古代ギリシャ、封建時代に自分の好きなことが表現でき無い時代、2500年前にイソップ(アイソーポス)の鋭い洞察力と表現力によって物語ができました、

ぜひ、見て、読んで、楽しんでください。

山月記

一部差別語が書かれていますがご容赦を


 屁

 

石太郎が屁の名人であるのは、浄光院の是信さんに教えてもらうからだと、みんながいっていた。春吉君は、

そうかもしれないと思った。 石太郎の家は、浄光院のすぐ西にあったからである。
 なにしろ是信さんは、おしもおされぬ屁こきである。
いろいろな話が、是信さんの屁について、おとなや子どもたちのあいだにつたえられている。
 是信さんは屁で引導をわたすという。
まさかそんなことはあるまいが、すいこ屁(音なしの屁)ぐらいはお経の最中にするかもしれない。
  また、ある家の法会で鐘をたたくかわりに、屁をひってお経をあげたという。  

これも、 おとながおもしろ半分につくったうそらしい。
だが、 これだけはたしかだ。
 是信さんは、正午の梵鐘をつきながら、鐘の音の数だけ、屁をぶっぱなすことができるということである。 春吉君は、じぶんでその場面を見たからだ。
 石太郎が是信さんの屁弟子であるといううわさは、春吉君に、浄光院の書院まどの下の日だまりに、なかよく日なたぼっこしている

是信さんと、石太郎のすがたを想像させた。
 茶色のはん点がいっぱいある、 赤みかかったつやのよい頭を日に光らせ、あらいふるしたねずみ色の着物の背をまるくしている、

年よりの是信さん。顔のわりあいに耳がばかに大きい、まるで二つのうちわを頭の両側につけているように見える、きたない着物の、

手足があかじみた石太郎。
 きっと石太郎は、学校がひけると、毎日是信さんとそういう情景をくりかえしながら、屁の修行をつんでいるのだろう。
まったくかれは屁の名人だ。
 石太郎はいつでも思いのままに、どんな種類の屁でもはなてるらしい。  みんなが、大きいのを一つたのむと、ちょっと胸算用するようなまじめな顔つきをしていて、ほがらかに大きい屁をひる。
 小さいのをたのめば、小さいのを連発する。  にわとりがときをつくるような音をだすこともできる。  

こんなのは、さすがに石太郎にもむずかしいとみえ、
しんちょうなおももちで、からだ全体をうかせたりしずめたり・・・・・・・つまり、
調子をとりながらだすのである。  そいつがうまくできると、みんなで拍手かっさいしてやる。
 しかし石太郎は、そんなときでも、屁をくらったような顔をしている。
その他、とうふ屋、くまんばち、かにのあわ、こごと、汽車など、石太郎の屁にみんながつけた名前は、十の指にあまるくらいだ。
 石太郎が屁の名人であるゆえに、みんなはかれをけいべつしていた。
下級生でさえも、あいつ屁えこき虫と、公然(こうぜん)指さしてわらった。  それを聞いても、石太郎の同級生たちは、同級生としての義憤(ぎふん)を感じるようなことはなかった。
 石太郎のことで義憤を感じるなんか、おかしいことだったのである。
 石太郎の家は、小さくみすぼらしい。 一歩中にはいると、一種居様(いっしゅいよう)なにおいが鼻をつき、へどが出そうになる。
そして、暗いので家の中はよく見えない。石太郎は、病気でねたっきりのじいさんとふたりだけで、その家に住んでいる。
 どこかへかせぎに出ているおとっつぁんが、ときどき帰ってくる。 おっかあは、早く死んでしまって、いない。
石太郎は、ポンツク(川魚のこと)にばかり行く。  とってきたふなやどじょうを、じいさんに食べさせる。

 また、買いにいけば、どじょうやうなぎを売ってくれるということである。
 石太郎の着物は、いつ洗ったとも知れず、あかでまっ黒になっている。
その着物に、家の中のあの貧乏のにおいや、ポンツクのなまぐさいにおいをつけて、学校へやってくる。 そのうえ、
注文されなくてもかれは、ときおり放屁(ほうひ)する。
 みんなは石太郎のことを、屁えこき虫としてとりあつかっている。 
 石太郎のほうでも、そのほうがむしろ気らくなのか、一度もふんがいしたことがない。
生徒ばかりでなく、たいていの先生まで、石太郎を虫にしているので、
 石太郎は
だんだんじぶんでも虫になっていった。
かれは、教室で、いちばんうしろに、ひとりでふたりぶんのつくえをあたえられていたが、授業中あまり授業に注意しなかった。
たいていは、ナイフで鉛筆(えんぴつ)に細工(さいく)していた。
 またかれは、まじめになるときがなくなってしまった。
屁の注文をうける場合のほかは、かれは、いつもぐにゃぐにゃし、えへらえへらわらっていた。
 春吉くんは、一度、石太郎のことで、じつにはずかしいめにあったのである。
それは五年生の冬のことである
三年間受け持っていただいた、年寄りの石黒先生が、持病(じびょう)のぜんそくが重くなって、
授業ができなくなり、学校をおやめになった。
かわりに町から、わかい、ロイドめがねをかけた、髪の長い藤井先生がこられた。
 

春吉君の学校は、かたいなかの、百姓の子どもばかり集まっている小さい学校なので、よそからこられる先生は、みな、

都会人(とかいじん)のように思えたのだった。
藤井先生をひと目見て、春吉くんは息づまるほどすきになってしまった。 文化的な感じに魅(み)せられたのである。
 石黒先生もよい先生であったが、先生は生まれが村の人なので、ことばが、生徒や村のおとなたちの使うのとほとんどかわらないし、年をとっていられるので、
体操(たいそう)など、ちっとも新しいのを教えてくれない。 走りあいか、ぼうしとりか、それでなければ、砂場(すなば)ですもうをとらせる。 いちばんいやなのは、話をしている最中(さいちゅう)に、せきをしはじめることである。 

 長い長い、苦しげなせき、そして、長いあいだ、さんざん苦労(くろう)をしたあげく、のどからやっと口までだしたたんを、
ポケットにいれて持っている新聞紙のたたんだのの中へ、ペッペッとはきこみ、その新聞紙を、まただいじそうにポケットにしまうのである。
 さて、藤井先生が、はじめて春吉君の教室(きょうしつ)にあらわれた。 はじめて生徒を見る先生には、生徒は、みないちように見え る。 よく、それぞれの生徒の生活になれると、
 それぞれの生徒の個性(こせい)がはっきりしてくるが、顔を最初見たばかりでは、わからない。
 だれがりこうで、だれがしようもないあほうであるかも、わやらない。
 藤井先生はまず、教卓(きょうたく)のすぐ前にいる坂市(さかいち)君にむかった、[きみ、読みなさい。]といった。
 それは読み方の時間だった。 [きみ]ということばが、春吉君をまたよろこばせた。 なんという都会(とかい)ふうのことば

だろう。
 石黒先生はこんなふうにはよばなかった。
 先生は、生徒の名前を知りすぎていたから、「源げんやい読め。」とか、「照てるン書け。」とかいったのである。
 坂市君が読んでいきながら、知らない字をのみこむようにしてとばしたり、あいまいにごまかしたりすると、石黒先生はそんなのをほ ったらかしておかれたのに、わかい藤井先生は、いちいち、え、え、と聞きとがめられた。そんなことまで、

春吉君の気にいった。

 もう何から何まで、この先生のすることはよかった。

藤井先生は、坂市君から順々に後ろへあてられた。四人めには、春吉君がひかえている。春吉君はこの小さい組の級長である。

 春吉君はきりっとした声をはりあげて、ろうろうと詠み、未知のわかい先生に、じぶんが秀才であることをみとめてもらう

つもりで、番のめぐってくるのを、今やおそし待っていた。いよいよ春吉君の番だ。春吉君は、がたっとこしかけを後ろへのけ、

直立不動のしせいをとり、読本を持った手を、思いっきり顔から遠くへはなした。そして大きく息をすいこみ、

今や第一声をはなとうとしたと

 たん、つごうの悪いことが起こった。ちょうどそのとき、藤井先生は、机間巡視の歩を教室のうしろのほうへはこんでいられたが、

 とつじょ、ひえっというような悲鳴をあげられ、鼻をしっかりとおさえられた。みんながどっとわらった。

 また、屁えこき虫の石が、例ののくせをだしたのである。なんというときに、また、石太郎は屁をひったものだろう。春吉君は、

 すかをくらわされたように拍子抜けして、わらえもしなければおこれもせず、もじもじして立っていた。藤井先生は、

 まゆをしかめ、あわててポケットから取り出したハンケチで、鼻をしっかりとおさえたまま、こりゃひどい、まったくだ、

さあまどをあけて、そっち も、 こっちもと、さしずされ、しばらくじっとして何かを待っていられたが、やがて、おそるおそる

ハンケチを鼻からとられ、おこってもしょうがないというように、はっはっと。顔の一部分でみじかくわらわれた。

だがすぐきっとなられて、だれですか、

 今のは、正直に手をあげなさいと、見まわたされた。

  石だ、石だ、とみんながささやいた。藤井先生は、、その「石」をさがされた。そして、いちばんうしろの壁ぎわに発見した。

 石太郎は、新しい先生だから照れくさいと見えて、机の上に立てた表紙のぼろぼろになった読本のかげに、髪の伸びた頭を

  隠すようにしていた。立っていた春吉君は、そのとき、いい知れぬ羞恥の情にかられた。自分の組に、石太郎のような、不潔な、

 野卑な、非文化的な、下劣な者がいるということを、都会ふうの、近代的な明るい藤井先生が、どうお考えになるかと思うと、

 まったくいたたまらなかった

 藤井先生は、相手を見て少しことばの調子を落しながら、いろいろ石太郎に聞いたが、要領をえなかった。

 何しろ石は、くらげのように、机の上でぐにゃつくばかりで、返事というものをしなかったからである。

 そこで近くにいる古手屋の遠助が、得意になって説明申し上げた。まるで見世物の向上いいのように、石太郎はよく屁をひること、

 どんな屁でも注文通りできること、それらには、それぞれ名前がついていること等々。

  春吉君は古手屋の遠助のあほうが、そんなろくでもないことを、手がら顔して語るのを聞きながら、それらのすべてのことを、

 あかぬけのした、頭をテカテカになでつけられた藤井先生が、どんなに軽蔑されるかと思って、じつにやりきれなかったのである。

   一年おきにやって来る、町の小学校との合同運動会でも、春吉君は、石太郎の存在をうらめしく思った。その日には春吉君の学校は、白い弁当のつつみを背中にしょって、半里ばかりの道を、町の大きなへやっていく。大きな立派な小学校である。木造りの古い

講堂が有、えび茶のペンキで塗られた優美な鉄柵が、門の両方へのびている。運動場のすみには、遊動円木や回旋塔など、春吉君の

学校にはないものばかりである。ここの小学校の生徒や先生は、みな、町ふうだ。薄いメリヤスの運動シャツ、白いパンツ、

足に塗った

  ヨジウム、そして、言葉が小鳥のさえずりに似て軽快だ。春吉君は、一歩門内に入る時から、もう自分達一団のみすぼらしさに、

 恥ずかしくなってしまう。何という生彩ののない自分達であろう。友達の顔が、サルみたいに見える。よくまあこんな、

弁当風呂敷をじいさんみたいにしょって来たものだ。まったくやりきれない田舎ふうだ。

    こんな意識が、運動会の終わるまで、春吉君の中で続く。ちょっとでも、自分達の不体裁なことを笑われたりすると、春吉君は

突き飛ばされたように感じる。町の見物人達の1人が、春吉君のことを、ま、じょうぶそうな色をしてと、つぶやいたとしても、

春吉君は恥辱に 思うのである。町の人が驚くほどの健康色、つまり、日焼けしたはだの色というものは、

町ふうではなく在郷ふう(いなかふう)だからだ。

    ある人々は、保護色性の動物のように、じき新しい環境に同化されてしまう。で、藤井先生も、半年ばかりの間に、

すっかり同化されてしまった。洋服やシャツはあかじみ、ぶしょうひげはよく伸びており、言葉なども、

 すっかり村の言葉になってしまった。「なんだあ」とか、「とろくせえ」とか、「こいつがれ」などと、

春吉君がその言葉あるがため、自分の故郷を嫌っているような、げびた方言を、平気で使われるのである、春吉君が、

藤井先生も村の人になったと言う事をしみじみ感じたのは、麦のかられたじぶんのある日だった。

   午後の二時間目、春吉君たちは、校庭のそれぞれの場所にじんどって、水彩の写生をしていた。

小使室の窓の下に腰を下ろして、学校の 玄関と、空色に塗られた朝礼台と、その向こうのケシの咲いている短冊形の花だんと、

ずうっと遠景にこちらを向いて立っている二宮金次郎の、本を読みつつマキを背負って歩いている御影石の象とを取り入れて、

一心に彩筆をふるっていた春吉君が、ふと顔をあげて南を見ると、学校の農場と運動場の境にになっている土手の下に腹ばって、

 藤井先生が、何か土手のあちら側に向かって合図をしていられる。 いち早く気づいた者がもう二人、ばらばらとそちらへ走って行くので、春吉君も画版を置いて駆けつけると、土手の下に、

水を通ずる為、設けてある細い土管の中へ、竹ぎれを突っ込んでいる先生が、落ちかかって鼻の先に止まっているメガネごしに

春吉君をみて、「おい、ぼけっと見とるじゃねえ、あっちへまわれ、こん中にイタチがはいっとるだぞ。今こっちから突っつくから、

むこうで、屁えこき虫といっしょにかまえとって、つかめ、逃がすじゃねえぞ。」とつばを飛ばしておっしゃった。

   向こう側へこしてみると、 なるほど、屁えこき虫の石太郎が、このときばかりはじつに真剣な顔つきで、

そこの泥溝の中にひざこぶしまではいって、土管の中へ、右手をうでのつけねまで差し入れている。腕をすっかり土管の中につっこん

 でいるので、自然、頭が横向けに 土手の草に押し付けられ、なにか、土手の中のかすかな物音に、

 耳を澄まして聞いているといった風情である。じき近くにあるアヒル小屋にいる二羽のアヒルが、人の気配でひもじさを

 思い出したのか、があがあとやかましく鳴き出した。

   春吉君は、泥溝の中へ飛び込んで行く気にはなれなかったし、石太郎が土管の穴を受け持っているからには、よけいな手出しは

   しないほうがいいので、他の者と一緒にみていた。「ええか、ええかあ、にがすなよおっ。」

   という藤井先生の声が、地べたをはってくる。石太郎は黙って、依然、土手の声に聞き入っていたが、やがて、

 土手についたもう一方の手が、ぐっと草をつかんだかと思うと、土管の中か ら、右手をじょじょに抜き始めた。

       首ねっこを力いっぱい握り絞められていた大きなイタチが、窒息のためもうほとんど死んだようになっていて、

 土管の外へ出ると、だらりとえりまきを見るようにぶら下がっったが、少し石太郎が、てをゆるめたのか、

 なにかかき落そうとするように四肢ををもがいた。するとそのとき、泥溝から上がっていた石太郎は、

   ちくしょうと口走って、目にも止まらぬ敏捷さで、イタチを地べたへたたきつけた。

   ぼたっと重い音がして、古イタチ、のびてしまった。春吉君は、いつも水藻のような石太郎が、こんなにはっきり、

 ちくしょうっという日本語を使ったことも不思議だったし、こんなにすばしこい動作ができるということも不可解な気がした。

 それはともかく、そのとき春吉君は、藤井先生が、この片田舎の、学問の出来ない、下劣で野卑な生徒たちに、しごく適した先生に

 なられたことを感じたのである。

     といって、別段失望したわけでもない。結局、親しみを覚えて、それがよかったのだ。

  藤井先生は、石太郎ととらえたあおイタチを、へびつかみの甚太郎に、二円三十銭で売った。その金で、小使いのおじさんと一杯

   やったという話を、二~三日して春吉君は、皆からただ面白く聞いた。先生はまだ独身で、小使室のとなりの宿直室で寝起きして

 いられたのである。教室でも先生が変化したことは、同じことだった。

 坂市君や、源五兵衛君や、照次郎君などが、知らない文字をうのみにして読本を読んでいっても、最初の頃のように、え、え、と、

 優美にとがめるようなことはされなくなった。年寄りの、ぜんそくもちの石黒先生と同じ様に、知らんふりしてズボンのポケットに

 両手をつっこんで机の間を散歩していられるのであった。

    こういうぐあいに、すべての点で藤井先生は田舎の気風にならされ、のみならず、田舎風をマスターするようになったのだが、

 石太郎の、授業中にときどき音もなくはなつ屁にだけは、あくまで妥協出来なかったのである。  情景はおおよそ、

 次第が決まっていた。まず最初にそれを発見するのは石太郎の前にいる学科のきらいで騒ぐことの好きな、

  顔がガマに似ている古手屋の遠助である。かれは、先生の真面目なお話などいささかも分からないので、どんなに、

  クラス全体が一生懸命に先生の話に傾聴している時でも、「あっ、くさっ、あっ、くさっ。」といいだす。すると、

 教室のその一角から、「あっ、くさっ、あっ、くさっ。」という声が 波紋の様に広がり、ざわめきだす。すると藤井先生は、

 あわててハンケチを胸のポケットからだす。(あまり倉卒{あわてる様子}に取り出すので、頭髪をすく小さいくしが、

 まつわって飛び出した事もある) ハンケチで鼻をしっかりとおさえる。鼻声で、窓を開けろ、窓を、そっちも、こっちもと、

 下知なさる。それから南の窓ぎわへ歩いて行って、外の空気を吸うために、ややハンケチをおはなしになる。藤井先生のいつも

 決まった 動作が面白いので、生徒らは、男子も女子も、ますます、臭いと騒ぐ。すると古手屋の遠助が、きょうは大根屁だとか、

 今日はいも屁だとか、今日はえんどう豆屁だとか、正確にかぎ分けて、手がら顔にいうのである。

   皆は、遠助の鑑識眼を信用しているので、彼の云った通りの言葉を、また伝え始める。

       「あ、大根屁だ。大根くせえ。」

 というふうに。ようやく喧騒が大きくなったころ、先生は、「だれだっ」と、一括される。一同はぴたっと沈黙する

 そして申し合わせたように、教室の後方に頭をめぐらす。みんなの視線の集まる所に、屁えこき虫の石太郎が、

 照れた顔を机に近く下げて、左右に少しずつゆすっているのである。

   その静寂の時間がやや長く続くと、石だ、石だ、という声が、今度は誰云うともなく、石太郎よりもっとも遠い一角より

 おこってくる。 藤井先生は黒板の裏側にかけてある竹のむちを持って、つかつかと石太郎の所へ行き、いい加減にしとけと、

 むちの柄で、石太郎ののこめかみをこずかれる。そは先生も、石太郎と協力して取った古イタチの代で、一杯いけたことは、

 忘れていられるように見えるのである。こういう情景はもう何度くりかえされたかしれない。いつも判で押したかのごとく

 同じ順序で。秋も初めの頃、学校の前の松の木山のうれに、沢山のカラスが群れて、そのやかましく鳴きたてる声が、

 勉強の邪魔になる、ある晴れた日の午後であった。春吉君たちは、六時間めの手工をしていた。その日の手工は、

かわら屋の森一君がバケツ一ぱい持ってきた粘土で、思い思いの細工をするのである。春吉君は茶飲み茶碗を作っていた。

本当の茶碗の様に、土を薄く、しかも正しい円形にに作ることは、 なかなか容易ではない。すでに何べんも、出来上がった茶碗が

意にみたず、ひねりつぶし、また初めからやり直した。そしてついに、今度こそはと思われる逸品が出来上がりつつあった。

春吉君は、細心の注意をはらって、竹べらをぬらしては、茶碗のはらの凹凸をならしていった。すっかり茶碗に心をうばわれ、

ほかのいっさいの事を忘れていたが、

 ふと我に帰った春吉君は、

                    「しまった。」

と思った。朝から少し腹具合が悪く、何か重いものが下腹いったいに詰まっているいる感じで、ときどき、ぶつぶつと豆の

 煮える様な音もしていたので、油断すると屁をするぞと、心を戒めていたのだが、ついに、仕事に熱中していて、

今その屁を音もたてずにしてしまったのである。おかげで腹は軽くなったが、腹が軽くなるほどの屁というものは、

激しい臭気を伴っているはずだと、春吉君は思った。 うまく誰も気づかずにいてくれれば良いがと、春吉君はひそかに願った。

ならびの席にいる源五兵衛君は、鼻じるをすすりながら、不格好に大きな動物=たぶん、カメだろうと思われるが、

ともかく四足動物の四本の足をくっつけようと努力している。後ろの照次郎君も、与之助君も、それぞれの制作に余念がない。

    少し時間がたった。春吉君は助かったと思った。と、そのせつな、古手屋の遠助が、あ、くせ、と、第一声を放った。

春吉君は、恥ずかしさで顔がほてってきた。いつもと同じ騒ぎが始まった。屁えこき虫の石太郎が、屁を放った時と、

寸分違わぬことが。

   春吉君は、どうしていいのか分からない。もう、成り行きにまかすばかりだ。やがて古手屋の遠助が、今日は大根菜屁だといった。

  何という鋭敏な嗅覚だろう。たしかに春吉君は、けさ大根菜の入った味噌汁で食べてきたのである。

 やがて騒ぎが大きくなりだしたころ、藤井先生が例によって、

                    「だれだっ。」

    とどなられた。春吉君は、意味もなく粘土をひねりながら、息をのんで、おもてをふせた。皆の視線が、ちょうどいつも石太郎の上に蝟集するように、今日は、自分にそそがれているのだと思いながら。今にどこからか、春吉君だという声が起こってくるに

相違ないと、思った。そういうふうにすっかり観念していたので、石だ、石だ、という誤った声があがった。ときには、自分の頭上に

落ちてくるはずのげんこつが、脇にそれたように、ほっとした奇妙な感じになった。顔を上げて見ると、意外にも、皆の視線は、

春吉君に集中されておらず、やはり石太郎のほうに向いているのだ。

   藤井先生が、黒板の裏に掛かっているムチを取って、つかつかと石太郎の前に歩いて行かれる。春吉君の心の底から、正義感が

むくっと起きてきた。自分だと言ってしまおうか、しかし、誰一人、自分を疑ってはいないのである。ここで白状するのは、

何とも恥ずかしい。先生が石太郎の席に達するまでの短い時間を、春吉君の中で正義感と羞恥心とが、目まぐるしい闘争をした。

   それが春吉君の動悸を、鼓膜にドキッドキッと響くほど、激しくした。そして、しばらく正義感がおさえられた。

  反射的に、粘土を親指と人差し指の腹ですりつぶしながら、春吉君は見ていた。石太郎はいつもと変わらず、照れた顔を机に

  近くゆすっている。今に、俺じゃないと弁解するかと、春吉君がひそかに恐れながらも期待していたのに、その期待も裏切られた。

  石太郎は、ムチでこめかみをぐいと押され、左へぐにゃりとよろけたが、依然照れたような表情で、沈黙しているばかりである。

 春吉君は余儀なく、自分の罪を白状させられる機会は、ついにこなかった。これで騒ぎは済んでしまった。

一同は、再び作業に取り掛かった。しかし春吉君だけは、事がまだ終末に至っていない。気持ちに背負いきれぬほどの

 負担が出来てしまった。春吉君には、こんな経験は、生まれて初めてと言ってもよい。春吉君は今まで、修身の教科書の教えている

通りの、正しい優れた人間であると、自分の事を思っていた。今、自分が沈黙を守って、石太郎に濡れ衣を着せておくことは、

正しい事ではない。自分は、堂々というべきである。今からでもよい。さあ、今から。そう口の中で言いながら、

どうしても立ち上がる勇気が出ないのであった。

   春吉君は悔しさのあまり、泣きたいような気持ちになってきた。それをはぐらかすために、出来上がっていた大事な茶わんを、

 ぐっと握りつぶしたのである。

        次の日学校にふたたびくるまでも、しつこく春吉君の後をつけてきた。大抵の悩みは、お母さんにぶちまければ、

 そして場合によっては少々泣けば、解決つくのだが、こんどは、そういうわけにはいかない。

  まったくこれは、春吉君にとって、この世における最初の、自分で処理せなばならぬ煩悶(はんもん)であった。

 それは家へ帰ってからも、 だいいち、どういってお母さんに説明したらいいのか。雑誌が欲しいとか、お父さんの大事な鉢を

割ってしまったとかならば、簡単に自分の悩みを知ってもらえるが、これはそんな優しいものではない。複雑さが、

春吉君の表現を超えている。屁をひった話などしたら、まっさきにお母さんは笑い出してしまうだろう、とても、

真面目に取ってくれぬだろう。春吉君は、ただ自分の正しさというものに汚点がついたのが、しゃくだった。ちょうど、

買ったばかりの白いシャツに、汚泥の飛沫をひっかけられたように。

    石太郎にすまないという気持ちや、石太郎は犠牲に立って偉いなという心は、ぜんぜん起こらなかった。

石太郎が弁解しなかったには、他人の罪をきて出ようというごとき高潔(こうけつ)な動機からでなく、彼が、歯がゆいほどの

ぐずだったからにすぎない。

 また石太郎は、何度ムチでこずかれたとて、いっこう骨身にこたえない。まるで日常茶飯事のように心得ているのだから、

いささかも、彼にすまないと思う必要はないわけである。むしろ、石太郎みたいな屁の常習犯がいたために、

こんな悩みが残ったのだと思うと、彼がうらめしいのである。しかし、時が、春吉君の煩悶(はんもん)を解決してくれた。

 十日もすると、もうほとんど忘れてしまった。

  だが春吉君は、それからのち、屁騒動が教室で起こって、例の通り石太郎が??られるとき、決して以前の様に簡単に、それが

   石太郎の屁であると信じはしなかった。誰の屁か分からない。そしてみんなが、石だ、石だ、といっているときに、そっとあたりの

 者の顔を見回し、あいつかもしれない、こいつかもしれないと思う。

  疑いだすと、残らずの者が疑えてくる。いや、おそらくは、誰にも今までに、春吉君と同じような経験があったにそういないと

 考えられる。

      そういうふうに、みんな狡猾(こうかつ)そうに見える顔を眺めていると、なぜか春吉君は、それらの少年の顔が、

 父親たちの狡猾な顔に見えてくる。おとなたちが、せちがらい世の中で、表面は涼しい顔をしながら、汚いことを平気でして生きて

 行くのは、この少年たちが、ぬれぎぬを物言わぬ石太郎にきせて知らん顔しているのと、何か、似通っている。自分もその一人だと

 反省して、自己嫌悪の情がわく。

     だが、それは強くない、心のどこかで、こういう種類のことが、人の生きて行くためには、肯定されるのだと

 春吉には思えるのであった。

                       

   1940年作  新見南吉

                       

   人にはどれほどの土地がいるか

 

  町から姉が、村の妹の所へやって来た。

  姉は街の商人に縁づいて街に住み、妹は村で、百姓の所へかたずいて居たのである。姉妹は、お茶を飲みながら、話をしていた。

 そのうちに、姉はもったいぶりだしてー 街での自分の生活の自慢をはじめた ー、街では、どんなに広々とした、きれいな家に

 住んでいるか、どんなに子供たちを着らせているか、どんなにおいしいものばかり食べたり飲んだりしているか、どんなにたびたび

  馬車を乗り回したり、遊び歩いたり、芝居に出かけたりするか。妹も口惜しくなってきたので。商人の生活をけなして、

 自分の百姓生活を持ち上げ始めた。

     「わたし、どんなことがあったって」と彼女はいうのだった。

  自分の生活をあんたのと変えようとは思わないわ。そりゃ私たちの生活は、派手じゃないけど、そのかわり心配というものが

  ありません。あんたの生活は、なるほどきれいだわ、だけど、大きな賭けをするか、すっかりすってしまうかどっちかでしょう。

  諺(ことわざ)にもあるじゃないの 損は徳の兄だって。それにこういうこともあるわ 今日は金持ちでも、明日は、

 人の窓の下に立って。そこへいくと、わたしたちの百姓仕事は、たしかなもんよ 百姓の暮らしは細いけれど、長つづきがするわ。

 金持ちにならなくても、ひもじい思いをすることはないからね」

    そこで姉が言い返した。

    「ひもじい思いをする事がないって、それがどうでしょう。 豚や牡牛と一緒じゃないの! いい着物が着られるじゃないし、

   いいお付き合いができるじゃないし! おまえの御亭主がどんなにあくせく働いたところで、結局こやしの中で暮らして、

 その中で死んでいくんじゃないか、おまえの子供たちだって、同じことになるんだよ」

       「それがどうしたのさ」と妹が言うのである。「それが私達の仕事なのよ。その代わり私達の暮らしには、

 あぶなっけと言うものがちっともないわ。誰に頭を下げるじゃないし、だれを怖がることはなしさ。ところが、あんたがたの

 街じゃ、まるでみんなが誘惑の中に暮らしているみたいなものじゃないの。今日はよくても、明日はどんな悪魔に魅入られるか

 しれない。あんたの所の人だって、いつカルタにおぼれるか、 酒におぼれるか知れやしれない。そしてそうなりゃもう、何もかも おしまいじゃありませんか・・・・・そうじゃないこと?」

   妹の亭主のパホームは、暖炉の上で女達のおしゃべりを聞いていた。

           「そりゃほんとのことだ」と彼は言った。「それに違いない。わしらの仲間は、小さい時から母なる地面を掘り返して

  来たんだから、馬鹿げた考えは起こしようがない。ただ一つ弱るのは、地面が足りないことだ! 

