故事

      「邯鄲の夢 ・ 黄粱一炊の夢」 「長鋏(ちょうきょう)よ帰来(かえ)らんか ・「狡兎三窟」

 

     「複(ま)た呉下(ごか)の阿蒙(あもう)に非(あら)ず」         「完璧(かんぺき)」 「願書」

 

                「刎頸(ふんけい)の交(まじわ)り」                 「文章は経国の大業」

 

              「瓜(か)田に履(くつ)を納(い)れず、李(り)下に冠を正さず」 「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う」

    

                「功名を竹帛(ちくはく)に垂(た)る」 「香炉峰の雪は簾(すだれ)撥(かか)げて看る」

 

               「古稀」 「危うきこと累卵のごとし」 「老馬の智」 「朝三暮四」 「画竜点睛」

 

          

 邯鄲の夢 ・ 黄粱一炊の夢

 

    唐の徳宗(在位、779~805)に仕え、【建中実録】(建中は780~783間の年号)などの史書を著わして歴史家として聞こえている

沈既済(しんきせい)に、【枕中記(ちんちゅうき)】という伝奇【唐代小説の総称】がある。

 

 唐の玄宗の開元年間【713~741】のこと、呂翁(りょうおう)という道士(どうし)が邯鄲【かんたん、河北省、趙のの旧都)旅舎で休んでいると、みすぼらしい身なりの若者がやってきて呂翁に話かけ、しきりに、あくせくと働きながらくるしまねばならぬ身の

不平をかこった。

    若者は名を盧生(ろせい)といった。やがて盧生は眠くなり、呂翁から枕を借りて寝た。

 陶器の枕で、両端に孔があいていた。 眠っているうちにその孔が大きくなったので、盧生が入ってみると、そこには立派な家が

あった。 その家で盧生は清河(せいが)の崔(さい)氏〈唐代の名家)の娘を娶(めと)り、進士の試験に合格して官史となり、

とんとん拍子に出世をしてついに京兆尹(けいちょういん)【首都の長官】となり、また出でては夷狄(いてき)を破って勲功をたて、栄進して御史大夫兼吏部侍郎になった。

  ところが、時の宰相になたまれて端州(たんしゅう)の刺史(州の長官)に左遷(させん)された。 そこに居ること三年、また召されて戸部尚書に挙げられた盧生は、いくばくもなくして宰相に上り、それから十年間、よく天子を補佐(ほさ)して善政を行い、賢相のほまれを高くした。 位(くらい)人臣を極めて得意の絶頂にあったとき、突然彼は、逆賊として捕らえられた。

 辺塞の将と結んで謀叛をたくらんでいるという無実の罪によってであった。 彼は縛(ばく)につきながら嘆息して妻子に言った。

    「わしの山東(さんとう)の家にはわずかばかりだが良田があった。 百姓をしておりさえすれば、それで寒さと飢えとはふせぐことができたのに、何を苦しんで祿(ろく)を求めるようなことをしたのだろう。 そのために今はこんなざまになってしまった。 

 昔、ぼろを着て邯鄲(かんたん)の道を歩いていたころのことが思い出される。 あのころがなつかしいが、今はもうどうにもならない・・・・・・。」

   盧生は刀を取って自殺しようとしたが、妻におしとめられて、それも果たし得なかった。 ところが、ともに捕らえられたものたちはみな殺されたのに、彼だけは宦官のはからいで死罪をまぬがれ、驥州(きしゅう)へ流された。

 数年して天子はそれが冤罪(えんざい)であったことを知り、盧生を呼びもどして中書令とし、燕(えん)国公に封じ、恩寵はことのほか深かった。 五人の子はそれぞれ高官に上がり、天下の名家と縁組をし、十余人の孫を得て、彼は極めて幸福な晩年を送った。 

