日本の古典

 

     古事記

         712年、我が国に現存する最も古い歴史書

            それ以前にも、天皇の系譜を記した「帝紀」(現存せず)と、神話、伝説、歌謡物語などが書かれていたと

          思われる「旧辞」(現存せず)があったが、両書の内容が食い違っていて正確さに欠けることから天武天皇が

        とねり)の稗田阿礼ひえだのあれ)に、両書の誤りをただした歴史書を作ることを命じた。

         天武天皇の死でこの計画は一時、とん挫したが、三代後の天明天皇が受け継ぎ、稗田阿礼が口誦(こうしょう)

         したものを大安万侶が記録してまとめた。

          上・中・下の三巻からなる。  日付が記載されていない。神話物語的な性格が強い。

              

                 日本書記

          720年 に成立した歴史書。

         天武天皇は「古事記」の編纂を命じてから、大和朝廷が当時の先進国だった中国に認知されるためには

     「古事記」の様なものではなく、「漢書」などの中国の史書の体裁に則ったものを作ることが必要だと気付いた。

       そこで新たに編纂させたもの。 四代後の天正天皇の時になってようやく完成した大プロジェクトで、当初から

       何人かが編纂に関わったが、最終的にまとめたのは天武天皇の皇子である舎人親王である。

        全30巻で第1・2巻は神代、第3巻から30巻までは神武天皇から持統天皇(天武天皇の皇后)の事績。

                

                 平家物語

         鎌倉時代に成立した軍記物語。本巻12巻、別巻1巻。保元・平治の乱で勝利を納めた平氏の栄華と減亡を

         描く。

         もとは琵琶法師が琵琶を奏でながら語った平家琵琶の台本で、後鳥羽上皇の治世の頃(1198年~1221年)、

         信濃前司行長(生没年未詳)が生仏という琵琶法師と合作したものが原型であろう。 

              「祇園精舎の鐘の声」

   「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。

    奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」

 

     「平井寺にも、娑羅双樹とは違いますが、よく似た(夏椿)の木が一軒のお宅に咲いています。」

               

               太平記

        南北朝時代の約50年にわたるどうらんを描いた軍記物語。40巻

     一人の作者の手に成るものではなく、恵珍上人が持参した作品を、足利直儀に命じられて天台宗の僧、

       幻慧(げんね)法師 (?~1350年)が編纂しなおし、さらに小島法師(伝末詳)が書き継いだという。

       物語は正中の変(1324年から始まる。

  

            万葉集

     奈良時代後期に作られた、現存する最古の歌集。全20巻、約4500首を収録した膨大な歌集で、

    『柿本朝臣人麿歌集」や「高橋連蟲麿歌集」などの歌集から歌を集め、長期にわたり何回かに分けて編纂

     されたものらしい。 1人が編纂したり、きちんとコンセプトに基づいて編纂されたわけではなく、複数の人間に

      よって、新しい歌集が手に入るとそのつど収載していくという形で作られたようだが、なかでも、奈良後期の

     歌人である大伴家持(718?~785年)が編纂者として大きな役割を果たしたとみられる。

        雄略天皇の歌で始まった「万葉集」は、

     大伴家持の「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重(い)け吉事」 

   新しい年が始まった日に降る雪のように、めでたい事がますます積み重なってほしいものだ

      巻20・4516)という寿(ことほぎ)の歌で締めくくられている。

                  

           古今和歌集

      醍醐天皇の命により、905年に作られた初の勅撰和歌集。

   編者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の四人。20巻で、1100首が収録されている。

   あらゆる階層の者の歌を載せている「万葉集」に比べると、「古今和歌集」の歌人は貴族や僧侶、尼僧の歌が

   ほとんどで、いわば上流階級の歌集になっている。短歌の他に、長歌、施頭歌なども含む。

   おおらかで男性的な「万葉集」の歌風、「ますらをぶり」に対して、繊細で女性的な「古今和歌集」の歌風は

  「たをやめぶり」と呼ばれる。

 

              枕草子

        作者は平安中期の随筆家、清少納言。 曾祖父の清原深養父(きよはらのふかやぶ)

      父の清原元輔(きよはらのもとすけ)はともに歌人、という文人の家に生まれた。

      清少納言は女性のたしなみである和歌はもちろん、当時は男が学ぶとされた漢学も納めた才女と知られ

      橘則光と結婚した後、30歳位の時に(西暦4年・993年頃)、一条天皇の中宮だった定子に仕える。

    「枕草子」はその宮仕えの生活を中心に綴ったもの。書かれたのは、定子が死んだため宮仕えを退いた

       長保2年(1000年)頃とみられる。

      「枕草子」と同時代に書かれた「源氏物語」にはしみじみとした情諸的な感情を表す「あはれ」という表現

      が多いのに比べて、「枕草子」はからっとした知的な感覚の「をかし」が多く用いられているのが特徴で、

     「あはれ」の文学に対して「をかし」の文学の代表とされている。

     「をかし」は現代の「おかしい」とは違って、「興味があって心が惹かれる」の意。

     「すてき」「すばらしい」に近い。は、藤原道長の娘、彰子というライバルがいた。

        その彰子に仕えていたのが紫式部で、

    後宮は才女が集まってまさに百花繚乱の趣だった。藤原道隆が摂政から関白となり、定子も中宮として時めいて

     いたが、ほどなく道隆が死ぬと、定子は不遇の日々を送ることになる。清少納言はその栄枯盛衰を目のあたりに

 するが、「枕草子」には暗いことは書いていない

            

      彼女が目を向けたのは宮中の華やかな行事や、殿上人の繊細な衣装などで、定子の兄弟と清少納言との機知に

    富んだやりとりなども描かれている。清少納言の才女ぶりを証明するのが299段のエピソードである。

       ひどく雪が降った日に、定子に「少納言よ、香爐峯(こうろほう)の雪いかならん」と問いかけられて

  清少納言は御簾(みす)を高く掲げて見せた。中国の詩人、白楽天の詩に「香爐峯の雪は簾を撥て看る」

   という句があることを知っていたからである。 定子の周辺のことにかぎらず、役人の任免の日に何とか

    官職にありつこうとする人々の様子なども伝える貴重な資料である。

       また、「ものはづけ」や随想の部分には清少納言の繊細な美意識が感じられ、最近は欧米で「枕草子」の評価が

     高まっている。イギリス・フライス・オランダ合作の映画「枕草子」(原題「The Pillow Book」。1996年)