 これで、地面さえ自由になったら、わしには誰だって怖いものはない ― 悪魔だってこわかないよ!

  女たちはお茶を飲み終わってから、なおしばらく着物の事などを話し合ったのち、茶碗や皿を片付けて、床についた。

    ところが、一疋(いちひき)の悪魔がだんろの後ろしゃがみ込んで、それを残らず聞いていた。

 彼は百姓が、女房の自慢話につりこまれて自分に地面があったら悪魔だって怖くないと豪語したのを聞いて、

 とても喜んだのである。〔よしきた〕と彼は考えるのだった。

                 〔ひとつお前と勝負してやろう。俺がお前に地面をどっさりやろう。 地面でお前をとりこにしてやろう〕

       (2)

   百姓達の隣りに、あまり大きくない女地主が住んでいた。彼女は120デシャティーナ(1デシャティーナは

 約1092ヘクタール)ばかりの地面を持っていた。彼女は、これまでは百姓達とも折れ合いよく暮らしてきて、

 百姓達をいじめるようなことはしなかった。

       が、近頃に兵隊上がりの男が管理人として雇わ来てからというもの、この男が、何かと言っては罰金を取り立てて、

 百姓達を苦しめ始めた。

  パホームがどんなに気を付けても、うまが地主の燕麦畑へ踏み込むとか、牡牛が庭へ迷い込むとか仔牛が草地へ入るとかいうことは  

 防げなくて、その度にいちいち罰金を取られるのだった。罰金を取れれるたびに、パホームはうちの者を罵ったりぶったりした。

       こうして、この管理人のためにパホームは、夏の間にずいぶん多くの罪を作った。それで、それで、家畜を小屋へ入れる時期に

 なると、かえって、ほっとするくらいだった 肥料は惜しかったけれど、心配がなくなったから。

  ところが冬の間に、女地主が地面をうろうとしている、そして旅籠屋の亭主が道路沿いの地面を買おうとしていると言う噂が

 たった。

    百姓たちは、それを聞いて嘆息した。『さあ』と彼らは考えたのである。『もし地面が旅籠屋の手に入ったら、

 あいつはきっと奥さんよりひどい罰金を取り立てるに違いない。ところが、わしらはこの地面なしじゃ生きてゆかれない

 わしらはみんな奥さんの地面のぐるりにいるんだから』そこで百姓たちは、一団になって女地主のところへ出向き、

 地面を旅籠屋に売らないで、自分たちに譲ってくれるようにと頼み始めた。そしてきっと旅籠屋より高く買う約束した。

 女地主は承諾した。百姓たちは、村組合で地面を全部買い取る手筈をつけて、いくども集会を開いたが、相談がまとまらなかった。

 悪魔が彼らの邪魔をしたので、どうしても意見をまとめることが出来なかったのである。

      そこで百姓たちは、めいめい自分の力にそうだけ、別々に買うことにした。女地主の方でもこれに同意した。

 パホームは、隣りの男が20ディシャティーナ買ったところが、女地主は、半金だけ一年間猶予してくれたということを

 聞き込んだ。

    パホームには、それがうらやましくなった。『みんなが地面をありったけ買ってしまったら』と彼は考えたのである。

                      『俺は何にも無しになってしまうだろう』そこで彼は妻と相談を始めた。

   二人は、どうして買ったらいいかを相談した。彼らには、貯金が100ルーブリあった。で、牡牛を一頭と蜂蜜を半分売り、

 息子を前借で作男に出したうえ、なお義兄から借金して、やっと地代を半分だけ集めた。

  パホームは金を集めると、ちょっとした林のある15ディシャティーナの地面を見立てて、女地主の所へ話をきめに行った。

 それから街へ出かけて、売買の手続きをすまし、金は、半分だけ即金で払って、あとは2年内に支払うということ決めた。

 こうしてパホームは地所持ちになった。パホームは種子を借りて、買い取った地面に作づけをした。作物は良くできた。

 一年の間に彼は、女地主にも義兄にも借金を返してしまった。パホームはこれで、いよいよ本当の地主になった。 

  自分の土地を耕し種子を播、自分の草場で草を刈り、自分の地面から薪を伐り出し、自分の地面で家畜を飼った。

 パホームは、永久に自分のものである地面を耕しに出かけたり、芽だしの様子や、草場の見回りに出かけたりするたびに、

 嬉しさで胸がいっぱいになった。

      そこでは草も、花も、よそのものとはすっかり違うようなきがした。以前にも、彼はよくこの土地を通った  その土地に

 変わりはなかった。

   が、今はその土地が、全然特別な土地になってしまった。<

                    

       (3)

       こうしてパホームは、楽しい日々を送っていた。もし百姓たちが彼の作物や草場を荒らし始めなかったら、

万事申し分なかったであろう。

彼は、真面目に頼んで見たが、それは一向に効き目が無かった。 ー  牛飼いが彼の草場へ牛どもを追い込んだり、夜飼い馬が

作物の中へ踏み込んだりするのだった。 

 が、パホームは、それを追い出すだけで大目に見て、ついぞ訴えるようなことはしなかったが、

そのうちにやりきれなくなって、とうとう裁判所へ訴えて出た。もともと、百姓たちがそんなことをするのは土地が狭いからで、

悪気があってするのでない事を知っていたが、しかし、、こう考えないではいられなかった。    

   『それかって、このままにほってもおけまい。ほっといたら、何もかも台無しにされちまうだろう。ちっとは思い知らせて

    やらなけりゃ】

  こうしてかれは、まず一度裁判にかけて懲らしめてやり、続いてまた一度懲らしめてやった。

初めの相手も、二度目の百姓も、罰金を取られた。それで、近所の百姓たちが、今度は逆にパホームを怨みだして、わざと畑や

草場を荒らし始めた。ある百姓などは、夜中に林の中に入って十本ばかりの菩提樹の皮をはいでしまった。

パホームが林の中を通りかかって見ると、何やら白いものが見える。近づいて見ると、皮をはがれた菩提樹の若木が、あたり一面に

散らばっていて、切株が方々に飛び出している。せめて茂みの廻りだけを刈って、一本ぐらい残しておけば良いものを、悪者は

すっかりきれいに刈ってしまったのだ。パホームはかっと腹を立てた。【畜生め】と彼は考える。

  【いまにやった奴を見つけて、こっぴどい目に合わせてくれるぞ】彼は誰のしわざだろうとと思って、考えに考えてみた。

【これはどうしても、ショームカの野郎に違いない】こう考えて、ショームカの家に行き、庭を探して見たが、

ただ口喧嘩しただけで、なんのうるところもなかった。それでパホームは、いよいよショームカのしわざに違いないと

思い込んでしまった。彼は願って出た。二人は法廷へ呼び出された。幾度も取り調べがあったけれど、その百姓は無罪になった。     証拠がなかったからである。それでパホームは一そう業をにやし   村長や、裁判官とまで罵り合った。

「あなた方は泥棒の肩をもつのか。もしあなた方が正しい生活をしているのだったら、泥棒を許すなんてことはあるまいに」

パホームは、裁判官や隣人たちを相手にあらそい始めた。

  村民たちは、火をつけるぞと言って彼を脅しだした。こうしてパホームは、、土地は広く持ったけれども、世間を狭く

 暮らすようになってしまった。

 その頃、百姓たちが新しい土地へ移住しようとしているという噂が立った。パホームは考えた

【わし自身には自分の土地をはなれねばならぬわけわないが、この辺の者が誰か行くとすれば、ここの地面ももっと広くなるだろう。

    そしたら、俺はそれを買い取って、この辺一帯を自分の物にしてやろう。そしたら、もっと暮らし良くなるに違いない。

    さもなくて、このままじゃ少しきゅうくつだ】

  ある時、パホームがうちにいるところへ、旅の百姓が立ち寄った。うちの者はその百姓を泊めて、食べ物を出してやった。

 そして話の間に  何処から来たのか?  と聞くと、百姓はずっと下の方、ヴォルガの向こうから来たのだ、

そこで働いていたのだと答えた。

百姓はなお、ぽつりぽつと言葉を続けて、そこへは人が大勢移住して行くという事などを話した。彼らの仲間がそこへ移住すると、

村の組合へ入れられて、一人当たり十ディシャティーナずつの地面が貰えることになっている。

「ところが、その地面がまたとてもよくて、麦を作ると、馬の背が見えなくなるほど良く出来て、五握りで一把になってしまいます。

 ある百姓なんか、すっかり貧乏して空手でやって来たのが、今では、六頭の馬と二頭の牝牛を持ってますよ」

こんなに話までして聞かせたのである。

パホームの心は燃え上がった。彼は考えた 【そんないい暮らしの出来るところがあるのに、なにをこんな狭苦しい所で

 貧乏していることがある?  こんなとこの地面や家は売ってしまって、そこへ行って、その金で家を建て、万事をうまくやって

みよう。

  こんな狭っこい所にいちゃ、いつも罪をつくるばかりだ。しかしまず、自分でよく見てこなければならんわい】

夏になると、支度をして彼は出掛けた。サマラまではヴォルガ河を汽船で下り、それからは歩きで四百露里ばかり行った。

やがて目的の場所に着いた。すべてが話の通りだった。百姓たちは、一人当たり十ディシャティーナの土地があてがわれて、いかにも のびのびと暮らしていた、そして、誰でも喜んで組合へ入れてくれた。そればかりでなく、金を持っている人は、割り当ての土地の

ほかに、欲しいだけいくらでも、一番いい土地を、三ルーブリづつで永久に自分のものとして買うことができた。

知りたいことをすっかり知って、秋にならぬうちに我が家へ戻って来ると、パホームは、持っているものを全部売りに出した。

地面は大分儲かって売れた。家も、家畜もみんな売れた。そこで、村組合から籍をぬき、春になるのを待って、家族を連れて

新しい土地へ移って行った。

                      

        (4)

                  

  パホームは、家族を連れて新しい土地へ着くとすぐ、大きな村の組合へ加入した。

  村の年寄りたちに一杯飲ませて、必要な書類を全部そろえた。パホームは村入りを許されて、五人の家族に対して

五十ディシャティーナの割り当ての土地を、牧場を除いた方々で分けてもらった。

パホームは家も作り、家畜も飼った。彼の土地は、今迄から見ると、一人当たり三倍の広さになった。しかもそれは、

よく肥えた土地であった。

   くらしも前に比べて、十層倍も良くなった。耕作地と牧草とは思うままに得られた。したがって、家畜はいくらでも飼うことが

できた。

   初めのうち、家を建てたり家畜を増やしたりしている間は、パホームには申し分ないような気がしていたのに、だんだん住み慣れるにつれてこの土地でもまた狭苦しいような気がしてきた。最初の年にはパホームは、自分の畑に小麦をまいた、   

それが良くできた。

   彼は、小麦をもっと造りたいと思ったが、それには割り当ての地面が足りなかった。あるものは、小麦には適しなかった。

そこでは小麦は、はねがやの草地か休閑地かへまかなければならなかった。 一年か二年も小麦を造ったら、後はまた草の生えるまで休ませておかなければならない。ところが、そういう土地は望み手が多いのでどうしても不足がちであった。

 そのために、ここでもやはり争いが起こった。金のあるものは、自分でつくりたいと思ったが、貧乏人たちは、

年貢代わりに商人に取られてしまう。パホームはもっと沢山まきたいと思った。そこで翌年は、商人のところへ行って、

一年間の約束で土地を借りた。そして前年よりよけいにまいたら、その時も良くできた。が、そこは村から少し遠く、

十五露里も運ばなければならなかった。

   ところで見ると、その辺では、商人を兼ねた百姓が田荘をかまえて、だんだん金持ちになってゆく、パホームは考えた。

【もし地面を永久に自分のものにして、田荘を構えられたらどんなにいいだろう! 何もかもが手近で済むことになる】

    そしてパホームは、どうかして地面を永久に自分のものとして、買い入れたいものだと考えだした。

パホームはこうして、三年の月日を送った。地面を借りては、小麦をまいたのである。毎年良く出来て、小麦は沢山取れ、

 金もだいぶたまった。生活にはこれで十分だった! だが、毎年人から借りることが、そのためにあくせくしなければならぬ

ことが、 パホームにはわずらわしく思われた。

  どこかいい地面があると、百姓たちがすぐ飛んで行って借りてしまう、うっかり借りそびりでもしようものなら、もう造るところもなくなってしまうのだった。

    三年目には、彼は、ある商人と仲間で百姓たちから牧場を借り入れ、すっかり犂(スキ・うまや牛に引かせて土地を耕す道具)を

入れてしまったところで、百姓たちが裁判沙汰を起こしたので、せっかくの労力が無駄になってしまった。

 「もしこれが自分の土地だったら」と彼は考える。

 「誰に頭を下げることもなく、面倒も無くていいだろうに」

  そこでパホームは、永久に自分のものとして買える土地はないかと物色し始めた。そしてある百姓を探し当てた、その百姓は、

 五百ディシャティーナの土地を買って持っていたが、破産したので、それを安く売るというのであった。パホームはその男と

交渉を始めた。幾度も交渉をを重ねた挙句、千五百ルーブリということに折れ合って、半金は少し待ってもらうことにした。

 もうすっかり話が決まりかけたところへ、たまたま一人の旅の商人が、食い物の無心にパホームのうちへ立ち寄った

  二人はお茶を飲みながら、世間話をした。商人は、自分は遠いバシキールの土地から来たものだと語った。

彼は、バシキール人から五千ディシャティーナの土地を買い取ったという話をした。しかも、それがわずか千ルーブリだったというのである。そこでパホームは訊ね始めた。商人は話して聞かせた。「ただうまく年寄どものきげんを取ればいいんです。

私はガウンや敷物など百ルーブリぐらいのものと、お茶を一箱みんなに分けてやり、飲める者には酒を飲ませてやりました。

そして、一ディシャティーナ  二十カペイカと言う値で買い取ったのですよ。」こう言って、彼は登記証書を見せた。

「しかもその地面は、小川に沿っていましてね、全部がはねがや生えの平原なんですよ」                           

  パホームはなおいろいろと、細かいことを尋ねた。「その土地は」と商人は言うのだった。

    「一年やそこいら歩いても、まわりきれないでしょうよ   それがみんな、バシキールのものなんです。ところが、そこの人間

ときたら、みんな羊みたいにうすのろですからね。まるでただで取れるようなものですよ」   【待てよ】とパホームは考えた。 【これでみると、五百ディシャティーナの土地に千ルーブリ出して、その上まだ借金をしようなんて、つまらないことを

何でするんだ? そこさえ行けば、同じ千ルーブリで、どれだけの地面が持てるか知れぬというのに!」

                          

      (五)

      

        パホームは、そこへ行く道筋を詳しく尋ねた。そして商人を立たせてしまうとさそっく、自分も旅へ出る支度をした。

彼は留守に妻を残して、下男をひとり連れて旅立った。彼は途中で街へ寄り、万事商人の言葉通りに、ひと箱のお茶と、贈り物と、

酒とを買い入れた。

    それからだんだんに道を進んで、五百露里ばかりやって来た。七昼夜目に彼らは、バシキールの遊牧地へ着いた。

すべてが、商人の話の通りだった。人々は、川沿いの草原に、フェルト張りのテント車の中に住んでいた 。

 彼らは、自分では土地を耕さず、穀物も食べないのだった。草原には家畜や馬が、群れをなして歩いていた。

仔馬は車の後につながれていて、そこへ日に二度ずつ母馬が連れて来られる。  人々は牝馬の乳を搾って、

それからクムイス(馬乳)を作る。女たちはクムイスをかき回してチーズを作る、が、男たちはただ、クムイスやお茶を飲み、

羊の肉を食べ、牧笛を吹くことを知っているだけである。

  みんなよく太って、快活で、夏の間は遊んでばかりいる。彼らは無教養で、ロシア語も知らなかったが、優しくて親切であった。

パホームの姿を見かけると、バシキール人のテント車からは、大勢の人が出て来て客を取り巻いた。通弁が出て来た。

  パホームは彼に、自分は土地のことで来た旨を語った。バシキール人は喜んで、パホームを抱くようにして、一番上等 なテント車へ

 案内し、絨毯の上へ座らせて羽根ぶとんをあてがうと、自分たちはその周りに車座になり、お茶やクムイスでもてなし始めた。

 羊を割(さ)いて、その肉をご馳走した。パホームは、旅行馬車から贈り物を取り出して、バシキール人たちに分け始めた。

    パホームは、バシキール人たちに贈り物を分けたうえ、お茶も分けてやった。バシキール人たちは喜んだ。

 そして、自分たち同士で何やらぼそぼそ言っていたが、やがて通弁の男に言いつけて、こう言わせた。

    「この人たちが申しますには」と通弁が言った。「みんなあなたが大変気に入りました、そこで私共の習慣として、

頂いたお土産に対して、どんなことでもして返礼をしなければならないのです。あなたはいろいろわたくしどもに

下さいましたのですから、今度はわたくしどもの持っているもののうちで、何なりとよろしいものを差し上げたいと思いますから、

そうおっしゃっていただきたい   こういうわけでございます」

    「わたくしの一番欲しいと思いますのは」と、パホームは言った。「あなた方の土地であります。わたくしのほうでは、

もうすっかり使い荒らしてしまいましたが、こちらでは、地面がどっさりある上に、結構な土地ばかりです。 こんないい土地は、

わたくしはこれまで見たこともありません」

   通弁がそれを伝えた。バシキール人はまた相談を始めた。パホームは彼らの言っていることはわからなかったが、その様子は

なんとなく愉快そうで、しきりに叫んだり笑ったりしている。やがて静かになると、みんながパホームの方を眺め始めた。

   そして通弁が話し出した

    「みんなが申しますには」と彼は言った。

    「あなたのご親切に対してみんなは、いくらでもご入り用なだけ、喜んで地面を差し上げると言う事でございます。  

      ただ手まねでどれほどとおっしゃって下さい     それだけ差し上げる事にいたします。」

   彼らはまた相談をはじめ、その内に何やら争い始めた。パホームは、何を争っているのかと尋ねた。 と、通弁が答えた。

      「実は中に、土地の事なら村長に聞いてみる必要がある。黙って決めてはいけないと言う者と、そんなことするに及ばぬと言う

          者とができたのです。

                        

          (六)

        こうしてバシキール人達が争っている所へ、ひょっこり、狐皮の帽子をかぶった男がやって来た。みんな黙ってしまって、

立ち上がった。通弁が言った。

           「これがその村長です」

  パホームは、さっそく、一番いいガウンを取り出し、それと、別に五芹のお茶とを村長に差し出した。 

村長はそれを受け取って、一番の上座へ座り込んだ。 と、 一同のバシキール人たちが、何やら彼に話し出した。村長は一通り

聞いてしまうと、うんとひとつ大きくうなずいて彼らを黙らせてから、パホームに向かって、ロシア語で話しかけた。

     「よろしゅうございます。どうかお気に入った所をお取りください  地面はいくらでもありますから」

    【いったい欲しいだけといったって、どうして取るんだ?】とパホームは考えた。

 【とにかく契約をしっかりしておく必要がある。でないと、お前のものだと言いながら、後になってまた返せと言わないとも

  かぎらぬ】

  「御親切なお言葉で痛み入ります」と彼は言った。「おっしゃる通り、こちらには土地がいくらでもありますが、わたくしは

 少しあればよろしいのです。わたくしはただ、どれだけが自分のものであるということが分かればよろしいのです。

 いずれにしましても、とにかくひととおり測るだけは測って、これだけがわたくしのものということを、はっきりしておかなければ

 ならぬと思います。さもないと、人間はいつ死ぬかわからないものですから。わたくしに下さいましても、あなた方のお子さんの

 代になって、取り上げられぬともかぎりませんからね。」

        「ごもっともです」と村長は言った。「決まり通りにすることにいたしましょう」

    そこで、パホームは言い出した

       「わたくしが聞きましたには、こちらに商人が一人来たと言う事でございます。あなた方はその人に地面をお上げになって、

  登記証書をお作りになったと言う事ですが、わたくしにもそうしていただきたいと思いますので」

    村長はいさい承知した。

      「ええ、ええ、そんなことはみんなおやすいご用です」と彼は言った。「わたくし共に書記がおりますから、ご一緒に街まで

 行って、正式の手続きをいたしましょう」<

 それで、値段はどれくらいにして頂けましょうか?」とパホームは行った。

      「わたくし共では、値段は均一になっております 、 一日分千ルーブリと言う事に」パホームはちょっとのみ込めなかった。

      「と申しますと、どういう測り方なんで 、 一日というのは?  いったい何デシャティーナ位になりますので」

      「わたくし共は、そういうふうに測ることは存じませんので」と村長は言った。「いつも、一日いくらで売って上げる事にしてい

 るのです、つまり、

  その人が一日に歩いて回っただけを、いくらでも差し上げるということに。それで、一日千ルーブリと言う事になるのです」

  パホームは驚いた。

      「するとなんですね」と彼は言った。「一日歩き回るとなると、ずいぶんな地面になると思いますが」 村長が笑い出した。

      「ええ、それが全部あなたの物になるのです」 と彼は言った。「ただ、一つ条件があります 、 もし一日の内に出発点まで

 帰って来られないと、 あなたはふいになるのです」 「では」とパホームは言った。「私が回った所は、

 どうして印をつけるのですか?」

    「私共が、何処でもあなたのお望みの場所へご一緒に参ります。そしてそこに立っていますから、あなたはそこから出発して、

 まるくお歩きになればいいのです。その時あなたは、土堀りをお持ちになって、何処でも必要な所へそれで印を付けて下さい。

 つまり、 そこらへ小さな穴を掘って、その中へ、その辺の木か草を差しといて下さい。後でその穴か穴へ犂(すき)を入れること

 にいたしましょう。

  どんなふうにお回りになってもよろしいが、ただ日の沈む前に出発点までかえってきて下さらないといけません。あなたが回られた

だけの土地はみんなあなたの物です」

    パホームは喜んだ。彼らは朝早く出かけることに約束した。それからなおお話をしたり、クムイスを飲んだり、羊肉を食べたり、

   お茶を飲んだりした。夜になるまでそうしていた。それからパホームを羽根ぶとんの上に眠らせて、めいめい自分の車へ

 引き取った。

彼らは、明日は未明に集まって、日の出までに出発点へ出かけようと約束した。

                  

         (七)

                     

    パホームは羽根ぶとんの上に横になったが、眠ることはできなかった。

たえず土地の事ばかり考えていた。   【どうでもひとつ、出来るだけ大きなパレスタイン(約束の土地)を取らなくちゃ】

と彼は考えるのだった。一日かかったら、五十露里は回れるだろう。それに今は一番日の長い時だ。 そこで、まわり五十露里の地面

と言えば、いったいどれくらいになるだろう! そのうち悪い所は売るか、百姓たちに貸すかすればいい。そしていい所だけとって、

そこにすわりこむことにしよう。二頭の牡牛に引かせる犂を作り、作男を二人雇って、五十デシャティーナ位を耕し、残りの地面で

牧畜をやることにしよう。

    パホームは、ひと晩じゅうまんじりともしなかった。そして明け方近くになってやっととろりした。 が、それも、とろりとした

と思うと夢を見るのだった。その夢では、彼はどうやらその同じ車の中に寝ていて、聞き耳を縦て要る処であった。  

外では誰かが、声を立ててあははと笑っている。彼は、誰が笑っているのかのぞいて見たくなり、立って車の外へ出ていった。見ると

   例のバシキールの村長が車の前に座って、両手で腹を抱え、からだをゆすぶって、何やらあははと笑っている。彼は傍へ行って  「何を笑ってらっしゃるのです?」

と聞いてみた。そして見ると、それはどうやらバシキールの村長ではなく、彼に土地の話をして彼をここへ来させるようにした、

あのいつかの商人らしい。 そこで傍へ寄って、「いつここへ来たのか?」と尋ねようとすると、それはもう商人ではなく、

依然にヴォルガの河下から来て彼の家へ寄った例の百姓になっていた。 が、さらに見ると、それは例の百姓でもなく、角と蹄のある悪魔自身で、そいつが座ったまま腹を抱えて笑っているのだった。そしてその前には、シャツとズボン下だけのはだしの男がひとり

ころがっている。パホームはそ傍へ寄って、じっと見た。  その男はいったい何者だろう?                     