やがて次第に老いて健康が衰えてきたので、しばしば辞職を願い出たが、ゆるされなかった。 病気になると宦官が相ついで見舞いに来、天子からは名医や良薬のあらんかぎりが贈られた。 しかし年齢には勝てず、盧生はついに死去した。

                     

   欠伸(あくび)をして眼をさますと、盧生はもとの邯鄲(かんたん)の旅舎に寝ている。 傍らには呂翁が坐っている。  旅舎の主人は彼が眠る前に黄梁(あわ)を蒸していたが、その黄梁(あわ)もまだ出来上がっていない。 すべてはもとのままであった。

      「ああ、夢だったのか!」

    呂翁はその彼に笑って言った。

      「人生のことは、みんなそんなものさ。」

  盧生はしばらく憮然(ぶぜん)としていたが、やがて呂翁に感謝して言った。

      「栄辱も、貧富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。 これは先生が私の欲をふさいで下さったものと思います。 

        よくわかりました。」

  呂翁にねんごろにお辞儀をして盧生(ろせい)は邯鄲(かんたん)はの道を去っていった。

               

   同じような説話の簡単なものは、すでに六朝時代の干宝(かんぽう)の「捜神記(そうしんき)」のなかにも見られる。

     「枕中記」より後のものには唐李公佐(りこうさ)の小説「南柯太守伝なんかたいしゅうでん」、明(みん)の湯顕祖(とうけんそ) の戲曲南柯記(なんかき)が同じ構想のものである。

   この「枕中記」の説話から、栄枯盛衰の極めてはかないことをたとえて「邯鄲(かんたん)の夢」とか「一炊(いっすい)の夢」

  「黄梁の夢」ということばが生まれた。 また邯鄲の枕」とも「邯鄲夢の枕」ともいう。

 

 長鋏(ちょうきょう)よ帰来(かえ)らんか ・ 「狡兎三窟」

                      

     斉人(さいひと)に馮諼(ふうけん)というものがいた。 貧乏で自活しかねたところから、門下に寄宿させてほしい、と人を介して孟嘗君田文に頼んでもらった。 孟嘗君が、

  「その客人は、なにが好きだ」

 ときくと、

   「べつにこれといってありません」

    といった。 孟嘗君はわらって、

             「承知した」

 といった。 側近のものは、主君が軽くあつかったので、野菜料理を食べさせた。

しばらくすると、柱にもたれ、剣ををたたきながら、こううたった。

              「長鋏(長剣)よ帰来(かえ)らんか、食らうに魚無し」

  側近のものがこのことを話すと、孟嘗君はいった。

              「門下の魚料理の食客なみにもてなしてやれ」

 しばらくすると、また剣をたたきながら、こううたった。

              「長鋏よ帰来らんか、出ずるに車無し」

  側近の者が、みなおかしがってこのことを話すと、孟嘗君はいった。

              「門下の車つきの食客なみにもてなしてやれ」

    かくて、馮諼は自分の車に乗り、剣をたかだかと持ち上げて、友人のもとに立ち寄り、

             「孟嘗君は、わたしを賓客にしてくれた」

       といった。

     それからしばらくすると、またもや剣をたたきながら、こううたうのだった。

            「長鋏よ帰らんか、以て家為(おさ)むる無し」

     側近の者はみな、食欲で足ることをしらぬ、とそしったが、孟嘗君はたずねた。

            「そなたには、親御があるのか」

            「老母がおります」

    孟嘗君は、人を母親のところへやって、食べ物や身の回り品を支給し、不自由させぬようにした。

 孟嘗君は、斉の威王孫で、当時は従兄弟の湣王(びんおう)(在位、前300~284)の宰相を勤めていた。

  食客三千人を擁していて、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君とともに、戦国時代の「四君子」と呼ばれている。 従って、

