の恵み下之郷まで

 平井寺村  二番  阿弥陀 阿波  極楽寺  七十六番  薬師 讃岐  金蔵寺

  三つ山千手の誓あやまたす 枯木用瓦も 平井寺の里

 八木沢村  三  釈迦 阿波 金泉寺  三十  阿弥陀 土佐 一之宮  四十五  不動 伊予  岩屋寺 
   四十六  薬師 伊予 浄瑠璃寺  七十一  千手観音 讃岐 弥谷寺    

  煙たつ八木沢村の仁徳に 法の御声を聞くも尊し

 舞田村  四  大日 阿波 大日堂  五十九  薬師 土佐 山院山  四十九  釈迦 伊予 浄土寺
   八十五  不動 讃岐 八栗寺  六十九  正観音 讃岐 観音寺    

  四つ神はなかりけりな舞田 村法り樹院の花桜路

 中野村  五  地蔵 阿波 地蔵寺  五十九
 薬師 伊予 国分寺
 八十四  千手観音 讃岐 屋島寺

  世は柳挨拶中野 花□も 手引に廻る遍路道中

 西山村  六  薬師 阿波 安楽寺  三十六  不動 土佐 青竜寺  四十四  十一面観音 伊予 菅生山
   七十八  阿弥陀 讃岐 道場寺        

  中禅寺阿字の本有むね開き 西前山よろ紫雲になびく

 十人村  七  阿弥陀 阿波 十楽寺  二十八  大日 土佐 大日寺  四十  薬師 伊予 観音寺
   七十五  地蔵 讃岐 普通寺        

  朋友は 十人村詣来て □蓮と祈るたのも

 東前山村  八  千手観音 阿波 熊谷寺  二十七  十一面観音 土佐 神峯寺  五十六
 地蔵 讃岐 泰山寺
   七十七  薬師 讃岐 道隆寺         

  八葉の蓮の台と誓ひてし 慈悲は常盤の前山の里

 別所村  九  釈迦 阿波 法輪寺  十五  不動 阿波 国分寺  二十四  虚空蔵 土佐 東寺
   二十六  薬師 土佐 西寺  四十一  十一面観音 伊予 稲荷山  五十三  阿弥陀 伊予 円明寺
   七十  馬頭観音 讃岐 本山寺  八十  千手観音 讃岐 国分寺    

  罪過も別所に消えて代々の人安楽国土能願ひ叶ふて

 手塚村  十  地蔵 阿波 切幡寺  三十五  薬師 土佐 清竜寺  五十二  十一面観音 伊予 太山寺
  五十七  阿弥陀 伊予 八幡宮  六十  大日 伊予 横峯寺  八十一  千手観音 讃岐 白峯寺

  手塚らに作に無料の罪辺にも ひとへにたのめ弥陀の來迎

 五加村  十一  薬師 阿波 藤井寺  二十五  地蔵 土佐 津寺  四十二  大日 伊予 仏水寺
   入六十  十一面観音 讃岐 志度寺        

  三途も消えつつ五加真光寺 参る人には利生有べし

 柳沢村  十一  虚空蔵 阿波 焼山寺  五十一  薬師 伊予 石平寺    

  柳沢出て鳶も 法々華経 法の庭なる 青竜ノ梅

 新町村  十三  十一面観音 阿治 一ノ宮  三十三  薬師 土佐 高副寺  六十三  毘沙門 伊予 吉祥寺
   六十八  阿弥陀 讃岐 琴 引        

  古きをも慈悲新町と誓ひおき 余に人には利生まちまち

 鈴子村  十六  千手観音 阿波 観音寺  六十四  阿弥陀 伊予 前神寺  七十四  薬師 讃岐 甲山寺

  千剣破鈴子に今は廻り来て 心は澄て 来光寺森

 石神村 十八  薬師 阿波 思山寺  三十三  十一面観音 土佐 源峯寺  五十四  不動 伊予 延命寺
   七十二  大日 讃岐 万楽朋維寺        

  朝岡の麗にかかる石神の 誓は深き阿弥陀人本顔

 野倉村  十七  薬師 阿波 井上寺  四十三  千手観音 伊予 明石寺  六十六  十一面観音 讃岐 雲遇寺

  山婦か起野倉の里に尋ねきて 衆生さいどの 瑞光寺かな

 保野村  十九  地蔵 阿波 立江寺  三十四  薬師 土佐 種間寺  四十八  十一面観音 伊予 西林寺
   八十七  正観音 讃岐 長尾寺        

  秋の野に薄保野村□ □誓ひたのもし

 小島村  二十  地蔵 阿波 鶴林寺  三十七  阿弥陀 土佐 五社  六十二  十一面観音 伊予 一之宮
   七十三  釈迦 讃岐 出釈寺        

  此船と小嶋に寄せて釣人も 竿を□む

 山田村  二十二  薬師 阿波 平等寺  四十七  阿弥陀 伊予 八坂寺  八十二  地蔵 讃岐 根楽寺
   二十九  千手観音 土佐 国分寺        

  山田守に賎き民も一筋に たのみをかけて願ひ満る

 本郷  二十三  薬師 阿波 薬王寺  三十八  正観音 土佐 □□山  五十五  大日 伊予 三島宮
   七十九  十一面観音 讃岐 崇徳院        

  ひたぶるに願ひをかけし本郷 に廻る来身はたのもしきかな

 奈良尾村  五十八  千手観音 伊予 佐礼山  六十七  薬師 讃岐 松尾山    

  夢にさへ富士を南にならを村 猶後の世もたのもしきかな

 町屋村  五十  薬師 伊予 盤多寺        

  唯たのめ大非は西に光さす 安養田分を 町屋ありけん
    (元禄六癸酉八月 享和三年癸亥五月十一日写之)   しおだ町報 昭和38年12月5日 第91号 (東

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記11

   平井寺の小字名
 古安曽  古く安曽郷のあったところ  平井寺  寺名からの土地名  一斗坂  一等坂で、傾斜度が高い坂のこと
芝原   芝草にある耕作地 袖原   耕作地帯のはじ(袖)の所  山崎  丘陵や山地が突出したその先
 上平  上方にある耕作地 小屋久保  出作り小屋のある凹地  鬢櫛  びんぐし状で小規模の凹凸の地形か
 小森川  古く神社のあった近くを流れる川からの地名 中谷   ある地域の中ほど  若宮  一族の先祖を祭祀した所、氏神と同義
 若宮下  若宮社の下手方  駒形下  駒形神社の下手方  駒形  馬を供養する神社のこと(古昔の牧場関係の地名)
 小谷岳  小屋館で牧場事務所の所在地  飼馬口  牧場で牛馬のえさくれ場にあたる所  峠下  読如字
 小胡桃  くるみは浸食地のことをいい、小規模の浸食地 大胡桃   前項参照  耳切  端の方が断崖となっているところ
 入峠  奥の方にある峠 横尾   主要道(立道)に対して横方向にあるところ  馬除  牧場の周囲にはりめぐらしてある土堤
中原   中央部に位置する耕作地 栗尾   (くりょ・公領)       崩落地形のところ

 常有

 トコナメで湿地で粘土地質のところ
 大久保  大規模な沢  森下  神社の下手方  小平  小さな平地、古く平地であった所か
 神明前  神明宮社の前方部 大平   広い面積をもつ耕作地  小丸山下  小さな円形の盛土の下方
子産田   小海田で湿田地帯  垣結  垣は崖でその終わりの方  河原田  河川敷にある水田
 〆切  通行が困難となるせまいところ  神田  神社の所有地で免祖地  東神田  前項参照
 下川原  下方にある河川敷にある耕作地  神外  神社境内のうち外区分のこと  湯原  湧水のある耕作地
 初ノ入  所ノ入で谷の奥の方のこと      常斎

 牛の方、東西51間、

    南北45間

          うえだ・小県地方の「地字略考」 (五十嵐幹雄、喜寿記念出版)より平井寺分

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記12

  生島足島神社の梵鐘


建治年間に塩田陸奥守(北条国時)生島足島神社に寄進し、その後、武田晴信(信玄)が              戦勝祈願をこめて改鋳し、天明年間再び改鋳された  (梵鐘の説明看板より)


しおだ町報  紙上口座   昭和36年5月5日  第60号

    

東川多寿男氏

 


下之郷公民館の入口のかや葺の鐘楼に大きな梵鐘がある。  この梵鐘はもと、生島足島神社の境内、諏訪大明神に

奉納されたもので、今から約百八十年前、天明三年三月に改鋳されている。 この鐘の鋳直を発願した人は、宮入喜左衛門、

横関羽右衛門、曲尾吉作という三人の人で鐘供養の導師をつとめた人が下之郷の神宮寺の法印という和尚さんである。

 大祝は、工藤数馬、神主は工藤市正で、世話人が宮入次郎衛門、横関治郎兵衛 という人で、その時の下之郷の庄屋は

横関平兵衛であった。  
 改鋳に要した工賃の一部は特志の寄進によっている。その中で十一両二分という大金を、東筑摩郡の仁熊村、宮沢志津馬吉伯という人が寄進しているが、この宮沢氏は塩田北条氏の流れで、代々その地に住した豪農であった。
 自分の祖先のゆかりの地塩田の生島足島神社に特別な寄進したばかりではなく、保野の塩野神社へも石燈籠を

二基寄進している。
 その寄進の世話をした人が、馬越村(浦野)の生島小左衛門という人である。

 右の宮沢氏の外に、この梵鐘に特別寄進した人々に、つぎのような人がある。 
 手塚村山極八郎右衛門、倉沢友右衛門、鈴子村小野儀左衛門、清水惣左衛門、別所村倉沢五郎左衛門、中沢源八、

室賀村大井三郎治、馬越村渡辺惣兵衛、五加村甲田清右衛門、舞田村中村治左衛門、福沢勇治、中野村小出条左衛門、

小島村小泉市左衛門、石神村小林覚左衛門、本郷村八幡三右衛門、丸子町工藤治兵衛、
地元の下之郷村では横関平兵衛、同伝左衛門、曲尾吉作、村山金之助、 
群外では佐久郡野沢町、並木甚左衛門、

同四賀村神津平左衛門、 県外では武州大越村越塚彦四郎等がある。
 この鐘を響きを司るものは神徳であって、この鐘のひびくところ、民が生き、食足りて、すべての生業が盛んになる。 
 この鳴鐘ができて時刻を報ずると、
いる者も業に励みを知らされ、田畑を耕す人も、家について機械に従事する人も皆同じ、

その響きは無窮であって国祚長久、四海寧安、民等諸人その余光を□り、 神の霊惠をはかることができない。といわれている。                                      戻る


記13

       貢米未済の庄々     庄園

 常田庄  八条院領、のちの後醍醐天皇領  海野庄  殿下領
 小泉庄  一条大納言家領  塩田庄  最勝光院領
 浦野庄  日吉社領  依田庄  前斎院御領
 見張牧・塩原牧  左馬寮寮    

                                                戻る


記14

   副食共同炊事に喜ぶ主婦


平井寺区は、一昨年畑作振興モデル地区に指定されて以来機械化農業、農林道の新設に着々と進められている。
 

これにあわせて町のトップをきって共同炊事が実施された。五月末、部落中央の公民館附近に六坪の衛生で理想的な炊事場の

新築が総工費、二十四万円で六月十日に完成されこの十五日から二週間の予定で副食だけの共同炊事が始められた。  

 まず、専用の炊事婦二人をやとい町の普及所、池田普及員の指導のもとに、各戸から野菜、味噌、大豆、卵など

家庭でまにあう物は持ち寄り、1人一食、十五円位でまかなうよう、献立がたてられた。
 おいしくて栄養に富んだ給食を、昼は百人分、夜は二百人分作られ各戸に配られている。とにかく農繁期は忙しさにまぎて、栄養がかたよりがちになり、また特に平井寺部落は山間部で、手近かに食品が買えないことなどから、主婦の食事に費やす

労力非常に大きかったが、この共同炊事により完全に解消され主婦などが大喜びであった。 尚、共同炊事が実施されるまで、

男性側から反対の声もあり、また経営の点など問題に難航したが、三回にもわれるアンケートなどによる主婦の熱意が

ここに実り共同炊事が実施されたことは誠に喜ばしい。   

        

 

しおだ町報 昭和36年7月5日 第62号

                                              戻る

 


記15

しおだ町報  昭和41年12月5日 第126号

 

 

昭和42年3月7日 深度301.39メートル、温度地表26度C、地下30.5度C、湧出量分50リットル。 塩田歴史年表続編P38

 

 

 

 

平井寺温泉ボーリング中間報告
  過日県企業局々長の相沢氏が、塩田町観光開発事業発展のために、塩田町のすみずみまで独りで歩かれ視察され、

塩田の観光と局長の見た塩田平について町役場に於いて講演をして下さいました。鎌倉文化の導入によって昔より栄えてきた

この地を、現在のからより一歩ぬけ出した美しい町づくりをするにはどうしたらよいか、資源のあると見た場合は

速やかにこれに対して手を打ちたいということで、その第一の仕事が平井寺温泉のボーリングであります。
 掘さくは、日本相互建設より派遣されて御苦労して下さっております矢島技師を中心として、地元より金沢、塩入の両氏が