 ところが、男はもう死んでいて、しかも彼自身である。  パホームはぎょっとして、はっと目をさました。  目がさめると       【なんだ、夢か、つまらない!】こう考えた。あたりを見回して、開いた戸口の方を見回すと、もう素とはそろそ白みかけて、

夜があけようとしている。

   【さ、もうみんなを起こさなくちゃなるまい】と彼は考えた【出掛ける時間だ】パホームは起きて、旅行馬車の中の下男を起こし、

  馬をつけるように命じておいて自分はバシキール人達を起こしに行った。

   「さあ、もう時間ですよ」と彼は言った。 「草原へ出掛けて、地面を測らなくちゃなりません」

  バシキール人たちも起きて来て、みんな集まった。 村長もやって来た。 バシキール人達はまたクムイスを飲み始めた。 

そして、パホームにもお茶を振舞おうとしたが、彼は待とうとしなかった。

   「出かけるならもう出かけましょう」と彼は言った。 「時間ですから」

                    

           ( 八)

                    

    バシキール人達は支度をして、ある者は騎馬で、ある者は馬車に乗って出掛けた。 パホームは下男といっしょに自分の馬車に

乗ったが、彼らは土を掘る道具を持って行った。 草原へ来ると、曙が始まった。バシキール語でシハンと言う丘へ着くと、

彼らは馬車や馬から降りて、一つにかたまった。 村長がパホームのそばへ来て、片手を上げて指さした。

    「ご覧の通り」と彼は言うのだった。 「見渡す限り、これが全部わたくしどもの土地です。何処でもお好きな所をお取り下さい」

  パホームの目は燃え立つばかりであった。

土地を見る限りはねがやの草原、掌のように平らかで、罌粟(けし)のように黒く、少し窪んだ所には、いろんな雑草が、

胸まで伸びていた。

  村長は狐皮の帽子をぬいで、それを地面の上に置いた。

       「では、これをしるしにしましょう」と彼は言うのだった。 「どうか、ここからお出かけ下さい。 

   そしてここへお帰り下さい。そして回られただけがあなたの物になるのです」

    パホームは金を取り出して帽子の中に入れ、長上着を脱いでチョッキひとつになり、革帯をしっかりと絞め直して、パンの入った

袋を懐に入れ、水の入った壺を革帯に結わえ付、長靴の脛皮(すねかわ)を引き伸ばし、下男の持っていた土堀を手にして、出発の

用意をした。

 彼は、どの方向へ進んだものかと、しばらく思案に思案を重ねた。どちらを見ても素晴らしい土地ばかりだったから。 

そこで考えるには、

       【どっちでも同じだとしたら、ひとつ日の出る方へ行ってやろう】 こうして顔を日の出る方へ向けて、足踏みしながら、

空の彼方から太陽の顔を出すのを待った。 【一分だって時間を無駄につぶしちゃならんぞ】 と彼は考えた。

       【少しでも涼しい内に歩くほうが楽だろう】 空のはしから太陽がおどりだすやいなや、パホームはは土堀を肩に掛け、

草原めがけて歩き出した。

  パホームは、早くもなく遅くもなく歩いた。 一露里ばかり行くと、立ち止まって穴を堀り、その上へ少しでもよく目につきやすいように、 芝を何段も重ねて入れた、そして、また先へ進んだ。歩きかけると、自然と足が早くなった。

少し行くと、また別の穴を掘った。

  パホームは振り返って見た。 日を受けた丘はくっきりと見えて、その上にはひとびとが立っており、旅行馬車の鉄輪がきらきらと光っていた。

  パホームはも五露里ぐらいは歩いただろうと考えた。 体が暑くなってきたので、チョッキをぬいで肩に掛け、先へ進んだ。

ますます暑くなってきた。太陽のぐあいを見ると、もう朝食時間であった。

    【まあ、ひと丁場済んだわけだな】 とパホームは考える。【が、一日に四丁場と言うのが相場だから、

  まだ曲がるには早いだろう。だが、長靴だけは脱ぐとしようか】

    彼はやれやれと腰を下ろして、長靴を脱ぎ、それを帯に付けて、また先へ歩き出した。とても歩きよくなった。 そこで考えた。

    【よし、これならもう五露里ばかり歩いてやろう。そして左へ曲がることにしよう。いかにも地面がいいので、思い切るのは

惜しいわい。おまけに、行けば行くほど良くなるんだからたまらない

  彼はなお真っすぐに進んだ。振り返って見ると、丘はもうかすかになって、その上の人々は蟻の様に黒く見え、何やらぴかぴかと

光っているのも、わずかにそれと見えるだけである。

     【さあ、こちら側は十分に取った】 とパホームは考えた。

     【もう曲がらなくちゃなるまいて。それに、だいぶ汗をかいたので、水でも飲みたくなった】 

 彼は立ち止まって、出来るだけ大きく穴を堀り、そこへ芝を入れると、水筒を取って、十分水を飲み、そこから急に左へ曲がった。

そしてまた歩き出したが、進に連れて、草はますさす高く、からだは厚くなってきた。

パホームは疲れを覚えかけてきた。太陽を仰いで見ると、まさに正午であった。 【さあ】 と彼は考えた。

     【この辺で一休みやらかそう】パホームは立ち止まって、腰を下した。 水を飲んではパンを食べただけで、横にはならなかった

     【うっかり横になって、寝入ってでもしまったら大変だ】 こう考えて、ちょっとの間座っていただけで、また先へ歩き出した。

  初めのうちは楽に歩けた  パンを食べたので力がついたのであった。 だが、もう厚さが厳しくなってきたし、それに、眠気が

強襲ってきた。それでも、彼はずっと歩き続けて、考えた。  【一時間の辛抱が一生の特になるんだ】

彼は、この側でもなおかなり遠く歩いた。  そしてもう左へ曲がろうと思ってみると、じきそこに、しっとりと湿った窪地があった。

見捨てるのが惜しいくらいの。 彼は考えた。【あすこなら亜麻がよくできるだろう】 そしてまた真っすぐ進んだ。 

窪地を取り込むと、その向こうに穴を掘り、そこで第二の角(かど)を作った。

 パホームは丘の方を振り返って見た。   暑気の為にぼうっとかすんで、大気の中で何かがふらふらと揺れており、

その幕を通して、丘の上の人影がかすかに見えた。 【さあ】 とパホームは考えた。 【ふた側はこれで長く取ったから、今

度は少し短くしなけりゃならんぞ】

    こうして第三の側に掛かると、彼は歩度を加えた。太陽を仰いで見ると  もう小昼時近くなっていたが、三番目の側になって

からは、やっと二露里位来たばかりで、出発点まではまだたっぷり十五露里はあった。 【これはいけないぞ】 と彼は考えた。

         【地面の形は歪んでも、もう真っすぐに急がなくちゃならん。この上余計な物は取るまい。地面はこれでもう沢山だ】 

パホームは急いで穴を堀り、そこから真っすぐ丘の方へ曲がった。

                      

           (九)

                        

 パホームは真っすぐ丘を目指して進んだが、そろそろ苦しくなりかけてきた。からだは汗でぐっしょりになり、裸足の足は切れたり

裂けたりして傷だらけになったうえ、足掻(あが)きがよく利かなくなった。 で、 休みたいと思ったが、それもできなかった。

日の入るまでに着けそうになかったので。 太陽は待とうとはしないで、絶えず容赦なく落ちていく。 【ああ】 と彼は考えた。

           【しくじったんじゃないかな、欲張り過ぎたんじゃないかな? もし間に合わなかったらどうしよう?】

彼は前の方の丘を見やったり、太陽を見上げたりした  出発点までは遠かったが、太陽はもう地平線に遠くなかった。

こうしてパホームは、先を急いだ。 彼は苦しかったけれども、たえずますます足を早めた。 が、行っても行っても  先はまだ

長かった。

    とうとう駆け出した。チョッキも、長靴も、水筒も、帽子も投げ出し、ただ土堀りだけを持って、それを杖にして走った。【ああ】と彼は考えた。

      【俺はあんまり欲をかきすぎた、  もう万事おしまいだ  日の入りまでには行き着けそうもない】・・・・・すると、

なお悪いことに、こう思う恐れから、いっそう呼吸がきれてきた。 パホームはただ走った。シャツも、ズボン下も、汗の為に体へ

へばりつき、口はかさかさに乾いてしまった。胸は鍛冶屋の鞴(ふいご)の様に膨れ、心臓は鎚(つち)の様に打ち、足は自分のものでないようにふらふらした。

   パホームは無気味になっては考えた  【あんまり夢中になって、死んでしまいはしないだろうか】

しぬのは怖いけれども、立ち止まる事ははできなかった。

            【あんなに駆けまわりながら、今になって立ち止まったら、  それこそばか呼ばわりされるだろう】 こんなことを考えた。

   そしてなお駆けて、駆けて、やっと近くまで駆けつけて、聞くともなしに聞くと、バシキール人たちが、何やら彼の方に向かい、

金切り声を上げて叫んだり喚(さわ)いたりしている。 と、 この叫び声のために、彼の心臓はいっそう熱くなってくる。

パホームは最後の力で駆けていたが、太陽はもう地平線近づいて、夕靄(ゆうもや)の中へ落ちて行きながら、大きな、血のように

まっ紅な毬になっていた。いよいよもう沈むのである。 太陽は沈むばかりである。 が、出発点まで後いくらでもない。

 パホームはもう、丘の上に立っている人達、彼のほうへ手を振って、彼をせき立てている人達を見た。 地面の上にある狐皮の

帽子から、その中の金まで見えた。

   そして村長は地面の上に座って、両手で腹を抱えていた。 と、 パホームには夢が思い出された。

                   【土地は沢山取ったが】 こう彼は考えた。

                   【神様がその上に住ませてくださるだろうか?  おお、俺は自分を滅ぼした! とても走れまい】・・・・・<

     パホームは太陽を見た。それはもう地面まで届いて、一方のはしが沈みかけ、一方のはしはアーチ型になっていた。パホームは

最後の力をふり絞り、からだを前へ倒すようにして、無理やりに足をうごかしながら、やっと倒れるのを防いだ。 でも、 

パホームは、ようやく丘の下までたどり着いた。   突然あたりが暗くなった。 見るともう太陽は沈んでしまった。 

パホームはあっと叫んだ。

                        【おれの骨折りも無駄になった】 こう彼は考えた、 もう立ち止まろうとして、ふと聞くと  バシキール人達は、

なお絶えず何やらわめいている。 ふと彼は気が付いた   下の方にいる彼には、日が沈んだように思われるが、丘の上からは、

まだ沈みきってしまわないに違いないと。 パホームは、勇を鼓して丘へ駆け上がった。丘の上はまだ明るかった。

 パホームは、駆けつけると同時に帽子を見た。帽子の前には村長が座り、両手で腹を抱えて、あはあはと笑っている。 

パホームは夢を思い出し、あっと叫んだ。

足がすくんでしまったので、彼は前のめりに倒れたが、倒れながらも両手で帽子をつかんだ。

                       「やあ、えらい!」と村長は叫んだ。 「土地をしっかりおとんなすった!」

パホームの下男が駆けつけて、彼を抱き起こそうとしたが、彼の口からはたらたらと血が流れた。 彼は死んで倒れていたのだった。

下男は土堀りを取り上げて   頭から足までが入る様に  きっかり三アルシンだけ、パホームのために墓穴を掘った、

そして彼をそこに埋めた。

                      

                           1886年2月~3月  トルストイ民話集より

 

   三人の隠者

 

      ある僧正が、アルハンゲリスク市から船でソローフキへ渡っていた。その船には。方々へお参りをする巡礼たちが、乗っていた。

    風は追手で、天気はよく、船も揺れなかった。巡礼達はー横になっている者も、ものを食べている者も、ひとかたまりになって

 座っている者も、ーお互いに話し合っていた。僧正も甲板へ出て、舟橋の上をあちこちと歩き始めた。僧正が船首の方へ近づいて、

 見ると、そこに一団の人々が集まっていた。一人の百姓が、片手で海の方を指しながら何やら説明しているのを、

 人々が聞いているのだった。

         僧正も立ち止まって、百姓の指している方を見たーが、何も見えないで、ただ海だけがきらきらと日に光っていた。

     僧正はなお近くよって、聞き入り始めた。僧正を見ると、百姓は帽子を取って、黙ってしまった。人々も、僧正を見ると同じ様に

     帽子を取って、おじぎをした。

                    「 皆さん、どうぞかまわないで下さい」と僧正言った。

                    「わしも、おまえさんの話を聴きたいと思ってきたのですよ。」

                     「へえ、じつは今この漁師さんがわしらに、隠者達の事を話してくれていたのでございますよ」と一人の商人が、

 遠慮しないで言った。

                      「ほう、隠者達の話ですかな?」

 僧正はこう言うと、舷側の方へ行き、箱の上へ腰を下ろした。「わしにもどうぞ聞かせて下さい、わしも拝聴しますよ。

 お前の指していなすったのは何ですかね?」

       「向こうに小さい島がぼんやり見えておりますが」と小柄な百姓は言って、前方右手よりの方を指し示した。

        「あの小さい島に隠者が三人住んでいて、行をしていらっしゃるのでございます」

        「その小島というのはどこですかな?」と僧正は聞いた。

        「どうぞわしのこの手のほうをご覧下せえまし。あそこに雲が有りますが、そのちょっと左へよった下の方に、

 ちょうど帯びのように見えているでございましょう」

    僧正は一生懸命に瞳をこらしたが、日光に水がきらきら光っているので、馴れない彼の目には、どうにも見分けがつかなかった。              「わしにはどうも見えない」と彼は言った。

                「神様のようなお人たちでごぜえます」と百姓は答えた。

    「わしもそのお人達の噂はずっと前から聞いとりましたが、ついお目にかかるおりがなくて、自分で見たのは、

 やっと一昨年の夏の事でございましたよ!」

    こう言って百姓は、改めて、漁に出てその島に吹き付けられた時の事を語りはじめた。

    吹き付けられはしたものの、彼も、それがどこの島か知らないでいた。そして、朝になってその辺を歩いていると、一つの土窟に

    行き当って、そのそばに一人の隠者の立っているのを見かけた。するとまた二人、同じような隠者が出て来て、その三人が彼に、

    食べ物をくれたり、着物を乾かしてくれたり、船の繕いを手伝ってくれたりした。

                        「それは、どんなふうの人達だったかね?」

                        「一人は小柄な、 腰の曲がったずいぶんの年寄りで、古いぼろぼろのころもを着ていましたが、きっともう、

 百年以上の年だったに違いありません。真っ白な顎髭が青味を帯びているくらいでしたが、しょっちゅうにこにこして、

 まるで天使のように晴れやかな顔をしておりました。もう一人は背は少し高いが、同じ様な年寄りで、破れた長上着を着、

 黄ばんだ大きな顎髭を生やしていましたが、すごく力の強い人で、わしが手を出すひまがないうちに、まるで桶でも扱うように、

 わしの小舟をひっくりかえしてしまいました。

        同じ様に気のかるい人でした。が、三番目の人は、真っ白な長いひげの膝まで垂れた背の高い人で、どことなく陰気で、

 眉毛が目の上におっかぶさっていました。この人はまる裸で、ただ腰の周りにござのようなものを巻いているだけでした。」

                        「それで、その人たちは、お前さんにどんなに話をしたのかね?」と僧正は聞いた。

                        「何をするにも、たいていは黙っていました、お互いの間でも、あんまり口を利きません。

 ひとりがちょっと見れば、他の人はすぐ悟といった具合で。わしは背の高い人に、もうここに長くお住まいですかと

 訪ねてみました。その人はしかめ面して、 何やらぶつぶつ言いましたが、その様子はまるで怒っているようでした。

 すると、小柄な一番年寄りがその手を取って、にこにこ笑って見せました。  と、背の高い人もおとなしくなってしまいました。

 一番の年よりの人は、ごめんなさいと言っただけで、

  後は、にこにこしていました」

   百姓が話しているあいだに、船はずっと近く島の方へ寄って行った。

                    「さあ今度はもうはっきり見えるようになりました」と商人が言った。

 「僧正様、ごらんなさいませ」と島の方を指さしながら言った。

   僧正は瞳を凝らした。今度はまさしく黒い帯が  島が見えた。僧正はしばらくそれを見ていてから、船首から船尾の方へ行って、

   舵手のそばへ近づいた。

             「あれは何という島ですか?」と彼は聞いた。「あすこに見えているのは?」

             「別に名はありません。あんなふうの島は、このへんにはいくらでもございます」

             「あの島に隠者が行をしていると言う話だが、ほんとかね?」

             「そう言う噂はあります、僧正様、が、本当かどうかはわたくしも存じません。漁師達は見たようなことは言っております。

      しかし、あの連中もよくでたらめをもうしますからね」

             「わしはあの島へ上がって、隠者達に会いたいと思うのだがね」と僧正は言った。「それにはどうしたらいいかね?」

             「大きい船ではそばへ寄れません」舵手は言った。「小舟なら漕ぎ寄せることもできますが、

 それは船長にご相談下さいまし」

    そこで船長が迎えにやられた。

           「わたしはあの島の隠者達に会いたいと思うのだがね」僧正は言った。「わたしを連れて行ってはもらえまいかな?」

        船長は思い止まらせようとした。  「出来ることは出来ますが、かなり時間を取りますので、はなはだ失礼でございますが、

 そんなにしてまでお会いになる価値のないことを申し上げずにはいられません。わたくしが人の話に聞きましたところでは、

 まるでばか同然な老人が住んでいるだけで、何にもわかりもしなければ、海の魚のように、何一つ話も出来ないということで

 ございますから」

               「でも、私は会って見たいのですよ」と僧正は言った。「それだけの骨折り賃はだすから、私を連れて行って下さい」

      どうも仕方がないので、船員達は命令を受けて、帆を整理し直した。舵手は船を回して、島の方へ向けた。

 そうじょうのために、船首の方へ持ち出された。彼はそれに腰掛けて、前方を見守った。

 乗り合いの人達もみな、船首の方に集まって、島を見ていた、目のよく利く人達は、早くも島の上の岩が見え、土窟が

 見分けられるようになった。中でも一人の男は、三人の隠者達の姿をみとめた。

  船長は望遠鏡を取り出して、ちょっとそれをのぞいてから、僧正に渡した。

                         「確かにみえます」と彼は言った。 「海岸の大きな岩の少し右手に、三人の人が立っております」 僧正も望遠鏡を

  目にあてて、それをしかるべき方へ向けると、まさしくそこには三人の人 ー  一人は背が高く、一人はいくらか低く、三人目は  ずっと小柄な人達の立っているのが見えた。三人とも海岸に立って、お互い手をつなぎ合っているのだった。

 船長が僧正のそばに来て、言った。 ー 「僧正さま、船はもうここで止めなければなりません。もし是非にということでしたら、

 ここからはどうか、小舟でご上陸を願います。私共はここに碇(いかり)を降ろして、お帰りをお待ちいたします。」 すぐさま碇   綱がくりだされ、碇が投げ込まれて、帆が降ろされた ― 船は泊まって、ゆらゆらとゆれだした。小舟が降ろされ、漕ぎ手立ちが

 飛び乗ると、僧正は梯子をつたっておりはじめた。僧正が降りて、小舟の中の床几に座を占めると、漕ぎ手たちは漕ぎだして、

 島の方へ向かった。石を投げても届く所まで漕ぎ寄せて、見ると、三人の隠者は立ったままでいる。背の高いひとりは、裸足で腰に<

 ござをまいているばかり、少し背の低いほうは、ぼろぼろの長上着を着ているし、一番年よりの、腰の曲がった老人は、

 古ぼけた衣をまとい、手をつなぎあって立っている。漕ぎ手たちは岸へ漕ぎ寄せ、鉤竿(かぎさお)で舟をつないだ。

 僧正は上陸した。隠者達が拝礼すると、僧正は彼らを祝福した。彼らは僧正の前にいっそう低く頭をさげた。

 僧正は彼らに話かけた。

          「わしはかねてこの島に、お前さん方、信心深い人達がおられて、自分の魂の救いの為に、また、人々の為に、主キリストに

          祈って祈っていられることを聞いておりました。わしは何の値打ちも無い神のしもべでありますが、神様のお慈悲によって、 

           神様の羊を守る役目を受けています。それで、お前さん方、神様のしもべにお目にかかって、出来る事ならなんなりお教え

 したいと思って来たのです」

 隠者達は黙ったまま、にこにこして、お互いに顔を見合わせている。

            「お前さん方は、自分の魂を救うために、どんな行(ぎょう)をしておられますか、また、どんなふうにして神様に仕えておら

 れますか、それをわたしに聞かせて下さい」と僧正は言った。

  中背の隠者は吐息(といき)をつき、一番年上のたいへんなとしよりの隠者を見やった。背の高い隠者は渋面して、これも一番上の

たいへん年寄りの隠者を見た。と、年よりの隠者は、にこにこして言い出した。

             「わしらは、神様に使える仕方というものは知りません。ただ自分に仕え、自分を養っているだけのことです」

              「では、お前さん方は、いったいどんなふうにして神様にお祈りをしますかね?」と僧正は聞いた。

     すると、一番年寄りの隠者は言った。

             「わしらはこんな風にお祈りします、ー あなたも三体、わしらも三人、わしらをお憐れみ下さい」

           年寄りの隠者がこういうやいなや三人の隠者はみないっせいに目を天の方へ上げ、声をそろえてこう言った。 

            「あなたも三体、わしらも三人、わしらをお憐れみ下さい!」僧正は笑顔になって、言った

            「お前さん方は三位一体と言う事を聞いておいでの様じゃが、そのお祈りのしかたは違っていますよ。信心深い人達、わたしは

            お前さん方がすきじゃ。お前さん方が、神様のお気に入ろうとしていなさるこころざしはよくわかります。が、

 神様に仕える仕方はお分かりになっておらんようじゃ。そんなふうに祈るものではありません。まあ、聞いていさっしゃい。

 わしが今教えて進ぜる。しかし、これも、わしが自分の思い付きを教えるのではありませんぞ。みんな神様の御本の中から、

 神様がみんなにこう祈れよと

               おいつけになったその言葉をお教えするのじゃ」

               こう言って、僧正は隠者たちに向かい、神様がどのように人類に現れたもうたかを話し、父なる神様、子なる神様、

 それから精霊なる神様について、話て聞かせた。

             「子なる神様は、人類を救うために地上へおくだりになり、わたしたち人間に祈り方お教えになったのじゃ。わたしの唱える

 のを聞いて、それにつけてみなさるがいい」

                そして僧正は唱えはじめた。

                 「われらの父よ!」すると、一人の隠者がつけた

                 「われらの父よ!」すると、次の隠者がまたつけた

                 「われらの父よ!」最後に三人目の隠者がつけた

                  「われらの父よ!」「天にまします」と僧正は続けた。

        ところが、今度の文句では、二人の隠者がまごついて、そのとうりには言えなかった。背の高い、裸体の隠者も、

 唱える事が出来なかった、口ひげが口におおいかぶさっているので、はっきり発音出来なかったのである。一番年寄りの歯抜けの

 隠者も、あいまいにもぐもぐ言っただけであった。僧正はもう一度繰り返した。隠者たちも繰り返した。僧正は岩の上に腰をおろ

 し、隠者たちはそのまま立って、僧正の口を見守りながら、僧正が唱えるあいだ、それにつけて繰り返した。こうして僧正は、

 彼らを相手に、終日、夕方になるまで骨を折った。十ぺんも、二十ぺんも、百ぺんも、同じ言葉を繰り返し、

 隠者たちはそれをつけた。彼らがまごつくと、彼が直してやって、またはじめから繰り返させるのであった。

    こうして僧正は、 隠者たちが祈りの言葉を覚え込むまで、そのそばを離れなかった。彼らはまず彼について唱え、それからさらに

  自分達だけで唱えた。中背の隠者が一番早く覚えて、自分だけでその全部を唱えられるようになった。そこで僧正は、彼にいくども

  いくども繰り返しそれを唱えさせて、後の二人にも唱えられるようにした。もう暗くなりかかって、海上に月が昇りはじめてから、

  僧正はやっと、舟へ帰るために立ち上がった。僧正が隠者たちに別れを告げると、隠者たちはみな、頭が地につくほど、彼の前に

  礼拝をした。僧正は彼らに頭を上げさせて、その一人一人に接吻をし、自分が教えた通りにお祈りをするように言いつけてから、

  子舟に乗って、本船へ向かった。

     僧正はこうして本船へ向かったが、その間ずっと、隠者たちが高らかに祈りの言葉を唱える三つの声が聞こえた。

  本船に近づくにしたがって、隠者たちの声はしだいに聞こえなくなったが、三人の隠者の姿だけは、月の光でよく見えた。

  一番小柄な一人を真ん中に、背の高いのが右側に、中背のが左側に、三人は海岸の同じところにずっと、立ち尽くしていた。

   僧正が本船へついて、甲板へ上がると、碇が上げられ、帆がはられ、それに風がはらんで、船は走り出して、先へ進んだ。

 僧正は船尾の方へ行き、そこに腰を降ろして、たえず島の方を見ていた。初めのうちは隠者たちの姿が見えていたが、やがて、

それは隠れて島だけになり、後には島影も消えて、ただ海だけが月光にたわむれていた。

 巡礼達は眠ってしまい、甲板の上はすっかり静かになった。しかし、僧正は眠くなっかったので、ただ一人船尾に腰を降ろして、

 島の隠れた方の海上を眺めながら、善良な隠者たちの事を考えていた。彼は、隠者たちが祈りの言葉を覚えてどんなに喜んで

 いるかを考え、神のような隠者を助けるために、神が自分を導いて、彼らに神の言葉を教えさせたもうことを感謝した。

僧正はこうして腰掛けたまま、島の見えなくなった方の海を眺めながら、しきりと考えていた。するうちに、目の中がちらちらして、

 波にうつった月影が、あちらでもこちらでも踊り始めたように思われた。ふいに、月光の帯びの中に、何やら白くきらきらと,

 光る物が見えた。鳥か、かもめか、それとも小舟の帆のきらめきか。僧正は瞳をこらした、【小舟が帆を張ってこの船の後を

 負って来るのに違いない】と彼は考えた。【そうだ、もうじき自分たちに追いつくだろう。始めはかなり遠くだったのが、

 今ではこんなに近くに見えてきている。だが、どうも小船ではないらしい。帆ではないようだ。とにかく、何かがこの船を

 追いかけて、今にも追いつこうとしているのだ】僧正はどうしても、そのなんであるかを見分けることができなかった。   

舟かと思えば舟でなく、鳥かと思えば鳥でなく、魚かと思えば魚ではない。ちょっと見ると、人間のようでもあるが、人間にしては

少し大きすぎるし、それに第一、人間が海の上を歩けるはずのものではない。僧正は立ち上がって、舵手のそばへ行き、こう言った

 「ちょっと見なさい、あれはなんだろうね?」

 「なあ兄弟、あれはいったいなんだろう? なんだろうねえ?」 と僧正は尋ねたが、その時には彼にももう、隠者達が海の上を

駆けてくる姿が見えた。彼らの白いひげがもう白く光って見えている。

そしてまるで止まっている船にでも近づいて来るように、こちらの船へ近づいてくる。。 舵手はそれを見ると、びっくりして舵を

離してしまい、大声をあげて叫びだした

        「ああ、たいへん! 隠者達が、まる陸の上のように海の上を駆けて、わしらを追っかけてくるぞう」

乗り合いの人々は、この声を聞きつけると一緒にはね起きて、一斉に船尾の方へ駆け付けた。見ると

隠者たちは、手に手をつないで駆けながら、両端の者が手を振って、船に止まるように合図をしている。

三人とも水の上を、まるで陸の上を駈けるように駈けているが、足は少しも動かしていないのである。

 船を止める間もないうちに、隠者達はたちまち船の横へ来て、舷の方へ近づき、頭を上げて、いっせいに言い出した。

           「神様のしもべよ、わしらはあなたの教えを忘れてしまいました! 繰り返して唱えている間は覚えていたのですが、

一時間ばかり唱えるのを止めているうちに、一言忘れてしまいました。そしたらあとも、すっかりだめになってしまいました。

今では何の覚えもありません。どうぞ、もう一度教えて下さい。」

  僧正は十字を切り、隠者達の方へ身をかがめて、言った。

   「信心ぶかい隠者たち、お前さん方の祈りはもう神様に届いています。

               お前さん方に教えるものは、わたしではありません。お前さん方こそ、わしら罪人(つみびと)のために祈って下さい!」

   こう言って、僧正は隠者たちの足につくほど頭を下げた。と、隠者たちは立ち止まって、くるりと身をひるがえすと、海の上を

   もと来た方へ帰って行った。そして、隠者達が去った方からは、朝になるまで、一つの光が見えていた。

                                      