四君子には食客のまつわる逸話が多いが、馮諼(ふうけん)の話もその一つである。

   馮諼がうたわなくたってからよほど経って、孟嘗君は、封地(ほうち)の薛(せつ)へ人をやって、領民から貸付けを取り立てて

来させよう、と思い立った。 すると、あれ以来鳴りをひそめていた馮諼がじぶんから買って出て、

           「取り立ててしまったら、なにを買ってまいりましょうか」

       ときいた。

          「うちにあまりないものを買って来てもらおうか」

      と孟嘗君がいうと、馮諼はただちに薛へむかい、債務のある領民をあつめ、証拠の割符を出させてみな焼きすて、勝手に貸し付けを

  帳消しにしてしまった。 領民たちはよろこんで、孟嘗君の万歳をとなえた。 馮諼は、さっさと引き返して、孟嘗君にまみえた。

孟嘗君があまりの手早やさをいぶかりながら、

         「して、なにを買って来られた」

   ときくと、馮諼は言った。

         「あなたの宮中には珍宝が積まれ、畜舎には狗馬(くば)が満ち、後宮には美人がひしめいていますが、義がいささかご不足と

存じ、義を買ってまいりました」

            「義を買ったとはどういうことだ」

  と孟嘗君が詰(なじ)るのにこたえて、馮諼は委細を報告した。

    孟嘗君は不興げに馮諼をさがらせた。

 それから一年ほどして、孟嘗君は突然宰相を罷免された。

  公室につながる田甲という人物の反乱にかかわりがあると疑われたのである。薛へもどる孟嘗君の身は必ずしも安泰ではなかった。

 その孟嘗君を、薛の領民たちは、年寄を助け、幼な児の手を引いて、途中まで出迎えた。 孟嘗君は馮諼をふりかえっていった。

        「そなたが買ってくれたのはこれだったのだな」

 

   馮諼の話はこれで終わるのではない。 

    「狡兎三窟(こうとさんくつ)【はしっこい兎に三つの窟(あな)】

   という成語があり、これは、義を買った話からひき続いている。 馮諼は、

     「はしこい兎にも三つの窟がなければ死をまぬかれません。 いま、あなたには、窟が一つ(薛)しかおありにならず、

      まだ枕を高くしておやすみになるわけにはまいりません」

というと、魏へ出かけ、恵王(在位、前369~319)を説いて孟嘗君を宰相として迎える使者を薛へおくらせ、孟嘗君にその

招聘(しょうへい)を固辞させた。 これを知った斉の湣王は反乱連座の疑いも消えていたので、賢能の逸材の流出をおそれ、ふたたび宰相に迎えた。

  すると、馮諼は孟嘗君に、湣王に請うて、薛に宗廟を建てさせてもらうよう勧めた。 孟嘗君に二心のない証しともなり、宗廟が

あれば、 王が薛を攻めることはできぬからである。 おかげで、孟嘗君は地位も封邑も安泰になった。 宗廟ができあがると、馮諼は孟嘗君にいった。

      「さあ、窟が三つ(薛、魏、斉)仕上がりました。 当分、枕を高くしておやすみなさいませ」

  以上の話はみな「戦国策」の斉策四に記されているところである。

   「狡兎三窟」という成語は、いざというときの逃げ場、という意味に用いられている。

 

 

 

 

   「複(ま)た呉下(ごか)の阿蒙(あもう)に非(あら)ず」   

 

   魏・呉・蜀漢がならび争っていた三国時代のある日、呉王の孫権(そんけん)は臣下にこ

う語った。

       「学問というものは、自分できりひらいていくべきものだ。 あの呂蒙(りょうもう)ははじめ学問がなかったのだ。 わたしは彼に学ぶことをすすめた。 いったんはじめると、呂蒙はうまずたゆまず学びつづけていた。 そのうち魯粛(ろしゅく)が蒙と議論を してみた。 ところが、魯粛のほうがかなわないほどの博識ではないか。 魯粛はよろこんで、蒙の背をなでていったそうだ。 