応援して努力されております。幸にして矢島技師はこの道のベテランで、聞くところによると鹿教湯温泉並びに

葛温泉(大町)等を掘さくされた経験者であるとのことで心強い限りであります。掘るにあたっては一喜一憂で、

精神的の苦しみが多いとのことでした。静かな谷間にボーリングの響きが初冬の空気をつたわって流れて行きます。
 技師は語る、
十メートル位掘った処で岩盤に当たってしまいましたよ。それから十九メートルで急に温度の高い

二十三度温泉がでて驚きました。処が今度二十四米では全然温度のない水が自噴で毎分四十リッター、出て来ました

 これが二日続きました。又四十メートルで十八度になり、五十一メートルで二十度、幸の事に掘るに従って温度が上がることです。だんだん掘るにつれて岩盤がかたく現在は六十メートルまで行き、普通のきりでは掘れなくなりダイヤのきりを使用すべく手配中の事でした。

ボーリング中間報告としてお知らせして今後に期待いたしましょう

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記16

                上田に私鉄が発達した背景
 上田に多くの私鉄を生んだのは「蚕都」としての繫栄だ。旧地図を見ると中心市街地周辺やその南西に広がる

 塩田平、山麗、千曲川沿岸、山麗の各地に桑畑があった。 

 江戸中期から養蚕業や蚕種業が発展、大正から昭和初期の土地利用は桑畑60%で水田より多く、

 農家の70%は養蚕業に関わっていた。 繭や生糸の取引は現金で行われ、金融業も発展した。 

 明治10年(1887)には第十九国立銀行、上田銀行、塩尻銀行など私立銀行8行をはじめ銀行類似会社が

 90社近くも存在していた。  

上田地方に鉄道が敷設されたのは明治21年の官設直江津線(後の信越本線で、同26年に碓氷峠に鉄道が通り

東京や横浜と結ばれると原料繭や生糸の輸送に利用されるようになった。
  やがて信越本線への接続を図り、私鉄各線が誕生することになる。 ちなみに中央本線岡谷駅が開通する

明治38年までは、岡谷や伊那地方の
 生糸も和田峠を超えて田中・上田経由で横浜へ鉄道輸送された。 

この方面からは田中・上田駅よりも信越本線に近い大屋駅の設置請願され、同29年に実現している。

 上田は県内外の繭や生糸の集散地として栄、「信州の横浜」ともいわれた。
  岡谷生糸の輸送ルートであった丸子町に同22年、製糸業の依田社が創業し急発展した。 

原料繭や生糸の輸送を目的とした丸子鉄道((株)を設立、
 大正7年に丸子線(丸子電気鉄道)(丸子町~大屋)を敷設し、その後大屋から上田東へと延伸した。

上田市街地方面でも蚕都の繁栄を背景に鉄道建設への機運が高まり、製糸業者らが鉄道院の五島慶太の協力を得て、

大正8年に上田温泉電軌(株)を設立、10年に青木線(三好町~青木)
 、川西線(上田原~別所温泉)を開通した。 13年には千曲川に架橋して青木線を延長(三好町~上田
し、

上田駅と結んだ。
 さらに15年に依田窪線(下之郷~西丸子)、昭和3年北東線(上田~真田・傍陽)と続き、鉄道網が上田盆地に

張り巡らされていった。
 この私鉄ルートは上田盆地の各谷筋を走り、上田駅や上田市街に直結、通勤や通学、買い物への利便性が高かった。 上田都市部にとって
 千曲川対岸にある塩田・川西は上田藩時代からの穀藏地帯として重要な地で、この地域と鉄道で結ばれたことは

街の発展に大きな意味を持った。
  また、昭和初期には鉄道による観光・湯治がブームとなり、丸子電鉄丸子線では霊泉寺温泉や鹿教湯温泉、

上田温泉電軌の青木線は沓掛温泉や田沢温泉、北東線(後の真田傍陽線)では菅平高原のスキー場がそれぞれ

観光の目的地となった。鉄道発着点となった上田市街地の商店街は大いににぎわった。

          青木線の廃止
 鉄道は地域の足として存続したが、その後、一部は再編されて行った。 
 上田温泉電軌の青木線は
松本街道 (後の国道143号)の道路敷の片側を県から借用して

路面電車として運行していた。借用期限の昭和13年、青木線の上田原ー青木間は

廃線となり、バス運行に代わった。川西線は別所線と改称、上田ー別所を運行することになった。 

 同18年には丸子鉄道と上田温泉電軌は合併、上田丸子電鉄(現上田電鉄)となった。
 上田温泉電軌が敷いた西丸子線(旧依田窪線)は丸子から上田への乗り入れのためのルートであったが、

丸子電鉄による丸子線上田東駅設置のあおりを受け、乗客は少なかった。昭和14年廃線の話が起こり、区長会では

廃線反対の運動を起こしている。

昭和36年に台風で被害後、復旧を断念し廃線となった。
 上田電鉄別所線は(旧上田交通別所線)だけは利用者や地域住民、上田市の協力により今も存続している。
 

 

地図でたどる長野県100年 (長野県地理学会)(北沢文明氏)

 

  

 

 

R3年頃まで馬場(バッパ)駅舎がありましたが、R4年4月に通ったところ駅舎はかたづけられて居ました。

 

西丸子線、馬場(バッパ)駅舎跡

 

 

2019年10月13日午前8時頃 台風19号により鉄橋を支えていた堤防が濁流に削られ、別所線千曲川架橋の一部(城下川)が落ちる。

  

2021年3月28日 復旧工事を終え、上田~別所温泉、全線の運転を再開する。

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記17

千曲川架橋
  市外地と塩田平を結ぶ千曲川架橋は新上田橋(昭和45年)、古舟橋(昭和50年)、小牧橋 (昭和60年)

 常田新橋(平成11年)、上田大橋(平成12年)、の5橋が順次整備された

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記18

かつて、鎌倉街道と内村(現丸子町)への三叉路に立っていましたが、尾根川の洪水で流出してしまったと

言われてきました。
 その後新しく建てられた道祖神(夫婦道祖神隣)には、天明四年(1784年)の年号がはいっていること

からみて夫婦道祖神は二百年以前のものと思われます。
 左右に銚子と盃が彫られ、朱の着色の跡もかすかに残る珍しい像で、この地方では見られないりっぱな

夫婦道祖神です。
 銚子と盃が離れているところから、祝言をあげた後の夫婦と思われます。

平井寺トンネル開通後は、上田の南玄関口を守る「塞ノ神」として
また縁結びの神として郷土をまもるため再び世に現れてくださったのでしょう
  龍野常重氏

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記19

和宮の東下         長野県史(サ 通史編6ーP812~P822
  幕末の政局において、諸問題が有、幕府と朝廷の関係はきわめて悪くなった。

 幕府は権威の回復の為にも仁孝天皇の第八皇女で孝明天皇の実妹
和宮の将軍家茂との降嫁実現を急ぐことになった。 万延元年(1860年)4月京都所司代酒井忠義は、

老中安藤信正・久世広周の命令を受けて関白九条尚忠と折衝し、和宮降嫁の交渉がはじめられた。

 すでに嘉永四年(1851年)六歳の時有栖川熾仁親王と婚約をしていたが、

朝廷側の権威の挽回の為、孝明天皇はついに妹の降嫁決意する。
 文久元年(1861年)十月二十日、京都を出発し降嫁の旅にでた。下向は東海道筋とうわさがあったが、

文久元年四月には正式に中山道通行と触れ出された。
 同年八月、通行の日程、宿泊地が発表され、老中久世広周から諸大名に道中筋の御固めや

警衛が割り当てられた。
 和宮一行は、京都を十月二十日に出発し、中山道すすんで信濃の通過にはおよそ十日間をついやし、

江戸城入りしたのは十一月十六日であった。
 一行の総人数は、京都がたは和宮・実母観行院・大納言中山忠能以下一万人、江戸がたは京都所司代

酒井忠義の総御用掛り以下一万五千人随員警固、通し雇い人足が四千人。 

 これに加えて、信濃通行時には、松本・高遠・上田などの各藩から警固に出た武士が一万人、
助郷人足が一万八千二百人、
遠国の雇い七千人、馬士二千人(馬二千匹で、総計およそ八万人。

この空前の大行列が通り過ぎるには、各宿とも四日間の継ぎ立てが必要になった。
 信濃路の警固役は、当然信濃の大名たちに課せられた。
 まず、和宮の輿の警固「御行列先・跡御警衛」として、美濃鵜沼宿(各務原市)から

筑摩郡本山宿(塩尻市)までを尾張藩が受けて、
 本山から小県郡和田宿(和田村)までは、松平与十郎(上田藩)と内藤駿河守(高遠藩)が、

和田から佐久郡沓掛宿(軽井沢)までは
 真田信濃守(松代藩)が、沓掛から上野坂本宿(松井田町)までは松平摂津守(上野小幡藩)と

酒井下野守(同伊勢崎藩)が命じられた。
  また、一行の沿道の警衛「御道筋御固め御警衛」は、本山宿までの尾張藩をうけて、

本山から諏訪郡下諏訪宿(下諏訪町)までが
 松平(戸田)丹波守(松本藩)、下諏訪から和田宿までが諏訪因幡
守(高島藩)、

和田から佐久郡芦田宿(立科町)までが本多豊後守
 芦田から、同郡岩村田宿(佐久市)までが牧野遠江守、(小諸藩)岩村田から同郡追分宿

(軽井沢町)までが内藤志摩守(岩村田藩)と
 堀長門守(須坂藩)、追分から上野坂本宿までが堀石見守(飯田藩)と土岐山城守(上野沼田藩)

などの諸大名に課せられた。

         木曾は尾張藩領
  安土桃山時代、豊臣秀吉が大阪城・伏見城に木曾のヒノキを使用。
  徳川家康は木曽を尾張藩領とし伐採を禁止、制限した時期が有り、

 明治2年新政府により国の管理になると財政の為伐採を始める。

   通行日程と休泊割りを示す。信濃については御小休み・御昼・御泊りなどを明細を記す。

        和宮一行の通行日程と休泊
 

 月日  宿名  本陣  休泊    月日  宿名  本陣  休泊
 10.20  大津  新規仮御殿  泊    10.25  赤坂  平田 又左衛門  泊
 10.21  大津  新規仮御殿  泊    10.26  加納  松波 藤右衛門  泊
 10.22  守山  宇野 忠右衛門  泊    10.27  太田  副 次郎右衛門  泊
 10.23  愛知川  西川甚五右衛門  泊    10.28  大久手  保々 市郎兵衛  泊
 10.24  柏原  南部 辰右衛門  泊    10.29  中津川  市岡 長右衛門  泊


      信濃 御小休み・御昼・御泊り

 月日  宿名  本陣  休泊    月日  宿命  本陣  休泊
 11.1 落合
馬籠
嬬恋
三留野
 井口 五左衛門
島崎  彦兵衛
島崎 忠右衛門
鮎沢 弥左衛門
小休止小休止

   11.6  樋橋
和田峠
和田
 百姓 嘉兵衛
百姓 雄右衛門
永井 十左衛門
 小休止


 11.2 野尻
須原
上松
 森  喜平衛
木村 平左衛門
藤田 九郎左衛門
小休止

   11.7  長窪
芦田
望月
八幡
 石合 平左衛門
土屋 伝左衛門
大森 久左衛門
小松 五右衛門
 小休止

小休止
 11.3 福島
宮越
藪原
 白木 郷左衛門
村上 弥惣右衛門
寺島 勘右衛門
 昼
小休止
   11.8  小田井
沓掛
 安川 庄右衛門
土屋 平兵衛
 昼
 11.4
 奈良井
贄川
本山
 
千村 右衛門次
小林 吉左エ門
 小休止

   11.9  軽井沢  佐藤 市右衛門  昼
 11.5  洗馬
塩尻
今井村
下諏訪
 百瀬 伝左衛門
川上 九左衛門
百姓 甚右衛門
岩波 太左衛門
 小休止

小休止
         

 

 11.9  坂本  金井 三郎右衛門  泊    11.13  桶川  府川 甚右衛門  泊
 11.10  板鼻  木島 喜兵衛  泊    11.14  板橋  飯田 新右衛門  泊
 11.11  本庄  田村 弥惣次  泊    11.15  江戸  清水殿屋敷  
 11.12  熊谷  竹井 新右衛門  泊          


 通行の期間中、何事も事件がおこらず平穏のうちにつとめが終わるように、諸藩の道中警備はきびしく

実行された。
 高遠藩は、上田藩とともに八月二十五日に本山から和田まで御輿の警固を命じられると、

九月から十月にかけて、村々によし簀四枚ずつ出させ上伊那郷として大根五百五十本、草鞋二百七十五足、

布団六十五の差出を申しつけた。
 そのいっぽうで、藩主名代として家老の浅井清左エ門以下総勢およそ三百人が出動し、

二ヵ所に警固のための屯所をつくった。
 この屯所の資材は上伊那郷にある御林から伐りだし、主として同郷から人足を動員して運ばせ、

村々から徴集した大工によって急普請をしたのであった。 そのうえで高遠藩は、多くの助郷人足をさしずして、

和田宿までの警固をはたした。
 上田藩では家老岡部志津馬以下七百五十人が出て、本山宿から下諏訪宿まで供奉したが、

十月二十七日から飯米と味噌汁の実だけの食事で長持数十棹、馬荷百駄におよび、

領内塩田(上田市)附近の人馬が付けとおしで運んでいる
  松本藩は、本山宿から下諏訪宿までの沿道警備を命じられた。

 そのため十月二十九日におよそ千五百人でつとめにつき、
郷原宿(塩尻市)の屯所には家老野々山四郎左衛門が詰め、他にも十近い詰所を設けた
 十一月九日までのあいだは一般の往来を禁止し、伊那街道や善知鳥(ウトウ)峠など山道へも