      は、 内容的には特に「枕草子」とは関わりがないが、英訳「枕草子」に触発されたピーター・グリーナウェイ

     監 督によって製作されたものである。

      「枕草子」冒頭の「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲の

     ほそくたなびきたる[春は明け方がよい。だんだん空が白んできて、山際が少し明るくなり、紫を帯びた雲が 

 細くたなびいているのは趣がある〕は、春の美しさは夜が明け始めるその一瞬にあると感じ取った、清少納言

 の鋭い感性がきらめく文章である

      さらに「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬はつとめて(早晩)としており、季節の美しさをいう場合によく

    引用される。清少納言は美は存在するものだと考えるのではなく、美を発見するのは人の感性だと考え

   それを重要視したようだ。 45段では、「にげなきもの、下衆の家にも雪の降りたる。また、月のさし入りたる

 もくちをし」と、賤しい者の家に純白の雪が積もったり、さやかな月の光「が差し込むのを「似つかわしくない」

 と悔しがっている。美しさを感じる繊細さなど持ち合わせない者にまで自然の美が分かち与えられるのが悔しい

 と、清少納言が歯軋りしているのが見えるような一節である。

 

            新古今和歌集

      後鳥羽院の命により編纂された勅撰和歌集。後鳥羽院は宮廷文化を盛んにしようと和歌に熱意を注ぎ、

    和歌所を設置して、建仁元年(1201年)、源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮に和歌集<

    の編纂を命じた。このうち寂蓮は翌年に死んだ為、実際に編纂に当たったのは5人だが、中心的な役割を

     果たしたのは、歌人として評価の高かった定家である。

      「新古今和歌集」は編纂の過程で、収載する歌の選定や入れ替えが何度も繰り返された。

     元久2年(1205年)にいったん選歌や配列が終了するが、その後も「切継」と呼ばれる改訂作業は続けられ、

   最終的に終わったので承元4年(1210年)だった。この時成立したものが一般に「新古今和歌集」と

   呼ばれるが、これで完全に終わったわけではなく、さらに、後鳥羽院が自ら編纂した

「壱岐本新古今和歌集」などという別バージョンも存在する。

     後鳥羽院は鎌倉幕府を倒そうと承久の乱を起こすが、敗れて壱岐の島に流罪になった。失意の日々も和歌への情熱

   は消えなかったらしく、後鳥羽院はその地でさらに「新古今和歌集」の改訂を続け、文歴元年(1234年)頃、

  壱岐本(1600首)と呼ばれる異本を作った。

 

             徒然草

        鎌倉後期の歌人、兼好法師(1283頃~1352年以降。吉田兼好、卜部兼好とも言う)が

  元応元年(1319年)から元弘元年(1331年)にかけて記したといわれる上下2巻の随想集。

  序段の「つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、

 そこはかとなく書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ〔これっといってすることもなく退屈なまま、終日、

 硯に向かって、心に浮かんでは消えるたわいもない事をとりとめもなく書きつけていると、

 自分でもよく分からないが物狂おしい気分がする〕という文章はよく知られている。リズムもなめらかで、

 まさしく「声に出して読みたい」名分である。

    無常観や人生観、処世訓など、幅広い分野に渡って自分なりの論を展開。

    出家の割には堅苦しくない人物であったようで、飲酒も必ずも罪悪視はしていない。「百薬の長とはいへど、

 万の病は酒よりこそおこれ」といい、泥酔いして醜態をさらしたり、身を滅ぼす様な飲み方は

  戒めているが、酒が心を慰めてくれることを挙げ、「上戸はかしく、罪ゆるさるゝ者なり〔酒飲みは面白く、咎め

  られるべきではない〕」(175段)と擁護しているし、人間のあるべき様として、学問や和歌、管弦、書などに

  優れているのに加えて、「下戸ならぬこそ男はよけれ〔まるっきり飲めないわけでもないというくらいが男としては

  よろしい〕」(1段)と言っている。

 

                金槐和歌集

          悲劇な最期を遂げた鎌倉将軍、源実朝の家集

    建歴3年(1213年)頃成立した鎌倉幕府の第3代将軍、源実朝(1192年~1219年)の家集。

  「金」は鎌倉を意味し、「槐」は「えんじゅ」。中国で昔、朝廷の庭に三本の槐を植えて三つの官職の位置を示した

     故事から「大臣」の意で、「金槐和歌集」は「鎌倉の大臣の家集」を意味する。

     実朝は武家政権を確立した源頼朝の次男だが、京のの貴族文化に憧れ、歌人、藤原定家の指導を仰いだ。

     兄、頼家の跡を継いで三代将軍となったが、鶴岡八幡宮で頼家の子の公暁に暗殺されるという悲劇的な

     最期を遂げた。

       実朝のみずみずしい感性が感じられるのが「萩の花暮々までもありつるが月出てみるになきがはかなさ

     萩の花が日暮れまでは咲いていたはずなのに、月が出てから見てみると、もう散ってしまってない。

      なんてはかないことだろう〕」である。

     実朝が28歳で人生を終えたことを思い合わせると、「はかなさ」が惻々(そくそく)と胸にしみる。

     鎌倉の人らしく、海の風景によせて心象を歌ったものが多い。<

                       「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ」

                       「大海の磯もとゞろによする波われてくだけて裂けて散るかも」

          以上は私的な心情を歌った歌だが、鎌倉幕府の代表として、公的な立場で歌ったものもある。

         そのひとつが、次に挙げる天皇に忠誠を誓う歌である。

       「太上天皇(上皇のこと。ここでは後鳥羽上皇)、御書を下し頂けるときの歌」という詞書が付いたこの歌は、<

        「新勅撰和歌集」にも集載されている。

        「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも〔山が裂けて崩れ、海が干上がってしまうような

          ことがあっても、私が大君に背く心を持つことがあるでしょうか。そんなことは絶対ありません〕」

           また、建歴元年(1211年)の洪水の時には、「時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめたまへ

        [ 日照りの時は慈雨となる雨も、降りすぎると民を嘆かせることになります。雨を司る八大竜王よ、どうか

        雨を止めて下さい〕」と歌っている。

      これも私人ではなく公人の歌である。

          実朝の歌は古今調のものや新古今風のものもあるが、万葉調の歌人として、江戸時代の国学者、賀茂真渕や、

     明治の歌人、正岡子規に高く評価された。

               