      【きみが武略に長けているのは 知っていたが、ただそれだけだと思っていた。 どうしてどうして、こんなに学識もひろくなって、もう呉にいたころの蒙さんとは大ちがいだ

        複(ま)た呉下(ごか)の阿蒙(あもう)に非(あら)ず)・・・・・・・】

  すると蒙は昂然としていった。【およそ士というもの、別れて三日たったら、つぎに会うときは目をこすってみるものだ。 

                      日に日に進むものだよ】とな。」

 阿蒙の阿は親しんでいうことばで、 蒙さんとか蒙君とかいうことになる。 若いときから知っていた魯粛(ろしゅく)は、

呂蒙(りょうもう)をこうよんだのである。 これを出典にして、「復た呉下の阿蒙に非ず」ということばが、学問がすすんだことや、面目を一新したことをあらわすのに使われるようになった。 逆に、「呉下の阿蒙」とだけいえば、昔ながらいっこうに進歩しない者や、学問のないつまらぬ人物をあらわす。 それはともあれ、呂蒙の進歩は孫権(そんけん)にとって、まさに大きなことであった。<

   孫権が兄孫策(そんさく)のあとついで曹操(そうそう)や劉備(りゅうび)と対立したころ、彼をよくたすけたのは

周瑜(しゅうゆ)だった。 周瑜は四万と号する曹操の大軍を赤壁(せきへき)の戦いで打ち破り、呉の力を強めたが、志なかばで死んだ。 彼が最後まで心配していたのは、劉備の勢力が湖南省で確立され、呉の西進をはばむようになることだった。 彼はいまのうちに劉備を討つことを献策しようとしているうちに、たまたま病死したのである。 魯粛(ろしゅく)があとをついで孫権をたすけた。 

彼のやり方は周瑜とは違っていた。 むしろ劉備をつよめ、同盟して強力な魏(ぎ)の曹操(そうそう)にあたろうとしたのである。 そして、この機会をつかんで劉備(りゅうび)は蜀(しょく)をうばいとり、三国鼎立(ていりつ)の形となった。 劉備の将で、勇猛をうたわれた関羽(かんう)は荊州(けいしゅう)をおさえていた。 劉備と呉の約束では、蜀に入れば荊州は呉に返すはずだったが、それはしらぬ顔だった。 このとき、魯粛が死んだあとをうけて孫権を補佐したのが、呂蒙(りょもう)である。

  彼は孫権にすすめて、ひそかに曹操と連絡させ、関羽が中原に出撃しているすきにその根拠地をおそった。 はかりごとは功を奏して、呉は関羽の諸城をつぎつぎに抜き、そしてついには勇将関羽も捕われ、寒風のなかに首を落とされてしまう。 呉の地歩はこの呂蒙の策によってほぼかたまったといえた。 たしかに呂蒙は、もう呉下の阿蒙ではなかったのである。

 

      「要領を得ず」

                  

      漢のころまで、万里(ばんり)の長城の西はなぞだった。 砂嵐のふく砂漠の北には匈奴(きょうど)がおり、ときに南下して中国を侵した。

 甘粛(かんしゅく)には月氏(げっし)の国があった。 その南にはチベット系の羌(きょう)が遊牧していた。 だが、砂漠をこえた西になにがあるかは、ほとんどわからなかった。 そのころ、はるか西方に旅してその状況をつたえたものがある。 

 その名を張騫(ちょうけん)という。

 漢の武帝(ぶてい)のころ、匈奴はその最盛期にあって、東は熱河から、西はトルキスタンにいたる地をおさえ、漢はそれになやみつづけていた。 たまたま武帝は、匈奴の捕虜の話に心をうごかされた。 月氏が匈奴のためにもと住んだ地を追われて遠く西にうつり、ふかく匈奴をにくんでいるというのだ。 では、月氏と呼応して匈奴を討ったらどうか? 武帝は月氏に使いするものを募った。