昼夜交代出張し警戒にあたった。
  松本藩は、別に諏訪郡小井川村(岡谷市)にも大屯所を設けている。
  岩村田藩は十月二十九日に藩内へ和宮下向について心得を申し渡した。 

同藩は、十一月八日の佐久郡岩村田の相生松における
 小休みと同郡小田井宿(御代田町)の昼の警固を割り当てられたが、

 ① 小休み所には藩士のほかに徒士・大工・足軽・掃除中間などが出て、まえもって手落ちのないように

準備すること。
 ② 村方のものへは、一行からできるだけ見えない場所に平伏しているようあらかじめ申し渡しておくこと、

をめいじた。

 さらに、
  ➂ 諸門を締めきり、出役は門番をきびしく指揮をする。
  ➃ 医師は行列の通るときには必ず出ている。
  ➄ 宿のまわりを昼夜を問わず見回る。
  ➅ 和宮一行の通行当日は、藩士・一般の男女とも他行はしない。
  ➆ 火の元に注意する、等々を触れている。 このようなことは、どの藩でも徹底をはかった。

 小諸藩は、和宮一行通行後の文久二年、藩財政が不如意におちいり、領内に御頼み金というかたちで

献金を依頼している。
 佐久群八幡宿(浅科村)では、名主勝右衛門ら十人が計百十五両をだした。 

藩は、掛物や盃などを与えて報償している。

      和宮通行と農民の負担
     和宮通行は助郷というかたちで農民に多大な負担を強いるものであった。
 総勢およそ八万人といわれ、一つの宿場の通過に前々日・前日・当日・翌日の四日間かかった和宮一行は、

人数・規模ともに従来とは比較にならない大きさであった

そのため、こらまでの助郷村からの人足ではとうてい足りなかったので、
  臨時の加助郷がかけられた。

加助郷の人馬は、どのように動員されたか。 木曽の助郷は通常、通常、贄川(楢川村)・奈良井(同

藪原(木祖村)
  ・宮越(日義村)の上四宿は筑摩郡の村々がつとめ、野尻(大桑村)・三留野(南木曽町)・妻籠(同)

・馬籠(山口村)の下四宿は下伊那の村々が、福島(木曽福島町)・上松(上松町)・須原(大桑村)

の中三宿は、上伊那郡の村々が
  それぞれつとめてきた。

これに加えて今回は加助郷として、たとえば上四宿の場合、水内郡と越後苅羽郡の村々に課されている。
  塩尻・洗馬・元山(塩尻市)の三宿の加助郷安曇郡と甲斐山梨郡、越後蒲原郡・頸城郡の村々に
課された。
とはいえ、越後の諸郡はあまりに遠い。 このため助郷人馬を送り込んだわけではなく、それに相当する賃銀を
支払ったのであった。この金で、宿駅は人足を雇った。 しかし、木曾路の宿村ではすでに木曽宿駅の

人足づとめに手いっぱいだったから、尾張藩と相談して、同藩領の美濃から八千人の人足をかりあつめて

充当している。
  
 木曽宿駅の物資のちょうたつは遠い他国にもおよび、尾張一宮村(愛知県一宮市)の庄屋ら三人は、

和宮下向の諸色取締役を命じられ、十月十二日上松宿に布団を運び、二十九日まで滞在して宿々への割り渡し

などをした。
 そのうえ、十一月五日にはまた、この布団受領に上松宿まで三十七里の道を往復した。
各藩とも大変に過重な負担になったのである金銭的にも村民から徴収出来ない貧村では拝借金によって

埋め合わせせねばならず、その返済にあとあとまで苦しんだ。
助郷人足は動員先で休む間もなく働いたうえ、満足な食事も宿舎も得られなかった。
宿駅は旅籠屋から百姓家まですべて行列一行の休泊にあてられたから、膨大な助郷人足が泊まる

余地はなかった。
 助郷人足のために仮小屋が急造されたが、それも不足した。
幸いに仮小屋にはいることが出来た人足は、一坪に四人ずつ、めいめいが薦(こも)一枚ずつを持参し土間に

敷いて寝た。
 雨天の場合には、この薦を着たという。 それでも仮小屋に入れたのは恵まれたほうで、多くの人足は
この寒い季節に野宿するしかなかったのである。

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記20

ふるさと塩田  村々の歴史  第一集  昭和62年11月30日
 塩田文化財研究所長 黒坂周平 
 塩田地区自治会連合会長 小泉好武 ・塩田地区分会長会長 小山秀人
 記載されている地区名

 地区名  編集   地区名  編集 
 五加  五加編集委員 宮沢三子男 他   柳沢  宮原泰助 
上本郷  上本郷の歴史を学ぶ集い  八幡利夫   下之郷  伊藤信平 
 上小島 上小島公民館  深井彬夫 他    中組   峰村康教・黒沢盛忠
保野  東川 不可見    下組  下組の歴史を学ぶ会 岩井喜久市
 舞田 宮沢文雄     手塚  金沢直人
 石神  龍野常重    別所  増沢源一・南条泰三



    ふるさと塩田  村々の歴史  第二集  昭和63年12月25日発刊
 長野県文化財保護協会長、塩田文化財研究所長 黒坂周平 
 塩田地区自治会連合会長 林康國 ・塩田地区分会長会長 若山昭義 
 記載されている地区名

 地区名  編集    地区名  編集
 奈良尾  窪田英治    東五加  中山秀夫
 平井寺  平井寺歴史研究会 林東一郎他四名    八舞  田中純一郎
 鈴子  清水袈裟恒    十人  斎藤善巳
 下本郷  森 嘉    新町  塩田郷土史研究会 山極正之・山極美代子
中野  小出 徹    東前山 竹内 勲 
 下小島  塩田の歴史と文化を学ぶ集い 堀内正    西前山  西前山郷土史会 前島午之助・宮沢武広
 学海団地  小鮒啓助・若林 武   山田   宮下栄法
 八木沢  北沢義三・前島芳枝    野倉  平林義祐
  舞田  宮沢文雄・中村善衛      

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記21

ふるさと塩田「塩田の歴史」第二集より

 平井寺トンネルの黒曜石について

今からおよそ2000万年以上も前のことです。新第三世紀中新世と呼ばれる地質時代に、当時はまだ大半が海底下に没していた日本列島の海底で、広範囲で大規模な海底火山活動が起こりました。 この火山活動は以後数100万年にわたって続き、火山岩や火山性噴出仏を堆積させた他、火山活動によって隆起した 周辺の海底に、厚い泥や砂を堆積させていきました。

その活動の跡は内村地域の緑色凝灰岩や、また別所付近の泥岩等に見ることが出来ます。この火山活動通称「グリーンタフ造山運動」と呼ばれており、当時はまだ骨格でしかなかった日本列島に肉付けを行うものとして重要な活動です。

さて、この火山活動では約1000万年の間に、酸性の流紋岩~石英安山岩から、塩基性の玄武岩まで多種・多様な火山岩を、繰り返すように放出しました。平井寺トンネルの通る一帯も、このよな活度のなかで噴出した火山岩で構成されており、丸子町側では主に玄武岩、上田側では流紋岩~石英安山岩が見られます。

 この様な中で、流紋岩や石英質安山岩が急令されて出来た岩石の中に通称「黒曜石」と呼ばれる、黒色光沢・ガラス 様の岩石が有ります。 貫通石は、いわゆる「黒曜石」で斜最石の他、石英もわずかに含みますが、そのほとんどが火山ガラスで構成されています。「黒曜石」はパーライト(真珠岩)ピッチスト―ンなどとも呼ばれ、もっと厳密なものは貝殻状のするどい割れ方をすることから、  石器時代には石器の材料として珍重されました。「黒曜石」としては南方の和田峠火山岩類に含まれるものが有名ですが、平井寺付近ではこの様な立派な「黒曜石」がみられるのは地質学的に見ても今まで確認されて居なかっただけに貴重な資料となるに違いありません。

    平井寺銀山(かなあな)

   平井寺峠下の沢にある、通称口ぶかさに、金穴が有ります。 入り口は大部上からの土砂に埋まってはってやっと入る程度では ではあるが中は立って歩ける洞穴である。  横2メートル高さ2メートル位で奥行40メートル程である。 

   平井寺と古川神社

 当社の勧請の年歴は明らかで無いが特に旧社にて、古老の伝える処に拠れば「本村・平井寺部落成立の産土大神にして往古は熊野権現として祟敬し来り維新の際古川神社と改名・官許を得たり、明治三年十二月、古昔は奉仕の神職の他に別当の社僧ありて祭祀を司れり」社殿の造営は古代の処、明らかならずといえども中古・正新町天皇の時代元亀二年本殿修理せし棟札有其の後慶長十五年本殿の葦替・慶安三年同葦替・元禄九年修覆・正徳三年社殿総修覆・享保十八年本殿葦替え宝暦三年鳥居再建・宝暦七年本殿の修理・安永八年本殿葦替・寛正元年本殿葦替・文化十二年本殿葦替・文政十三年本殿階下の石檀積替・嘉永三年本殿葦替・明治三年本殿葦替・ 明治五年九月神社号管許を受・

 明治十四年九月本殿屋根銅瓦に葦替え・ 神楽殿再建・鳥居再建・大正拾弐年五月神楽殿屋根葦替・大正拾四年十二月本殿銅瓦に葦替、昭和三年拝殿・向拝並びに祝詞殿を新築・昭和二十三年鳥居立替・昭和四十五年直会殿屋根葺替・昭和六十二年鳥居移転・昭和六十三年石段積替、令和三年鳥居建替

 祭神三度

                   本宮    伊邪那美命

                   新宮    速玉男之命

                   那智宮  泉津事解男命

                   境内社  若宮八幡宮・金毘羅社・大山衹社・蚕養国大神社・三宝荒神社・天満天神社・徳王大神社<br

                   外宮   御嶽神社

                  

吹上堂

                    四国霊場 塩田平札所めぐり  平井寺地蔵堂 (三番札所)

  平常は地蔵堂とも言う此の御堂には地蔵尊と阿弥陀如来像、不動尊が祭られて居る。

  地蔵尊建立何月は明らかでないが木質は梅とか柳の中木で有ると言い伝えられており線香の煙で真黒になっております。

         阿弥陀如来

                   建立年は元禄五年、下之郷社地内に辺路堂を設けて塩田の各地堂に、四国八十八箇所の札所勸請する。此の堂も其の一つに数えられており、 道程合わせて七里と言います。

 

    地蔵尊・阿弥陀如来       

  

                 

              不動明王

        此の不動明王も木像仏で、高さ四十糎センチメートル)位で明治の中期頃まで入峠の古川の流れの端の大岩の下に安置されており、其のお祭りは五月十五日であったとの事で、祭りの当日は此の近辺は勿論の事、遠くは下之条の周辺からの参拝者が有り出店等も有ったと言います。其の仏様に金の目玉が入れて有ったと言う。其の仏様が有る時の大水に押し流されて約四キロ米(m)下流、今の小森川の合流点まで流れ、幸い人に拾われて今の吹上堂に安置されていたところが、昭和四十二年頃に盗難に逢い其の姿がなくなっていた。此のはなしを聞いた仏師狩野氏が其の姿こそ変われ真新しく作り御寄附を得たのが昭和四十七年の四月十五日の此の堂の祭りの日で有り、今は三尊揃って祭られております。

 

     不動明王

    

                  

     祭日

   昔は四月十四日   現在は五月十四日

             

    地蔵菩薩・阿弥陀

 

 平成十三年 5月19日

盗難を受ける。

                

    平成14年5月19日

     新しい地蔵様を安置する。

    H13年度自治会五役・H14年度自治会五役・神社総代三名参加

      西光寺・大円寺住職に、お魂入れをして頂いた。

   

  新しい地蔵様

    

                  

    御嶽山の火祭り

      大平山と初の入りとの尾根に御岳神社が有、国常立尊が祀られております。此の尾根では毎年八月十四日に小学生と青年団にて 火祭りが行われておりました。 思い思いに麦藁を背負い上げ、附近の雑木を切り集めて火小屋を作り夜になってこの小屋に火を付けて焚きます。この火の燃え盛るときは火の熱により皆が顔を真っ赤に染めて歌声を上げておりました。祭りが終わると暗闇の山の尾根を一列に懐中電灯を頼りに家に急ぎました。 こんな祭りが昭和30年初期に山火事などの心配から取り止めになり、再び見ることは出来なくなりました。

             

平井寺青年会議

  本会の発足は明治二十三年当時の人々に依ってつくられました。 目的は団結して学習や行事を行うことです。

  明治二十五年区の要望により事務所は集会所とし、日清戦争の始まると同時に年齢十五才より三十才までの青年を会員として  平井寺青年議会としてその間六十五年間続いておりました。 昭和二十年終戦と共に解散し今の青年団が生まれました。

             

学用品授与式

      大正天皇即位記念に青年議会の中に就学奨励部を作り児童生徒に学用品を授与しております。

     

  平井寺夫婦道祖神 記18

                  

 馬頭観音    

             