                       おくのほそ道

              江戸中期の俳人芭蕉の代表的紀行文

            俳人、松尾芭蕉(1644年から94年)が門人の曽良を連れとして奥羽・北陸地方を旅した時の紀行文。

               旅に出たのは元禄2年(1689年)だが、刊行されたのは芭蕉の死後八年たった元禄15年

  (1702年)である。

   芭蕉は伊賀・上野の無足人(郷土、地侍クラスの農民)の家に生まれ、藤堂家に近習として仕えて

  いた時に俳諧と出会う。北村季吟に従事し、江戸に下って俳句の宗匠となった。桃青、風来坊などの

  別号があり、著作に句集の「俳諧七部集」、紀行文の「野ざらし紀行」「更科紀行」「笈(おい)小文」

  などがある。 

      芭蕉は中国の詩人、李白や杜甫、歌人の西行など、旅に死んだ先人の跡を慕って旅に出、行く先々で知り合いの

        俳人を訪ねながら、西行が歌に詠んだ場所に立って俳句を詠む。その旅を記したのが「おくのほそ道」だが、

            「曾良旅日記」と突き合わせると、天候や旅程などが食い違っている。また、当時の徒歩の旅としては

  かなりペースが早いため、芭蕉が伊賀出身であることもあって、忍者だったのではないかという

  説も生まれた。

            「おくのほそ道」は実際の旅を正確に記録したものではなく、芭蕉が俳諧的な世界を虚構として

  作り上げたものだと言われている

           旅の日記は「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年も又旅人也

    〔月日は永遠にわたる旅人であり、行き来する年もまた旅人である〕」

  という文章から始まる。芭蕉は漂泊の思いに駆られ、元禄2年3月27日に「行く春や  鳥啼き魚の目は泪」

   の句を詠んで、舟で千住にでて奥州へ旅立つ

          4月1日に日光に参拝した芭蕉は、東照宮の威光に打たれて「あらたふと(尊)青葉若葉の日の光」を詠み、

                   連れの曾良は旅たちにあたって髪を剃り、黒染の衣に替えたことを、雪を頂く黒髪山に掛けて

                   「剃捨て黒髪山に衣更」と詠む。

             那須に立ち寄って俳人、桃翠の家に逗留。殺生石などを見た後、

  西行が「道の辺に清水流る々柳影しばしとてこそ立ちどまりつれ」

            の歌を詠んだといわれる盧野の里で

         田一枚植ゑて立ち去る柳かな〔西行をしのんで柳の蔭でほんのしばし立ち止まっていたが、気がつくと早乙女が

        すでに田一枚の苗を植え終えている。思わず時を過ごしたと、柳のもとを立ち去った〕」の句を残す。

         旅の途中で、門人の一笑が亡くなったことを知る。病気になった曾良が伊勢の親戚にむかうため、

         山中温泉で別れ、吉崎の汐越の松や永平寺を回り、敦賀の港で門人の露通の出迎えを受ける。

         大垣で伊勢から来た曾良と落ち合い、門人の越人らと如行の家で再開を喜ぶ。旅の疲れも癒(い)えないのに、

            9月6日になったので、伊勢神宮の21年目の遷座式を拝もうと、再び舟に乗り込む。

        「蛤のふたみに分かれ行秋ぞ〔蛤が二身に分かれるように、再び親しい人たちと別れて、二見が浦へ旅立って

                 いく寂しい暮秋よ〕」

             最後の旅は長崎を目指したが、その途中で倒れ、大阪の宿で生涯を閉じた。

           辞世は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」(笈日記)。旅に生きた芭蕉らしい最期と言えるかもしれない。

               

                   伊勢物語

                     平安前期に書かれた歌物語。「在五中将日記」とか「在五が物語」とも呼ばれるが、

  これは作者が在原氏の五男だった在原業平(平城天皇の皇子、

       阿保親王の息子。825年~880年)と言われているからである。

       モテモテ男の見本のような在原業平の様々な女との恋の話を集めたもので、「源氏物語」などにも大きな影響を

       与えた。「むかし、男ありけり」で始まる話が多いことから、「昔男」が業平の呼び名となった。

                      「筒井筒」 (23段)

          昔、井戸の近くで一緒に遊んでいた少年と少女が、成長して年頃になった。

  男が「筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざる間に〔円形の井戸にかけた私の背丈は

                  あなたと会わないうちに井筒の高さを超えてしまった〕」

         と歌を贈ると、女は

         「比べこし振分髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき〔二人で比べてきた振分髪の長さも肩をすぎました。

             あなた以外の誰のために髪あげするでしょうか〕」と返歌をし、二人は夫婦になった。

           何年か過ぎて、男には河内の国にべつの女ができた

          妻は女のもとに通う夫を特に不快そうな様子も見せずに送り出すので、

  夫は妻にほかの男がいるのではないかと疑いをもつ。

          出掛けたふりをして植え込みの陰に隠れていると、妻は夫の行く先を見やって、

              「風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらん〔風が吹いて沖に白波が立っているのに、

                こんな夜にあなたは龍田山を一人で越えていくのだろうか〕」と歌に詠んだ。それを聞いて夫は

             妻をかぎりなくいとおしく思って、河内に行くのをやめた。

           この物語は能楽にに取り入れられて、「井筒」という演目になっている。

                      「伊勢物語」の最終章(125段)は、

        「つひにいく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを〔人が誰でも最後にたどり着く死というものが

  あることはかねてから知っていたけれど、それが昨日今日というほど身に迫っていようとは思わなかった

          ものを〕」という歌で締めくくられている。

 

     平中物語

            主人公は平貞文(生年未詳~923年)桓武天皇の四代の孫で、業平と同様に官職的には不遇であったが、

       和歌をよくし好色者としても有名であった。「平中物語」は、全39段からなり、歌数は全部で153首、

 そのほとんどが貞文の詠んだ歌であることが確認できるので、こちらは、

 実在の貞文像からは大きく逸脱していない。

 内容的には、「伊勢物語」の主人公が、純粋で洗練された愛情(みやび)にもとずき、時に世俗的規範を逸脱した

     激情や挑戦的な行動性を発揮するのに対し、「平中物語」の主人公は、世間体にこだわり、

 消極的で、そこに描かれる恋愛の多くは、不如意な結果に終わっている。

 