 このとき公募に応じて、使者にえらばれたのが、当時はただの一役人だった張騫(ちょうけん)である。 彼は従者百余人をつれて、長安(ちょうあん)を出発した。

    めざす月氏は西方の伊犁(イリ)にいるとしかわからぬまま、一行は西へすすんだ。 だが、隴西(ろうせい)をでると、彼らはたちまち匈奴(きょうど)に捕えられてしまった。これから、ながい匈奴生活がはじまる。 からりとした気性を愛されて、匈奴の娘を妻にあてがわれ、子までできた。 だが張騫(ちょうけん)は漢の使者の符節(ふせつ)を身につけ、じっと機会をを待っていたのだった。 捕らわれて十余年、彼はついに妻子と従者をつれ、西方に脱出した。 そびえたつ天山山脈の南にそって、彼はオアシスをちりばめたターリム盆地を横ぎり、大宛(だいえん)国についた。 今のフェルガナ地方で葡萄酒と名馬を産する地である。 ここで月氏はさらに西にいると聞いて、康居(こうきょ)をとおり、やっとアム川の北にある月氏の宮廷についた。

    張騫はすぐ月氏の王にあって、武帝の意をつたえた。 だが事情は変わっていたのである。 月氏はこの西方にうつってから、すでに南の大夏(たいか)(バクトリア地方)を属国にし、土地の饒(ゆた)かさと、敵のないことに満足しきっていた。 旧怨をすすぐために、はるか遠くの匈奴と戦うなど、おろかなことであった。 張騫(ちょうけん)は大夏までもでかけて画策したが、月氏を動かすことはできなかった。 

   このことを史書は、「ついに使命とする月氏の要領を得られず、留まること一年余りで帰途についた」と述べている(「史記」大宛伝、「漢書」張騫伝)。

  要領にはいくつか解釈がある。 要は腰、領は首筋のこととするのが一つ。

  「呂覧」(りょうらん)の「季秋紀篇」(きしゅうきへん)に「要領属(つら)ならず、首足処(ところ)を異(こと)にし」というのは、首と腰が斬りはなされる意だ。 もう一つの解釈では、要領は衣服の腰と襟の意で、着物を持つときはこの二点を持つから、転じて主要な点をさすようになったとする。主要な点、筋道という意味であるには変わりがない。 「要領を得ない」とか、要領がいいとか悪いとか、日常につかわれるほどになっている。

   月氏を出発した張騫は、こんどは崑崙(こんろん)山脈の北にそって帰ったが、また匈奴に捕えられた。 一年余りして、彼は匈奴の内紛に乗じて脱出し、ついに長安に帰った。 出発してから十三年、はじめの一行のうち彼とともに帰ったのは一人だけだった。

    張騫はそののちも西域のことに力をつくした。 そして彼の大旅行は、月氏の要領こそ得られなかったが、はかり知れぬものを中国の歴史にあたえたことになった。東西の交通がここに開けたのである。 西方の国からは葡萄や名馬、宝石、石榴(ざくろ)、西瓜、楽器の琵琶等々、そして漢からは金や絹などが、天山の道を運ばれはじめた。 いわゆる「絹の道」 (シルク・ロード)である。)

     

  「願書」

 

   はてしない空、そしてその下に目路(めじ)のかぎりつづくかとみえる、海のような湖、また湖のまわりの大密林。

  人かげもない。 だが今、とある丸木小屋から、その湖のほとりにさまよいでた男があった。 手には弓矢、頭から毛皮をかぶり、髭はぼうぼう と顔をおおう。 まるで山男だ。 だが、その眼のなかには、澄んだ不屈の輝きがある。 頭の上をこうこうと鳴きわたる

音(ね)に、彼はふっと空をみあげた。

        「雁(かり)がもう渡るそうな。」

  この人、名を蘓武(そぶ)という。 蘓武は漢(かん)の中郎将(ちゅうろうしょう)であった。 武帝の天漢元年(B,C、100)彼は使いとして、北のかた匈奴(きょうど)の国に赴いた。