平井寺トンネル開通

   長い間の区民の懸案でありました。 此のトンネルは東信地区の上田市と中信地区の松本市・南信地区の諏訪方面短結する重要な道路ですが山地部の平井寺峠付近は、急峻な地形のため交通不能区間となっていました。

 現在上田市方面と中信。南信を結ぶ交通は一般国道二十五号・一般県道荻窪丸子線及び主要地方道上田茅野線を利用していますが、上田市及び上田市周辺部において慢性的な交通渋滞が発生しており此のため、これらの解消策として主要地方道上田丸子線並びに関連道路の整備を進めており、平井寺トンネル区間については建設に多額の費用を要することから有料道路事業制度により早期建設をはかり円滑な通行を確保するとともに地域の発展に寄与しようとするもので有りまして、其の工事が昭和六十二年八月でありました。依頼三ヵ年間の歳月と四十四億円余の事業費を投じ、ここに平井寺トンネル有料道路の実現をみたものであります。

此の道路の建設により、上田・松本の両都市は大いに近くなり大幅に時間が短縮されました。これからの産業・経済・文化の発展に大いに期待して居ります。

平井寺トンネル開通昭六十三年八月二十五日(木曜日)、事業費四十四億一千万円

 延長・一千七百八十二米五十糎、内トンネル・一千三百八十一米幅員・六米 二車線

通行料金 普通車200円、大型(1)300円、大型(2)700円、軽車両20円、

               

 林東馬の碑

 解説に「【万古】と刻まれた。 「記37」


記22

「塩田平文化財解説書」(塩田平文化財保護協会)
 東馬焼(とうまやき)窯跡(かまあと)「市指定 史跡」         指定、昭和56年3月6日 ・ 所在地、平井寺 ・所有者、林 豊秋

 

 

東馬焼窯跡は平井寺地区のほぼ中央部に位置し、窯を築いた林東馬の旧宅のすぐ西側の山裾の竹林の中に有ります。
林東馬は、明治九年に四十八歳で急逝されているので、製陶の時期はこれをさかのぼる十数年ほどで、江戸の末期

から明治の初期と考えられます。林家は代々庄屋であったことから、東馬も明治二年から庄屋役となり、

その後戸長制が実施されると引き続いて副徒長となり
明治八年まで勤続しています。 東馬は家運再興のため製糸業の経営や築窯して焼き物を売り出す事業をしました。
東馬焼窯は半地下式有階段登窯で、東下方の焚口から西上方の煙道端まで全長十二・五mあり、
七個の焼成室(製品を焼き上げる部屋)を持っています。各室の幅は焚口の床面で約一・三M、

第七室の最上段は四・三Mで、上段へと漸次広くなっています。平均十五度の勾配をもつ傾斜面を利用して壺は

築かれており、築窯・焼成は本場の美濃方面の
職人を招いておこなわれました。当時の築窯の技術を知る上にも貴重な史跡です。
 東馬焼の製品は水がめ・塩がめ・こね鉢・すり鉢・火消しつぼ・徳利など日常生活に使用された陶器です。
製陶の期間が長くなかったことから、作品の数は少ないが今も各地に残されていて、釉薬を自由自在に用いた

すぐれた陶器として大切にされています。

東馬焼き登り窯 

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記23

奈良尾石造多層塔      市指定 石造物 ・指定昭和44年6月5日 ・

所在地、奈良尾 ・ 所有者、奈良尾自治会

 

 

 天吹山尾根の先端・見晴らしの良い所に立っている七重の石造塔 です。
 初層の軸部(塔身)の四面に、右回り「彌(み)・勒(ろく)・佛・塔」と一字ずつ籠字(字の輪郭だけ写した文字)という珍しい書体で

彫られているところから別名「弥勒佛塔」といわれています。
この石造塔の基礎の後ろ面に「弘安八年己酉(きののとり)三月八日」の文が

陰刻されています。
総高は二百三十七cmです。 特色は軒幅が第一層は二十七cm・第七層は二十、五cmで、

差が六、五cmと逓減率が少なく、高さにくらべて軒の出が浅く清楚な塔といえます。
 六層目、七層目の尾根と相輪は、昭和二十八年に復元されたものです。 

さらに平成九年に相輪が落下し破損したので、
平成○五年に新たに復元されました。 この塔のできたたいわれは、弘安四年(1281年)蒙古が日本へ攻めてきた時に
塩田北条の祖、義政の子息国時(塩田陸奥守)が敵を追い払うことができるようにと、奈良尾にあった常光寺の

和尚に命じて祈らせました。 するとたちどころに暴風が起こり蒙古軍は敗退しました。
 そこで仏様への御礼と、戦死者の供養としてこの塔が造られたものといわれています。
塩田平で刻文と年号が残っているのはこの塔だけです。特に「弥勒仏塔」の文字が刻まれている点から塔婆の一型式を示しています。
鎌倉時代この地方の仏教文化の様相を示す貴重な塔婆です。地元では「みろくさま」と呼ばれしたしまれています

 

奈良尾石造大姥座像     市指定 石造物 ・ 指定昭和55年4月8日 ・所在地、奈良尾 ・ 所有者、富士嶽神社

 

 

 地元の人々から「大姥様」とか「大姥仏」と呼ばれ親しまれているこの石仏は、富士嶽神社西側丘陵にある弥勒仏塔のすぐ隣にあります。
安山岩の自然石を利用して彫刻されたこの石仏は現在、鉄板製の覆屋の中に安置されています。覆屋には格子戸がついているので
外からはその姿をよく観ることができません。身の丈一尺五寸(像高38㎝、肩幅23㎝、膝張31㎝の像は、お婆さんが座った姿をしていて
目と口を大きく開け、胸をはだけ胸乳をもあらわに、両手を膝に置き、笑っているのか泣いているのか分からないような不思議な表情を
しているのです。このような大姥様石仏にはどんないわれがあるのでしょうか。

 この像の背面に次のような陰刻銘がしるされています。「願主  権大僧都真海法印和尚位  寛正七丙戌五月日」と。
また、「長野県町村誌」にはおこ大姥様石仏について「里老の伝に、寛正三年大旱の時、人民該山(ここでは富士嶽をさす)
に登り、雨を祈りて験あり、依って之を建てると」と記述されています。
 この記述にある里老(村のお年寄りたち)の言い伝えから、この大姥様石仏は寛正三年の大旱魃に苦しんだ村人たちが富士嶽に登り
雨乞いしたところ、恵みの雨があったので大喜びして、恩返しに建てた石仏であり雨乞いの仏様であることが分かります。
 そして、像の背面にある陰刻銘より、真海法印というお坊様が雨ごいの願い事がかなったので、寛政七年(1466年この年2月文政と改元)
五月この石造仏を造立したものと想像されるのです。
 それにしても、なぜこのような怖い顔をした姿の像を造ったのでしょう。奪衣婆(三途の川で死者の衣服をはぎとる鬼婆)だはないかとも
言われますが、周囲に常に一緒にいるはずの十王像(冥界の十人の裁判官)が見られないのでそうではないようです
 しかし、怖いなかにもどこか温かみがあり、写実的で迫力の感じられるこの像は、彫刻的にもすぐれており願主銘や寛政七年銘の
刻まれている像は上田小県地方にはこれのみで、室町中期の彫刻について知る上で貴重な遺例と言うべきものです。

 

 

地元の人々から「大姥様」とか「大姥仏」と呼ばれ親しまれているこの石仏は、富士嶽神社西側丘陵にある弥勒仏塔のすぐ隣にあります。
安山岩の自然石を利用して彫刻されたこの石仏は現在、鉄板製の覆屋の中に安置されています。覆屋には格子戸がついているので
外からはその姿をよく観ることができません。身の丈一尺五寸(像高38㎝、肩幅23㎝、膝張31㎝の像は、お婆さんが座った姿をしていて
目と口を大きく開け、胸をはだけ胸乳をもあらわに、両手を膝に置き、笑っているのか泣いているのか分からないような不思議な表情を
しているのです。このような大姥様石仏にはどんないわれがあるのでしょうか。

 この像の背面に次のような陰刻銘がしるされています。「願主  権大僧都真海法印和尚位  寛正七丙戌五月日」と。
また、「長野県町村誌」にはおこ大姥様石仏について「里老の伝に、寛正三年大旱の時、人民該山(ここでは富士嶽をさす)
に登り、雨を祈りて験あり、依って之を建てると」と記述されています。
 この記述にある里老(村のお年寄りたち)の言い伝えから、この大姥様石仏は寛正三年の大旱魃に苦しんだ村人たちが富士嶽に登り
雨乞いしたところ、恵みの雨があったので大喜びして、恩返しに建てた石仏であり雨乞いの仏様であることが分かります。
 そして、像の背面にある陰刻銘より、真海法印というお坊様が雨ごいの願い事がかなったので、寛政七年(1466年この年2月文政と改元)
五月この石造仏を造立したものと想像されるのです。
 それにしても、なぜこのような怖い顔をした姿の像を造ったのでしょう。奪衣婆(三途の川で死者の衣服をはぎとる鬼婆)だはないかとも
言われますが、周囲に常に一緒にいるはずの十王像(冥界の十人の裁判官)が見られないのでそうではないようです
 しかし、怖いなかにもどこか温かみがあり、写実的で迫力の感じられるこの像は、彫刻的にもすぐれており願主銘や寛政七年銘の
刻まれている像は上田小県地方にはこれのみで、室町中期の彫刻について知る上で貴重な遺例と言うべきものです。

                                                         

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記24

尾野山からの灌漑用水導入計画  「貞享四年(1687年)の古文書

 平井寺の江戸期に代々庄屋を務めた林 隆家文書の中から三点セットの貞享四年(1687年)の

古文書がみつかった。 当時、天領であった尾野山村の
宇野脇堰下方から、塩田組と小泉組に灌漑用水堰を新設することを合意した一札である。
 尾野山は依田川から引いた堰やため池があり、水量は豊富であった。また、標高も両組より高いので

流水が可能であったとお思われる。
三点とも「貞享四年」とだけ書いてある文書である。

   その一は、前々から両組は同堰から引水する願いを出していた。その可否伺いを坂木陣屋へ出して了解を得、
尾野山惣村も同意して諸取決めを示し尾野山村庄屋・関徳太夫の名で工事請負人、塩田・小泉組関係庄屋宛に出したた「想定申一札之事」である。
 この中に「先規より之宇野脇堰を用依田川之水御渡シ被成」という願いが両組より出されていたとあるので、この「願い申し文」もあっただろうが
これは見つからない。
 その二は、同年、工事請負人六名(「その三」の請人二名と他に四名)の名で「上田御領塩田組之内」宛に出した「用水請負申一札之事」である。
 その三が、この「相定申一札之事」である。この順番で同じ貞享四年年引受け、取決めた公文書の写しで、各村庄屋宅に残ったものとおもわれる。
取決め内容は三つともほぼ同じである。 即ち要約すると、

 ① 尾野山村の宇野脇堰下方から、塩田・小泉組への新堰を造る。

 ② 両組は毎年、水代として米80俵を11月15日までに尾野山へ届ける。もし、水が届かない村があっても    残りの  村で米80俵を届ける。水代としてこれ以外に納入することはない。

 ③ 新たに大堰を造ると尾野山の人たちが農作業に不自由することがあるので、宇野脇と川原田の橋は破損した

    時は、両組が橋をかけ
   新堰が破損したり、堰筋が変更したりして尾野山村の田畑に支障があれば、田一反につき四両二分、

   畑二両の割合で両組は代金を支払う。土手が切れて田畑に水が押し出した場合も同様である。

 ④ 尾野山村の堰土手の草木は末代まで少しでも伐ったり、荒らしてはならない。また、堰浚いに来て、

   石や土を田畑に捨てることは絶対しないこと。

 ⑤ 少しでも違反があれば堰は止める。

 ⑥ 以上のことは領主が変わったり、他領になったり、一部が分地しても前書の通り変更はない。

 この新堰は果たして完成したのか。完成しなかったとするとどのような理由で出来なかったのか、完成しても

 旨く塩田・小泉まで水がきたのだろうか
 水代・破損した場合の補償費・堰浚い等の負担は重い感じがするが加何、途中で破談になってしまったのか、

 使用後のいつか破損してしまったのか等々、全く不明である。

 色々な方に聞いたり、それなりの文献を調べてみたが全く載っていない。 正に「幻の尾野山用水」である。
 その後、正徳三年(1713)に内村川の水を東塩田に引水しようと計画したが、諸事情により断念したと

 記録にある。
 実現は昭和十六年まで待たねばならなかった。 

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記25

東寺最勝光院別当、同院領小県郡塩田庄年貢の事を後白河上皇に泰す。 依りて、上皇、同庄の寄文を徴せらる。

 吉記  
   信濃史料巻三1項・P36 ・ ハ、7 P9「最勝光院領塩田庄」

  「塩田平の歴史」  「抜粋」       黒坂周平氏

「塩田」という名が、はじめて史料の上に出てくるのは、平安時代末期、承安4年(1174)。
 その頃、朝廷の重臣の1人に、藤原経房という人がいた。この人は、おわりには大納言という

高い位につくほどの人であったが、生前こまめに日記をつけていた。その日記のうち一部分(約18年分)が残っていて、『吉記』と呼ばれ、日本史研究の上からは、大へん重要は史料となっている。(『吉記』というのは、