     竹取物語

            「かぐや姫の物語」とか「竹取の翁の物語」などの名前で呼ばれていた物語で、9世紀末か10世紀初めに

           書かれたと見られる。 作者については源 順(したごう)説や源 融(とおる)説、僧正遍昭説などが

           あるが、はっきりしない。

             竹の中から生まれ、人間の世界の汚れに染まらずに月の世界に戻っていくというかぐや姫は、日本の美女像の

         ひとつの典型となっており、現在でも演劇の題材になっている。

      「竹取物語」は源氏物語」で「物語の出来始めの祖」とされているが、単なる素朴なおとぎ話ではなく、近代的な

        視点が感じられる。ヒロインのかぐや姫は、翁に結婚を勧められて

      「世のかしこき人なりも、深き心ざしを知らでは、あひがたしと思ふ〔たとえ貴い身分の人であっても、深い志が

       分からなければ結婚は出来ません。〕」と答える理性的な女性として描かれているし、求婚する貴公子には

         当時の実在の人物をほのめかす名前を付けるなど、風刺的な性格も込められた作品である。

                 

               土佐日記

     紀貫之が、国司として赴任していた土佐の国(高知県)から、任果てて京へ帰る船旅の日々を綴ったもの。

     935年(承平5年)頃成立。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と、作者が女性で

  あるかのように装って書き出しているが、これは、当時は女が使うものとされていた仮名文字でのびのびと

     書きたかったためだろう。これが後に「源氏物語」などの女流文学を生み出す誘い水になる。

     京まで、当時は船で55日かかった。船酔いに苦しんだり、海賊の噂に脅えるなど、旅の途中で見聞きしたものや

     感じたことなどを記しているが、大きなウェイトを占めているは任地で娘を亡くした悲しみである。

  本来なら懐かしい京へ帰る喜びの旅であるはずなのに、何かにつけてその子を思い出しては涙にくれる。

       浜辺に美しい貝が打ち寄せられているのを見ては、「寄する波うちも寄せなむ我が恋ふる人忘れ貝下りて拾はん    〔波よ、どうか恋しい人を忘れさせるという忘れ貝を打ち寄せておくれ。そうしたら、私はあの子を忘れるために

     船を下りて拾うから〕」という歌を詠む。

  また、住の江(大阪南部)まで来ると、「住の江に船さし寄せよ忘れ草験(しるし)ありやと摘みて行くべ

                〔住の江の岸に船を寄せて下さい。そうしたら、もの思いを忘れるという忘れ草が本当に効き目が

             あるかどうか、摘んでみるから〕」と嘆く。

          旅を終えて、ようやく京の我が家にたどり着くと、庭は荒れ果てているが、留守の間に新しい小松が生えて

        いるのに気付く。「生(むまれ帰らぬものを我が宿に小松のあるを見る悲しさ〔この家で生まれたあの子が

         一緒に帰って来られなかったのに、我が家の庭に留守中に新しく生えた小松を見るのは悲しくてたまらい〕」

         とまた悲しみが込み上げてくる。そして、とても自分の気持ちを書き尽くすことは出来ないから、こんな日記は

      早く破り捨ててしまおう、という文で、「土佐日記」は終わっている。

                  

                   源氏物語

                平安中期に紫式部によって書かれた物語。

           紫式部は藤原北家につながる名門、藤原家の出身だが、父・為時の代には地方の役人である受領階級にまで

          零落していた。曾祖父・藤原兼輔、祖父・藤原雅正は歌人で、父・為時も漢詩の才があり、紫式部は為時から

          漢籍を学んだ。藤原宣孝と結婚するが、わずか2年で死別し、寛弘3年(1006年)、一条天皇の中宮だった

              彰子しょうし)に仕える。

                  「源氏物語」は夫の死後から晩年までの長期にわたって書かれたものらしい。

             「源氏物語」は全部で54帖という長編で、内容は3部に分けられる。

            光源氏の誕生から、失脚して須磨に流謫の身となるが、許されて、栄華の道が開けるまでが第1部、

            兄・朱雀帝の皇女である、女三の宮を妻に迎えるところから、紫の上に先立たれ、出家を考える所までが

         第2部。だい3部は光源氏の子と思われている薫が愛した浮舟が入水自殺をはかり、助けられて出家するまで

            第2部と第3部の宇治を舞台とする10巻は「宇治十帖」と呼ばれている。

 

      堤中納言物語

              十編の短編とひとつの断章から成る短編物語集

      逢坂越えぬ権中納言」以外の物語の成立時期や作者は不明で、全体としては平安後期に成立したのでは

    ないかと見られている。

     「堤中納言物語」に載っている物語は、短編小説としても完成度が高い。この中でも、美しい蝶より毛虫を好む、

    現代なら昆虫学者にでもなれそうな変わり者の姫君の話「虫めづる姫君」はよく知られている。

   有名なものは、「花桜折る小将」・「虫めづる姫君」。

        「花桜折る小将」

       月があまり明るいので、もう夜が明けたと思ってまだ夜が深いうちに恋人の元を出てきてしまったある小将が、

   桜などを眺めながらそぞろ歩きをしていたら、昔付き合った女の家が見えた。その家から出てきた使用人に

  その女の事を尋ねると、今は別の所に住んでいるという。尼にでもなったのだろうかと女のことをしのんでいたら、

     家の中から声がして、愛らしい女性が宮参りに出掛けるのが見えた。夜が明けてきたので小将はいったん帰った。

  夕方に父の御殿に行って琵琶を弾いていると、みつすゑが「近将の御門あたりに琵琶の上手な女がいますよ」

  という。それはあの桜が咲いている家の女らしく、故源中納言の娘で、伯父のの大将が内裏に入れようと

  しているという。そうならないうちにと、その女の家の女童に頼んで手引きしてもらい、母屋で休んでいる女を

  抱き上げて、みつすゑの車でさらってきた。ところが、それは小将のたくらみを耳にして、心配して

  姫君の部屋で寝ていたい祖母だった。

    シェイクスピアの喜劇のような読後感がある物語集だが、なぜ「堤中納言物語」なのか、書名のいわれさえも

  わからない、謎だらけの本である。

                 