  だが、匈奴の内紛にまきこまれて、使節団はすべて捕らえられ、匈奴に降るか、それとも死ぬか、と脅かされた。 そして、蘓武だけはついに降らなかった。 彼は山腹の窖(あなぐら)にとじこめられ、食を絶たれた。 そのとき、彼は毛氈(もうせん)をかみ、雪をのんで飢えをしのいだという。 蘓武が何日たっても死なないのを見た匈奴は、これを神かとおどろき、ついに、北海(バイカル湖)のほとり人げのないところにやって、羊を飼わせることにした。 だが与えられたのは牡羊ばかりであり、そしてこう言われたのである。

          「牡羊が子をうんだら、国に帰してやろうさ。」

 そこにあるのは空、森、水、きびしい冬、そして飢えだった。 盗賊が彼の羊をぬすんでしまった。 彼は野鼠を掘って飢えをしのいだ。 それでも彼は匈奴に降ろうとはしなかった。 いつかは漢に帰れる、と期待したからではない。 ただ、降ろうとしなかったのだ。 この荒れはてた地の果てに流されて、もう何年の歳月がたったのか、それすらもおぼろであった。 きびしい、単調な日々。 

しかし、ひろびろした空を渡る雁は、蘓武にその故郷を思わせるのである。・・・・・

   武帝が死に、つぎの昭(しょう)帝の始元(しげん)六年(B,C、81)漢の使いが匈奴のもとに来た。 漢使は、さきごろ匈奴に

使いしたまま消息を絶った蘓武を還してほしい、と要求した。 匈奴は、蘓武はもう死んだ。 この世の者ではない、と答えた。

真偽を押してたしかめるすべは、漢使にはなかった。 だが、その夜のことである。 さきに蘓武(そぶ)とともに来て、ここに留っていた常恵(じょうけい)というものが、漢使をたずねて、なにごとか教えた。 つぎの会見のとき、漢使は言った。

       「漢の天子が上林苑(じょうりんえん)で狩をしておられたとき、一羽の雁をしとめられた。 ところが、その雁の足には

  帛(きぬ)がつけられ、帛にはこう書いてあったのだ。 蘓武(そぶ)は大沢の中にある、と、蘓武が生きているのは明白だ。」

 匈奴の単于(ぜんう)(酋長)はおどろきの色をみせ、なにか臣下とうちあわせた。 そして言った。

        「まえに言ったのはまちがいだった。 蘓武は生きているそうだ。」

  作り話は、うまくあたった。 たちまち使者がバイカル湖めざして奔り、蘓武はつれもどされた。 髪もひげもことごとく白く、破れた毛皮をまとった姿は牧人と変わりなかったが、その手には漢の使者の手形である符節(ふせつ)をしっかりとにぎっていた。 

 蘓武は国に帰ることになった。 捕えられ、北海のほとりで飢えや寒さとたたかううちに、いつか十九年がたっていた。

          (「漢書」蘓武伝、「十八史略」)。

     この故事がおこりとなって、手紙やおとずれのことを、「雁書」と言いならわすようになった。 また雁札(がんさつ)、

雁信(がんしん)、雁帛(はく)などともいう。 わが国でも古くからよく使われることばである。 雁(かり)の玉章(たまずさ)、かりの便り、かりの使い、雁(かり)の文章(ふみずさ)などとも言いならわす。

   風が立ちそめるころ、大空をこうこうと鳴きわたる雁のむれは、たしかに何かをわたしたちのもとにもたらすのだ。 そして、よし手紙ではないにしても、わたしたちの心のなにかを、ともに運んでゆくのである。 わたしたちの想いはそれを追って遠くのかなたへかけてゆく。

                     

                          九月(ながつき)のそのはつかりの使いにも  おもう心はきこえ来ぬかも (万葉集)

 

       「完璧(かんぺき」

 