彼が吉田というところに住んでいたからつけられた名である。)
 その『吉記』の承安四年のところをみると、大略次のような記事が書かれている。
「八月十三日に、後白河法皇の御所。当時は院政時代、後白河法皇が実権を握っていた。)に参り、東寺の最勝光院
から依頼されていた信濃の庄園の事について言上した。

そして院の思召しによって十六日にもう一度参上し、『 東寺が、信濃国塩田庄の年貢を布で千反進上したい 』

といっていると申し上げたところ、
その趣きを実現するようにー、というお言葉を載いた。

 この記録によって、塩田庄は当時最勝光院という院の領地で、東寺(真言宗の総本山)の勢力下にあったことが

わかる。
最勝光院というのは後白河法皇の后であった建春門院(平清盛の妻の妹)が、承安三年(1173)に創立した寺

である。
そのとき後白河法皇はじめ多くの貴族が、この寺のため三十数カ所もの荘園を寄進したが、その中に信濃塩田庄が

あった。そして最勝光院の別当(世話役)は東寺が当たっていたから、塩田庄は実際には東寺の支配下になって

いたわけだ。
最勝光院は、時の最高権力者である後白河法皇や平清盛をバックとして創立されたものだけに、

「その結構宏麗をきわめ、落成の慶讚会には、
天皇・法皇の行幸晵があつた」といわれるくらいの寺であったから、ここに寄進された荘園も全国的にみて、

富裕で由緒あるところが多かった。
 塩田庄は 、信濃からえらばれたただ一つの荘園であったことをみても、当時中央にあっては、かなり評価される土地柄であったと考えねばならない
(そのためか塩田庄は年貢千反を貢進することとなっていた。

仮にこの一段=一反=を奈良時代に決められた調布一反とすれば、
長さ8.5m、巾57㎝の麻布を千反という膨大な量に調製して貢納していたわけである)
塩田庄がなぜこのように高く評価されたかというと、実はこの地域が古くから信濃にとっては、政治的にも、

経済的にもきわめて重要な場所であったからにほかならない 「一部抜粋」

 

      塩田荘と最勝光院

   寺院は平慈子たいらじし)御願

   最勝光院は、後白河院の御所法住寺殿の一角に建てられた寺院のことで、京都東山三十三間堂の東南二百メートル  の今熊野の地に建立されました

後白河天皇の長子が二条天皇、次が以仁王(もちひとおう)第三子が高倉天皇です。その高倉天皇の生母が

康治(こうじ)元年(1142)に平時信の娘として生まれた平慈子(たいらじし)です。時信の家は中級公家の家ですから、おそらく院に仕えていて後白河院の寵愛を受けたのでしょう。

   応保元年(1161)21歳で憲仁親王(後の高倉天皇)を出産し、仁安3年(1168)には、3歳年下の六条天皇が位を譲り、8歳の高倉天皇が即位しました。

 以後、慈子は皇太后となり、嘉応元年(1169)には建春門院の院号宣言があり所領も持ちました。

  平慈子は、別な面での力もありました。長兄は平時忠、長姉は平清盛の妻、妹の一人は平宗盛の妻、もう一人も

 平重盛の妻となり、政治的にも武力面でも強力な後ろ盾がありました。

      ですが、体じゅう諸所に腫物が出来て安玄二年(1176)35歳の若さで早逝しまいました。

病苦や短命の人であったが故に格別であったのか、健康でいた30歳の頃から寺を建てたいという強い願いを

持たれ、それが最勝光院の建立となりました。後白河院の後押しがあって、最勝光院の完成をみたのです。

 

  最勝光院

 

最勝光院の御堂は承安二年(1171)上棟、障子絵常盤源二光長絵師、院名額字は藤原兼実筆で、後白河院・

  建春門院両院が臨幸されて承安三年十月二十一日、落慶供養が行われ、興福寺別当覚珎が導師を務めました。

承安三年十二月に小御堂、承安五年に新御所、治承二年(1178)に塔が完成しています。

  建春門院は、承安元年に宇治の平等院へ、承安三年の建設途中には鳥羽御堂へ行啓され建て方を調べられたほど  で、美しく立派な御堂を建立しました。藤原定家は「明月記」で、

 「土木の壮麗荘厳の華美天下第一の仏閣なり」

と記しているほどの立派な寺院でした。

                

    造営費と塩田荘

 

 このような立派な寺院を造立するには、莫大な費用がかかるし、維持も大変です。

 当時、公領の土地の年貢は、国の費用に宛てられたので、最勝光院の費用を生むには、最勝光院所有の荘園を

増やすことでした。

 御堂の落慶供養がすんだ時点での最勝光院領の荘園は、近江国檜物庄ほか数か所だけでした。

御白河院は、荘園を増やすよう命じられたのでしょう。それで目を付けられたのが、当時公領だった信濃国塩田郷だったのです。

 承安四年八月十六日、後白河上皇の前で、相談がありました。

  後白河院の別当(長官)藤原隆季と建春門院の別当で最勝光院建立に奔走した吉田経房と三人です。

 「年貢の白布千反が納入される塩田郷がどうでしょう。」「よし、では、寄進状をださせるように」

ということになって、それから22日後の九月八日に、塩田郷は、後白河上皇の前で最勝光院塩田荘となったのです     

立荘にかかわった人々

 

  後白河院の別当藤原隆季(権大納言)、建春門院別当の吉田経房、信濃国知行国主(公領の収入分を給与の代わりに受け取っていた)

前太政大臣藤原忠雅、信濃国司藤原実教、それに後白河上皇の五者が、かかわっていたものとみられます。

内三者は「尊卑文脈」の系図を見ると、図のような関係です。

 

 

 

 院別当の隆李と建春門院別当経房とは、思案の末、義理の兄信濃知行国主の忠雅に、塩田を渡すように

頼み込んだに相違ありません。

 それだけ忠雅の取り分は減りますが、義弟の頼みを故断るわけにもいかずに承知し、

弟の信濃守実教に寄進状を書かせて最勝光院領塩田荘としたものと思われます。          

 

  文化財塩田平 第5号  平成13年3月22日

  前上田市誌編さん室主任 桜井松夫

中世初期の庄園

                  

                   「吾妻鏡」文治2年の記録

                   常田庄・・・・1160年~70年ころ。

                   塩田庄・・・・1174年丞安4年。

                   木曾義仲や源頼朝が平氏追討の旗上げをした治承4年(1180)の直前。

                  

                   吾妻鏡にある信濃国の庄園の数は一番多く、庄園が61、牧が28、合計89か所。

                   上田小県地方の荘園と牧。

                   日吉社領・・・・・・・・・・・浦野庄

                   最勝光院領・・・・・・・・・・塩田庄

                   一条大納言家領・・・・・・・・小泉庄

                   八条院領・・・・・・・・・・・常田庄

                   殿下御領・・・・・・・・・・・海野庄

                   前齋院御領・・・・・・・・・・依田庄

                   左馬寮領・・・・・・・・・・・塩原牧、見張牧、塩河牧

 

 

                     (ハー7 P12より)

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記26

 依田川用水導入事業                 
  内村川や依田川から塩田に用水を設けようとの計画は、江戸時代にもありました。
1713年(正徳三年)の計画は史料によって判明していますが、丸子側は天領、塩田は上田藩という壁、土地買収の挫折、峠越えの技術・資金の困難さで実現できませんでした。
 大正十三年の大干害を機に、川下の下之郷で同案が再燃しました。 間の富士山村、内村川からの御岳堂堰を利用している依田村などの人達にも許可と援助を得なければなりません。 

右岸の長瀬村は村民大会で反対決議をしました。 昭和十四、十五、十七年にも干害があり、根気強い運動を重ね、ようやく御岳堂区長らが同情して協力を約束しました。

 1941(昭和十五)年12月15日 東塩田・富士山・依田・東内・川辺五ヵ村で

「依田川用水導入期成同盟会」を結成し代表者で協議開始。

〇 昭和十六年2月24日 御岳堂堰からの取水協定を、川辺を除く四ヵ村で終結。

〇 同年3月1日~5月21日 二ツ木峠越えの応急配管工事。 峠越え送水ポンプとして富岡製糸場の廃品を

使用。この時の浅間池、水沢池までの両水路は現水路の元となっている。

〇 同年6月20日 「東部塩田平耕地整理組合」を結成し、根本的な水路建設を県に請願開始。

〇 同十七年 干害発生。


〇 
同年10月 ツ木隧道新設を県営事業として施工することを県が採択。

〇 同十八年6月~二十二年5月 県営二ツ木隧道工事施工(一時中断もあった)。 

 この間に内村川からの御岳堂堰も改修。
河床の低い依田川から電力揚水するため、岩谷堂の下にポンプ、保管小屋を設置。 御岳堂堰から分水して
    開渠・暗渠・隧道(920M)、合計1415Mを新設。


 同二十七~三十年  「依田川沿岸土地改良区」(丸子町・依田・長瀬・塩川・東塩田村)を結成し、

依田川から、武石村沖・飛魚で取水して辰ノ口の御岳堂堰まで依田川と内村川をサイフォンで潜り、

暗渠や間の山を隧道で通す新設水路5887Mを完成。

〇 同三十一年12月~三十六年7月 この頃までに古安曽でも依田川用水の必要性が浸透し、

南線を水沢池~来光寺~手洗池まで5100M
                         延長工事完成。

〇 同四十二年3月 同水路の改修工事。

〇 同四十五年8月10日 東塩田・沢山水系・幕宮水系の三土地改良区が合併し、「上田市塩田平土地改良区」

となる。

〇 平成十四~十八年度 二ツ木隧道の老朽化ににより、県営で同隧道869M(口径150㎝)を改修工事。

 総事業費7億1400万円。

文化財塩田平 平成23年3月31日第15号   本会幹事 橋詰洋司氏

依田川水系 ・南線・北線図

 

依田川水系 北線改修 

 南線図 

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記27

 二百町歩に灌漑      (昭和33年7月21日現在)
 大正13年以上と伝えられている本年の干魃も7月中旬に入っていよいよ辛酷さを加えて、町内の溜池の水も

ほとんどなくなった。
町内で最もその被害が大きいとされている五加、下之郷、上本郷、中野、下小島、上小島、保野の7ヵ部落では

7月16日7ヵ部落干害対策委員会を作って
その対策に乗り出した。その他の部落でもそれぞれ干魃危機突破対策を講じている。
依田川・上田農水、両水系より
 干魃対策に対して町当局では、田植当時からいろいろな策を講じて来たが、

五加など7ヵ部落の水に対する町長陳情を皮きりにいよいよ積極的に乗り出した
 これに対し町当局では7ヵ部落に協力町長および当該部落の町議総代などが南線土地改良区
(理事長宮原藤三氏)を訪れ依田川からの引水による東塩田地区の南線水路の余水をまわして貰うよう

善処を要望した。
これに対して土地改良区では早速関係者の会議を開いて協議した結果当該
部落に同情実地視察後、

直ちに手洗池よりサイホンにより水を産川に落し7ヵ部落に灌漑している。

又下之郷および五加では産川の溜り水をポンプで引水それぞれ干害水田に配水している。

特に下本郷ではこの工事に費やした金額は20万円、
延々300mに及ぶ架線水路を設け10馬力のモーターで毎時間100石づつ揚水している。

この受益面積は約18町歩。
 一方、保野では共同で1件、個人で2件それぞれ湯川水系よりポンプで揚水し水田に灌漑している。
こうして干害地区では連日水、水、水で日夜を過ごしているがこれだけの揚水では全水田に灌漑することが難し7月19日に沢山土地改良区では
上田農水より大々的に水を貰う事に交渉が成立、直ちに夜間突破工事で産川橋の下に落し30馬力のモーターで

下小島地籍に水を揚げここで中継、30馬力のモーターで中塩田小学校裏に揚げ、ここで又15馬力のモーターで上本郷駅に揚げて五加、上本郷、上、下小島、下本郷地籍に灌漑している
 又、産川橋下から30馬力のモーターで川西製薬裏に水を揚げて保野、下小島地籍の水田に水を通している。
 このような大々的な工事により五加など7ヵ部落(水田約200町歩)の水田はようやく干害からの危機を脱した訳で今後の天候次第によっては相当の豊作が予想され農民の顔は明るい。

 

 しおだ町報  昭和33年8月5日  第27号 (産川橋、スーパー ラ・ムーの東側に有、道なりに進むと石久摩神社入口鳥居有)

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記28

示談で水利歩合の規定  
     来光寺池、幕宮池の水割        

紙上講座
 来光寺池の水割については、元禄四年,今から約270年前(昭和35年時)、元禄四年に鈴子村庄屋与五左衛門、

平井寺庄屋字左衛門、石神村庄屋金太郎、下之郷村庄屋次郎兵衛から、上田藩依田久太夫宛てに差し出した文書を

見ると、次のようになっている。
 今度四ヵ村用水として、来光寺池の土手1丈上げて下されて、まことにありがたいことである。

ついては来光寺池の水割、鈴子村、下之郷村、石神村の三ケ村へは、一昼夜ずつ掛入れ、平井寺村へは一日の割合に使用するように定め、向田沖へ前々の通り通水致すようにと規定している。

来光寺池の水が本土井中桟上一尺になったらば、地元鈴子、石神、下之郷の三ヵ村のかこい水に残しておくように

定め、下之郷新池の水も中戦桟上一尺になったならば、これもかこい水に残しておくようにと規定している。
 来光寺池の水を「こなし水」に使用する時は、手塚池と同様、水上からだんだんこなし、石神、鈴子、下之郷、