   1886年  トルストイ民話集より   (三人の隠者)

のら犬

 

   常念御坊は、碁が何よりも好きでした。

  今日も、隣村の檀家へ法事で呼ばれてきて、お昼過ぎから碁を打ち続け、日が影って来たので、びっくりして腰を上げました。

            「まあ、いいじゃありませんか。これからでは、途中で夜になってしまいます。今夜は泊まっていらっしゃいましよ。」

   と、引き留められました

           「でも、小僧が一人で、寂しがりますから、さいわいに風もございませんので。」

   と、お饅頭の包みを貰って、帰って行きました。

         常念御坊は歩きながらも、碁の事ばかり、考え続けていました。

  さっきの一番しまいの、あすこのあの手まずかった。向こうがああきた、そこであすこをパッチンと押えた、

 それからこうきたから、こう逃げたが、あれはやっぱり、こっちのところへ、こうわたるべきだったなどと、夢中になって、

 歩いて来ました。そのうちに、その村の外れに近い、烏帽子を造る家の前まで来ますと、もう冬の日も、とっぷり暮れかけて

 きました。しばらくして何の気もなく、ふと、後ろを振り返って見ますと、じき後ろに、犬が一匹ついて来ています。

 きつね色の毛をした、耳のぴんと突っ立った、あばらの間のやせくぼんだ、不気味な、よろよろ犬です。どこかここいらの、

 飼い犬だろうと思いながら、また碁の事を考えながら行きました。 1、2町(1町は約109メートル)行って、また振り向いて

見ますと、さっきのやせ犬が、まだ、とぼとぼ後を追ってきます。

 うす暗い往来の真ん中で、2,3人の子供が、こまを回しています。

             「おい、坊。この犬はどこの犬だい。」

     子供たちは、こまを足で止めて、御坊の顔と犬とを見比べながら、

           「おらあ、知らねえ。」

            「おいらも、しらね。」と言いました

   常念御坊は、村を出外れました。左右は麦畑の低い丘で、人っ子一人おりません。後ろを見ると、犬がまだついて来ています。

              「しっ。」と言って、にらみつけましたが、逃げようともしません。足を上げて追い払うと、2,3尺(しゃく、約30㎝)

 引き下がって、じっと顔をみています。

              「ちょっ、きみの悪い奴だな。」

     常念坊は、舌打ちをして、歩き出しました。あたりはだんだんに、暗くなってきました。後ろには犬が、

 のそのそついてきているのが、見なくもわかっています。

   すっかり夜になってから、峠の下の茶店の所まで来ました。真っ暗い峠を、足探りで越すのはあぶないので、茶店のばあさんに、

ちょうちんを借りていこうと思いました。おばあさんは、風呂をたいていました。ちょうちんだけ借りるのも、変なので、常念坊は、

              「おい、おばあさん。団子は、もうないかな。」と聞きました。

              「たった五くし残っていますが。」

              「それでいい。包んでおくれ。」

              「はいはい。」とおばあさんは、団子を竹の皮に包みます。

              「すまないが、わしに、ちょうちんを貸しておくれんか。あした、正観(しょうかん、小僧の名)に持って来させるでな。」

              「とても、やぶれちょうちんでござんすよ。」

              「いいとも。」

      おばあさんは、団子を渡すと、上へあがって、古ちょうちんのほこりをふきふき、持ってきました。常念坊は、ちょうちんに

    明かりをつけると、あたりを見て、

              「おや、もう、どっかへ行ったかな。」ちょ、ひとりごとを言いました。

              「おつれさまですかね。」

              「いんにゃ。どこかの犬が、のこのこついてきて、離れなかったんだよ。」

              「きつねじゃありませんか。あなたの通っていらっしゃった、あの先のやぶの所に、よくきつねが出て、人を化かすと

                  いいますよ。」

              「面白くもないことを、言いなさんな。ほい、おあしをここへおくよ。」

    常念坊は片手におまんじゅうの包みとちょうちんを下げ、片手に団子の包みを持って、峠にかかりました。

  その峠をおりて、田んぼ道を十町ばかり行くと、自分の寺です。

  もう、あのいやな犬もついてこないので、安心して、てくてく上がって行きますと、やがて後ろの方で、クンクンという声が

  します。

   「おや、また、あの犬めがきたな。」と常念坊は思いました。

        かまわず、どんどん行きましたが、ふと考えました。後ろから来るのは、犬ではなくて、おばあさんが言った、あのきつねが

  つけてきたのではなかろうか。こう思うと、自分の後ろには、ずるいきつねの目が、闇の中に、らんらんと光っているような気が

  します。

   気の小さな常念坊は、ぶるっと、身ぶるいしました。

 でも、後ろを振り向くのも怖いので、ぶきみななりに、ぐんぐん歩きました。なんだか後ろでは、きつねがいつの間にか女に

 化けていて、 今にも、きゃっといって、飛びついてきそうな気がします。

 常念坊は、そのきつねの事、忘れよう忘れようとするように、ちょうちんの明かりばかりを、見つめて歩きました。

 

            (二)

 

      やっとのこと、村へ来ました。村へ入ると、少しほっとしました。村では、どこの家も、宵(よい)から戸を閉めてしまうので、

   どっこも、しいーんとしています。その中で、どこかの家で、きぬたをうつ音が、とおくに聞こえます。

    そのとき、ふと気がついてみますと、左手に持っていた、だんごの竹の皮づつみが、いつの間にか、なくなっています。

             「おや、しまった。うっかりして、落としたかな。それともきつねのやつが、そっと、ぬすみとってにげたかな。ちょっ。」

      常念坊はいまいましそうに、おまんじゅうのつつみと、ちょうちんとを両手に持ち分けて、後ろを向いて見ました。

    もう、何もおりません。やがて、寺の門の前に来ました。立ち止まって、もう一ぺん、後ろをよく見ますと、きつねらしいものが、

    のこのこつけてきています。常念坊は門を入ると、

                 「正観、正観。」と、庫裏(くり)の方へ向かってどなりました。

                 「はい。」と返事が聞こえて、正観が、ごそごそ鐘楼(しょうろう)からおりてきました。

                 「おい。きつねだ。ほうきを持ってこい、ほうきを。ほうきで追いまくれよ。」

        正観はとんでいって、ほうきを持って、門の方へかけつけました。

                 「おや。きつねが何か、くわえていますよ。」

                 「ああ、だんごだ。とりあげろよ。」

                 「はい。下へおけ。  取り返しましたが、きつねは座ったきり、にげません。」

                 「だから、ほうきで追っ払えというのに。」

                 「ちきしょう。にげんか。しっ、しっ、しっ。」と正観はほうきで追いまくりました。

                 「ほうい、ちきしょう。こらっ。」と正観は、そっちこっち追いかけて、とうとう外へ逃がしてしまいました。

                 「逃げたか。」

          「逃げました。」  

              「正観」

           「はい。」

        何でお前は、今頃鐘楼(しょうろう)なんぞへ、上がっていたのだ。」

                  「さびしかったから。」

                  「鐘楼へ上がってれば、さびしくなくなるのか。」

                  「鐘(かね)をゲンコツでたたくと、おん、おん、おんと、和尚(おしょう)さんの声みたいな音がするんです。」

                  「何をいいおる。」

      和尚さんは、ころもぬいで、炉ばたで、おぜんにすわって、ざぶざぶと、お茶ずけをながしこみはじめました。正観は、

     おみやげのだんごを、ひろげました。

                  「和尚さん。あの犬は、どこからついてきたのです。」

                  「となり村から、しつっこく、後をつけてきたのだよ。」

                  「どうして。」

                  「どうしてだか、知らないよ。」

                  「ばかしゃあ、しませんでした?」

                  「おれがきつねなぞに、ばかされてたまるかい。」

                  「きつねですか、あれは。」

                  「・・・・・・・・・・」

                  「犬みたいだったがな。そのしょうこに、正観はそばへ寄っても、ちっとも、怖くはなかったがなあ。」

      常念坊は、はしを置いて、考え込んでいました。あんどんの明かりが、そのくるくる頭へ赤くさしています。             

  しばらくして、常念坊は、

                   「正観。」

      と、すこし、きまり悪そうに言いました。

                   「そのちょうちんを、つけよ。」

                   「はい。」

                   「わしは、ちょっと行って、探して来るでな。おまえは、本堂のえんの下へ、わらをどっさり、入れておいてくれ。」

                  「何を探しに?」

                  「あの犬を、連れてくるんだ。」

                  「きつねでしょう、あれは。」

                  「かわいそうに。犬なら、のら犬だ。食い物も、ろくに食わんと見えて、ひどくやせこけていた。はるばる、

     となり村から、わしについて来たのだから、あったかくして、とめてやろうよ。」

       それに、わしの落しただんごまで、ちゃんと、くわえて来てくれたんだもの。おれが悪いよと、これだけは心の中で言って、

       常念坊は、ちょうちんを持って、出ていきました。

 

                           (1932年作)   新見南吉

 

    名人伝

                 

  趙(ちょう)の邯鄲(かんたん)の都に住む紀昌(きしょう)と言う男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。

  己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛(ひえい)に及ぶ者があろうとは思われぬ。

  百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌ははるばる飛衛を訪ねてその門に入った。

    飛衛は新入の門人に、まず瞬(まばた)きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台(はたおりだい)の下に

 潜り込んで、そこに仰向けにひっくり返った。眼とすれすれに機躡(まねき)が忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見つめて

いようと言う工夫である。

      理由を知らない妻は大いに驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人に覗(のぞ)かれては困ると言う嫌がる妻を紀昌は

叱りつけて、無理に機(はた)を織続けさせた。 来る日も来る日も彼はこのおかしな格好で、瞬きせざる修練を重ねる。 

二年ののちには、遽(あわただ)しく往返する機躡(まねき)が睫毛(まつげ)を掠(かす)めても、絶えて瞬く事が

なくなった。

     彼はようやく機の下から匍出(はいだ)す。 もはや、鋭利な錐(きり)の先をもって瞼(まぶた)を突かれても、まばたきをせぬまでなっていた。

    ふいに火の粉が目に入ろうとも目の前に突然灰神楽(はいかぐら)が立とうとも、彼はけっして目をパチつかせない。 彼の瞼は

もはやそれを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡しているときでも、紀昌の目はクワッと大きく見開かれたままである。

     ついに、彼の目の睫毛(まつげ)と睫毛との間に小さい一匹の蜘蛛(くも)が巣をかけるに及んで、彼はようやく自信をを得て、

師の飛衛にこれを告げた。

 それを聞いて飛衛がいう。 瞬かざるのみではまだ射(しゃ)を授けるには足りぬ。 次には、視(み)ることを学べ。 視ることに熟して、さて、小を視ること大のごとく、微(び)を見ること著(ちょ)のごとくなったならば、来たって我に告げるがよいと。

    紀昌はふたたび家に戻り、肌着(はだぎ)の縫目から虱(しらみ)を一匹探し出して、これを己(おの)が髪の毛をもって

繋(つな)いだそうして、それを南向きの窓に懸(か)け、終日睨(にら)み暮らすことにした。 毎日毎日彼は窓にぶら下がった

蚤を見つめる。初め、もちろんそれは一匹の蚤にすぎない。 二、三日たっても、依然として蚤である。 ところが、十日余り過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほんの少しながら大きく見えてきたように思われる。 三月めの終わりには、明らかに蚕(かいこ)ほどの大きさに見えてきた。

    蚤を吊(つ)るした窓の外の風物は、しだいに移り変わる。 熈々(きき)として照っていた春の陽はいつか烈(はげ)しい夏の光に変わり、澄んだ秋空を高く雁(かり)が渡って行ったかと思うと、はや、寒々とした灰色の空から霙(みぞれ)が落ちかかる。 

 紀昌は根気よく、毛髪の先にぶら下がった有吻(ゆうふん)類・催痒(さいよう)性小節足(しょうせつそく)動物を見続けた。

 その虱も何十匹となく取換えられて行くうちに、早くも三年の月日が流れた。 ある日ふと気がつくと、窓の虱が馬のような大きさに見えていた。 しめたと、紀昌は膝を打ち、表へ出る。 彼はわが目を疑った。 人は高塔であった。 馬は山であった。 豚は丘のごとく、鶏(とり)は城楼と見える。 雀躍(じゃくやく)して家にとって返した紀昌は、ふたたび窓際の虱に立向い

燕角の孤(ゆみ)に朔蓬(さくほう)の簳(やがら)をつがえてこれを射れば、矢は見事に虱の心(しん)の臓(ぞう)を貫いて、

しかも虱を繋(つな)いだ毛さ断(き)れぬ。

   紀昌はさっそく師のもとに赴(おもむ)いてこれを報ずる。 飛衛は高踏(こうとう)して胸をうち、はじめて

        「出かしたぞ」

   と褒(ほ)めた。 そうして、ただちに射術の奥義秘伝を剰(あま)すことなく紀昌に授けはじめた。

目の基礎訓練に五年もかけた甲斐があって紀昌の腕前の上達は、驚くほど速い。

奥義伝授(おうぎでんじゅ)が始まってから十日ののち、試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、すでに百発百中である。 

二十日ののち、いっぱいに水を湛(たた)えた盃(さかずき)を右肱(みぎひじ)の上に載せて剛弓(ごうきゅう)を引くに、

狙(ねら)いに狂いのないのはもとより、杯中の水も微動だにしない。 一月ののち、百本の矢をもって速射を試みたところ、

第一矢が的に中(あた)れば、続いて飛来たった第二矢は誤(あやま)たず第一矢の括(やはず)に中(あた)って突き刺さり、

さらに間髪(かんはつ)を入れず第三矢の鏃(やじり)が第二矢の括(やはず)にガッシと喰い込む。 矢矢相属(ししあいしょく)し、発発相及(はつはつあいおよ)んで、後矢の鏃は必ず前矢の括に喰入(くいい)るがゆえに、絶えて地に墜(お)ちることがない。 瞬(またた)くうちに、百本の矢は一本のごとくに相連なり、的から一直線に続いたその最後の括(やはず)はなお弦を

銜(ふく)むがごとくに見える。 そばで見ていた師の飛衛も思わず

          「善(よ)し」 と言った。

  2月ののち、たまたま家に帰って妻といさかいをした紀昌がこれを威(おど)そうとして烏号(うごう)の弓に綦衛(きえい)の矢をつがえきりきりと引き絞って妻の目を射た。 矢は妻の睫毛(まつげ)三本を射切ってかなたへ飛び去ったが、射られた本人はいっこうに気づかず、まばたきもしないで亭主(ていしゅ)を罵(ののし)り続けた。 けだし、彼の至芸(しげい)による矢の速度と

狙(ねら)いの精妙さとは、実にこの域にまで 達していたのである。

  もはや師から学び取るべき何ものもなくなった紀昌は、ある日、ふとよからぬ考えを起こした。

彼がそのとき独(ひと)りつくづくと考えるには、いまや弓をもって己(おのれ)に敵すべき者は、師の飛衛をおいてほかにない。 天下第一の名人となるためには、どうあっても飛衛を除かねねばならぬと。

                        

  秘(ひそ)かにその機会を窺(うかが)っているうちに、一日たまたま郊野(こうや)において、向こうからただ1人歩み来る飛衛に出遇(であ)った。 咄嗟(とっさ)に意を決した紀昌が矢を取って狙いをつければ、その気配(けはい)を察して飛衛もまた弓を取って相応ずる。

二人互いに射れば、矢はそのたびに中道にして相当(あいあ)たり、ともに地に墜(お)ちた。 地に落ちた矢が軽塵(けいじん)をも揚げなかったのは、両人の技がいずれも神(しん)に入(い)っていたからであろう。 さて、飛衛の矢が尽(つ)きたとき、紀昌のほうはなお一矢を余していた。 得たりと勢い込んで紀昌がその矢を放てば、飛衛は咄嗟(とっさ)に、かたわらなる

野茨(のいばら)の枝を折り取り、その棘(とげ)の先端ををもってハッシと鏃(やじり)を叩(たた)き落とした。 ついに非望の遂(と)げられないことを悟った紀昌の心に、成功したならばけっして生じなかったに違いない道義的慙愧(ざんき)の念が、このとき忽焉(こつえん)として湧起(わきお)こった。

  飛衛のほうでは、また、危機を脱しえた安堵(あんど)と己(おの)が技倆(ぎりょう)についての満足とが、敵に対する憎しみをすっかり忘れさせた。 二人は互いに駆け寄ると、野原の真ん中に相抱(あいいだ)いて、しばし美しい師弟愛の涙にかきくれた。

    【こうしたことを今日の道義観をもって見るのは当たらない。 美食家の斉(せい)の桓公が己(おのれ)のいまだ味わったこと

 のない珍味を求めたとき、廚宰(ちゅうさい)の易牙(えきが)は己(おの)が息子(むすこ)を蒸し焼きにしてこれをすすめた。

 十六歳の少年、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)は父が死んだその晩に、父の愛妾(あいしょう)を三度(たび)襲うた。

 すべてそのような時代の話である。】

  涙にくれて相擁(あいよう)しながらも、ふたたび弟子がかかる企(たくら)みを抱くようなことがあってははなはだ危ういと

思った飛衛は、紀昌に新たな目標を与えてその気を転ずるにしくはないと考えた。

彼はこの危険な弟子に向かって言った。 もはや、伝うべきほどのことはことごとく伝えた。イ爾(なんじ)がもしこれ以上この道の蘊奥(うんおう)を極(きわ)めたいと望むならば、ゆいて西の方大行(かたたいこう)の嶮(けん)に攀(よ)じ、

霍山(かくざん)の頂を極めよ。 そこには甘蠅(かんよう)とて古今を曠(むな)しゅうする斯道(しどう)の大家(たいか)がおられるはず。 老師の技に比べれば、我々の射のごときほとんど児戯(じぎ)に類する。 イ爾(なんじ)の師と頼むべきは、今は 甘蠅師のほかにあるまいと。

 

 紀昌はすぐに西に向かって旅立つ。 その人の前に出ては我々の技のごとき児戯(じぎ)にひとしいと言った師の言葉が、彼の自尊心にこたえた。 もしそれがほんとうだとすれば、天下第一を目ざす彼の望みも、まだまだ前途程遠いわけである。 己(おの)が

業(わざ)が児戯(じぎ)に類するかどうか、とにもかくにも早くその人に会って腕を比べたいとあせりつつ、彼はひたすらに道を急ぐ。 足裏を破り脛(はぎ)を傷つけ、危巖(きがん)を攀(よ)じ桟道を渡って、一(ひと)月の後に彼はようやく目ざす

山巓(さんてん)に辿りつく。

   気負い立つ紀昌を迎えたのは、羊のよう柔和な目をした、しかし酷(ひど)くよぼよぼの爺(じい)さんである。

年齢は百歳をも超えていよう。 腰の曲がっているせいもあって、白髯(はくぜん)は歩く時も地に曳(ひ)きずっている。

相手が聾(つんぼ)かもしれぬと、大声に遽(あわた)だしく紀昌は来意を告げる。 己が技のほどを見てもらいたい旨を述べると、あせ立った彼は相手の返辞をも待たず、いきなり背に負うた楊幹麻筋(ようかんまきん)の弓を外して手に執(と)った。 

そうして、石碣(せきけつ)の矢をつがえると、おりから空の高くを飛び過ぎて行く渡り鳥の群れに向かって狙(ねら)いを定める。 弦に応じて、一箭(いっせん)たちまち五羽の大鳥が鮮(あざ)やかに碧空(へきくう)を切って落ちて来た。

ひととおりできるようじゃな、と老人が穏やかな微笑みを含んで言う。 だが、それは所詮射之射(しょせんしゃのしゃ)というもの、好漢(こうかん)まだ不射之射(ふしゃのしゃ)を知らぬとみえる。

    ムッとした紀昌を導いて、老隠者は、そこから二百歩ばかり離れた絶壁の上まで連れて来る。

却下は文字どおりの屏風(びょうぶ)のごとき壁立千仞(へきりつせんじん)、遥(はる)か真下(ました)に糸のような細さに見えるを渓流(けいりゅう)をちょっと覗(のぞ)いただけで眩暈(めまい)を感ずるほどの高さである。 その断崖(だんがい)から半ば宙に乗り出した危石の上につかつかと老人は駆上(かけのぼ)り、振り返って紀昌に言う。 どうじゃ。 この石の上で先刻の(わざ)を今一度見せてくれぬか。 いまさら引込みもならぬ。 老人と入れ代わりに紀昌がその石を履(ふ)んだとき、石は微(かす)かにグラリと揺らいだ。強(し)いて気を励まして矢をつがえようとすると、ちょうど崖(がけ)端から小石が一つ転(ころ)がり落ちた。 その行方(ゆくえ)を目で追うたとき、覚えず紀昌は石上に伏した。 脚はワナワナと顫(ふる)え、汗は流れて

踵(くびす)にまで至った。 老人が笑いながら手を差しのべて彼を石から下(お)ろし、自ら代わってこれに乗ると、では射というものをお目にかけようかな、と言った。 まだ動悸(どうき)がおさまらず蒼(あお)ざめた顔をしてはいたが、紀昌はすぐに気がついて言った。 しかし、弓はどうなさる? 弓は?