                   今昔物語

     現在残っているものだけでも千数十の説話を納めた我が国最大の説話集であるが、

  巻1~は天竺(インド)の説話、巻6~10は震旦(中国)の世俗説話、巻11~巻20まで本朝仏法部として 

 仏法説話、巻22~31が本朝(日本)の世俗説話、多くは口承の説話を筆録したもの。

  巻8、18、21,は現存しない。編者は誰か判っていない。        保安元年(1120年)頃成立したとみられる   百鬼夜行の平安時代を描き出す説話集。

     全31巻の膨大な作品で「大唐西域記」「本朝法華験記」「日本霊異記」などから拾った、天竺(インド)、

 (震旦(中国)、本朝(日本)の仏教説話や世俗説話を収録してる。「今は昔」という書き出しで始まり、釈迦如来

    の誕生説話などもあるが怪奇な物語が多く、陰陽師、安倍晴明も登場する。

            

             〔久米仙人、初めて久米寺を造れる語〕巻11第24

        大和の国の龍門寺にいた久米仙人が、仙術を会得して空を飛んでいると、吉野川のほとりで若い女が

     洗濯をしているのが見えた。女は白いふくらはぎが見えるほど着物をまくり上げていたため、久米仙人は

    煩悩を起こして下界に落ち、神通力を失ってただの人になってしまった。

     久米仙人はその女と夫婦になって暮らしていたが、聖武天皇が高市郡に都を造ることになった時、役人が

  工事用の材木を仙術の力で運んでくれという冗談をいった。

  久米仙人は、もう仙術は忘れてしまったと断ったものの、断食をして七日七晩祈ってみた。

    すると、翌朝、空がにわかにかき曇り、雷雨となってあたりがまったく見えなくなった。しばらくして雨が止み、

    空が晴れたが、気が付くと工事用の材木がすでに都の造営地に運ばれていた。

    久米仙人は天皇から租税免除の田30町を与えられ、久米寺を建立した。

 

            〔安倍晴明、忠行に随(したが)ひて道を習へる語}巻24第16

     陰陽師の安倍晴明は若い時に賀茂忠行に陰陽道を習っていた。

     ある夜、忠行の外出に随行した時、いいようもないほど恐ろしい鬼どもが歩いて来るのが見えた。

    あわてて、車の中で眠っていた忠行を起こすと、忠行は法術を使ってみんなの姿を隠したので、無事に

    鬼をやり過ごすことができた。この時、晴明が自分の力で鬼の姿を認めることことができたことから、

    忠行は晴明が只者ではないことを知り、陰陽道の奥義を伝えた。

       忠行の死後、十余歳の童子二人を連れた老僧が晴明の家を訪ねた。陰陽道を習いたいと言うが、晴明は、

    この老僧が並々ならぬ陰陽道の腕を持ちながら晴明の力を試しにきたにちがいない、共の童子は陰陽道が

    使う式神だと見抜いて、もし式神なら召し隠せと念じ、呪(呪文)を読んだ。そして、

        「今日は忙しいので、吉日を選んで来てください」と老僧を帰したが、老僧がすぐに戻ってきて、

        「私の共の童子を返してください」といい、晴明を試そうとしたことを詫びた。晴明が呪を読むと、

       童子はすぐに戻ってきた。

 

         〔藤原保昌朝臣(ふじはらのやすまさのあそん)、盗人袴垂(はかまだれ)に値(あ)へる語〕巻25第7

         袴垂という盗賊の大親分が、10月の夜半に都大路で狩衣姿の男が笛を吹きながら歩いているのに出合った。

      着物を奪おうととしたが、何やらもの恐ろしい感じがして襲いかかることができない。

    何度か襲いかかろうとしては止め、とうとう心を決めて刀を抜き、走りかかろうとした時、その男が笛を吹くのを

    止め、振り返って「お前は何者だ」と尋ねた。鬼だろうか神だろうか、こんな恐ろしい思いをしたことは

 今までになく、へなへなと這いつくばって、「袴垂という追いはぎです」と答えた。

 すると男は「そういう者がいることは聞いている。

    変わった奴だ。私と一緒に来い」といって、また笛を吹きながら歩いていく。大きな家の門に入ってすぐ戻り、

 厚く綿の入った衣を袴垂に与えて、「衣が必要な時はここに来ていうがよい。

 どんな人か分からない相手に襲い掛かって、痛い目をみるな」といって、家に入ってしまった。

 あとで、その家は藤原道長に仕える摂津前司藤原保昌(和泉式部の夫)の家だと知った。

               (天徳2年958~長元9年1036年 藤原保昌没)

   {和泉式部、977年頃に、父、大江雅到と越中守平安衡の娘を母として生まれた。

    幾度かの結婚の後、道長の娘の章子(一条天皇の中宮)の元に仕える。式部の歌人としての才能を認められた

  ものと思われる。源氏物語の著者紫式部と同僚だった時期もある。〕

                  

    藤原保昌・花盗人、祗園祭の山車に保昌山があります。藤原保昌、摂津国平井を領し平井氏と名乗ったので、

 平井保昌とも。和泉式部に紫宸殿前の梅の花が一枝欲しいと頼まれます。保昌が頼まれたのは、御所、天皇の

  御座所である紫宸殿の庭(南殿)の梅。警護していた北面の武士に見つかり、矢を射掛けながらも見事に紅梅の

   一枝を折り取って逃げおおせます。

 

   六の宮の姫君の夫出家せる話。巻19-5

   愛宕護の山の聖人、野猪にたばかられる話。巻20-13

           源之頼信の朝臣の男頼義、馬盗人を射ころしたる話。巻25ー12

          相撲人大井光遠の妹剛力の話。巻23-24

           鴨の雌、雄鳥の死せる所に来たりしを見て出家せる人の話。巻19-6   

           鈴鹿のやまにして蜂、盗人を刺し殺せる話。巻29-36

        (今は昔、京に水銀商がいた。その頃の水銀の主要産地は伊勢であった。)今昔物語の話。

   池の尾の禅智内共の鼻の話。巻28-20

            羅城門の上の層に登りて死にし人を見たる盗人の話。巻29-1

                   (芥川龍之介の小説、羅生門)

                 

            