平井寺、の四ヵ村にて使用し、また池下で畑を田にするものは、その村の庄屋、組頭に申し上げて、

その指図を受けるよう規定している。
 別所の幕張池は正徳五年約250年前(昭和35年時)に大増築された。奉行として上田藩から山極猪太夫、

下役として平野多左衛門がきている。
 人夫は上田領内から37、647人集められて工事が実施され正月26日に工事が始められ4月26日に

完成している。

この大増築によって幕宮池組合は
別所、八木沢、舞田、山田、中野、五加、本郷、十人となったが元文年間(220年前、昭和35時)示談をもって

水利歩合を規定し、別所村五分八木沢村三分、舞田村一分、山田村一分の割合とした。

その後山田村はその水利権を放棄しているので、現在における幕宮池の灌漑区域は、別所、八木沢、

舞田となっている。

         しおだ町報 昭和35年7月5日 第50号    東川多寿男氏

 

 尾根川の治水と来光寺池

            尾根川(一級河川)

      来光寺池や新池(下之郷)また山門寺沖(富士山)の主な水源でありました。二、三年に一回位の大水と

その度に一部の護岸が破壊されました。洪水の度に土砂が流れて埋まり、浅い川でありましたが、平井寺池築造

 (昭和24年)と共に土砂の流出が少なくなり、一方川は大変深くなりました。

 江戸時代より土手や、川沿いの道(上田内村道)が破壊される事が多く、上田藩では、奈良尾、町屋、鈴子の三村に

 区域を分割し、修復に当たらせました。割り当て図面が今も保管されています。

江戸時代より用水の取入口が五か所あります。また橋は古くから五か所記録にありますが、簡単なもので

あったようです。

                  

        来光寺池

      池の築造は明らかではありませんが、池の南には湧き水もあり、江戸時代以前より簡単な溜池があったと

思われます。

                    池の記録

                   元和 八年(1622) 池免550文、堰免1145文

                   元禄 四年(1691) 大改築、土手一丈上げる)

                   天保十二年(1841) 土手三尺上、土井伏せ替え

                   昭和十二年(1942) 土手三尺上

                   昭和三十三年(1958)依田川より用水導入

                   昭和三十八年(1961)土手五十糎上

                  昭和五十一年(1979)底樋管状替え護岸388.3M修復

                   昭和五十五年(1983) 波止護岸と南線道路(4M幅)完成

                  

         池の現状

    受益面積65ヘクタール  耕作者数 260名  貯水総量231、900トン

  修復工事はどのようにして行われたか。 元禄四年仙谷領当時記録

 工事期間は一か月、上田藩中より出勤を命ぜられた人夫、延2万4500人、封建支配体制が如何に強固なもので

  あったか窺い知ることが出来ます。

    ○ 古池、坪数6409坪  立97間  横66間   深さ1丈6尺

    ○ 工事 3月1日より4月2日まで32日間、池奉行2名(臼田・依田)、お目付け5名、小奉行17名、

    組頭8名、組下17名、塩田組庄屋1番5名、二番6名、3番5名

   ○ 地元四ヶ村(平井寺・鈴子・石神・下之郷)中心に出勤、準備作業に当たる

          材料の切り出し、道具造り、柄すげ、小屋がけ、土井造、芝取り、道具渡し、

   食事その他雑役(一戸平均23人延) 完成獅子舞(下之郷28名)

         下之郷1186人、石神1157人、鈴子1157人、平井寺576人

   ○ 一日の出動人員

        3月1日から4日400人~500人・3月5日から7日600人~700人・3月8日~21日860

   人以上・3月28日より900人以上  外に毎日食事・食膳 40人~50人

  ○ 藩中の出勤人夫

        塩田組 4418人・ 塩田組4ヶ村 4076人(平・鈴・石・下) 武石組 1060人・ 

   浦野組 2316人 小泉組 3483人・ 塩尻組 2584人・ 洗馬組 2731人・

   田仲組 1262人 合計24,576人

  ○ 人夫はほら貝合図で 初宙起(午前四時)

        二番貝で池場に到着、その後は太鼓合図で食事、午前午後各一回の休憩で、晴雨にかかわらず工事が進めれ、

        完成地固めには生島足島神社の獅子舞が行われました。

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

来光寺池元禄 四年(1691)

    溜池の開発と修理の歴史   富士山村の歴史より

                 

                   溜池ごとに開発の状況・修理・規模等に関する事項

 

                     久保池

1576年天正4年柄子    塩田平ではこの池が初めて開発される。(面積六反二歩)

1967年昭和42年      波除護岸工事全面行われる。

                   

                     前畑池

 1616年元和2年柄辰    前畑池開発される。(面積三反五畝)

 1973年昭和48年      道路拡張工事と同時に一部を埋め立て護岸工事を行った。

  1991年平成3年       池全体を埋める。

                  

                     水沢池 (旧名 唐沢池

  1647年正保4年丁亥    水沢池開発される。

                              面積一町三反四畝 高九貫八八六文 人足3462人 915人 村百姓

  1715年正徳乙未      池普請を行う

                               人足3603人 内759人 村百姓

                               唐沢池の名称を変えて水沢池とする。

                              (唐は空に通じ縁起が悪いので水沢に変えたという)

1740年天文5年虎甲   池普請を行う

                                人足4191人 内553人 村百姓

1802年享和2年壬成   池普請を行う

                                人足4021人 内991人 村百姓

 1862年文久2年壬成    池普請を行う

                                 人足5701人 内651人 村百姓 外88人 杣大工 

 1943昭和18年       前腹突工事を行う

                                 11月5日着工、翌19年3月31日竣工 工事費9000円

  1966年昭和41年      波除護岸工事 一之土井改造工事を行う

                                波除工事延長・272メートル  工事費344万円

                                同年松代地震による湧水防止とし、無償にてアロニ注入工事行われる。

 

 1970年昭和45年      南側護岸工事(石積)およびフェンス取り付け工事(完成翌年)

 

 

         北之入池

 1660年万治3年庚子    北之入池構築を仙石越前守に願い出る

  1663年寛文3年癸卯    願い出た北之入池工事が許可される

                             面積七町八反 深さ1丈五尺 土井の高さ1丈四尺五寸 高・拾二貫二百二文

                             人足16552人 内15000人(上田藩) 1552人(村方人足)

  1686年貞享三年      土提七尺上げる・三の土樋成る

                     平井寺川より揚水口設置する

                               人足14934人 内13712人(上田藩)1222人(村方人足)

 1714年正徳4年甲牛   附記4-13項参照

 1799年寛政11年巳未  前腹突き工事行われる

                      8月22日より9月13日迄 人足7952人 内5952人(上田藩)2000人(村方人足)

        1831年天保2年辛卯   土提3尺上げる  人足13876人半

        1835年天保6年乙未   二の樋状替工事施行 人足3576人 内2900人(上田藩)676人 

                                              (村方人足)

        1840年天保11年庚子  土提3尺上げる 人足2346人 内1275人(国分寺組・田中組・

                  小泉組・浦野組)863人(村方人足)外208人

        1874年明治7年      前腹突き工事施行

        1894年明治27年     前腹突き工事施行

        1933年昭和8年      土提3尺上げる  前腹突き工事施行

        1943年昭和18年     前腹突き工事施行 11月5日着工、同19年3月31竣工 

                   工事費23000円

                 

        1954年昭和29年5月   (中組) さる20日当青年会ではでは、牧草のまきつけを行った。

                        場所は北の入池

                                    水沢池の土手に約7升の種子をまいた。

                                    (東塩田村公民館広報第36号 昭和29年5月25日発行)

 

        1963年昭和38年     老朽復旧波除護岸工事施行 二之土樋尺八改造工事

                                    39年完成延長161メータ、工事費595万円

        1973年昭和48年     一之土提改造工事

        1982年昭和57年     湧水防止グラート注入工事

        1983年昭和58年     湧水防止グラート注入工事

        1984年昭和59年     湧水防止グラート注入工事

        1985年昭和60年     東側大六地区護岸工事

        1986年昭和61年     波除護岸根つき工事及び土提にフェンス張り工事 北側に波除護岸工事

         2022年令和4年       耐震工事

 

 

   砂原池

        1714年正徳4年甲牛   砂原池新築工事始める

 

                 2月25日初め3月29日成る 高さ1丈6尺 土堤長さ38間みなみ土堤長さ36間

                 本土樋長さ17間1尺 高さ1丈1尺7寸 樋の口径4寸5分 二之土堤長さ10間

                 高さ7尺樋之口径4寸 人足7111人

         1718年享保3年戊戌    川欠修理工事を行う

         1728年享保13年戊申   川欠修理工事を行う

         1731年享保16年辛          川欠修理工事を行う

         1738年元文3年戊牛    秋の洪水の為、川欠修理工事を行う

         1742年寛保2年壬戌    この地方9月大洪水(戌 の満水)の為、川欠修理工事を行う

         1753年宝暦3年癸酉     10月の洪水の為、川欠修理工事を行う

         1775年安永4年乙未      池土堤3尺上げる  人足3229人

         1967年昭和42年     波除護岸工事 一之土樋改造工事施工 延長183,31メートル

                                工事費239万円

         1972年昭和47年     北側波除護岸工事

         1976年昭和51年     南側護岸工事施工

         1979年昭和54年     南側護岸工事施工

                  

                   参考資料  富士山村役場昭和18年度耕地協会会計簿

                   富士山村の歴史 溜池の開発と修理の歴史  P174~P183 

 

 

             依田川揚水事業概歴

                

      北之入池、新池、浅間池の関係者が相談の上、依田村御岳堂の関係者と話し合いを始める事になった。

      その後十数回にわたる話し合いの結果ついに、昭和15年12月15日、依田川導入期成同盟会が、

      富士山、東塩田、依田村の関係者によって設立された、

       昭和16年6月に始まり、

      昭和17年、18年、19年、20年、21年、22年、23年、26年、27年、29年、30年、31年、~

      昭和60年 東塩田林間工業団地設立により、団地内には水路本流がある為、

      災害が起きない様上田市と話し合い、厳重に補強工事を行う様上田市へ申し入れをする。

 

       依田川揚水に関する記事は、依田川導水事業達成のため、寝食を忘れ心血をそそいで尽力された

      峰村嘉孝翁の遺稿の中より記したものと、東塩田土地改良組合の理事者として関係された工藤善一郎氏の

      記録を利用した。         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 富士山村の歴史   依田川揚水事業概歴  

P192~P206より 

 

 

 

 

 

 

 

 

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記29

平井寺中谷(なかや)の風穴蔵 
                  蚕種の製造

 記録によると明治八年八月現在、富士山村で蚕種製造の認可を得て、海外へ輸出ため製造していた人は八十三人

もいた。
記録には個人の氏名も記されているが、ここでは省略する。輸出蚕種の検査をしていた人は、

前畑区の室賀八左衛門氏であった。
 明治十五年頃より源方区の山寺儀十郎氏は、甲信社を創設して二代にわたり優良な蚕種の製造に尽力した。

氏は蚕種の保護育成を研究し
明治四十二年に平井寺山、中谷に風穴蔵(夏でも涼しく、一定の温度を保つ装置)を造った。

そして、風穴蚕種として優良な日×日交配
(日本種と日本種の交配)の新品種を造りだした。しかし、昭和十四年の統制経済の企業整備により休業した。
 明治末期より中村区の花岡清作氏は長種館を創設して、二代にわたり新品種の研究に努力し、優良蚕種を製造し

当地方へ広く販売していた。
しかし、甲信社と同じく昭和十四年にやむなく休業した。

 

風穴の写真

絹糸の揚場 
 富士山村には明治の末期から昭和の始め頃まで、中村区に揚場といふ工場の建物があった。

それは養蚕家で中繭、玉繭等を乾燥した繭を農閑期に各家庭で、足踏の機械により婦女子が生糸に繰糸

(繭より絹糸にする作業)し小枠(直径20㎝位)に巻きつけた物を揚場に持って行く。
それを揚場では大枠(直径70㎝)に揚げ返して、その絹糸を枠から取り外して、絹糸を”かな”に結ぶ。

揚場ではこれらの作業を水車を動力として利用し機械を動かしていた。
 各農家が揚場に委託して出来た製品を、商人に売り農閑期を利用しての良い副業として収入を得て家計を

まかなっていたものである。
私達の先祖にはこうした苦難の時代があった事も忘れてはならない。
桑皮の集荷について

                                                 戻る


記30

堤の中心に良質な粘土    塩田平溜池の構造                          紙上講座
  塩田平の水田灌漑用水として、重要な溜池の堤や、樋、配水路がどの様に、工夫されて築造されているか、

ということについては、あまり研究されていなかったようである。 

そこで今回からそれらについて、現在までに判明している事について、書いてみたい思う。
 まず池を築く場所のよいという所は、三方が自然の山で囲まれ、真ん中が深く広い所を見立てて、

その一方に築堤すれば、良いのであるが、その築堤の長さは短く、配水に便利な所が選ばれている。
 池敷が砂利や小石で、漏水のする所、集水地域が畑地、砂地で雨がふるたびに、池が埋まる恐れがある場所は、

よい場所とは言われない。
 西前山の「から池」は元文年間約230年前(S34年時)に築造されたが池敷が砂利や小石の為、

洩水が甚しく十分に貯水することが出来なかった為、築造が2,3年で再び元の畑地に変わったよい例である。
 築堤に際しては池の貯水量の大なるものを、求める為、堤「の高さを過度に高くし、池の深さを大にすると大雨で