老人は素手(すで)だったのである。 弓? と老人は笑う。 弓矢の要(い)るうちはまだ射之射(しゃのしゃ)じゃ。 

不射之射には、烏漆(うしつ)の弓も粛慎(しゅくしん)の矢もいらぬ。

ちょうど彼らの真上(まうえ)、空のきわめて高い所を一羽の鳶(とび)が悠々(ゆうゆう)と輪を画(えが)いた。 

その胡麻粒(ごまつぶ)ほどに小さく見える姿をしばらく見上げていた甘蠅(かんよう)が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月のごとく引き絞ってひょうと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石のごとくに落ちて来るではないか。

 紀昌は慄然(りつぜん)とした。 今にしてはじめて芸道の深淵(しんえん)を覗(のぞ)きえた心地(ここち)であった。

                     

    九年の間、紀昌はこの老人のもとに留(とど)まった。 その間いかなる修行を積んだものやらそれは誰にも判(わか)らぬ。

 九年たって山を降りて来たとき、人々は紀昌の顔つきの変わったのに驚いた。 以前の負けず嫌)ぎら)いな精悍(せいかん)

  面魂(つらだましい)はどこかに影をひそめ、なんの表情もない、木遇(でく)のごとく愚者(ぐしゃ)のごとき容貌(ようぼう)み変わっている。

 久しぶりに旧師の飛衛を訪(たず)ねたとき、しかし、飛衛はこの顔つきを一見すると感嘆して叫んだ。 これでこそはじめて天下の名人だ。 我儕(われら)のごとき、足下(あしもと)にも及ぶものではないと。

  邯鄲(かんたん)の都は、天下一の名人となって戻って来た紀昌を迎えて、やがて眼前に示されるに違いないその妙技への期待に沸き返った。 ところが紀昌はいっこうにその要望に応(こた)えようとしない。 いや、弓さえ絶えて手に取ろうとしない。 山に入るとき携えていった楊幹麻筋(ようかんまきん)の弓もどこかへ棄(す)てて来た様子である。 そのわけを訊(たず)ねた一人に答えて、紀昌は懶(ものう)げに言った。

 至為(しい)は為(な)すなく、至言(しげん)は言を去り、至射(ししゃ)は射ることなしと。

 なるほどと、しごく物分かりのいい邯鄲の都人士(とじんし)はすぐに合点(がてん)した。 弓を執(と)らざる弓の名人は彼らの誇りとなった。

 紀昌が弓に触れなければ触れないほど、彼の無敵の評判はいよいよ喧伝(けんでん)された。

 さまざまな噂(うわさ)が人々の口から口へと伝わる。 毎夜三更(こう)を過ぎるころ、紀昌の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓弦(ゆずる)の音がする。 名人の内に宿る射道の神が主人公の眠(ねむ)っている間に体内を脱(ぬ)け出し、妖魔(ようま)を払うべく轍宵(てつしょう)守護に当たっているのだという。 

彼の家の近くに住む一商人はある夜 紀昌の家の上空で、雲に乗った紀昌が珍しくも弓を手にして、古(いにしえ)の名人・

羿(げい)と養由基(ようゆうき)の二人を相手に腕比べをしているのを確かに見たと言い出した。 そのとき三名人の放った矢は

それぞれ夜空に青白い光芒(こうぼう)を曳(ひ)きつつ参宿(しんしゅく)と天狼星(てんろうせい)との間に消え去ったと。 

       紀昌の家に忍び入ろうとしたところ、塀(へい)に足を掛けたとたんに一道の殺気が森閑(しんかん)とした家の中から

奔(はし)り出てまともに額を打ったので、覚えず外に顚落(てんらく)したと白状した盗賊もある。 爾来(じらい)、邪心を抱く者どもは彼の住居の十町四方は避けて廻(まわ)り道をし、賢い渡り鳥どもは彼の家の上空を通らなくなった。

  雲と立罩(たちこ)める名声のただ中に、名人紀昌はしだいに老いていく。 すでに早く射(しゃ)を離れた彼の心は、

ますます枯淡虚静(こたんきょせい)の域にはいって行ったようである。 木遇(でく)のごとき顔はさらに表情を失い、語ることもまれとなり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。 

「すでに、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。 眼は耳のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが老名人晩年の述懐で

ある。

                         

    甘蠅師のもとを辞してから四十年ののち、 紀昌は静か、誠(まこと)に煙のごとく静かに世をさった。

 その四十年の間、彼は絶えて射(しゃ)を口にすることがなかった。 口にさえしなかったくらいだから、弓矢を執(と)って活動などあろうはずがない。 もちろん寓話(ぐうわ)作者としてはここで老人に掉尾(とうび)大活躍をさせて、名人の真に名人たる所以(ゆえん)を明らかにしたいには山々ながら、一方、また、なんとしても古書に記された事実を曲げるわけにはいかぬ。 

実際、老後の彼についてはただ無為(むい)にして化したとばかりで、次のような妙な話のほかには何一つ伝わっていないのだから。

    その話というのは、彼の死ぬ一、二年前のことらしい。 ある日老いたる紀昌が知人のもとに招かれて行ったところ、その家で一つの器具を見た。 確かに見覚(みおぼ)えのある道具だが、どうしてもその名が思い出せぬし、その用途も思い当たらない。 老人はその家の主人に尋ねた。 それはなんと呼ぶ品物で、また何に用いるのかと。 主人は、客が冗談を言っているとのみ思って、

ニヤリととぼけた笑い方をした。

 老紀昌は真剣になってふたたび尋ねる。 それでも相手は曖昧(あいまい)な笑(え)みを浮かべて、客の心をはかりかねた様子である。

   三度紀昌が真面目(まじめ)な顔をして同じ問を繰り返したとき、初めて主人の顔に驚愕(きょうがく)の色が現れた。 彼は客の眼をじっと見つめる。 相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、また自分が聞き間違いをしているのでもないことを確かめると、彼はほとんど恐怖に近い狼狽(ろうばい)を示して、吃(ども)りながら叫んだ。

       「ああ、夫子(ふうし)が、・・・・・古今無双(ここんむそう)の射(しゃ)の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや?

   ああ、弓という名も、その使い途(みち)も!」

   その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人(がくじん)は瑟(しつ)の弦(げん)を絶ち、工匠(こうしょう)は

規矩(きく)を手にするのを恥じたということである。

 

                          中島篤(李陵・山月記より)

                         昭和17年12月「名人伝」文庫に発表。

                       

 

     二人の老人  

 

二人の老人が古い都のエルサレムへお参りに出かけました。 1人は金持ちの百姓で、エフィーム・タラースイチ・シェヴエリョフといい、いま一人はあまり金のないエリセイ・ボードロフと言う男でした。 エフィームは几帳面な百姓でウォートカも飲まねば

たばこものまず、かぎたばこさえすいません、生まれてこのかたかつて悪口をつかず、 物事に厳重な、しっかりしたたちでした。

エフィームは二度も組頭を勤めましたが、二度とも一コペイカの間違いなしに期限を勤め上げました。  家族は大人数で

二人の息子のほか、もう嫁をもらっている孫迄1人あって、しかもみんな一緒に暮らしているのでした。  ちょっと見たところでも

丈夫そうな男で、大きなあごひげをはやし、背中も曲がらないでしゃんとしており、やっと七十になってからひげに白いものがまじりはじめたばかりです。 エリセイ老人は金持ちでもなければ貧乏でもなく、もとは大工仕事をして歩き回っていましたが、 年を取ってから家に落ち着いて、ミツバチをかいはじめました。 上の息子は出稼ぎをしていましたが、次男は家で働いているのでした。

  エリセイは人のいい陽気なな男で、ウォートカも飲めばたばこもすい、歌をうたうのも好きでしたが、おとなしいたちなので、

家の者や近所の人達とも仲良く暮らしていました。 エリセイは背の高くない、どす黒い顔色をした貧弱な百姓で、もしゃもしゃに

ちぢれたあごひげをはやし、自分と同じ名の古い預言者エリセイとご同様に、頭がつるりとはげていました。

    二人の老人はもう前から一緒に出掛ける約束をしていたのですが、エフィームの方はいつもせわしくて、仕事の切れ目がないのです。 一つ済んだかと思うと、すぐ次のが出てくる。 孫に嫁を取ってやったかと思うと、末の息子が兵隊から戻って来る。

かとおもえば、今度は新しく普請(ふしん)を始めなければならぬ、と言ったふうなのです。

   あるとき祭日に、二人の老人は落ち合って、丸太の上に腰を掛けました。

  「どうだね」とエリセイは言いました。 「いつ神様へのお義理をはたしに出かけるんだね?」 エフィームは顔をしかめて、

  「いや、ちょっと待ってもらわなくちゃならんよ。今年は厄介な年でな、あの普請を始めたときにゃ、まあ百ルーブリか

そこいらで済むと思ってたところ、もう三百ルーブリに手が届きそうになったが、それでもやっぱり出来あがりゃしない。 

どうやら夏までもかかるらしい。

 この夏は、もし神様のおぼしめしがあったら、出かけられるとおもうが」

      「わしの考えだと」 とエリセイは言いました。

      「そう伸ばしてばかりいるのはよくないよ。 すぐ出かけなくちゃ。 いま春でちょうどい時候(じこう)だからな」

      「時候は時候でも、いったん始めた仕事をどうしてうっちゃって行けるかね?」

     「いったいお前んところにゃ誰もまかす人がいないのかね? 息子がちゃんとしてくれるよ」

          何がちゃんとするものか!総領の奴ときたら、いっこう頼みにならん奴で、変なことをするに決まっているよ]

     「なに、おまえ、わしらはいずれ死ぬに決まっているが、後の者はわしらがいなくっても、ちゃんとやっていくだろうよ。 

お前の息子だって、自分でやって覚えなくちゃならんものな」

      「そりゃそうだが、何と言って自分の目で仕上がりを見届けたいからな」

      「 いやはや、どうも! 何でもかんでもみんな仕上げるなんてことは、金輪際出来るものじゃないよ。 ついこの間も、

うちの女どもがお祭りが来るというので、洗い物をしたり、かたずけをしていたが、あれもしなくちゃならん、 

これもしなけりゃならんで、とてもみんなはやりきれない。 そこで、一番上の嫁がなかなか賢い女だものだから、こ言ったよ。

       【お祭りが私たちを待たないで、どんどん近くなってくれるから助かるわ。 さもないと、いくら働いたところで、

    用事がしつくせるものじゃありゃしない】 とな」 エフィームは考え込みました。

      「だが、わしはあの普請にだいぶ金をつぎ込んだのでなあ。 度をするのに空手でもでかけられんからな。 それもわずかな

          金じゃしようがない、百ルーブリは持っていかなけりゃ」 エリセイは笑い出しました。

         おまえ、罪つくるものじゃないよ。お前の身代はわしに比べたら十倍からあるのに、それで金の事をとやかく言うなんて。

         そんなことより、いつ出かけるか言ってくれ。 わしの所には金はないけれど、それでも工面するから」

  エフィームもにやりと笑って、

        「いよう、たいした金持ちだなあ、いったいどこで手に入れるつもりだね?」

        「なに、家中かき回したら、いくらかは集まるだろうし、足りないところは、外に並べてある蜜蜂の巣丸太を十本ばかり隣へ

             分けてやるよ。 前から頼まれていたのだから」

        「売った巣の出来が良かったら、後でしょげるこったろうよ」

        「しょげる!?おまえ、とんでもない! この世で罪のことよりほか、何もしょげる訳はありゃしないよ。魂ほど大切なものは

   ないからな」

        「そりゃその通りだが、家のことがきちんとしていないと、やっぱり具合の悪いものでなあ」

     「それより魂の事がきちんとしていなかったら、もっと具合が悪いじゃないか。 とにかく約束したのだから、出かけよう!

            本当に出掛けよう!

                       

      (二)

 

     こうして、エリセイはは友達を説き伏せました。 エフィームはさんざ考えたすえ、あくる朝エリセイの所へやって来て

          「じゃ、出かけよう。 なるほどお前の言う通り、人間生きるも死ぬるも神様のお心しだいだから、まだ生きて

    元気のあるあいだに 出掛けなくちゃなるまい」

       それから一週間立った時、二人の老人はすっかり仕度ができました。

 エフィームの家には金が有ったので、百ルーブリを旅費にして、二百ルーブリを年を取った女房に残しておきました。

 エリセイも仕度が整いました。外に並べてある蜜蜂の巣丸太のうち、十本を隣の主人に売って、それから生まれる若い蜂も付けて

渡すことに約束しました。 それで合計七十ルーブリの金が出来ました。残りの三十ルーブリは、家じゅう隅から隅まで

かきさがし、みんなから少しずつ取り上げました。 ばあさんも死に金に取っておいたのをありったけ出すし、嫁も自分の金を

出しました。

  エフィーム・タラースイチは用事を残らず息子に言い置きました。 どこでどれだけの干し草を刈るとか、肥えは何処へ運ぶとか、

普請はどんなふうに仕上げて、屋根はどんなふうにふくとか、ありったけの用事をすっかり考えて、それを言い残したのです。

ところが、エリセイの方はばあさんに、売った巣丸太から生まれる若い蜂は別に集めて、ちゃんとごまかし無しに隣へ渡せ、

と言いつけたばかりで、家の用事のことなどはまるでいいませんでした。 何をどうしていいかと言う事は、その場になって

一人でに分かってくる、お前たちが主人なのだから、自分達の為になるべくいいようにしなさい、と言う腹なのでした。

二人の老人は仕度が出来ました。 家の者は菓子を焼いたり、袋をぬったり、新しい脚絆(きゃはん)を切ったり、新しい百姓靴を

作ったりしました。 老人たちは履き替えの木の革靴も用意して、いよいよ出掛けました。 家の者は村はずれまで見送ると、

そこで別れを告げ、二人の老人は旅路にのぼりました。

  エリセイはうきうきした気持ちで旅を始め、村から離れると、家の事などはすっかり忘れてしまいました。

心の中で考えているのはどうかして途中で友達の気に入る様にしたい、誰にも乱暴な事を言わない様にしよう、無事に暖かい気持ちで向こうへ着き、それから家へ帰りたいと言う事ばかりでした。エリセイは道を歩きながらも、祈?(きとう)の文句を口の中で

つぶやいたり、自分の知っている聖者の伝記をを心の中で繰り返していました。

  途中で誰かと一緒になった時や、泊まりに着いた時などは、どうかして出来るだけ人にやさしい対応をしよう、神様に教えられた

 言葉を口にしようと心がけるのでしたが、ただ一つエリセイに出来ないことがありました。 かぎタバコをやめようと思って、

 わざとタバコ入れを家に置いてきたのですが、それがだんだん寂しくなってきました。 途中である人がくれたので、友達を罪に まきこままない為に、ともすればわざと遅れて、タバコをかぐのでした。

 エフィーム・タラースイチも機嫌よく、元気で歩いて行きました。悪いことは何一つせず、つまらんことは一口も言いません

でしたが、心の中は楽ではありませんでした。家の心配が一刻も頭を離れないのでした。いつもいつも、家では何をしているかと、

そればかり考えるのです。 何か息子に言いつけるのを忘れはしなかったか、息子は言ったとおりにしているだろうか? 途中、

人が馬鈴薯を植えたり、肥えを運んだりしているのを見ると、うちでもやっぱり息子が言いつけ道理しているだろうか、

と考えるのです。

 もう直ぐにも引っ返して、何もかも自分でやって見せたくなるのです。

                       

         (三)

                    

           二人の老人は五週間歩き続けたので、家から持って来た木の皮靴もはき破ってしまって、もう新しいのを買わねばならなく

なったころ、小ロシアへ入りました。 家を離れると、泊も食事もみんな金を払ったものですが、小ロシアへ来ると、みんなが争って二人を自分の家へ呼び込むようになりました。 泊まらして、食事をさせて、金は取らないばかりか、途中でおあがりと言って、袋の中にパン菓子など突っ込むという風です。こうして、二人の老人は気楽に七百露里の道を歩いて、また一つの県を通り抜け、凶作の土地へ差し掛かりました。

    家へ入れて、泊り賃も取らないけれども、何も食べさせてくれなくなりました。 パンは何処へ行ってもくれないばかりか、どうかすると、 金を出しても手に入らない事がありました。 みんなの話を聞くと、去年何一つ作が出来なかったのだそうです。 

金持ちも身代をつぶして、何もかも売ってしまうし、中位の暮らしをしていたものは裸一貫になり、貧乏人はよそへ行ってしまうか、乞食をするか、それとも村でどうにか、こうにかその日を過ごしている有様です。 冬の間は、ふすまやあかざを食っていた

そうです。

   あるとき、二人の老人は小さな村に泊まって、パンを十五芹ばかり買い求め、一夜を明かすと、東の白まないうちに出掛けました。

 暑くならぬうちに少しでも沢山歩こうというのです。 十露里ばかり歩いて、とある小川のそばまで行き着くと、そこへ腰を降ろして、茶碗に水をすくって、パンをしめし、腹ごしらえをし、木の革靴を履き替えました。こうして座ったまま、しばらく休んで

いるうちに、エリセイがタバコ入れを取り出しました。

  エフィームはそれを見て、頭を振りました。

    「どうしてそんないやらしいものを、やめてしまわないのだ!」 エリセイはだめだというようにてを振って、

    「わしは罪に負けてしまったんだよ、どうも仕方がない!」 二人は腰を持ち上げて、また先へ進みました。

それからさらに十露里ばかり歩いて、大きな村へさしかかりました。その村をすっかり通り抜けたとき、もうとても厚さが

ひどくなりました。

   エリセイはへとへとになったので、一休みして水がいっぱい飲みたくなりましたが、エフィームは足を止めようとしません。

エフィームはは歩くのが達者で、エリセイははその後について行くのが骨でした。

      「水が飲みたいもんだなあ」

      「なに、飲むがいいさ。わしは欲しくない。」 エリセイは立ち止まって、

      「それじゃ、待たないでくれ。わしはちょっとあの百姓家へ寄って、水を飲んだら、すぐお前に追いつくからな」

      「よしきた」 といって、エフィームは一人で街道を歩いて行き、エリセイは百姓家の方へ曲がって行きました。

   エリセイはが百姓家のそばへ寄ってみると、石灰を塗った小さな家でした。下の方は黒くなって上の方だけ白いのですが、

 もう久しく塗り直さないと見えて、漆喰がはげ、屋根は片側が抜けているのです。家の入り口は背戸の方についているので、

エリセイは背戸に入りましたが、ふと見ると、築地(ついじ)の所に男が寝転がっています。 やせて、あごひげもはやさず、

ルバーシカのすそは小ロシア風にももひきの中に押し込んでいます。見たところ、この男は涼しい物陰に寝てたらしいのですが、

今では日が真っ直ぐに指している。

  それでも、当人は字っと横になったまま、眠ってもいません。 エリセイは声を掛けて、水を飲ませてくれと言いましたが」、

男は返事もしません。

           「病気しているのか、でなければ無愛想なおとこだろう」と思って、エリセイは戸口に地下よりました。 と、家の中で子供の泣く声が聞こえます。 エリセイは戸の鐶(かん)をがちゃがちゃ鳴らして、

            「ごめん!」 と言いましたが、返事がありません。

            「こんにちは!」と言っても、かさりとの音もしません。

            「お頼み申します!」と言っても、声さえしません。 エリセイはもう行こうとしましたが、戸の中で誰かが

 うなっているような声が聞こえました。

            「何かひょんなことが出来たのじゃないかな!一つ見てやらなけりゃならん!」と思って、エリセイは家の中へ入ることを

 きめました。

                        

         (四)

                      

                   エリセイが鐶を回して見ると、戸には鍵(かぎ)が掛けてありませんでした。 戸を開けて、廊下へ入って見ると、

部屋へ入る戸はあけはなしでした。 右手には暖炉があって、正面が上座になっていて、その隅に聖像棚があり、テーブルがすえて

あり、テーブルの向こうには床几(しょうぎ)がありました。床几の上には、頭に布もかぶらない肌着一枚のおばあさんが腰掛けて、テーブルに頭を乗せていました。

   その側には、ろうの様な顔色した、やせこけているくせに腹ばかり大きい男の子が座っていて、おばあさんの袖を引っ張りながら、

何やらねだって、おんおん泣いています。

 エリセイは中に入りましたが、部屋の中にはむっとするような、いやなにおいがこもっているのです。 見ると、暖炉の向こうの

床の上には、1人の女が倒れているではありませんか。突っ伏しになったまま、こちらを見ようともせず、ただ喉をぜいぜい言わて、片足を伸ばしたり縮めたりしているばかり。苦しそうにあちこち寝返りを打っているその体から、むっとするような臭気が流れ出て

いるのです。 どうやら、女は大小便も垂れ流しで、誰もその始末をする人がないらしいのです。 おばあさんがふと目を上げると、知らぬ人の姿が目にうつりました。

         「なんだね、お前さん、何用だね? 何がいるんだね? うちにゃ何にもありゃしないよ、 お前さん」

    エリセイはその言うことが分かったので、傍へ寄って、

            「おばあさん、わしは水を飲ましてもらおうと思って寄ったんだよ

           「誰もいないったらいないよ。誰も取って着てあげるものがいないんだよ。自分で行きなされ」 エリセイは訊ねました。

           「どうしたんだね、いったいお前さんとこにゃ達者な者は誰もいないのかね、この女の始末をしてやる者は?」

        「  誰もいやしない。背戸では人間ひとり死にかかっているけれど、わしらはここでこうして・・・・・」

   男の子は見知らぬ人間を見て、ちょっと黙っていましたが、おばあさんが口をきくやいなや、またその袖につかまって、

           「パンをおくれ、ばあさん、パン!」 と言って、またぞろ泣きしました。

   エリセイがおばあさんに問いかけようとしたとき、外にいた男が、中へよろよろと入って来ました。壁づたいに歩いて、床几に腰をおろそうとしましたが、行きつかないうちに、敷居の傍の片隅に倒れてしまい、起き上がろうともしないで、話始めました。

 一口ごとに言葉を切、一言をいっては息をついで、また次の一言をいうのです。

            「はやり病がやってきて、その上・・・・・飢饉で・・・・・あいつも餓(う)え死にに死にかかっています!」と

 百姓はあごで男の子をさして、 泣きだしました。

エリセイは背中の袋をゆすり上げて、両手を背負いひもからぬき、袋を床へおろして、それから床几の上に乗せ、袋の口を

ときにかかりました。口をといて、中からパンとナイフを取りだし、一切れ切って百姓に渡しました。

 百姓はそれを受け取らないで、男の子と女の子を差しました。 あれらにやってくれ、という心です。 

エリセイは男の子にやりました。

 男の子はパンのにおいをかぐと、からだを伸ばして、両手でその切れをひっつかみ、鼻ぐるみその中に顔を突っ込みました。

暖炉の陰から女の子がはい出して、じっとパンを見つめるのです。エリセイはそれにも一切れやりました。 それから、

もう一切れ切って、おばあさんにもやりました。おばあさんはそれを取って、もぐもぐかみはじめました

             「水を一杯持って来てやりたいんだがね。みんな口がからからになっているから。 私は、昨日だったか今日だったか

               覚えていないけれど、汲みに行ったところが、帰り着かない内に倒れてしまってねえ。 桶はあそこに残っているはずだよ、

    もし誰も持っていかなけりゃ」

   エリセイは井戸が何処にあるかたずねました。 おばあさんが詳しく教えてくれたので、行ってみると、桶がありました。

 で、水を汲んで来て、みんなに飲ませました。子供達は水と一緒にまたパンを食べ、おばあさんも食べましたが、亭主は 

口をつけようとしません。

        「どうも胃の腑が受付てくれないので」 と言いました。

   女房はてんから起き上がろうとせず、まるで正気に返らないで、ただ寝板の上で身をもがくばかりです。 エリセイは村の小店へ

行って、もろこしや、塩や、粉や、バターを買って来ました。 それから、手斧を探し出して、薪を割り、

暖炉を燃やしにかかりました。 女の子が手伝いをしました。 こうしてエリセイはスープや麦がゆをこしらえて、みんなに食べ

さしてやりました。

                    

          (五)

                  

       亭主も少し食べ、おばあさんも食べました。男の子と女の子は碗の底迄なめて、抱き合ったまま眠りこけてしまいました。

    百姓とおばあさんは、どうしてこんなことになったかを話て聞かせました。

               「私達はこれまでもあまり豊かな暮らしじゃなかったのに、去年何にも作物が出来なかったので、秋からこっち、ありあわせの物を居食いすることになりました。やがて、何もかもすっかり食べてしまって、近所の人や親切な人に無心をするように

なりました。 初めの間は貸してもくれましたが、そのうちに断られる様になりました。中には貸したいのはやまやまだが、

何にも無いという人もありました。

    それに、こっちも頼むのに気がさすようになりました。 みんなにお金やら、粉やら、パンやら、うんと借りてしまったからです」

 と百姓は言うのでした。

                「私は仕事を探しましたが、仕事が無いのです。みんな口すぎの為に仕事を探しているものだから一日働くと、もう後二日は仕事探しに回らなくちゃならんありさまです。そこで、このばあさんと女の子が、離れた村へ物乞いに出掛ける様になりましたが、

誰だってパンが無いのだから、ろくな貰い物はありませんでしたが、それでも何とか口すぎが出来たので、新麦が取れるまでこうしてやっていけるものと思っていました。 ところが、この春からまるでもらいものが無くなったうえに、おまけにはやり病いまでやってきたのです。

     もうすっかりひどいことになって、一日食べると、後二日は何も口に入らない。とうとう草まで食べる様になりましたが、

その草のせいか、それとも何か他の事がもとになったのか、とにかく女房が病気にやられました。 女房には寝られるし、私にゃ力がなし、直そうにも法がない始末なんで」 と百姓は言いました。

           「私一人でもがいていましたが」とおばあさんが言いだしました。

           「何しろ食べるものが無いので、精も根も尽きてしまって、弱り込んでいました。 女の子も弱り込んだうえに、怖気ついて

   しまって、近所へ使いにやっても、行こうとしません。隅っこの方に引っ込んでしまって、行くことじゃありません。

   おととい隣のおかみさんが入って来ましたが、みんな飢えて病気しているのを見るとくるりと向きを変えて、出ていってしまい

   ました。そのおかみさんも亭主に逃げられて、小さな子供らに食わすものが無いんですからねえ。そういう風で、ここに寝て、

   お迎えが来るのを待っておりました」

   二人の話を聞いたエリセイは、その日すぐ友達に追いつこうと思っていたのをやめて、そこに泊まってしまいました。

 あくる朝起き出すと、エリセイはまるで自分がこの家の主人ででもある様に、家の仕事に取り掛かりました。 おばあさんと一緒に

 粉をこねて、暖炉を焚き付け、女の子と二人で、いる物を手に入れようと思い、近所を歩いて見ました。 あれはどうか、これはど

うかと思って探してみても、何一つありません。何もかも食べ物に替えられてしまったのです。百姓道具も無ければ、衣類も無い

と言う始末です。で、エリセイは入用の物を用意し始めました。自分で作ったり、よそから買って来たりしたのです。こうして、

エリセイは一日を過ごし、二日暮らし、三日おくってしまいました。男の子は元気になって、店へ使いに行くようになり、エリセイになついてきました。女の子はもうすっかり楽しそうな様子になって、何でも手伝いをします。終始、「おじさん!おじさん!」

といってエリセイの後を追い回すのです。

  おばあさんも起き出して、隣へ行くようになりました。亭主も壁づたいに歩けるようになって、寝ているのはただ女房だけでしたが、これも三日目に正気づいて、何か食べさせてくれと言いだしました。

        【いや、こんなに長逗留(とうりゅう)しようとは思わなかった。もう出掛けよう】 とエリセイは考えました。

                      

         (六)

                       

          四日目は、精進落ちの祭日が明日と言う日でした。そこでは、

         【さあ、みんな一緒に精進落ちをして、お祭りの贈り物に何かかにか買ってやったうえ、夕方には出掛ける事にしよう】と

考えました。

   エリセイはまた村へ行って、牛乳や、白い粉や、脂などを買い、おばあさんと二人掛でいろんな物を煮たり焼いたりしました。

 あくる朝は、教会の祈祷式に行って、家へ帰ると、みんな一緒に精進落ちをしました。 この日は女房もおきだして、家の中を

ぶらぶら歩き始めました。 亭主はひげをそって、小ぎれいなルバーシカを着(お婆さんが洗濯してやったのです) 

村でも金持ちの百姓の所へ頼みごとに行きました。 と言うのは、この金持ちの百姓の所に、畑も草場も抵当に入れてあったので、

新麦が取れるまでその畑と草場を使わしてくれないか、頼み行った訳です。 夕方、亭主はしょんぼり帰って来て、泣きだしました。 金持ちの百姓が情け容赦もなく、「金を持って来い」と言ったのです。

  そこでエリセイはまた考え込んでしまいました。<

    【あの人達はこれからどうして暮らしていくだろう?   よそでは草刈りに出かけてゆくのに、あの人たちはじっとぼんやりしていなくちゃならない。草場が抵当に入っているのだからな。 裸麦が売れたらよそでは取り入れを始めるのに

(また実に良くできているからなあ!)