                 宇治拾遺物語

        鎌倉時代の初期に成立したとみられる説話集。

    特定の編集意図をもたず、昔から伝えられた説話や奇談197話を集めたもので、

 「今昔物語」や「故事談」な 共通する話が多い。日本、中国、インドの仏教説話や世俗説話が中心に、

 おとぎ話の元になった話や、応天門の変のような政治的な事件など、幅広い説話を収載している。

 芥川龍之介の作品(「鼻」{芋粥}「地獄変」など)の原作になった説話も多い。有名な説話には。

 

    {小野篁(たかむら)広才の事}巻3ノ17

          嵯峨天皇の時代(809年~823年)に内裏に「無悪善」と記した札を立てた者がいた。

  天皇が小野篁「これはどう読めばいいのか解いてくれ」というと、篁は「読むことはできますが、

 畏れ多くて申し上げられません」と答える。それでも「読め」と命じられ、「悪(さが)」(悪質な人、の意。 「嵯峨」を暗示)なくて善からん、といっております。

  帝を呪っているのです。」と答えると、「お前以外に誰がこんなことを書くのか」と疑われた。

「そうおっしゃられると思ったから、申し上げられませんといったのです」と返すと、「では、どんなものでも書いてあるものは読めるか」と聞かれ、「読めます」と答えた。

 そこで、「子(コまたはネ、シと詠む」を12書いたものを渡され、「ねこ(猫)の子のこねこ(子猫)、しし(獅子)の子のこじし(子獅子)」と詠んだので、天皇は笑って、篁はお咎めも受けずにすんだ。

 

                〔伴ばん)大納言応天門を焼く〕巻10ノ1

   866年応天門が放火で炎上した。大納言の伴(ともの)義男が「これは左大臣の源信(みなもとのまこと)

 の仕業です」

  と朝廷に訴えたので、信は処罰されそうになった。

 それを聞いた藤原忠仁が「これは讒言です。よく調べて判定すべきです」といさめたので、

 天皇は証拠もないことを認めて、源信を許した。

   ところが、伴大納言とその子の中庸、下級役人のとよ清が応天門の柱を降りてくるのを、ある舎人がみていた。

  その直後に応天門が炎上したことを知り、彼らが放火したと悟ったが、人には言わなかった。

その後、舎人の子供が伴家の使用人の子と喧嘩した時に、舎人は使用人に「お前の主がまともに暮らして

 居られるのは、おれが、口をつぐんでいるおかげだ」とののしった。それが噂になって朝廷に伝わり、

 舎人が 見たことを証言したので、伴大納言は流罪となった。

 

                      〔夢買ふ人の事〕巻13ノ5

       備中の国(岡山県)の郡司(地方役人)の子のひきのまき人(吉備真備の誤り)が夢解きをしてもらおうと夢の

   吉凶を占う女のところに行ったら、17,8歳ほどの国守の長男がやってきた。この男が見た夢を説明すると、

   夢解き女は「それは大変いい夢です。あなたはきっと大臣まで出世するでしょう。その夢のことを決して

 人にいってはいけませんよ」といって帰した。そこでまき人は「夢を取るということがあると言うから、あの男の

夢を私に取らせてくれ。国守は4年の任期が終わったら京に帰ってしまうが、私はこの国の郡司の子でずっと ここにいるから、私の方を大切にしたほうがいい」と頼むと、女は、「では、あの人のように入ってきて、夢の話を

 寸分違わず説明してください」という。そのとおりにすると、女は国守の長男にいったのと同じ夢解きをした。

その後、まき人は、遣唐使を務めるなどして帝に重用され、とうとう大臣にまでなった。一方、夢を取られた

                   男は任官もできずに終わったという。

                

              〔御堂関白の御犬晴明等奇特の事〕巻14ノ11                     

  御堂関白殿(藤原道長)は法成寺を建立してから、いつもかわいがっている白犬を連れて参詣していたが、

   ある日、法成寺の門をくぐろうと、犬が関白引きとめようとする。

 そこで陰陽師の安倍晴明にどういうことか尋ねると、

   「関白殿を呪詛するためのものが道に埋めてあります」と答える。晴明が指示したところを掘ってみると、

   二つの土器を黄色のこよりで十文字にからげ、土器の底に朱砂で一文字を書いてあるものが出てきた。晴明が

「この術は私しか知らないのですが、もしかしたら道摩法師の仕業かもしれません。確かめてみましょう」

  といって、紙で鳥の形を造り、呪を唱えて投げ上げると、白鷺になって飛んでゆき、道摩法師の家に降りた。

 道摩法師を捕らえて尋問すると、左大臣藤原顕光公に頼まれたと白状した。顕光は死後、怨霊となって

 関白に祟ったので「悪霊左府(左府は左大臣の唐名)」と呼ばれた。

      阿部晴明や源融の話などは「今昔物語」や「古事談」にも載っているが、

 もっとドラマチックだったり生々しかったり

  するので、詠み比べてみると編者のスタンスの取り方の違いが見えてくる。

                   

 

        故事談

             

              鎌倉初期の説話集で、編者は源宗雅の子の源顕兼<sup>(あきかね)</sup>(1160~1215年)

  と伝えられている 6巻。

        源顕兼は母の姉妹に歌人として知られ待宵の小従徒がおり、顕兼自身も「新刺撰和歌集」に歌が収載されて

   いる歌人である。

     「故事談」 は女帝の称徳天皇と僧・道鏡のスキャンダルをはじめとして、朝廷や貴族の秘話、伝説の美女、

   小野小町や才女、清少納言のエピソードなどを載せているが、かなり露悪的なものが多い。編者は目立つ女性が

   あまり好きではなかったのかもしれない。おとぎ話の浦島太郎の原型とみられる説話も紹介している。

                  

                         〔 浦島子伝説〕

          天長2年(825年)に丹後の国<sup>(京都府)</sup>余佐郡の水江浦島子が舟で故郷にたどり着いたが、

  昔とすっかり様子が変わっていた。親兄弟を訪ねて歩いたが、誰も知っている者はいない。

 ひとりの老婆に、私の祖先を知っているかと尋ねたら、私はこの里に生まれて107年になるが、

 あなたのことは知らない、ただ、私の祖父から、

    昔、水江浦島子という釣りの好きな者が海に遊びに出て帰らず、それから何百年かたったと言う話を聞いている、

 と答えた。これを聞いた浦島子は神女の元に帰りたいと思ったがどうにもならない。

    そこで神女にもらった玉厘(たまくしげ)〔櫛を入れる箱〕を開くと、中から紫の雲が立ちのぼり、

 西の方に漂っていった。

 浦島子が帰ってきたのは行く先知れずになってから三百年後だったが、その顔は子供のようだったという。

               