洪水の時などは堤の流失、破壊される事が多いので、堤の厚さを厚くし堤を強くする為、堤の外側を二段構とした池が設けられた。

                                              戻る


記31

 実績を上げた台所改善   (平井寺分館)
 当区の台所改善は、昭和30年平井寺全戸水道敷設成るや、がぜんその実績を上げ、各戸それぞれ創意、

工夫の〇された台所改善が行われ、武石方面から来た使節団から好評を得て昨年来、30人、40人の団体が

8回に亘って(延人数200余人が)当区を訪問している。
◎ 婦人会が座布団制作(公民館備品として)
 昨年の12月中旬婦人会の発案により、婦人会員と区から費用を出して、公民館の備品として30枚の座布団が

2月9日制作される運びとなった。
そしてこの布団は今後、益々ひんぱんになる公民館利用に一役買うことになる。
◎婦人会冬季講座開講
 当区婦人会は、去る1月25日生花の講座を皮切りに1月27日はマッサージの講座と、今年の冬はこの二つの講座を一週間おきに開催している。
毎回婦人会員多数出席のもとに盛会に行われている。
 尚、講師は生花奈良尾の小平先生、マッサージ中塩田の山田せんせい。
水道組合総会開催
 平井寺鷹山上水道水道組合総会は去る2月6日午後2時より平井寺公民館に於いて開催、31年度業務及び決算報告

32年度予算承認の後、
第三水源條令の一部改正案を満場一致で可決した。

 

◎平井寺鷹山上水道水道 竣工 昭和30年4月20日 (上田市宮島工業KK)林道栗尾大久保線常斎地籍。

現在は草に覆われ、一瞬気が付くのが遅れます。

 

◎公民館部員総会開催
 去る2月5日夜7時より当区公民館に於いて、公民館部員総会が開催され、事業報告、決算報告、

予算承認の後各部の本年の計画発表が行われた。


   しおだ町報  昭和32年2月25日  第10号

 

 

平井寺鷹山上水道水道 

  竣工 昭和30年4月20日 (上田市宮島工業KK)林道栗尾大久保線常斎地籍。

     現在は草に覆われ、一瞬気が付くのが遅れます。               

上側に。現在も水が出ています。

 

 

 

 

 

本体。この施設の少し上にも、四角い溜めマスが有り、2段に溜めマス

を組み合わせ、この施設で消毒をして、村へ送ります。

 

 

 

 

昭和28年業務日誌・決議録より

  

    業務日誌

               昭和28年12月18日午後7時より審議委員と部員会において、

                 区総会に於いて水道設置についての研究委員会を設けて研究をすべく申し合わせをおす。

 

         決議録

           昭和28年12月25

              評議員会

                 第六号議案・・・水道設置研究委員会を設ける件・・・可決

               

          決議録

           昭和29年1月10

            定期総会・・・水道設置問題提案(前総代より)

              満場一致賛成を得て可決す。

            水道設置研究委員を11名と可決(内団体長6名・一般5名

          2月6日

            評議員会 

              第1号議案<

                  窪田早苗氏より貯水槽敷地借入の件。

                  林東一郎氏畑地を道路敷地として廃道を無く小作とする件

                 以上二件の文書取り替しの件  原案通り可決。

               第4号議案

                水道設置研究委員に公民館生活改善部長を1名加える件 ・・承認

               第5号議案

                研究委員会経費、五千円を保護組合会計より支出の件・・承認

               第13号議案

                水道財源研究委員会委員に神社代表1名参加する件・・・可決

            2月13日

               水道水源調査・・・保健所課長・助役来場・・・正副総代、案内をする。

                 大久保、栗尾(常斎)・若宮、小森川等

         3月5日

                評議員会

                 各方面より貴重な資料を取り寄せ数度の研究重ね、設置を急速推進致すべく意見一致する。

           3月7日

                  評議員会

                 主として水道問題について

            3月10日

                  区総会

                  主として水道問題について

            3月21日

               評議員・氏子総代・水道工事委員合同会議

            3月22日

              鈴子第1班(鷹山)より水道加入申し込み有・・満場意義無く承認

            4月4日

           4月30日

                鈴子区正副総代水道加入正式申し込み有り

                 鈴子1班を除く90戸

           5月29日、8月19日、10月3日

               評議員会・臨時総会開催

  

          昭和29年度・昭和30年度 業務日誌

             業務日誌には、水道研究委員会発足、水道組合設立など、

              水道施設場所の選定。栗尾・大久保(常斎)・小森川・・・大久保(常斎)に決定。

                各機関や保健所等の申請、調査、

               古川神社工藤宮司、羽田県議への働きかけ、工事に対する区民への協力等が多数記載。

         昭和30年5月21日午後2時より

             水道竣工祝賀式挙行   客人累計143名

         5月24日平井寺正副総代、鈴子代表関氏

             役場を訪問し村長、助役に謝礼と助成の件、書類整備の要請を託す

       昭和30年7月15日

                 水道管理の件  役場・保険場、矢口氏

                 平井寺委員長・石神吉沢水道係も出席す。

                 減止器塩素仕様日誌記載書保険所報告

         昭和30年7月17日

           水道組合総会

             委員長より水量調査報告

              当分の間、風呂、洗濯に使用は禁止する。節水の申し合わせをおこなう。

                           

                                           平井寺議会資料より

                                                戻る


記32

 町内施設めぐり   (東塩田若葉保育園の巻)
 東塩田小学校から東へ200mの所、尾根川を渡って畑中の道を行くと立派な建物がある。

これが若葉保育園(園長西川氏)である。
昭和29年東塩田地区の父兄の希望により、昭和30年9月7日、西川さんの敷地600坪、建坪150坪に近代的な保育園が建てられたのである。
寒さ厳しい2月或る日の早朝、同保育園を訪れた。
 訪れたのが早かった為か子供達はまだ見えていなかったが、さすがに定員180名収容出来るだけあって、

廊下をはさんで、保育室六、乳児室一、給食室一、事務室一、と広い遊戯室とがきれいに整理されていた。

保母さん達が各室のストーブの火付けに大童だ。
 あいにく園長さんは留守だったので石倉保母主任さんに色々とお訪ねすると心よく話して下さった。
「環境衛生と収容人員は町内一ですね。特に環境衛生については保健所から折紙を付けられています。 

収容人員もきわめて多いわけですが、それは結局、多くの違った環境の子供と仲間になれて遊べるという点で

子供の精神的面で大いにプラスになっていると思われます」と話された。多くの子供達なので保母さん達も

大変だろうと察しられた。職員は園長1名、主任保母1名、保母7名、給食婦1名、公仕1名だそうである。

成長盛りの子供達の為、給食の方も気をつかって居られるだろうとお聞きすると、「献立は一週間に一度決められ

例えれば金曜日はカレーと伝うように決めます。一日250カロリーを取るように心掛けていますが、しかもそれも

一日7円10銭と決められた枠内で行うわけです。弁当は家からオカズを入れて来ないように習慣ずけてあります」

と語って居られた。

園長会というのは毎月21日に1回あり、保母会と云う様なものも合併されてからそう言う声が高まり、年に三回位話合ったり、研究しあっているそうである。収容定員が多い為いろいろとやりにくい点もあるそうである。

「しかし同保育所としては各地域から一名づつ保母さんが来られているので便利な点も有ります」

と石倉主任さんは語っておられた。

 

    また石倉さんはこうも云っておられた「今年は保育所の危機だと云われています。なぜかと云いますと、

保育所本来の姿を失ってきわめて幼稚園化して来ている。と縣の方や色々な方面から云われています。

 私達若葉も三十年六月開園以来色々な難局に面してきました。こらから一層職員間のチームワークを保って行きたいと思います。これは体験を通して感じています。そして安心して子供を預けられる保育所ににする様努力をして行きたいと思っています」と語って居られた。

 時間が迫ってきたのだろう。子供達が喜々として門を入って来る姿が多くなったので私たちは

  主任さんにお礼を申し上げ若葉保育所の一層の充実を願って門を出た。(田中・伊藤)

 

 

                                                  戻る


記33

平村駒沢(現大町市)大沢寺に宿泊した

ヒットラー=ユーゲントはナチスドイツ青年団で、

この頃、しばし日本を訪問。

 

昭和15年11月17日 ヒットラー=ユーゲント  

農村更生運動で著名な浦里村(小県)を訪問する。

 

                             戻る


記34

入会林野当整備法(入会林野等に係る権利関係の近代化の助長に関する法律)
 村落共同体で共同利用される里山等の林野、いわゆる入会地を律する権利関係が、主に明治の近代法制導入前に
成立した慣習的な入会権や旧慣使用権であることを勘案し、これらの権利関係を解消して、近代化を促進することを
目的として制定された法律。 法においては、「入会林野整備」とは、入会林野である土地について、その農林業上の利用を増進するため、入会権を消滅させること及びこれに伴い入会権以外の権利を設定し、又は消滅させることを言うとされている。
平井寺区においては、明治の時代からの部落有林として管理してきましたが、昭和初期部落有林統一政策により、旧東塩田村に所有権が移管されました。今まで管理してきた思いがあり、平井寺地区は猛反対をいたしました。
森林に対する思いが村に通じ、村から無償譲渡を受け、昭和12年生産森林組合の前身である、平井寺享有林組合
を組織し管理してきました。
昭和53年3月22日に入会林野近代化法により、生産森林組合として設立いたしました。明治時代より百数十年に渡り
管理してしてきました。
 生産森林組合の設立
 林業経営の発展とその利用増進を図り、国土保全等森林のもつ公益的機能を確保し、組合員の総体的な福利向上
を図るとして、森林組合法による「平井寺享有林生産森林組合」を設立することとし、昭和53年3月創立総会を開催、
県知事の認可を受け、昭和53年5月10日に発足した組合員数50名、出資金○○○○○○。
これにより山林の所有権名義は法人組織「平井寺享有林生産森林組合」となる
 平井寺享有林生産森林組合資料より

 

 令和2年 「法人組織 平井寺享有林生産森林組合」(組合長、山部健寿。副組合長、林健一)が認可地縁団体に

      組織変更し、平井寺自治会(自治会長、石合敏夫。副自治会長、窪田八平) に組織編入する。 

  

  令和2年11月26日 平井寺自治会が認可地縁団体(法人化)となり 

                      認可地縁団体平井寺自治会が発足

                          
               「認可地縁団体平井寺史料より」                戻る


記35

明治初期の学校について(跡地標柱建立事業)
   習成学校
  明治6年12月に平井寺・鈴子・石神・柳沢・奈良尾町屋の旧六ヵ村が一小学区となり習成学校を開設し、
 翌年 一月から授業を始めました。場所は鈴子の小野彦衛氏の一部を借り、これに増設して仮校舎としました。
 小野家は大和屋の屋号で手広く商品を扱った店で、屋根の両端には妻飾りの彫刻がつけられ、学校が神聖な場所で
  あることを示したものと思われます。開所当初の教師は14名でした。
  通学区は学区制の第六大学区第十六中学区第十五番小学区の区域で、一小学区に一校ずつ小学校を設置すること
  は県の布達でした。

 習成学校は明治十一年に鈴子の塩入万平氏宅に移りました。

  戴明学校・下之郷学校
 下之郷地区は明治六年に五加の真光寺に開校された盈進学校に通学しました。
 翌明治七年十一月に生島足島神社の歌舞伎殿を校舎にして戴明学校を開設し、ここで学びました。
 歌舞伎殿(現県宝)は明治初年の建築で、県内最大のものであり環境も良く、学校として最適の場所が

 選ばれたのです。
 明治15年に校名を下之郷学校と改めました。
 学校名は地名を名のる決まりになったためでしょう。同17年5月に習成、下之郷両校が合併して塩田学校と

 なります。
 校地は今の東塩田小学校の場所です。年末に大六学校と改名し、明治22年6月1日の町村合併と自治制実施により、
 東塩田尋常小学校になりました。

   富士山学校
  旧奈良尾、町屋の両村は明治6年12月に隣村と共同で習成学校をつくり、ここで学びました。
  習成学校が11年12月に塩入万平氏宅に移転するに当たり、同校から分かれて富士山学校を設置しました。
   学校は佐加神社の神楽殿を増築した仮校舎です。
  翌12年1月に第六大学区第16中学区第22番小学富士山学校と、校名が定められています。
  明治17年5月に塩田学校(後の大六学校)が本校で、富士山学校は支校となり校名は富士山派出所になります。
  これは古安曽・下之郷・富士山の三ヵ村が一学区になったためです。
  この時に新校舎が町屋に建築され、立派な校舎と称えられました。
  (以上 龍野常重)


   昇高学校
  当校は明治6年12月に5日、山田の満願寺に山田・八木沢・別所・野倉・手塚・新町・東前山西前山を学区として
  開校・ 翌年9月4日、手塚・新町が離れ更に同年11月に別所・野倉も別所に別所学校を建てて離れました。
  然し別所学校は、学区の狭小から再び昇高学校に戻りました。
  明治18年10月、昇高学校は校舎を別所の欠下(かけした)に新築し移転しました。
  明治19年4月に、県令により当校は日就学校と合併し、別所学校と呼び本校とし、手塚に支校を野倉に派出所を
  置きました。 派出所は明治22年3月まで、本校は同年6月1日の町村合併・自治制施行に伴う尋常小学校創立ま