  【  あの人たちは何んにも楽しみがありゃしない。 畑を金持ちの百姓に売ってしまったのだからなあ。 俺が行ってしまったら、

  あの人たちはまた元のとおり路頭に迷わなくちゃならない】

  エリセイは考えがいろいろに分かれてしまって、その夕方も出発せず、あくる朝まで伸ばしてしまいました。

庭へ出て寝ることにして、 お祈りを済ませ、横になりましたが、なかなか寝付かれません。 というのは、金を沢山使い、

日にちもずいぶん過ごしてしまったのだから、もう出発しなくてはならないのですが、しかしここの人達も気の毒だからです。

        【みんな残らず助けてやることなんか出来るものじゃない。初めは水をくんで来てやって、パンを一切れずつ恵んでやるつもり

   だったのに、それがこんなことになってしまった。 今ではもう草場や畑を買い戻してやらねばならぬことになった。

     畑を買い戻してやったら、その次は、子供らに乳を飲ませる為に、雌牛も買ってやらなくちゃならないし、亭主に麦束を運ぶの

   に馬も買ってやらなきゃならん。おい、 エリセイ・クジミッチ、お前はすっかりまきこまれてしまったらしいぞ。

   どっしり碇をを降ろしてしまって、何が何だか分からなくなったじゃないか!】

      エリセイは起き出して、枕にした長外套を広げて、煙草入れを取り出し、ひとつまみ鼻に入れて、頭をすっとさせようと

しましたが、どっこい、駄目です、いくら考えても考えても、何一つ考えつくことは出来ませんでした。 出発しなくちゃならないが、それかといってここの人達も気の毒で、どうしたらいいのか分かりません。 又長外套を丸めて枕にし、ごろりと横になりました。じっといつまでも横になっているうちに、もうにわとりが鳴いて、やがてぐっすり寝入ってしまいました。 

    すると突然、誰やら呼んでいるような気がしました。

 見ると、自分はちゃんと身支度をして、背中に袋をおい、手には杖を持って、門を出ようとしているところです。 門はちゃんと

開いていますから、ただ出さえすればいいのでした。 門をくぐろうとすると、片方の垣に袋が引っ掛かりました。それを

放そうとすると、もう一方の垣に脚絆がひっかかって、ずるずる解けてきました。 それを放そうと思って、見ると、どうでしょう、

これは垣に引っかかったのではなくて、女の子がつかまえて、「おじさん、おじさん、パンをおくれ!」 とわめいているのでした。

   足を見ると、男の子が脚絆を捕まえており、窓からはおばあさんと亭主がこっちを見ています。 エリセイは目をさまして、

声に出して言いました。

        「明日は畑と草場を買い戻してやろう。 それから馬も買うし、新麦の取れるまでに食べる粉も、子供たちに牛乳を飲ますための

           雌牛も買ってやろう。そうしないと、せっかく海を渡ってキリスト様を探しに行っても、自分の中のキリスト様を無くすことに

   なる。人を助けてやらなくちゃならない!」

    それからエリセイは朝までぐっすり寝てしまいました。 朝早く目を覚ますと、さそっく金持ちの百姓の所へ行って、裸麦の畑を

買い戻し、草場の代金も払いました。それから草刈り窯を買って(それさえ売り払ってあったのです)、家へ持って帰りました。 亭主を草刈りにやって、

 自分は村の百姓たちの家を回って歩き、酒場の亭主が荷車付きで馬を売るということを聞き出し、値段の開け合いをして、

それを買い取り、粉も一袋買って、荷車に乗せ、今度は雌牛を買いに行きました。歩いているうちに二人の小ロシア女に追いつきました。 この女房連れは歩きながら、お互いにしゃべりあっています。 小ロシア語でしゃべっているのですが、エリセイはそれを

聞き分ける事が出来ました。 それはエリセイのことを噂(うわさ)しているのでした。

           「なんでも、始めはどういう人間だか一向に分からなかったそうだよ。ただの巡礼だと思ったという話だ。 ちょっと水を飲み

    に寄って、そのままあすこへ泊まりこんでしまったんだって。 現に今日もわたしゃ自分の目で見たけれど、居酒屋で荷車と

    馬を買ったよ。よくもあんな人間がこの世にいるもんだねえ。 ひとつ行ってみようじゃないかね」 

    エリセイはこれを聞いて、自分のことをほめているのが分かったので、雌牛を買いに行くのをやめてしまい、居酒屋へ引っ返して

馬の代金を払い、馬を荷車に付け、粉をひいて家に帰りました。 門まで来ると、馬を止めて、車からおりました。 家の人達は馬を見て、びっくりしてしまいました。どうやら自分達の為に馬を買ってくれたらしいと思いましたが、それを口に出すのは気兼ねでした。

  亭主は門を開けに出て、

            「おじいさん、その馬はいったいどうしたんだね?」

            「買ったのさ。たまたま安いのにぶつかったんでね。今夜ひと晩の食べしろに、草を刈って飼い葉桶に入れといておくれ。

               それから、この袋を降ろしてもらおうか」

   亭主は馬をといて、粉袋を納屋へ運び、草を一抱え刈って、飼い葉桶に入れました。 やがて一同床に入りました。

 エリセイは家の外で寝る事にしました。 もう夕方から、そこへ自分の道中袋を出して置いたのです。 みんな寝入ってしまうと、

 エリセイは自分の袋を縛って、木の皮靴を履き、長外套を着て、エフィームの後を追って出掛けました。

                       

  (七)

                    

           エリセイが五露里ばかり離れたころ、夜が明けてきました。 エリセイは木の下に座って、袋の口を開け、金の勘定にかかり

 ました。勘定してみると、十七ルーブリ二十コペイカ残っていました。

            【いや】 と考えました。

            【この金じゃ海を渡って旅は出来ない!キリスト様の為と言って金を無心して、ひょっと罪を作る様なことがあってはいけな

    い。エフィームじいさんが一人で行き着いて、わしの代わりにおろうそくをあげてくれるだろう。 わしはどうやら、死ぬま

    でこのお勤めは果たされないらしい。まあ、ありがたいことに、神様はお情け深いから、許してくださるだろうよ】

     エリセイは立ち上がって、袋を肩に担ぎ、後へ引っ返しました。 ただあの村だけは、人に見つかってはいけないと思って、

ぐるっと回り道して行きました。  こうしてエリセイは間もなくわが家へ帰りつきました。 行きがけは歩くのが骨で、エフィームについて歩くのがやっとこさの様に思われましたが、あと帰りを始めると、まるで神様が助けて下さるように、いくら歩いても疲れると言う事がありません。 遊び半分に、杖を振り回しながら歩いて、一日に七十露里も飛ばすと言う有様です。

    エリセイがわが家についてみると、家の者は畑仕事をかたずけて帰っていました。みんな老人の帰りを喜んで、どんな風だった、

 どうしてつれにはぐれたのか、なぜ向こうへ行き着かないで帰って来たのか、といろいろ問いはじめました。 エリセイは

 あまりくわしい話をしませんでした。

               「いや、神様のおひき合わせがなかったんだよ。道中で金を無くしてしまうし、つれにははぐれるしよ。そんなことで行き

     着けなかったのさ。まあ後生だからかんにんしておくれ!」

    と言って、おばあさんに残りの金を渡しました。 エリセイが家の事をいろいろ聞いてみますと、万事好都合にいって、

用事はすっかりすんでおり、何一つ手抜かりはなく、家族の者は仲良く暮らしていました。     エフィームの家の者もその日のうちに、エリセイが帰って来たことを聞いて、自分の家の老人のことを聞きに来ました。 それにもエリセイは同じ事を言いました。

              「おまえんとこのじいさんも達者で歩いて行ったよ。わしらはペテロ祭の三日前に分かれてしまった。わしは後を

    追おうとしたけれども、その時変な訳になって、金を無くしてしまったものだから、旅費が無いので戻って来たような

    しだいだ」

   みんなはびっくりしました。 あんな賢い人間が、旅に出かけながら行き着かないで、ただ金を無くしたばかりなんて、

どうしてそんなばかな事をしたのだろう? とあきれ返りましたが、そのうちに忘れてしまいました。 当のエリセイも忘れて

しまって、 家の仕事にかかりました。息子と二人でこの冬使う薪をこしらえ、おんなどもと一緒に麦をこなし、納屋の屋根をふき、蜜蜂の冬ごもりをさせ、十本の巣丸太を新しく生まれた子と一緒に、隣へ渡しました。おばあさんは売った丸太から幾群れ生まれたか隠そうとしましたが、エリセイはどの丸太はだめで、 どの丸太は子が生まれたか、ちゃんと知っていて、十群れでなく十七群れ隣へ渡したのです。すっかりかたずくと、エリセイは息子を出稼ぎにやり、自分は冬中家にこもって、木の革靴を編んだり、巣にする丸太の中をくったりしました。

                   

           (八)

                   

            エリセイが病人のいる百姓家にい残った日、エフィームはいちんち仲間を待ちました。  あまり先へ行かないで腰を下ろし、

  さんざん待ったあげく、ひと寝入りして目をさまし、またしばらく座っていましたが、仲間はやって来ません。 目を皿の様にしてながめ回しましたが、もう日が木の陰に沈んで行くのに、エリセイは姿を見せません。

           【ひょっとしたら、わしが眠っている間に、通り過ぎて行ってしまったのじゃないかな? だれかの荷車に乗せてもらって、

    ここを 通りかかったとき、気が付かなかったのじゃないだろうか? しかし、見えないというはずはない。

    原っぱだから、遠くのほうまで見通しだもの。後へ引っ返したら、あの男は先へ行ってしまって、もっとひどい行き違いに

    なるかもしれない。こりゃ先へ行った方がいい、 宿で一緒に落ち合うかもしれない】

     次の村へ着くと、もしこういうおじいさんがここへ来たら、同じ百姓家へ連れて来てくれ、 と小頭に頼んでおきました。 

  エリセイはその宿にもやってきませんでした。 エフィームはまた先へ立って行き、1人1人の者に、こうこうしたはげ頭のじいさんを見なかったかと、訊ねてみましたが、誰も見かけた人はありません。 エフィームはあきれて、旅を続けました。

             【まあ、どこかオデッサあたりか、それとも船の中で落ち合うだろうよ】

    と思って、もう考えるのを止めてしまいました。 途中、1人の巡礼と一緒になりました。 巡礼は平の僧服を着て、僧帽をいただき、髪を長く伸ばしていました。 アトスにも行ったことがあって、今これで二度目にエルサレムへおもむくところでした。

ある泊で一緒になって、いろいろ話込んだ後、道連れになったのです。

 オデッサへ着くまでは無事でした。 二人は三昼夜の間汽船を待ちました。 大勢の巡礼が待ち合わせていましたが、

みんな種々雑多の所から集まったのです。 ここでもエフィームはエリセイの事を聞きましたが、誰一人見受けた者がありません。

    エフィームは外国の旅行免状をもらいましたが、五ルーブリでした。それから往復の船賃に四十ルーブリ払い、途中で食べるパンや

ニシンを買いました。 やがて船の積み荷もすんで、巡礼達は本船に運ばれました。 エフィームと旅層も乗り込みました。

錨が上げられて、船は岸を離れ、沖へ出て行きました。 その日は無事に航海しましたが、夕方になって風が起こり、雨が降り出して、船は揺れ始め、波が甲板を洗い出しました。みんなは騒ぎ立って、女は大きな声で泣き出すし、男でも意気地のなのは、

安全な場所を探して、船の中をかけ回るのでした。  エフィームも臆病風にさそわれましたが、それを色にも出しませんでした。

 船に入るとすぐタムボフの百姓たちと一緒に床に座りましたが、そのままの姿勢でその夜ひと夜、あくる日いちんち座っていました。 ただ自分の袋だけ抱え込んだだけで、何一つ言いませんでした。 三日めにやっと海が静かになって、

五日めにコンスタンチノープルに着きました。

       巡礼の中には上陸して、今トルコ人に占領されている聖ソフィアの伽藍(がらん)を見物に行った者もありますが、エフィームは上陸しようとせず、船の中に残っていました。 ただ白いパンを買ったばかりです。 一昼夜停泊したのち、船はまた沖へでました。 スミルナの港に寄港し、それからアレクサンドリアの港に寄って、いよいよヤッファの港へ着きました。

  ヤッファでは巡礼が残らず上陸しました。 エルサレムまで歩いて七十露里です。 上陸の時、みんなはまた怖い思いをさせられました。

  高い汽船の甲板から下の艀(はしけ)へほうり出されるのですが、艀がゆらゆら揺れているので、うっかりすると艀からそれて、水の中へ落ち込む恐れがあります。 二人だけずぶぬれになりましたが、とにかく無事に上陸しました。 上陸すると、みんな歩いて出掛けました。

    三日目の昼頃エルサレムへ着き、町はずれのロシア人の宿所へ足を止めて、旅行免状に裏書をしてもらい、食事をすまして

 旅僧と二人で聖地巡りに出掛けました。 一番肝心なキリストのお棺は、まだ見せてもらえなかったので、大主教修道院へお参りしたところ、 参詣者一同中へ通されましたが、男と女は別々の席でした。 履き物を脱がされ、車座に座らされました。 

 すると、一人の僧がタオルを持って出て来て、みんなの足をふきはじめました。 ふき終わると接吻(せっぷん)するという風で、みんな一順しました。

    エフィームも足を拭いて接吻してもらいました。 晩祈禱、朝祈禱をつとめあげて、お祈りをし、ろうそくをあげ、死んだ両親の

供養に寄進をしました。 そのとき、お食事(とき)をいただき、ブドウ酒も出されました。 すっかり夜が明けてから、エジプトのマリアのこもっていたという 庵室(あんしつ)へ行き、ろうそくを供えて、祈?をあげました。 そこからアブラハムの修道院へ

回り、アブラハムが神様の為に我が子を差し殺そうとしたサヴェクの園を見ました。 それからキリストがマグダラのマリアに

姿を現した場所へ行き、主の兄ヤコブの教会へもまいりました。 旅僧は一つ一つの場所を案内して、ここではいくら、あすこでは

いくらと、寄進する金の高を教えるのでした。昼頃宿所へ帰って、食事をしました。 やっと寝仕度を始めた時、

旅僧はアッと言って、自分の着物をあちこちと調べ始めました。

       「私は金入れを盗まれた、二十三ルーブリあったんだがな。 十ルーブリ札が二枚に、細かいものが三ルーブリ」

   旅僧は散々愚痴(ぐち)をこぼしましたが、どうもしかたがありません、一同寝床にはいりました。

                   

         (九)

                    

       エフィームは寝床へ入りましたが、ふと心に迷いが起こりました。

               【あの旅僧は金を盗まれやしないんだ。 初めっから金なんか無かったらしい。 どこでも寄進しなかったからなあ。

 わしにばかり出せと言って、自分じゃ出さなかった。 おまけに、わしから一ルーブリ借りたくらいだ】 と思いました。

  エフィームはそう思いながら、自分で自分を責めるのでした。

              【何だってわしは人を責めたりなどするのだ、これは罪なことじゃないか。 もうこんなことは考えまい】 やっと忘れかけたかと思うと、またしても旅僧が金にばかり目を付けていることや、金入れを盗まれたと言った様子のそらぞらしかったことや、

そんな事ばかり思い出されるのです。

              【いや、金なんか無かった、あれはただ人の目をごまかすためだ】

   夕方みんなは起き出して、復活大寺院で早めにある祈?式へ出掛けました。 それはキリストの棺のあるところです。 

旅僧はエフィームのそばを離れないで、一緒に並んで行きます。 お寺に着きました。 巡礼の人達は、ロシア人の他、ギリシャ人、アルメニア人、トルコ人、シリア人、ありとあらゆる国の人が大勢集まっていました。 エフィームも人々とともに聖門へさしかかりました。

   一人のお坊さんが案内役でした。トルコ人が番をしているそばを通り抜けて、キリストが十字架から降ろされ油を塗られたと言う、

九つの大燭台のともっている所へ案内されました。坊さんはいちいち残らず見せて、説明しました。エフィームはろうそくを一本供えました。 それから、坊さんは右手の階段を昇って、磔(はりつけ)の十字架の立てられたと言うゴルゴタへ、エフィームを案内しましたので、エフィームはそこでしばらくお祈りをしました。 それからエフィームは、大地が地獄まで裂けていると言う割れ目を見せられ、次にキリストが手足に釘を打たれたと言う場所、その次にキリストの血がアダムの骨にかかったと言う、アダムの棺を見せられました。

   それから、キリストが荊(いばら)の冠をかぶせられるときに腰掛けたと言う石や、キリストが鞭(むち)で打たれるときに縛り付けられたと言う柱にも案内されました。 それから、エフィームはキリストの足にはめられたという二つの穴の開いた石も

見物しました。 その他まだ何か見せようとしましたが、みんなが急いだので、キリストの棺を納めてある洞穴へ足を早めました。

 そこでは、別の宗派の式がすんで、ロシア正教の祈禱式が始まったところでした。 エフィームはみんなと一緒に洞穴の方へ行きました。 エフィームは旅僧から離れようとしました。  終始心の中で、旅僧に罪の深い疑いを持っていたのです。    

 が、 旅僧は少しもそばを離れようとしないで、キリストの棺の前の祈?式にも一緒に出かけたのです。 二人はなるべくお棺の近くに立ちたいと思いましたが、もう間に合いませんでした。 群衆がひしひしと詰めかけているので、前に出ようにも後へ引こうにも、身動きが出来ません。エフィームはじっと立ったまま、じっと前を見つめてお祈りをしていましたが、ともすると、財布は無事かと探って見るのでした。

   エフィームの心は二つに分かれていました。 一方では、旅僧が自分をだましているのだと考え、また一方では、もしうそではなく本当に盗まれたのだとすれば、どうか自分も同じ目にあわないように、と考えるのでした。

                      

               (十)

      

           エフィームはこうして立ったまま、お祈りをしながら、主のお棺のあるお堂の前の方、三十六のお燈明のもえている所を眺めていました。エフィームがじっと立って、人の頭越しに眺めていますと、なんという不思議! ありがたい火の燃えているお燈明の

すぐ下の、誰よりも一番前の所に、粗末な百姓の外套を着た小柄な老人が見えるではありませんか。 頭は一面つるりとはげて、

エリセイ・ボードロフにそっくりそのままなのです。

         【エリセイに似ているぞ。 しかし、エリセイであるはずがない! あれがわしより前に着くわけがないもの。

   前の汽船は一週間先に出たんだから、あれがわしの先を越すはずがない。 それに、わしらの乗った船にもいなかった。

   わしは巡礼達を一人残らず見たんだもの】  と考えるのでした。

   エフィームがそう思うや否や、小柄な老人はお祈りを始め、三度頭を下げました。  一度は正面の神様の方へ、それから左右にいる

ロシア正教の人達に向かってお辞儀をしたのです。 小柄な老人が右側へ頭を向けた時、エフィームははっきりとその顔を見分けました。 やっぱりそうです。エリセイに違いありません。 黒っぽいちぢれたあごひげ、頬のごま塩ひげ、それに眉も、目も、鼻も、

何から何まであの男のおもざしです。 エリセイ・ボードロフに違いありません。 仲間が見つかったので、エフィームは大喜びでしたが、どうしてエリセイが自分より先に着いたのかと、不思議でたまりませんでした。

           【いよう、ボードロフ、いったいどうしてあんな前に出られたんだ! きっと誰かうまい人間と知り合って、手引きして

    もらったんだろう。 ひとつ出口であの男をつかまえて、坊さん姿をした巡礼をまいて、あの男と一緒に歩く事にしよう。

    ひょっと、前の方へ手引きしてくれるかもしれん】と考えました。

 で、万が一エリセイを見逃してはと、エフィームは終始その方ばかりをみていました。 やがて祈禱式もすんで、群衆がざわつき

だし、十字架の接吻が始まり、押し合いへし合いになって、エフィームは脇の方へ押し出されてしまいました。 またしても

エフィームは、ひょっと財布を押え、ただ少しでもゆっくりしたところへ出ようと、人をおし分け始めました。 ようやくゆっくりした所へ出て、すぐその寺の中をさんざん歩き回って、エリセイを探しました。 そのお寺にあるほうぼうの庵室でも、いろんな人を

大勢見ました。 すぐその場で、弁当を食べたり、何か飲んだり、眠ったり、本を読んだりしています。 が、 エリセイはどこにもいませんでした。 エフィームは、宿所へ帰ってみましたが、仲間は見つかりませんでした。 その晩、旅僧は帰って来ませんでした。 何処かへ姿をくらまして、あの一ルーブリも返してくれずじまいでした。エフィームは、一人ぼっちになりました。

     あくる日、エフィームは、またキリストのお棺を拝みに、タムボフから来た老人と一緒に出掛けました。 船の中で一緒になったのです。 前の方へもぐり出ようとしましたが、また押しのけられて、柱の傍に残り、お祈りを始めました。 ふと前に方を見ると、また一番前のお燈明の下、キリストの棺の傍に、エリセイが立っています。 祭壇の傍で坊さんの様に両手を広げて、頭いっぱいの

はげを光らせているのです。

              【よし】とエフィームは考えました。  【今度こそ見逃さないぞ】

  人を押し分けて、前の方へ出て行きました。 やっと前へ出たと思うと、エリセイの姿が見えません。 どうやら、帰って

しまったらしい。 三日目に、またキリストの棺の傍を見ると、一番目に立つ一番の上座にエリセイが立って、両手を広げたまま、

頭の上に何か見えでもするように、上の方を見ています。 今度も頭いっぱいにはげが光っているのです。

            【よし】とエフィームは考えました。  

   【今度こそのがしゃしない。出口へ行って立っていよう。あすこなら、

    もう行き違いに なることはあるまい】

      エフィームは表へ出て、いつまでもじっと立っていました。 半日立ち続けて、群衆は出てしまいましたが、エリセイの姿は

見えません。

      エフィームはエルサレムに六週間逗留して、べテレヘムにも、ベタニアにも、ヨルダン川にも、至る所に行ってみました。

そして、キリストの棺の傍では、新しいルバシーカに判を押してもらったり(それを着て葬ってもらうためなのです)ヨルダン川の

水を小さい瓶に入れたり、エルサレムの土を取ったり、ありがたい火の燃えていたろうそくをもらったり、八か所で永大供養に名前を書き入れてもらったりして、 金をすっかり使い果たし、やっと帰りの旅費だけ残りました。 そこで、エフィームは家路に向かいました。 ヤッファまでたどり着くと、汽船に乗って、オデッサへ着き、今度は歩いて我が家へ向かいました

                  

             (十一)

                       

                        エフィームはたった一人で、同じ道を歩き出しました。 我が家近づくにしたがってまたしても、家では自分の留守に

 どうして暮らしているかと言うことが、ふと心配になってきました。

              【一年の間にゃ、ずいぶん変わった事だろうな。 一軒の家の身上をこしらえるのは一生の仕事だが、身代限りをするのに

    手間暇かかりゃしない。わしの留守に、せがれはどんな風に家の仕事をしたか、春の始まりはどうだったか、

    牛や馬はどんな風に冬を 越したか、新しい家はいいつけどうりに出来上がったか?】と考えるのでした。

   やがて、エフィームは去年エリセイと別れた村近くにたどり着きました。 その辺の人達は見違えるばかりでした。 去年あれほど

困っていた人達は、今だれもかれもなに不自由なく暮らしています。 畑の作物も良く出来ていました。 みんなすっかり取り返して、以前のつらいことなど忘れているのでした、夕方、去年エリセイが自分から離れて言った村に差し掛かりました。