       〔業平、小野小町の髑髏を見る事〕

    在原業平は入内前に藤原高子をさらおうとして、高子の兄弟たちに奪い返されてしまった。

 その時に髪の髻(もとどり)を切られてしまったため、髪が伸びるまで歌枕(歌に詠まれた名所)

 を見てくるといって関東へ旅立った。奥州の八十島に泊まったら、夜、野中から和歌の上の句を詠む声が聞こえる。

  「秋風の吹き散るごとにあなめあなめ〔秋風が吹くたびにああ目が痛い、目が痛い〕」という声を頼りに探したが、

  人の姿は見えない。ただ髑髏がひとつ転がっているばかり、翌朝、その髑髏を見ると、

 目の穴からススキが生え出ていた。風が吹くたびにススキがなびく音が歌のように聞こえたと分かった。

奇怪なことだと思っていると、ある人が、

     小野小町がこの国に下向して、ここで亡くなったのだが、あれがその小野小町の髑髏だという。

   哀れに思った業平は、「小野とはいはじ薄生けり〔小野小町の哀れな最期とはいうまい。

 ただ薄が生えているだけのことだ}」と下の句を付けた。その場所は小野と呼んだ。

 

                 〔清少納言、零落し秀句の事〕

     清少納言が落魄してから、若い殿上人が大勢でひとつの車に乗って、清少納言の家の前を通った。

   その家がぼろぼろになっているのを見て、清少納言も落ちぶれたなあと車の中でいった。

 桟敷に立っていた清少納言はそれを聞いて、御簾をかき上げ、鬼のような女法師(尼)の顔を差し出して

    「駿馬の骨をば買わずやありし〔駿馬の骨を買わないことがあったでしょうか。買った人もいるのに〕」と

    切り替えしたという。

   これは燕(中国戦国時代の国家)の国で、ある人が名馬を手に入れるために、

 まず死んだ馬の骨を大金で買ったら、その噂を聞いてあちこちから名馬を売りにきたという

「戦国策」の故事(死馬の骨を買う)にちなんで、

 清少納言が自分を

     名馬の骨にたとえたもの。落ちぶれてはいても、かつての才女ぶりを彷彿とさせる清少納言の逸話として

     知られている。同じ説話集でも「宇治収遺物語」に比べると「故事談」にはちょっと毒の入った面白さがある。

               

      南総里見八犬伝

 

              読本や草双紙の作者である曲亭馬琴(1767~1848年。滝沢馬琴ともいう)が、

       文化11年(1814年)から天保13年(1842年)まで28年かけて書いた、98巻の膨大な伝奇小説。

  馬琴は執筆途中で昼と夜がやっと分かる程度にまで視力が落ちたが、息子に先立たれて代筆する者がなかった。

    やむを得ず、わずかに文字を知る程度の息子の妻、みちに、難解な漢語だらけの原稿を口述筆記させるという

     無謀なやり方で、ようやく「八犬伝」を完成させたという。

     「八犬伝」は中国の「水滸伝」を下敷きに、教条的な勧善微悪主義に基づいて書かれている。

    時代を下剋上の激しい室町時代に設定した。里見家のお家再興ドラマで、漢学の素養のある馬琴が主な

    登場人物を犬にちなんだ名にするなど、変に凝っているところがおもしろい。

     上総の国<(千葉県)の国主だった里見義実は居城の結城城を攻め落とされたが、神余光弘の逆臣、山下定包を 討って滝田城主となり、五十子との間に伏姫をもうけた。

 伏姫が成長した頃、滝田城は安西影連の攻撃を受けて落城しそうになる。追い詰められた義実が愛犬八房に、

影連の首を取ってきたら伏姫を妻として与えるとたわむれをいうと、命令どおり、八房は影連の首を取って戻る。

 そのおかげで里見方は危機から脱することができた。伏姫は儀実が約束したことを果たすために、八房の背に

 乗り、安房の国で第一の高峰である富山の山中へ入った。

   伏姫は、幼い頃、役の行者の化現神仏が姿を変えてこの世に現れること)であるという老人からもらった

水晶の念珠をもって法華経を読んで暮らし、八房はその傍らに仕えていた。

 ある時、伏姫は草刈りの童に、八房の前世は里見儀実に

 恨みをもっていた女で、犬として生まれ変わり、儀実父子を辱めたと教えられる。

 しかし、伏姫の読む法華経を聞いてその恨みは消え、両者の菩提心によって伏姫は身ごもったことを知る。

 里見儀実と五十子は伏姫の身を案じて富山に入り、家臣の金碗大輔(かなまりだいすけ)

  八房を銃殺する場に遭遇する。

  もう一発の銃弾が誤って伏姫に当たり、妊娠していた伏姫は、それが八房の子ではないことを証明するために、

 守り刀を腹に突き立てる。

 その瞬間、腹から白気がひらめき出て、伏姫が襟にかけていた水晶の数珠を包んで中空に上がると、

   数珠はちぎれ、仁・義・礼・智・信・孝・悌の文字が浮かぶ八つの玉が光を放って飛び散った。

  この八つの玉はそれぞれ、犬塚信乃、犬川荘助、犬飼現八、犬山道節、犬田小文吾、犬江親兵衛、犬坂毛野、

  犬村大角という八犬士となって生まれ変わる。金碗大輔は出家してちゅう大法師と号し、八つの玉を探すために

 旅に出る。八犬士は、それぞれの境涯で義を貫いて悪人を征伐し、義兄弟の契りを結ぶが、ちゅう大法師に

 導かれて里見家に集まり、鎌倉管領の扇谷定正と戦って再興を果たす。

                    講談調の文章である。

                 

                  方丈記

                