  で続きました。

日就学校
  手塚・新町・東前山・西前山では、昇高学校の教室が狭い上に、遠いという理由から9ヶ月後の明治7年

  9月4日に手塚地蔵堂跡へ一棟増築して日就学校をつくり昇高学校から離れました。
  明治19年4月、県令により当校と昇高学校は合併して別所学校となり、別所に本校を置き当校は手塚支校と

  改称されました。
  明治22年6月1日、町村合併・自治制が施行され、当校は校舎一棟を増築して、村一円を通学区にした

  西塩田尋常小学校に引き継がれました。
  同校は大正5年に現在地手塚の立石へ移転しましたが由緒ある地蔵堂跡は、日就学校創立以来この時まで

  教育の場として村民に親しまれました。
  (以上 曲尾 勝)
              文化財塩田平第5号(平成13年3月22日)

    
学校教育  (富士山村の歴史より) 

       学生布達
 明治5年(1872年)7月文部省において、109章に及ぶ大部の学制が定められ、同年8月大政官布告をもって

 この学制が公布された。

 全国を八大学区に分ち、各大学区に大学一校を置き置き、一大学区を32中学区に分ち、
 各中学区に中学校一校を置き、一中学区210小学区分ち、各小学区に一小学校を設ける定めであった。
 これを受けた長野県は、同年9月管内各村へ通達した。


     習成学校

   従来は一部の子弟が寺子屋で学習していたのであったが、国民皆学をめざして、全部の学令児を集めて

  教育するため、学校を設けねばならず、小さな村々にとっては容易な事ではなかった。
  近隣の奈良尾村・町屋村平井寺村・鈴子村・石神村・柳沢村の六ゕ村で協議の上、

  組合立の学校を設ける事とし、開校に向けて各村とも有志の人々の寄付金を仰ぐ事となった。
   明治6年5月7日奈良尾村から長野県へ提出した「学校有志金取調簿」の控によると、

  最高20円から最低25銭の合計354円70銭であって、ほとんど全村民に近い人達からの寄付金である

 (この年米一俵1円20銭)。
  鈴子村25番地小野八左ヱ門宅の空家に仮校舎を増設して、同年12月4日、第六大学区第16中学区第15番

  小学、習成学校を仮開校し、翌7年1月、次の届書を提出している。

   習成学校
  1、生徒 217人  内男 133人  女 84人
  2,学資金 内有志金 113円67銭  課賦金 89円18銭5李厘
  3,教授 壱等訓導小島信敬
  4,助教 壱名 浅野釚次郎
  5,補助 八名 小野孝平・龍野猪太郎・林 観端・宮原段平・室賀秀之・坂田一二・金井秀求・林 東平 
  6,世話方 拾六名 窪田嘉蔵・林 逸八・清水源次郎・小野八左衛門・沖島多蔵・岩井嘉重・峰村安治

            海部野秀角・林 吉太郎・綱島徳治・室賀嘉之次・西沢市平・龍野嘉作・

            龍野喜三右衛門・宮原藤右衛門・宮原重吉
  7,授業料 金百円
  右之通り相違無御座候以上

  明治7年戌1月
           鈴子村戸長   塩入 万平  ㊞
           石神村戸長   龍野平一郎  ㊞
           柳沢村戸長   坂田武兵衛  ㊞
           平井寺村戸長  林  東馬  ㊞
           町屋村戸長   山寺瀬左衛門 ㊞
           奈良尾村戸長  室賀兵左衛門 ㊞

  小県郡学区御取締  森田斐雄 殿

 学制では27章に学科目が明示されていたが、他の届書に「本校では東京師範学校規則に照準仕候」と書いてあ

 り、仲々学制通りには出来ず、読書・復読・暗誦・書取・問答・習字・算術・体操等であった様である。
 当初は義務教育制ではなく、生徒は奈良尾村76人(男51・女25)町屋村32人(25・女7)で就学率は63%

 であって、長野県平均54%よりは良かった様である。

 同年5月2日には長野県参事、楢崎寛直の管下小学校監視のための巡回があった。 

このような学区取締の指導監督は常時にあり、地元の学校執事・世話方その他の就学奨励もあったので、

全生徒数231人となり、富士山地区117人となった。 年末頃か全生徒数340人との記録も残っている。
 同9年3月長野県から布達あり、これまで1・6の日(1・6・11・16・21・26日)が休暇であったが、

以後日曜日を休暇と定める事となる。

同10年3月には習成学校の古安曽村・富士山村と戴明学校の下之郷と連名で「両校共不都合の廉が少なくないと、受持の学校取締から度々懇論されていたので、両校が合併して中央最寄へ学校を新築すれば、
同じ二小区でもあり便宣MOYOINODE、三か村示談し、合併することに決定しましたので御採用下さい」
と言う意味の願書を長野県へ提出いる。 そこで新築の学校の位置についてそれぞれ寄り合いが行われた。
 富士山村では佐加神社が三村の中央と思われるので、その辺へ新築したいと考え、古安曽村、下之郷の学校執事
学校世話懸りへも頼み、同年6月7月頃は学校取締からの指示等もあり、各村代表者の協議も何回ともなくおこなわれた。
 また、縄測量(東奈良尾の一番遠い家と柳沢の手洗池の西二軒屋)もしたが、

尾根川の東側にするか西側にするかで、ついに不調に終わった。

下之郷は同11年3月従前の学校でいきたいとの願いを出し、富士山村は同年4月習成学校からの分校を決定し、

同年11月学校分離願いを県に提出し、12月27日聞き届けられた。

  富士山学校
          習成学校    富士山村  古安曽村 内富士山村
  村社佐加神社字三問寺
  1, 神楽殿  長八間 横五間  仮学校
     外ニ仮普請 長四間  横二間   但仮図面之通
  右の物此度別紙願之通協議行届分離御願御許可被成下候上者校名富士山学校と致度尤学校新築仕候迄右場所
  拝借仕度奉願上候仮図面之通修繕及仮普請イタシ授業無差支仕厚御趣意ヲ奉載シ学校盛大ニ仕度候間夫々願之
  通御採用被成下置度以連印奉願上候以上
  明治11年第11月
  右村惣代代議員  峰村 為次 ㊞

 

富士山村の歴史・学校教育P277~281 

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記36

 

正保4年信濃国絵地図

 平井寺は右側の一番上に有ります。

(横になっています。)

(写真をクリックして下さい、大きなサイズに変わります。)

 

 

 

明治の古安曽図(平井寺分)

青色は来光寺池

青い線は尾根川

 

 

 

 

 

明治の富士山図

 

 

 

 

 

 

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記37

林東馬の碑」

万古「バンコ」

東嶺ー玲月

長照行旅人

依田紀書

林東馬(1829?~1876)明治9年5月 48歳で亡くなる。

万古(ばんこ)「遠い昔から現在まで。と言う意味か? 伊勢に万古焼と言う焼き物があります。

                 

      「碑蔭 明治十有五壬午十二月・・・

                   平井寺組」

                   資料 上田市立博物館「郷土の工芸上田のやきもの」第3版(1993)92項より

              

    「先人の話では、この峠道を通る人々に、明るい月明かりがある様に。という様な話でした。

    この碑の前には、平井寺峠を越えて東内村への続く旧道が通っていました。

    碑の後ろに見える道路の先のお宅が、東馬の屋敷があった所です。

   屋敷の南側には、平井寺郷蔵がありました。

独鈷山登山道入り口にある道しるべ

独鈷山の安山岩を使用しています。左側の内村 ミちで、右側の山 みちで字を分けています。

 設立年月日は不明。

古安曾村          「明治の塩田郷村誌より」

         古時安曽郷(倭名鈔にあり)に属す。

 後塩田庄(東鑑文治二年の条に塩田庄あり)と伝ふ。松本村たり。年月不詳、裂けて二村となり、東松本村、西松本村と称す。(天正十年酒井氏、本郡町村調書に塩田庄東松本村、西松本村とあり。)寛永二年西松本村を三村と

なし、鈴子村(小名に高山、来光寺下あり)石神村(荒井と伝う小名あり)柳沢村(小名おし出あり)と称す。

明治八年右三ヶ村及び、平井寺村と合併し、一村となり、古安曾村と改称す。  (明治7年調)

 川 

 尾根川(三等川に属す)

 深さ5寸、広さ4間3尺、急流。 長1里21町45間、水清淡なり。堤防あり。源を殿城山の谿澗より発し、本村の東端を環流し、下之郷を経て、本郷に至り産川に入る。

 

 (用水堰)

 字東神田にて尾根川を分派し、来光寺池に入、本村田用水となす。

 富士山村用水堰)

 本村にて尾根川を分派し、富士山村の北の入池に入、同村田用水となる。 現在の尾根川、東側の畑の端に

 用水路があって、青木運輸倉庫の南側を通り、その道二つ先の土地は、畑にはなっているが、正式には水田の

 扱いになっています。

 橋

 峠下橋(川上より一))

  東内村への通路に属す。村の南の方尾根川の流れに架す。深さ5寸、広さ5間、橋長さ3間、幅6尺、木造なり。

 峠下橋(川上より二)

 東内村への通路に属す。村の南の方尾根川の流れに架す。深さ5寸、広さ5間、橋長さ3間、幅6尺、木造なり。

   峠下橋(川上より二)

 東内村への通路に属す。村の南の方尾根川の流れに架す。深さ5寸、広さ5間、橋長さ3間、幅6尺、木造なり。

 芝原橋

 東内村への通路に属す。南の方尾根川の流れに架す。深さ5寸、広さ5間、橋長さ4間半、幅6尺、木造なり。

 飛良橋

 東内村への通路に属す。巳の方尾根川の流れに架す。深さ5寸、広さ6間、橋長さ4間3尺、幅6尺、木造なり。

                                             

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記38

   昭和15年1月25日

     区長会 午後1時より役場において開催

    上田温電軌西丸子線(旧依田窪線)廃止反対に付、依田窪・富士山・東塩田三ヶ村一丸となり撤廃運動する為、

                   署名運動をする。

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記39

   昭和26年12月17日

                   平井寺 硫黄鉱山試し堀の件

       尾根川上流(左側より流れ出る水系の赤坂附近)硫黄鉱山会社より大島鉱山主、金谷現場主任出席

       硫黄鉱山試し堀に付、地元各位のご承認と協力を得た気き旨申し出あり。

      当区より4つの事項を申し入れ、会社側より誠意を次して事業に当たる事を約束する。

 (現在は木が生い茂っているが、以前はこうのすの様な感じで、向かって左下に、四角く木枠が有、穴がありました。)

                   昭和26年業務日誌・決議録より

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記40

 平井寺鷹山上水道施設

          昭和28年業務日誌・決議録より

 

 業務日誌

     昭和28年12月18日午後7時より審議委員と部員会において、

     区総会に於いて水道設置についての研究委員会を設けて研究をすべく申し合わせをおす。

 決議録

  昭和28年12月25日

     評議員会

     第六号議案・・・水道設置研究委員会を設ける件・・・可決

 決議録

 昭和29年1月10日

   定期総会・・・水道設置問題提案(前総代より)

           満場一致賛成を得て可決す。

          水道設置研究委員を11名と可決(内団体長6名・一般5名

 2月6日

 評議員会 

     第1号議案

        窪田早苗氏より貯水槽敷地借入の件。

        林東一郎氏畑地を道路敷地として廃道を無く小作とする件。

        以上二件の文書取り替しの件  原案通り可決。

     第4号議案

        水道設置研究委員に公民館生活改善部長を1名加える件 ・・承認

     第5号議案

        研究委員会経費、五千円を保護組合会計より支出の件・・承認

     第13号議案

       水道財源研究委員会委員に神社代表1名参加する件・・・可決

 2月13日 

   水道水源調査・・・保健所課長・助役来場・・・正副総代、案内をする。

   大久保、栗尾(常斎)・若宮、小森川等

 3月5日

  評議員会

   各方面より貴重な資料を取り寄せ数度の研究重ね、設置を急速推進致すべく意見一致する。

 3月7日

  評議員会

   主として水道問題について

 3月10日

  区総会

  主として水道問題について

 3月21日

   評議員・氏子総代・水道工事委員合同会議

 3月22日

   鈴子第1班(鷹山)より水道加入申し込み有・・満場意義無く承認

 4月4日, 

 4月30日

   鈴子区正副総代水道加入正式申し込み有り

   鈴子1班を除く90戸

 5月29日、8月19日、10月3日

   評議員会・臨時総会開催

 昭和29年度・昭和30年度 業務日誌

   業務日誌には、水道研究委員会発足、水道組合設立など、

   水道施設場所の選定。 小森川

   各機関や保健所等の申請、調査、

   古川神社工藤宮司、羽田県議への働きかけ、工事に対する区民への協力等が多数記載。

 昭和30年5月21日午後2時より

   水道竣工祝賀式挙行   客人累計143名

 5月24日平井寺正副総代、鈴子代表関氏

   役場を訪問し村長、助役に謝礼と助成の件、書類整備の要請を託す。

 昭和30年7月15日

     水道管理の件  役場・保険場、矢口氏

    平井寺委員長・石神吉沢水道係も出席す。

    減止器塩素仕様日誌記載書保険所報告。

 昭和30年7月17日

   水道組合総会

   委員長より水量調査報告

   当分の間、風呂、洗濯に使用は禁止する。節水の申し合わせをおこなう。