村へ入るが早いか、ルバシーカを着た娘が、一軒の家から飛び出しました

                【おじさん! おじさん! うちへ寄ってちょうだい」

     エフィームは通り過ぎようとしましたが、娘はすそを捕まえて放そうとせず、家の方へ引っ張って行きながら、笑っています。

 入口の階段に、男の子を連れた女が出て来て、やはり小手招きしています。

                 【おじいさん、寄って夜食をしていらっしゃい。 そして泊まっていらっしゃいな】でエフィームは中へ入いりました。

                 【ついでにエリセイの事を聞いてみよう。 あの時あの男が水を飲みに寄ったのは、どうやらこの家らしい】

  エフィームが部屋に入ると、女は肩の袋を下ろし、からだを洗う水を出して、テーブルにつかせました。牛乳や麦団子を出し、

おかゆをテーブルの上に乗せました。エフィームは礼を言って、巡礼を接待するのは感心だと言って、家の人達を褒めました。

すると、女は頭を振って、

               【私たちは巡礼の人達を接待しないではいられません。私たちはある巡礼の人から、此の世の中と言うものを

     教えて貰ったんですもの。私たちは神様のことを忘れて暮らしていたものですから、神様の罰が当たって、

     みんな死ぬるのを待つばかりでした。とどのつまり去年の夏は、みんな病気になってしまって、食べるものさえなくなり

     ました。私たちはもう死ぬところでしたが、神様がお前さんと同じようなおじいさんを、わたしどもへおつかわしになり

     ました。 お昼ごろに、水を飲みに家へ寄ったところ、わたしどもの様子を見てかわいそうに思い、そのまま家にいつい

     てしまったのです。 それから、私どもに飲ませたり食わせたりして、とうとう 起きられるようにしてくれたうえ、

     土地を買ったり、荷車と馬を買ってくれたりしてあと、ぷいと行ってしまったんですもの】

     家の中へおばあさんが入って来て、女の言葉を遮りさえぎりました。

                  【私どもは自分でも、あれが人間だったのか天使だったか分からないくらいですよ。 誰もかれもかわいがり、誰もかれ

     もかわいそうに思って、そのあげく、何んにも言わずに行ってしまったんですからねえ、いったい誰のことを神様に

     お祈りしたらいいのか、訳が分かりません。 今でも目の前に見るようですが、私は横になって、お迎えを待っていました

     が、ふと見ると、何のへんてつのない、はげ頭のおじいさんが、水を飲みに入って来ました。 それなのに、私は罪が深い

     者ですから、何をそこでうろうろしているのだと考えました。 ところが、その人は今言ったような事をして下さったので

     す! 私達の様子をみると、いきなり背中の袋を下ろして、 そら、ここん所へ置いて、紐をといたんですよ】

         女の子も口を入れました。

                 【いいえ、おばあさん、はじめ部屋の真ん中へ袋をおろして、それから床几の上に乗せたんだよ】

     こうして、みんなが口々に遮りながら、その男の言ったことや、したことを数え立て始めました。 何処に座ったとか、

何処で寝たとか、何をしたとか、誰に何と言ったかということなのです。 夜になって、亭主が馬で帰って来て、やはりエリセイの

事を言いだし、自分の家でどんな風に暮らしたか、と言うことを話し聞かせました。

                  【もしあの人が来てくれなかったら、わしらはみんな罪を抱えたまま死んでしまったところです。 わしらは何の望みも

      無く、神様にも人にも恨みを言って、死にかかっていたところ、あの人がみんなを達者にしてくれたので、わしらは

      あの人のおかげで神様も知るし、親切な人を信じるようになりました。 キリストさま、どうかあの人を守ってください

      まし! その前は畜生みたいな暮らしをしていたのに、あの人がわしらを人間にしてくれたのだからなあ】

     一同はエフィームに飲んだり食わせたりさせて、床の中へ入れた後、自分でも寝てしまいました。

エフィームは横になっていましたが、寝付かれません。 エリセイの事が   エルサレムで三度もエリセイを上座で見たことが、

頭から離れないのでした。

                   【そうだ、あの男はここで俺を追い越したのだ! わしの骨折りは神様が受けてくださったかどうか知らないが、

      あの男は神様に受けてもらえたのだ】 

 あくる朝、家の人はエフィームに別れを告げ、途中で食べろと言って、袋の中へ肉饅頭を入れた後仕事に出かけました。

 で、エフィームは旅路にのぼりました。

 

              (十二)

                   

     エフィームはちょうど一年、旅で暮らして、春の初めに家へ帰りました。 我が家についたのは夕方でした。

  息子は家にいませんでした。 居酒屋へ行っていたのです。 やがて息子が一杯機嫌で帰って来たので、エフィームはいろいろの

 事を 聞いてみましたが、留守の間に息子が無駄使いしたことが、何から見ても間違いありません。 金はみんな悪いことに

 使って、仕事も投げやりにしていたのです。 父親が小言を言いだすと、息子は悪態をつくのです。

                    【お前が自分でやったら良かったんだ。 それなのに、お前は巡礼何かに出掛けて、おまけに金まで持って行ったくせに、

                        俺を責めるんだからな】

      老人は腹を立てて、息子をなぐりました。

 あくる朝、エフィーム・タラースイチは、息子の事を相談に組かしらの所へ出掛けた途中、エリセイの家のそばを通りかかりました。すると、エリセイの女房が入り口の階段に立っていて、挨拶をしました。

                   【ごきげんよう、おじいさん、無事に行って来なさったかね?】

     エフィームも足を止めて、

                  【おかげで無事に行って来たよ。途中でお前んとこのおじいさんにはぐれたが、聞けば、もう帰って来たそうだね】

      すると、おばあさんはしゃべりだしました。話し好きなのでした。

                   【帰って来たよ、おじいさん、とっくに帰って来たよ。 聖母昇天祭がすんでから、間もなく帰って来たよ。 

      神様のお陰で無事に 帰って来たので、わしらはもう大喜びだったよ! あの人がいないと寂しいもんだからね。 

      もう年が年だから、たいした働きもしてもらえないけれど、何と言っても一家のあるじだから、みんなうきうきするわけ

      さね。わけても息子がどんなに喜んだやら!

       父っあんがいないと、目の中の光が消えたようだ、と言ってね。 あの人がいないと寂しいんだよ、おじいさん、

      わしらはあの人がとても好きで、大切に思っているからね】

                  【どうだね、今うちにいるかね】

                       【いるよ、おじいさん、蜜蜂小屋で小蜂を分けているよ。 今年はいい群れが出来たって話だ。 神様のおかげで、

      蜂はじいさんも覚えがない程の元気だってよ。 わしらが罪をつくらなかったから、神様が授けて下さったのだ、

      と言ってね。 まあ、おじいさん、寄って行きなさい、どんなに喜ぶか知れないから】

   エフィームは廊下から背戸へ出て、蜜蜂小屋のエリセイの所へ行きました。 蜜蜂小屋へは入ってみると、エリセイは頭に網も

かぶらず、手袋もはめないで、灰色の長外套を着て白樺の下に立ち、両手を広げて上の方見ていましたが、ちょうどエルサレムの

キリストのお棺のそばと同じように、頭いっぱいにはげ光っていました。 その頭の上では、やはりエルサレムで見たのと同様に、

お日様が白樺の葉ごしに光って、まるで火が燃えているようです。 頭の回りに、金色の蜜蜂が冠のような形に群がって、

飛び回っているのですが、刺そうとはしません。 エリセイの女房は亭主に声をかけました。

                    【おじいさんが来たよ!】

  振り向いたエリセイは、大喜びでエフィームの方へ行きながら、あごひげの中へもぐりこんだ蜜蜂をそっとつまみ出しています。           【ごきげんよう、おじいさん    無事に行って来たかね?】

                     【足だけは行って来た、ヨルダンのお水もお前の土産に持って帰ったよ。 家へ寄って持って行きなさい。 だが、

                        神様はわしの骨折りを受けてくださったかどうか     】

                      【いや、それはおめでとう、どうか神様のお守りがありますように】

       エフィームはしばらく黙っていましたが、

      【足は行って来たが、魂は行ったかどうか、誰か他の人かもしれない ・・・・・・・・】

                        【何事も神様のおぼしめしだよ、おじいさん、神様のおぼしめしだよ】

                       【それから帰り道に、お前のはぐれたあの家に寄ってみたよ・・・・・・・・】

     エリセイはびっくりして、あわててこう言いました。

                        【何事も神様のおぼしめしだよ、おじいさん、何事も神様のおぼしめしだよ。まあ、ちょっと家へ寄って行きなさい、

                         蜜を持って行くから】

         エリセイはその話をもみ消して、世帯向きの事を言いだしました。

  エフィームはほっと吐息をついて、あの百姓家の人達の事も、エルサレムで見たことも言いませんでした。 その時こういうことを

 悟ったのです。 それは他でもない、この世では1人1人のものが死ぬるまで、自分のつとめを愛と善行で果たさなければならぬ、

 それが神様のおいいつけなのだ、ということでした。

 

  トルストイ民話集 1886年「ポスレードニック」にて発表。

  小さい悪魔がパンきれのつぐないをした話

  ある貧乏な百姓が、朝飯を食べないで畑を耕し出ていったが、その時、うちから、パンきれを一つお弁当に持って行った。

  百姓は犂(すき)を裏返して、木栓をはずし、それをやぶの下に置いて、その上にパンきれを乗せると、上着をかぶせた。

 やがて馬は疲れ、百姓も空腹をおぼえてきた。

  百姓は犂を地面に突きさし、馬をといて、草を食べるようにはなしてやってから、自分は上着のほうへ、弁当をつかいに行った。<

   百姓は上着をもち上げてみた。・・・・・ パンがない。 彼はそこいらじゅうをさがしまわり、上着を裏返したり、ふるったり

してみたが、パンきれはなかった。百姓は驚いた。 

    【なんておかしなことだろう】

 と彼は考えるのだった。

                【だれも来た様子はなかったのに、だれやらパンきれを持って行ってしまった】 

 ところがこれは、百姓が畑を犂いているまに、小悪魔がパンきれを盗み出し、やぶのかげに隠れて、百姓がどんなにか怒って

悪態をつき、かれ 悪魔を呼びだすだろうと、聞き耳を立てていたのだった。

   百姓は少々がっかりした。

                 【まあええわい】 

 と彼は言った。 

    【まさか飢えて死ぬこともあるめえ! あれを盗んで行った者には、どうでもあれが入り用だったにちげえねえ。 

     まあたべさしておくがいいや!】

    そして百姓は、井戸のほうへ行き、水をたらふく飲んで、一服すると、馬をとらえて犂をつけ、また耕作をはじめた。

 小悪魔は、百姓をうまく罪におとすことができなかったのに狼狽して、その話をしに、大悪魔のところへもどって行った。

大悪魔の前へでると、彼は、自分が百姓のパンきれを盗んでやったのに、百姓は悪口するかわりに、かえって祝福するようなくちぶり

だったことを報告した。 親分の大悪魔は、たいへんに怒って言った。  

  【もし百姓がそんなことでお前に勝ったとすると、それはみなおまえの罪じゃ   おまえのやり方が悪いからじゃ。 

    もし百姓たちや、それにつれて女房たちにまで、そうした習慣をつけられてしまうと、おれたちは仕事がなくなって、

    生きてゆくみちがなくなってしまう。 どうあってもこれは、このままにはしておけない! 

                もう一度百姓のところへ出かけて、そのパンきれのつぐないをしてこい。 もし三年の間に、きさまがその百姓に勝つことが

                できなかろうものなら、きさまを聖水の中にぶち込んでやるぞ!】

    小悪魔はびっくりして、地上へ駈けもどると、そこで、どうして自分の罪をつぐなったらいいか、その方法を考えはじめた。

そしていろいろと考えたあげく、やっとうまいことを思いついた。

    小悪魔はそこで、律気そうな男に化けると、貧乏な百姓のところへ、住み込んだ。 そして、ひでりつづきの夏を見越して、

百姓に、沼地へ種子をおろすことを教えた。 百姓は作男のいうことをきいて、沼地へ種子をおろした。

 と、ほかの百姓のところでは、何もかもが日にやかれて枯れてしまったのに、貧乏な百姓のところでは、よくふとった、背の高い、穂のいっぱいに実った穀物ができた。

 で、百姓は、つぎの取入れ収穫(とりいれ)までそれを食べても、まだたくさんの穀物があまったくらいだった。 つぎの夏には、

作男は百姓に、丘の上へ種子をおろすことをすすめた。 と、 その夏は、非常に雨の多い夏であった。

    ほかの人たちのところでは、作物がみな倒れたり、雨にむれたりして、いっこうに実らなかったのに、この百姓のところでは、

丘の上の作物がみごとにみのった。 それで百姓の手もとには、またどっさりよぶんの穀物が残った。

百姓は、それを持て余してしまうくらいだった。そこで作男は百姓に、麦をつぶして酒を醸(かも)すことを教えた。 百姓は酒を醸すと、自分でも飲めば、他人にも飲ませはじめた。

     小悪魔は親分の大悪魔のところへ行って、パンきれのつぐないをしたことを、手がら顔に吹聴(ふいちょう)した。

大悪魔はその検分に出かけて行った

 百姓の所へ来て見ると、百姓は、金持ちの百姓たちを招いて、酒を振舞っているところであった。 女房が御客たちに酒の

給仕をしていた。 テーブルを回ろうとする拍子に、彼女は着物をひっかけて、コップを倒した。 百姓は怒って女房を叱りつけた。

        【気をつけろ、このばかめ! こんな上等なものをむざむざこぼしてしまうなんて、おのれはこれを捨水とでも思っているのか。

             この足まがりめが!】

       小悪魔は肱で大悪魔をつついた 

    【ごらんなさい、今じゃあもこの男も、パンきれを惜しまないじゃいませんよ】

 女房をさんざ𠮟りつけると、百姓は自分で給仕をはじめた。 そのとき、野良帰りの貧乏な百姓が、招かれもしないのにそこへ

 入って来た。 その男は挨拶をし、腰をおろして見ると、みんなが酒を飲んでいるので、自分も一杯飲みたくなった。 

野良仕事に疲れていたから、なおさらであった。 で、そこに居座ったまま、しきりに唾を吞み込んでいたが、主人はその男にすすめようともしないで、ただ口の中で、こう呟いた  

    【どいつにもこいつにも振舞ってたまるものか!】

    親分の大悪魔にはこの言葉も大変気に入った。 小悪魔は鼻をうごめかした。

                【まあ、見ていてごらんなさい。 仕事はまだまだこれからです】

   金持ちの百姓たちは、まず一杯の酒をあおり、主人も飲んだ。 彼らはお互いにお世辞を言い合ったり、ほめ合ったりして、

油でもひいたような、口から出まかせのおしゃべりをはじめた。 大悪魔は、一生懸命に耳をすまして聞いていたが、

この一条でも小悪魔をほめた。

          【もしこの飲み物のために、あいつらがこんなに狡猾になって、お互いをだまし合うものとすれば、もうあいつらはみんな

     こっちのものだ】

    と彼は言った。

                  【まあ見ていて下さい】

    と小悪魔は言うのだった。

                  【まだまだこれからですよ。 あいつらに、もう一杯飲ませて見ましょう。 あいつらは、いまこそ狐のようにお互いに

      しっぽを振って、ごまかし合っていますが、いまじきに、意地悪の狼のようになりますから】

  百姓たちは二杯目の酒をのんだ、と、  彼らの言葉はだんだん大声に、荒っぽくなってきた。

 油でもひいたようなお世辞のかわりに、彼らは悪態をつきだし、お互いに腹を立て合って、つかみ合いを始めたり、

鼻をつまみ合ったりしだした。 主人も喧嘩の仲間入りをして、みんなからひどくぶたれた。

大悪魔はじっとそれを見ていた。 彼にはこれも気に入った。

                  【こいつはいい】  と彼は言った。 ところが、小悪魔がすかさず答えるには・・・・・

                  【まだまだ、これどころじゃありませんよ! 奴らに三杯目を飲ませてごらんなさい。 いま奴らは狼のように怒っていま

      すが、もう少しして三杯目を飲むと、じき豚のようになってしまいますから】

   百姓たちは三杯目を飲んだ。 と、すっかり酔っ払ってくたくたになってしまった。 彼らは、自分でも何を言っているか

訳わからずに、ぶつぶつ言ったり、喚いたりしだして、お互いに人の言う事は耳にも入れない。 やがて彼らはそこを出、1人ずつ、あるいは二人、あるいは三人連れになって、村の通りをよろめいて行った。 主人も客を送り出して外へ出て来たが、

たちまち水だまりの中へ倒れ込んで、全身濡れ鼠になり、野豚のようにごろごろころがって、ぶうぶううなっている。

    これは、ますます大悪魔の気に入った。

             【うん、おまえはなかなかいい飲み物を発明した、これで立派にパンきれのつぐないはできたぞ。 だが、おまえはどうして

                 この飲み物を作ったのかね? おまえはきっとその中へ、まず狐の血を入れたのだろう・・・・・それで百姓どもは、

                    狼のように怒りっぽくなったのだ。 それから最後におまえは、きっと、豚の血を入れたのだな・・・・それで奴らは、

                     豚のようになったにちがいない】

                【 いいえ】

     と小悪魔は言った。

               【わたしはそんなことはしませんでした。 わたしはただあの男に、余分な穀物を実らせてやっただけですよ。 

     あれ・・・・・つまりこの獣の血は、いつでもあの男の中にあるものですが、あの男が入用なだけの穀物を作っていた

     あいだは、その血の出口がなかったのです。 その時分にはあの男は、もうそれきりしかないパンきれさえも

     惜まなっかた のですが、穀物のあまりが出来る様になると、

      何かいい慰みになる物はないかと考えだしました。 そこでわたしは、奴にひとつの慰み・・・・・

                     酒を飲むことを教えてやりました。 それで、あの男が神様の賜ものをつかって、自分の慰みのために酒を醸しだすが

     早いか、たちまちそのからだのなかに、狐や、狼や、豚の血がわき立ってきたのです。 で、今ではもう、あの酒を

     飲みさえすれば、いつでも獣になってしまうのです】

 大悪魔は小悪魔をほめて、パンきれの失敗をゆるしたうえ、身内の中でも頭分に取り立ててやった。

 

                           トルストイ 1886年「パスレ-ド発行の三つの話において。」

   杜子春

     ある日の夕暮れです。

    唐の都 洛陽(らくよう)の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。

 若者は名を杜子春(とししゅん)と言って、元は金持ちの息子でしたが、今は財産を使い尽くして、その日の暮らしにも困る位、

 哀(あわれ)な身分になっているのです。

     何しろその頃、洛陽と言えば、天下に並ぶものはない、繁昌(はんじょう)を極めた都ですから、往来にはまだしっきりなく、

 人や車が通っていました。 門いっぱいに当たっている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗(しゃ)の帽子や、

 土耳古(トルコ)の女の金の耳環(みみわ)や、白馬に飾った色糸の手綱(たずな)が、絶えず流れて行く容子(ようす)は、

 まるで画のような美しさです。

    しかし、杜子春は相変わらず、門の壁に身をもたせて、ぼんやり空ばかり眺めていました。 空には、もう細い月が、うらうらと

 靡(なび)いた霞(かすみ)の中に、まるで爪の痕(あと)かと思う程、かすかに白く浮かんでいるのです。    かすかに白く浮かんでいるのです。

      【 日は暮れるし、腹は減るし、その上もう何処へ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし・・・・・

    こんな思いをして生きている位なら、いっそ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない】

      杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめも無いことを思いめぐらしていたのです 。

するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇(すがめ)の老人があります。 それが夕日の光を浴びて、

大きな影を門へ落すと、じと杜子春の顔を見ながら、

           【お前は何を考えているのだ】と、 横柄に声を掛けました。

           【私ですか。 私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです】

   老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答えをしました。

            【そうか。 それは可哀そうだな】

  老人は暫(しばら)く何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、

            【ではおれが好(い)いことをひとつ教えてやろう。 今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、

    その頭に当たる所を夜中に掘って見る好い。 きっと車一ぱいの黄金が埋まっている筈だから】

            【本当ですか】

  杜子春は驚いて、伏せていた眼を挙げました。 ところが更に不思議なことには、あの老人は何処へ行ったか、もう辺りには

それらしい、影も形も見当たりません。 その代わり空の月の色は前よりも猶白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠(こうもり)が二三匹ひらひら舞っていました。

 

               (二)

                       

       杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人という大金持ちになりました。 あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、

その頭に当たる所を、夜中にそっと掘ってみたら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。

     大金持ちになった杜子春は、すぐに立派な家を買って、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮らしを始めました。

 欄(らん)陵(りょう)の酒を買わせるやら、桂州(けいしゅうの竜眼肉(りゅうがんにく)を取り寄せるやら、

日に四度(よたび)色の変る牡丹(ぼたん)を庭に植えさせるやら、白孔雀を何羽も放し飼いにするやら、玉を集めるやら、錦を縫わせるやら、香木(こうぼく)の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂(あつら)えるやら、その贅沢を一々書いては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。

     するとこう言う噂(うわさ)を聞いて、今までは路で行き会っても、挨拶さえしなかった友達などが、朝夕遊びにやって

来ました。

  それも一日毎に数が増して、半年ばかり経(た)つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ

来ないものは、1人もない位になってしまったのです。 杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。 その酒盛りの又盛んなことは、中々口には尽くされません。 極(ごく)かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の盃に西洋から来た葡萄酒(ぶどうしゅ)を汲んで、天竺(てんじく)生まれの魔法使が刀を吞(の)んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠(ひすい)の蓮(はす)の花を、十人は瑪瑙(めのう)の牡丹(ぼたん)の花を、いずれも髪に飾りながら、

笛や琴を節(ふし)面白く奏していると言う景色なのです。

    しかしいくら大金持ちでも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏に

なり出しました。 そうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友達も、今日は門の前を通ってさえ、挨拶一つして行きま

せん。 ましてとうとう三年目の春、又 杜子春が以前の通り、一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中には、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。 いや、宿を貸すどころか、今では碗に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。      そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。

 

                  【お前は何を考えているのだ】 と、声を掛けるではではありませんか。

    杜子春は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いたまま、暫(しばら)くは返事もしませんでした。 が、 老人はその日も

親切そうに、同じ言葉を繰り返しますから、こちらも前と同じように、

                  【私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです】 と、恐る恐る返事をしました。

                  【そうか。 それは可哀想だな。では俺が好いことを一つ教えてやろう。 今この夕日の中へ立って、お前の影が地に

     映ったら、その胸に当たる所を、夜中に掘って見るが好い。 きっと車いっぱいの黄金が埋まっているはずだから】

   老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、かき消すように隠れてしまいました。

 杜子春はその翌日から、忽(たちま)ち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変わらず、し放題な贅沢をし始ました。 

庭に咲いている牡丹の花、その中に眠っている白孔雀、それから刀を吞んで見せる、天竺から来た魔法使・・・・・

・・・全てが昔の通りなのです。

 ですから車にいっぱいにあった、あの夥(おびただ)しい黄金も、三年ばかり経つ内には、すっかりなくなってしまいました。

                        

                   (三)

                 

         【お前は何を考えているのだ】

       片目眇めの老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問掛けました。 勿論(もちろん)彼はその時も、洛陽の西の門の下に、

 ほそぼそと霞(かすみ)を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやり佇(たたず)んでいたのです。

                   【私ですか。 私は今夜寝る所もないので、どうようかと思っているのです】

                   【そうか。 それは可哀そうだな。 ではおれが好いことを教えてやろう。 今この夕日の中へ立って、お前の影が地に

      映ったら、その腹に当たる所を、夜中に掘って見るが好い。 きっと車に一杯の・・・・・】

    老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮(さえぎ)りました。

                   【いや、お金はもういらないです】

                   【金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな】

  老人は審(いぶか)しそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。

                   【何、贅沢に飽きたのじゃありません。 人間というものに愛想(あいそ)がつきたのです】

       杜子春は不平そうな顔をしながら、突慳貧(つっけんどん)にこう言いました。

                   【それは面白いな。 どうして又人間に愛想が尽きたのだ?】

                   【人間は皆薄情です。 私が大金持になった時には、世辞も追従(ついしょう)もしますけれど、一旦貧乏になって

     御覧なさい。柔(やさ)しい顔さえもして見せはしません。 そんなことを考えると、たといもう一度大金持ちになった

     ところが、何もならないような気がするのです】

       老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。

                  【そうか。 いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。 ではこれからは貧乏しても、安らかに暮らして

     行くつもりか】

    杜子春はちょいとためらいましたが。 が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、

                  【それも今の私には出来ません。 ですから私はあなたの弟子になって、仙術(せんじゅつ)の修行をしたいと

     思うのです。いいえ、隠してはいけません。 あなたは道徳の高い仙人でしょう。 仙人でなければ、一夜の内に私を

     天下第一の大金持ちにすることは出来ない筈です。 どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい】

 老人は眉(まゆ)をひそめたまま、暫くは黙って、何事か考えているようでしたが、やがて又にっこり笑いながら、

                  【いかにも俺は峨眉山(がびさん)に棲(す)んでいる、鉄冠子(てつかんし)という仙人だ。 始めお前の顔を見た時、

     どこか物分かりが好さそうだったから、二度まで大金持ちにしてやったのだが、それ程仙人になりたければ、

     おれの弟子に取り立ててやろう】

     と、快く願いを容(い)れてくれました。

 杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。 老人の言葉がまだ終わらない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に

 御時宜(おじぎ)をしました。

                 【いや、そう御礼などは言って貰うまい。 いくらおれの弟子ににしたところが、立派な仙人になれるかなれないかは、

     お前次第で決まることだからな。・・・・・が、ともかくもまずおれと一緒に、峨眉山の奥へ来てみるが好い。

     おお、幸い、ここに竹杖が一本落ちている。 では早速これへ乗って一飛びに空を渡るとしよう】

   鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口の中に呪文(じゅもん)を唱えながら、杜子春と一緒にその竹へ、馬にでも

乗るように跨(またが)りました。 すると不思議ではありませんか。 竹杖は忽(たちま)ち竜のように、勢(いきおい)よく

大空へ舞い上がって、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました

 杜子春は胆(きも)をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。 が、下には唯青い山々が夕明(ゆうあか)りの底に見えるばか

りで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に紛れたのでしょう)何処を探しても見当たりません。 その内に鉄冠子は、

白い鬢(びん)の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱(うた)い出しました。

                     

                    朝(あした)に北海に遊び、 暮(くれ)には蒼梧(そうご)。

                      

                    袖裏(しゅうり)の青蛇(せいだ)、胆気粗(たんきそ)なり

                        

                    三たび岳陽に入れども、人識(し)らず。

                       

                   朗吟して、飛過(ひか)す洞庭湖どうていこ)。

                   

                       (四)

 

 二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞い下(さが)りました。

そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空(なかぞら)に垂れた北斗の星が、

茶碗(ちゃわん)程の大きさに光っていました。 元より人跡(じんせき)の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、

やっと耳にはいるものは、後(うしろ)の絶壁に生えている、曲がりくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。

二人がこの岩の上にくると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に座らせて、

          【おれはこれから天上へ行って、西王母(せいおうぼ)に御眼にかかって来るから、お前はその間ここに座って、

   おれの帰るのを待っているが好い。 多分おれがいなくなると、いろいろな魔性(ましょう)が現れて、お前を

   たぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ころうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、