        建暦二年(1212年)に鴨長明(1155?~1216年)によって書かれた随筆。

    鴨長明は京都・下鴨神社の禰宜だった鴨長継の次男として生まれたが、神職は継がず、宮廷に仕える。

    和歌や琵琶の名手で、後鳥羽院に和歌所の寄人<sup>(職員)</sup>に抜擢された。

 「新古今和歌集」にも作品が収載され、官延歌人として活躍していた長明が隠遁生活に入るきっかけになったのは、

    亡父の跡を継ぐ話が頓挫したことである。下鴨神社の摂社である河合社の禰宜に、という話が、

 鴨祐兼の反対に遭って実現せず、その後、長明は行方をくらまし、大原に隠れ住む。

      家職を継げなかったことは長明にとって非常にショックであったらしく、神職の家柄であったのに、なんと仏教に

    帰依して出家してしまうのである。後に、日野外山の奥に一丈(約3m)四方の方丈の庵を結び、

 その地で「方丈記」を書いた。

  長明が生きた時代は、政権が藤原氏から平氏へ、そして源氏へと移る激動の時代であった

 「方丈記」は、60年余りの人生で長明が体験した、安元3年(1177年)大火、

 治承4年(1180年)の激しいつむじ風、養和1~2年(1181~82年)の飢饉、疫病、

 元歴2年(1185年)の大地震などの天変地異や、治承4年の福原遷都

    の後の廃都の荒れようなどを描き、人も住まいも不変ではなく、移り替わるものであると説いている。

   漢文まじりで独特のリズムをもつ美しい文章で綴られており、特に冒頭の文章は無常観漂う名文である。

  「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶたかたは、かつ消えかつ結びて、

 久しくとどまりたる例なし。世中にある人と栖<sup>(すみか)</sup>と、またかくのごとし

〔河はいつも絶えることなく流れているが、その水はいつも同じではない。

水が淀んでいる所に浮ぶ泡は消えたり、また別の泡が出来たりして、いつまでも

同じ状態でいることはない。世の中の人や住まいも、また河の流れや水の泡と同じようなものである  このあとに、ぎっしりと家が立ち並んだ美しい都の景色も天災や人災などで一変して、水面に浮ぶはかない泡と

変わらない、と続ける。常ならぬ世を証明するかののように、大火やつむじ風の勢いのすさまじさ、

地震の激しさ、逃げ惑う人々の様子、その後の都の荒廃した有様などを生々しく模写している。

     また、飢饉の時の人々の困窮の様子も詳しく書かれており、・・・・・・

 また、権力をもつ者にすり寄ったり、金持ちをうらやんだりする人のも人の性だが、そういう処世法て・・・・・ 

 また、自分の人生ににも触れて、「つひにあととむる事を得ず〔とうとう神職である家をもちこたえることが

  できなかった〕」と書いているから、禰宜となって親の跡を継ぐことができなかったのが、

よほど無念だったのだろう。

   日野外山の庵は、かつての住まいに比べると百分の一にも及ばない四畳半ほどの小さな家で、いつでも移築

 できるように材木をかけはずし式にしてある。このような簡素な住まいであるが、

 四季の移り変わりもたのしめるし、

  人との付き合いがないので、修行を邪魔するものもなく、言葉による悪い行いを犯すこともない、自分にとって心や すらぐ住まいであると、長明はここで自足の日々をおくる。

しかし「何事にもとらわれるな」というのが仏の教えでもあるのに、この庵での生活に執着しているのは罪と

 いうべきでないか、自問し、答えを見いだせないまま、長明は筆をおく。

               

                   

                   東海道中膝栗毛

        十返舎一九(1765~1831年)が書いた滑稽本。正篇、続篇合わせて32篇で、

 享和2年(1802年)から文政5年(1822年)まで21年かけて刊行されたロングセラーである。

  十辺舎一九は駿河(静岡県)の千同心の子として生まれ、小田切家に仕えていた頃、任地の大阪で浄瑠璃

    作者に師事して物書きの道に入る。その後、江戸に出て出版元の蔦屋重三郎の家に居候し、黄表紙や洒落本の

    執筆に当たった。著書に黄表紙の「心学時計草」などがある。

      辞世は「此世をばどりやおいとまにせん香とともにつひには灰左様なら」。自分の遺骸が荼毘に付された時

     花火が上がるように仕掛けておいて、会葬者を驚かせたと伝えられている。

  「東海道中膝栗毛」は、親から受け継いだ財産を役者道楽で食いつぶしてしまった、駿河生まれの

     栃面屋野次郎兵衛と、元旅役者の喜多八が伊勢参りに行く道中を描いたもの。

    狂歌や画が得意だった一九は、ところどころに「おとまりはよい保谷(保土ヶ谷)と止め女戸塚では

   (とっつかまえては、をかける)はなさざりけり」などの狂歌を織り込んだり、自分でも挿絵を描いている。

駄じゃれや地口を駆使した軽快な語り口に加えて、登場人物に当時大評判を取った『仮名手本忠臣蔵』の天川屋

義平を借りてきたり、弥次郎兵衛に十返舎一九の名を騙らせるなどして、読者サービス精神を発揮している。

     弥次郎兵衛と喜多八は、生来、そこつな人間で、小田原の宿では、五右衛門風呂の入り方を知らなかったため、

  下駄をはいて入浴し、風呂桶の底を抜いてしまったり、大阪へ向かうつもりが船を間違えて京都に戻ってしまったり

   する。宿などで出会った女にやたらにちょっかいを出してはへまをする。そんな失敗を繰り返しながら、

     さらに草津温泉や善光寺へと旅を続けていく。

   安倍川餅や桑名のしぐれはまぐりなど、行く先々の途中の名物や方言、風習などを紹介してくれるこの道中記は、

  当時の人たちにはガイドブックも兼ねる楽しい読み物だったにちがいない。

     初めは蔦屋重三郎が引き受けてくれず、他の版元から出すという心もとないスタートだったのが、

 この本の売れ行きが良かったため、その後、二匹目のドジョウを狙った膝栗毛物のブームが起きたいう。

                          

      他にも

              蜻蛉日記(平安時代中期)・和泉式部日記(平安時代中期)・更級日記(1060年頃)・

   とはずがたり(鎌倉時代後期)・御伽草紙(室町時代)『語り聞かせ退屈を慰める物語という意味』

  一寸法師、大江山の酒吞童子、信濃のものぐさ太郎、 鉢かづき(鉢かぶり姫)・

  落窪物語(平安時代前期) など。

                

              日本の古典より  阿刀田高(監修) ・ 日本の古典より千明守著書