   お前は到底仙人にはなれないものだと 覚悟しろ。 好いか。 天地が裂けても、黙っているのだぞ】 

  と言いました。

        【大丈夫です。 決して声なぞは出しません。命がなくなっても、黙っています】

        【そうか。 それを聞いて、おれも安心した。 ではおれは行って来るから】

   老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨って、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。

杜子春はたった一人、岩の上に座ったまま、静かに星を眺めていました。 するとかれこれ半時(はんとき)ばかり経って、

深山の夜気が肌寒く薄い着物に透(とお)り出した頃、突然空中に声があって、

         【そこにいるのは何者だ】

  と、叱りつけるではありませんか。

しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにいました。

ところが又暫くすると、やはり同じ声が響いて、

            【 返 事をしないと立ちどころに、命はないものと覚悟しろ】

      と、いかめしく嚇(おど)しつけるのです。

 杜子春は勿論黙っていました。

 と、どこから登って来たか、蘭々(らんらん)と眼を火からせた虎(とら)が一匹、忽然(こつぜん)と岩の上に躍(おど)り

上がって、 杜子春の姿を睨(にら)みながら、一声高く哮(たけ)りました。 のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、

烈(はげ)しくざわざわ揺れたと思うと、後ろの絶壁の頂からは、四斗樽程の白蛇が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ

下りて来るのです。

   杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐っていました。

虎と蛇とは、一つの餌食(えじき)を狙(ねら)ってお互いに隙でも窺(うかが)うのか、暫(しばら)くは睨合(にらみあ)いの

体(てい)でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。 が虎の牙(きば)に嚙(か)まれるか、

蛇の舌に吞(の)まれるか、

  杜子春の命は瞬(またた)く内に、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失せて、後には唯、

絶壁の松が、さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。 杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起こるかと、心待ちに待っていました。

すると一陣の風が吹き起こって墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、

凄(すさま)じく雷(らい)が鳴り出しました。 いや、雷ばかりではありません。 それと一緒に瀑(たき)のような雨も、

いきなりどうどうと降り出したのです。

   杜子春はこの天候の中に、恐れ気(げ)もなく坐っていました。 風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、・・・・・・暫(しばら)くはさすがの峨眉山も、覆(くつがえ)るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな

雷鳴が轟(とどろ)いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、真っ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました

   杜子春はおもわず耳を抑えて、一枚岩の上へひれ伏しました。 が、すぐに眼を開い見ると、空は以前の通り晴れ渡って、向こうに

聳(そび)えた山々の上にも、茶碗ほどの北斗の星が、やはりきらきら輝いています。

 して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じ様に、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯(いたずら)に違いありません。 

杜子春は漸(ようや)く安心して、額の冷汗(ひやあせ)を拭(ぬぐ)いながら、又岩の上に座り直しました。

が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐っている前へ、金の鎧(よろい)着下(きくだ)した、身の丈(たけ)三丈も

あろうという、厳(おごそ)かな神将が現れました。 神将は手に三又(みつまた)の戟(ほこ)を持っていましたが、いきなりその戟の切っ先を杜子春の胸(むな)もとへ向けながら、眼を嗔(いか)らせて𠮟りつけるのを聞けば、

               【こら、その方は一体何者だ。 この峨眉山という山は、天地開闢(かいびゃく)の昔から、おれ住居(すまい)をしている

    所だぞ。それも憚(はばか)らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯(ただ)の人間ではあるまい。

                 さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ】

   と言うのです。

しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然(もくねん)と口を噤(つぐ)んでいました。

               【返事をしないか。・・・・・しないな。 好し。 しなければ、しないで勝手にしろ。 その代わりおれの

     眷属(けんぞく)たちが、その方をずたずたに斬(き)ってしまうぞ】

   神将は戟を高く挙げて、向こうの山の空を招きました。 その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲のごとく空に充満(みちみ)ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ なだれに攻め寄せようとしているのです。 この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。

    神将は彼が恐れないのを見ると、怒(おこ)ったの怒らないのではありません。

               【この強情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ】

     神将はこう喚(わめ)くが早いか、三又の戟を閃(ひらめ)かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。 そうして峨眉山も

どよむ程、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。 勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と

一緒に、夢のように消え失せた後だったのです。 

北斗の星は又寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。 絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らさせています。

 が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向(あおむ)けにそこへ倒れていました。

                     

                   (五)

                         

      杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静かに体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。

  この世と地獄との間には、庵決同(あんけつどう)という道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒(すさ)んでいるのです。 杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯木(こ)の葉のように、空を漂って行きましたが、やがて森羅殿(しんらでん)という額(がく)の懸った立派な御殿の前へ出ました。

 御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り捲いて、階(きざはし)の前へ引き据えました。

階の上には一人の王様が、真っ黒な袍(きもの)に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて噂に聞いた、

閻魔大王に違いありません。 杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへ跪(ひざまず)いていました。

         【こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ坐っていた?】

閻魔大王の声は雷(らい)のように、階の上から響きました。 杜子春は早速その問に答えようとしましたが、

ふと又思い出したのは、

       【決して口を利くな】

   という鉄冠子の戒めの言葉です。

 そこで唯頭(かしら)を垂れたまま、唖(おし)のように黙っていました。 すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏(しゃく)を

挙げて、顔中の髭(ひげ)を逆立てながら、

           【その方はここをどこだと思う? 速(すみやか)に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責(かしゃく)に

               遇(あ)わせてくれるぞ】 

    と、威丈高(いたけだか)の罵(ののし)りました。 が、杜子春は相変わらず唇(くちびる)一つ動かしません。 

それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に畏(かしこま)って、

忽(たちま)ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上がりました。

地獄には誰でも知っている通り、剣(つるぎ)の山や血の池の外にも、焦熱地獄という焔(ほのお)の谷や極寒(ごくかん)地獄

という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。

  鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春を抛(ほう)りこみました。 ですから杜子春は無残にも、

剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥(は)がれるやら、鉄の杵(きね)に

撞(つ)かれるやら、油の鍋(なべ)に煮えられるやら、毒蛇に脳味噌(のうみそ)を吸われるやら、熊鷹(くまたか)眼を食われるやら・・・・・その苦しみを数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる責苦(せめく)に遇わされたのです。

 それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言(ひとこと)も口を利きませんでした。

  これにはさすがの鬼どもも、呆(あき)れ返ってしまったのしょう。

もう一度夜(よる)のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、

さっきの通り杜子春を階の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、

     【この罪人はどうしても、ものを言う気色(けしき)がございません】 と、口を揃えて言上(ごんじょう)しました。 

   閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、

  【この男の父母は、畜生道(ちくしょうどう)に落ちている筈だから早速ここへ引き立てて来い】

 と、一匹の鬼に言いつけました。

 鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上がりました。 と思うと、又星が流れるように、二匹の獣(けもの)を駆り立てながら、

さっと 森羅殿の前へ下りて来ました。 その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。 

なぜかといえばそれは二匹とも、形はみすぼらしい瘦(や)せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。

   【こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いを

      させてやるぞ】

   杜子春はこう嚇(おど)されても、やはり返答をしずにいました。

     【この不幸者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合好ければ、好(い)いと思っているのだな】

    閻魔大王は森羅殿も崩(くず)れる程、凄(すさま)じい声で喚(わめ)きました。

       【打て。 鬼ども。 その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ】

     鬼どもは一斉に 

      【はっ】 

 と答えながら、鉄の鞭(むち)を取って立ち上がると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈(みれんみしゃく)なく

打ちのめしました。 鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌(きら)わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。

    馬は、・・・・・畜生になった父母は、苦しそうに身を悶(もだ)えて、眼には血の涙を浮かべたまま、見ていられない

程嘶(いなな)き立てました。

      【どうだ。 まだその方は白状しないか】

閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答えを促しました。 もうその時には、二匹の馬も、

肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階の前へ、倒れ伏していたのです。

  杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊(かた)く眼をつぶっていました。 するとその時彼の耳には、

殆(ほとんど)声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。

         【心配をおしでない。 私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。

         大王が何と仰(おっしゃ)っても、言いたくないことは黙って御出(おい)で】

   それは確(たし)かに懐かしい、母親の声に違いありません。 杜子春は思わず、眼をあきました。 そうして馬の一匹が、力なく

地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。

母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨(うら)む気色(けしき)さえも見せないのです。

  大金持ちになればお世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何と有難い志でしょう。 何という

健気(けなげ)な決心でしょう。 杜子春は老人の戒めも忘れて、転(ころ)ぶようにその側へ走りよると、

両手に半死の馬の頸(くび)を抱いて、はらはらと涙を落しながら、

         【お母(っか)さん】

 と 一声を叫びました。・・・・・・・・

                     

                ( 六)

                     

  その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇(たたず)んでいるのでした。

  霞(かす)んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、・・・・・すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。

            【どうだな。 おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい】

   片目眇めの老人は微笑を含みながら言いました。

           【なれません。 なれませんが、しかし私はなれなかったことも、反って嬉しい気がするのです】

    杜子春はまだ眼に涙を浮かべたまま、思わず老人の手を握りました。<br>

           【いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には

    行きません】

           【もしお前が黙っていたら・・・・・】

    と鉄冠子は急に厳(おごそか)な顔になって、じっと杜子春を見つめました。

            【もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。・・・・お前はもう仙人になりたいと

    いう望(のぞみ)も持っていまい。 大金持ちになることは、元より愛想がではお前はこれから後、何になったら好いと

    思うな】

          【何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです】

     杜子春の声には今までにはない晴れ晴れした調子が罩(こも)っていました。

   【その言葉を忘れるなよ。 ではおれは今日限り、二度とお前には遇わないから】

    鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、

             【おお、幸(さいわい)、今思い出したが、おれは泰山(たいざん)の南の麓(ふもと)に一軒の家を持っている。

    その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。 今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう】

    と、さも愉快そうにつけ加えました。

                   

       初版「赤い鳥」 1920年 (大正9年)7月号   芥川龍之介        

                      

  山月記

                        

                      隴西(ろうせい)の李徴(りちょう)は博学才頴(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、

 ついで江南尉に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏(せんり)に甘んずるを潔しとしな

 かっ た。

 

     いくばくもなく官を退いたのちは、故山、虢略(かくりゃく)に帰臥(きが)し、人と交わりを絶って、ひたすら詩作に

 耽(ふけ)った。

     下吏(かり)となって長く膝(ひざ)を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺(のこ)そうとしたので

 ある。

    しかし、文名は容易に揚がらず、生活は日を逐(お)うて苦しくなる。李徴はようやく焦燥(しょうそう)に駆られてきた。

 この頃からその容貌(ようぼう)も峭刻(しょうこく)となり、肉落ち骨秀で、眼光のみいたずらに炯々(けいけい)として、

 かつて進士に登第したころの豊頬(ほうきょう)の美少年の俤(おもかげ)は、どこに求めようもない。 

    数年ののち、貧窮(ひんきゅう)に堪(た)えず、妻子の衣食のためについに節を屈して、ふたたび東へ赴(おもむ)き、

 一地方の官吏の職を 奉ずることになった。 一方、これは、己の詩業に半ば絶望したためでもある。 

   かつての同輩はすでに遥(はる)か高位に進み、

 彼が昔、鈍物として歯牙(しが)にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才(しゅんさい)李徴の

 自尊 心をいかに傷つけたかは、想像に難くない。

    彼は怏々(おうおう)として楽しまず、狂悖(きょうはい)の性はいよいよ抑(おさ)えがたくなった。 一年ののち、公用で旅に

 出、汝水のほとりに宿ったとき、ついに発狂した。 ある夜半、急に顔色を変えて寝床から起き上がると、何か訳の分からぬことを

 叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駆け出した。 彼は二度と戻って来なかった。 附近の山野を捜索しても、なんの手掛

 かりもない。

    その後、李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。

 翌年、監察御吏(かんさつぎょし)、陳郡の袁傪(えんさん)という者、勅命(ちょくめい)を奉じて嶺南(れいなん)に使いし、

 途(みち)に邵於(しょうお)の地に宿った。

   次の朝いまだ暗い内に出発しようとしたところ、駅吏(えきり)が言うことに、これから先の道に人喰虎が出るゆえ、旅人は昼間

でなければ、通れない。 今はまだ朝が早いから、今少し待たれたがよろしいでしょうと。 袁傪は、しかし、供廻りの多勢なのを

恃(たの)み、駅吏の言葉を斥(しりぞ)げて、出発した。

    残月の光をたよりに林中の草地を通って行ったとき、はたして一匹の猛虎が叢(くさむら)の中から躍(おど)り出た。

虎は、あわや袁傪に躍りかかると見えたが、たちまち身を翻(ひるがえ)して、元の叢(くさむら)に隠れた。 

叢の中から人間の声で  【あぶないところだった】と繰り返し呟(つぶや)くのが聞こえた。 

その声に袁傪は聞き憶(おぼ)えがあった。

恐懼(きょうく)のうちにも、彼は咄嗟(とっさ)に思い当って、叫んだ。

            【その声は、わが友、李徴子ではないか?】

 袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少なかった李徴にとっては、

最も親しい友であった。 温和な袁傪の性格が、峻峭(しゅんしょう)な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。

叢の中からは、しばらく返辞がなかった。                

 しのび泣きかと思われる微(かす)かな声がときどき洩(も)れるばかりである。 ややあって、低い声が答えた。

               【いかにも自分は隴西(ろうせい)の李徴(りちょう)である】と。<br>

     袁さんは恐怖を忘れ、馬から下(お)りて叢に近づき、懐(なつ)かしげに久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)した。 

そして、なぜ叢から出て来ないのかと問うた。 李徴の声が答えて言う。 自分はいまや異類の身となっている。

どうして、おめおめと故人(とも)の前にあさましい姿をさらせようか。かつまた、自分が姿を現わせば、必ず君に畏怖嫌厭(いふけんえん)の<br>

                         情(じょう)を起こさせるに決まっているからだ。 どうか、ほんのしばらくでいいから、わが醜悪(しゅうあく)な今の外形を厭(いと)わず、かつて君の友李徴であったこの自分と話を交(か)わしてくれないだろうか。

 あとで考えれば不思議だったが、そのとき、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直(すなお)に受け容れて、少しも怪しもうと

しなかった。

    彼は部下に命じて行列の進行を停(と)め、自分は叢のそばに立って、見えざる声と対談した。 都の噂(うわさ)、旧友の消息、

 袁傪が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。 青年時代に親しかった者同士の、あの隔てのない語調で、それらが語られたのち、

 袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊(たず)ねた。 草中の声は次のように語った。

     今から一年ほど前、自分が旅に出て如水(じょすい)のほとりに泊まった夜のこと、一睡(いっすい)してから、ふと眼を

覚(さ)ますと、戸外で誰かがわが名を呼んでいる。 声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中からしきりに自分を招く。 

覚えず、自分は声を追うて走り出した。

    無我夢中で駆けて行くうちに、いつしか途(みち)は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫(つか)んで走っていた。

     何か、身体中に力が充(み)満ちたような感じで、軽々と岩石を飛び越えて行った。 気がつくと、手先や肱(ひじ)のあたりに

毛が生じているらしい。 自分は初め眼を信じなかった。 次に、これは夢に違いないと考えた。

   夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。 どうしても夢でないと悟らねば

ならなかった

      とき、自分は茫然(ぼうぜん)とした。 そうして懼(おそ)れた。 まったく、どんなことでも起こりうるのだと思うて、

深く懼れた。 しかし、なぜこんなことになったのだろう。 分らぬ。 まったく何事も我々には判(わか)らぬ。 理由も分からずに押付けられたものを大人(おとな)しく受取って、理由も分からずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。

      自分はすぐに死を想(おも)うた。 しかし、そのとき、眼の前を一匹の兎(うさぎ)が駈(か)け過ぎるのを見たとたんに、

自分の中の人間はたちまち姿を消した。 ふたたび自分の中の人間が目を覚ましたとき、自分の口は兎の血に塗(まみ)れ、あたりは兎の毛が散らばっていた。 これが虎としての最初の経験であった。 それ以来今までにどんな所行(しょぎょう)をし

続けてきたか、それはとうてい語るに忍びない。 ただ、一日のうちに必ず数時間は、人間の心が還(かえ)ってくる。 

 そういうときは、かつての日と同じく、人語も操れば、複雑な思考にも堪(た)えうるし、経書(けいしょ)の章句を誦(そら)んずることもできる。 その人間の心で、虎としての己(おのれ)の残虐(ざんぎゃく)な行いのあとを見、己の運命を振り返るときが、最も情けなく、恐ろしく、憤(いきどお)ろしい。

     しかし、その、人間にかえる数時間も、日に経(へ)るに従ってしだいに短くなっていく。 今まではどうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気がついてみたら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。 

これは恐ろしいことだ。

      今少し経(た)てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋(う)もれて消えてしまうだろう。 ちょうど、

古い宮殿の礎(いしずえ)がしだいに土砂に理没するように。 そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として

狂い廻(まわり)り、今日のように途(みち)で君と出会っても故人(とも)と認めることもなく、君を裂き喰うてなんの悔いも

感じないだろう。 いったい、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。 初めはそれを覚えているが、しだいに忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんなことはどうでもいい。 己の中の人間の心が

すっかり消えてしまえば、おそらく、そのほうが、己はしあわせになれるだろう。 だのに、己の中の人間は、そのことを、

 このうえなく恐ろしく感じているのだ。 ああ、まったく、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう! 

己が人間だった記憶のなくなることを。 この気持ちは誰にも分からない。 己と同じ身の上になった者でなければ。 

     ところで、そうだ。

   己がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある。

袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中(そうちゅう)の声の語る不思議に聞き入っていた。 声は続けて言う。

ほかでもない。 自分は元来詩人として名をなすつもりでいた。 しかも、業いまだに成らざるに、この運命に立至った。

かつて作るところの詩数百篇、もとより、まだ世に行われておらぬ。

  遺稿の所在ももはや判らなくなっていよう。 ところで、そのうち、今もなお記誦(きしょう)せるものが数十ある。 これをわがために伝録していただきたいのだ。 なにも、これによって一人前の詩人面をしたいのではない。 作の巧拙(こうせつ)は知らず、

とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯(しょうがい)それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、

死んでも死に切れないのだ。

   袁傪は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随(したが)って書きとらせた。

李徴の声は叢(くさむら)の中から朗々と響いた。 長短およそ三十篇、格調高雅(こうが)、意趣卓逸(たくいつ)、一読して

作者の才の非凡を思わせるものばかりである。 しかし、袁傪は感嘆(かんたん)しながらも漠然(ばくぜん)と次のように感じて

いた。

    なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。 しかし、このままでは、第一流作品となるのには、

どこか、(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。

旧詩を吐き終わった李徴の声は、突然調子をを変え、自らを嘲(あざけ)るがごとくに言った。

   羞(はずか)しいことだが、 今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己(おれ)は、己の詩集が長安(ちょうあん)

風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟(がんくつ)の中に横たわって見る夢にだよ。

嗤(わら)ってくれ。 詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。 

(袁傪は昔の生年李徴の自嘲壁(じちょうへき)を思出しながら、哀しく聞いていた。)

 そうだ。お笑いぐさついでに、今の懐(おもい)を即興の詩に述べてみようか。 この虎の中に、まだ、かつての李徴が生きているしるしに。

   袁傪はまた下吏(かり)に命じてこれを書きとらせた。 その詩に言う。

                     

         偶  因  狂  疾  成  殊  類      災  患  相  仍  不  可  逃

           たまたまきょうしつによってしゅるいとなる      さいかんあいよってのがるべからず

         今  日  爪  牙  誰  敢  敵      当  時  声  跡  共  相  高

        こんにちのそうがだれかあえててきせん        そのかみのせいせきともにあいたかし

        我  為  異  物  蓬  茅  下       君  己  乗  軺  気  勢  豪

         われいぶつとなるほうぼうのもと          きみすでにちょうにのってきせいごうなり 

           此  夕  渓  山  対  明  月       不  成  長  嘘  但  成  喤 

          このゆうべけいざんめいげつにたいす         ちょうしょうをなさずただこうをなす

             

       時に、残月、光冷ややかに、白露(はくろ)は地に滋(しげ)く、樹間(じゅかん)を渡る冷風はすでに暁の近きを告げていた。 

  人々はもはや、事の奇異を忘れ、粛然(しゅくぜん)として、この詩人の薄倖(はっこう)を嘆じた。 李徴の声はふたたび

 続ける。

     何故(なぜゆえ)こんな運命になったか判(わか)らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようによれば、思い当たることが

全然ないでもない。 人間であったとき、己は努めて人との交わりを避けた。 人々は己を倨傲(きょごう)だ、尊大だといった。

  実は、それがほとんど羞恥心(しゅうちしん)に近いものであることを、人々は知らなかった。

 もちろん、かつての郷党(きょうとう)の鬼才(きさい)といわれた自分に、自尊心がなかったとは言わない。 しかし、それは

臆病(おくびょう)な自尊心というべきものであった。

 己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨(せっさたくま)に努めたり

 することをしなかった。 かといって、また、己は俗物(ぞくぶつ)の間に伍(ご)することも潔(いさぎよ)しとしなかった。

 ともに、わが臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。 己の珠(たま)なるべきを半ば信ずるがゆえに、

碌々(ろくろく)として瓦(かわら)に伍(ご)することもできなかった。 己はしだいに世と離れ、人と遠ざかり、

憤悶(ふんもん)と慙恚(ざんい)とによってますます己の内なる臆病(おくびょう)な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

 人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。 己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。 

虎だったのだ。 これが己を損(そこな)い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくのごとく、内心にふさわしい

ものに変えてしまったのだ。

  今思えば、まったく、己は、己の有(も)っていた僅(わず)かばかりの才能を空費してしまったわけだ。 人生は何事を(な)

さぬにはあまりに長いが、何事かを為すにはあまりに短いなどと口先ばかりの警句を弄(ろう)しながら、事実は、才能の不足を

暴露するかもしれないとの卑怯(ひきょう)な危惧(きぐ)と、刻苦を厭(いと)う怠惰(たいだ)とが己のすべてだったのだ。

 己より遥(はる)かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨(みが)いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいるのだ。

  虎と成り果てた今、己はようやくそれに気がついた。 それを思うと、己は今も胸を灼(や)かれるような悔いを感じる。 

己にはもはや人間としての生活はできない。 たとえ、今、己が頭の中で、どんな優(すぐ)れた詩を作ったにしたところで、

どういう手段で発表できよう。

     まして、己の頭は日ごとに虎に近づいていく。 どうすればいいのだ。 己の空費された過去は? 己は堪(たま)らなくなる。

 そういうとき、己は、向こうの山の頂きの巌(いわお)に上り、空谷(くうこく)に向かって吼(ほ)える。

 この胸を灼(や)く悲しみを誰かに訴えたいのだ。 己は昨夕も、かしこで月に向かって吼えた。 

 誰かにこの苦しみが分かってもらえないかと。 しかし、獣どもは己の声を聞いてただ、懼(おそ)れ、ひれ伏すばかり。 

山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮(たけ)っているとしか考えられない。 天に躍(おど)り地に伏して嘆いても、

誰一人己の気持ちを分かってくれる者はない。 

 ちょうど、人間だったころ、己の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。 己の毛皮の濡(ぬ)れたのは、

夜露のためばかりではない。

ようやく、四方(あたり)の暗(くら)さが薄らいできた。木の間を伝わって、どこからか暁角(ぎょうかく)が哀(かな)しげに

響きはじめた。

    もはや、別れを告げねばならぬ。 酔わねばならぬ時が、(虎に還(かえ)らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が

言った。

 

     だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。 それはわが妻子のことだ。彼らはいまだ虢略(かくりゃく)にいる。 

もとより、己の運命については知るはずがない。 君が南から帰ったら、己はすでに死んだと彼らに告げてもらえないだろうか。 

けっして今日のことだけは明かさないでほしい。 厚かましいお願いだが、彼ら孤弱(こじゃく)を憐(あわ)れんで、今後とも

道塗(どうと)に飢凍(きとう)することのないように計らっていただけるならば、自分にとって、恩倖(おんこう)、これにすぎたるはない。

  言終わって、叢中(そうちゅう)から慟哭(どうこく)の声が聞こえた。 袁傪(えんさん)もまた涙を泛(うか)べ、

欣(よろこ)んで李徴の意に副(そ)いたい旨を答えた。

李徴の声はしかしたちまちまた先刻の自嘲(じちょう)的な調子に戻って、言った。 ほんとうは、まず、このことのほうを先に

お願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。 飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけて

いるような男だから、こんな獣に身を堕(おと)すのだ。

    そうして、附加えて言うことに、袁傪が嶺南(れいなん)からの帰途にはけっしてこの途(みち)を通らないでほしい、

そのときには自分が酔っていて故人(とも)を認めずに襲いかかるかもしれないから。 また、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、こちらを振り返って見てもらいたい。

自分は今の姿をもう一度お目にかけよう。 勇に誇ろうとしてではない。 我が醜悪(しゅうあく)な姿を示して、もって、

ふたたびここを過ぎて自分に会おうとの気持ちを君に起こさせないためであると。

   袁惨は叢(くさむら)に向かって、懇(ねんご)ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。 叢の中からは、また、堪ええざるがごとき

悲泣(ひきゅう)の声が洩れた。 袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。

  一行が丘の上についたとき、彼らは、言われたとおりに振返って、先程の林間の草地を眺めた。 

たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。 とらは、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声

咆哮(ほうこう)したかと思うと、また、元の叢に躍り入って、ふたたびその姿を見なかった。

                        

                        

                                中島敦    昭和17年2月 文学界に発表   

                  

  信濃の物語

                                                              長野県史 通史編 第三巻 中世二

                                                                 第三節 学問と文学

                                                             説話・物語にみる信濃 P612より

                            「信濃に関する説話の類型」

        室町時代にはたくさんの説話が書かれた。 まず、南北朝時代に「神道集」がまとめられた。

   この本は「安居院(あぐい)作」と各巻のの内題の下に書いてある。 安居院は比叡山の京都里坊の一つで、 唱導(しょうどう)の

名手の輩出した寺である。 唱導とは、仏教の教理などをわかりやすく話して聞かせる説教である。 「神道集」を書いたのが本当に安居院派の人かどうかよくわからないが、唱導をまとめた本には違いがない。