       「完璧(かんぺき)」の壁(へき)とは、環形に磨きあげた上質の玉、従って「完璧」とは一点の非の打ちどころのない立派な(玉の)状態であり、「壁を完うする」と訓(よ)めば、りっぱなものをそっくり無事で元にもどすという意味でもある。 ことばの出所になった元の故事は、やはり「壁を完うする」方で、こんな話である。<br>

     戦国時代、趙(ちょう)の国の恵文(けいぶん)王は世にも珍しい「和氏(かし)の壁(へき)」といわれる高価な壁を愛蔵していた。

 もとはといえばお気に入りの家来の繆賢(ぼつけん)がよそから手にいれたものを、恵文王が無理矢理に召しあげてしまった格好のものだがそれはともかく、今では趙(ちょう)の国の名題(なだい)の珍宝として、その名は遠近に隠れもない。

    趙の西には当時ようやく強盛になった秦の国がある。

その秦の昭襄(しょうじょう)王は、趙に伝わる珍宝「和氏(かし)の壁(へき)」の噂を聞くと、なんとかして手に入れたくて仕方がない。さっそく薛に使者を遣して、し秦の領内の十五城と「和氏の壁」を交換しようではないかと申しこませた。 趙にしてみれば至極の難問である。

  申し出をことわればそれを口実に戦争をしかけられる惧れがあるし、おとなしく壁を渡せば、横車を押すことの好きな

昭襄(しょうじょう)王のことだけに、それを受け取って十五城の話は知らぬ顔もされかねない。

   そこで恵文(けいぶん)王は重臣たちを集めて鳩首協議すると、繆賢(ぼつけん)が進み出て、

      「秦の申し出はまことに難題ではございますが、わが幕下の食客に藺相如(りんしょうじょ)という智謀と勇気をかね備えた男がおり ます。彼ならば秦に使いしてもこの難局に処しておめおめひけをとることはあるまいと存じます。」

 と言う。

さっそく藺相如(りんしょうじょ)を引見すると、果して堂々たる面魂(つらだましい)の頼もしげな男、臆するところもなく秦への

使者の儀を引き受けた。 秦では趙からの使者到来と聞いて、ただちに対面の段取りとなった。

 昭襄王はさし出された壁を受け取ると御機嫌斜ならず

     「ふむ、ふむ。 これが名題の壁か、さすがは見事なものじゃ。」

と並み居る竉(ろう)姫や近臣にも手渡して、もうすっかり自分のものになったような顔、そのくせ引き換えの十五城の話などはおくびにも出さない。 その様子を見てとった藺相如は、かねてこの事あるを予期していたので、眉ひとつ動かさず、静かに進み出て言った。

     「その壁にはひとところ微かな瑕(きず)がございますれば、お教え申しあげておきとう存じます。」

 言われて昭襄(しょうじょう)王が何げなく壁を手渡すと、藺相如は壁を手にしたまま、するすると後ろの柱のところまで

後ずさりし、怒りの形相物凄く、昭襄王をハッタと睨んでよばわった。

      「王よ、わが趙の国は貴国との情詮を重んじたればこそ、かくは拙者をして壁を持参致させたのでござりまするぞ。 されどいま、

王は壁のみ取って、約束の十五城をお渡しなされるお気持ちが露ないこととお見受け申した。 壁はひとまず拙者の手もとに収め申す。

ならぬとあれば拙者の頭ともどもこの壁を、ここな柱でうち砕きましょうぞっ!」

 さすがの昭襄(しょうじょう)王も壁を砕かれてはそれまでと、顔をやわらげて交換の約束を実行すると誓ったが、藺相如は王に到底

その約を果たす誠意なしと見てとって、口実を設けると壁を携えて宿所に帰り、そのまま従者を変装させて壁を趙にして持ち帰らせてしまった。

 昭襄王にしてにれば、もともと十五城を手渡す意志は毛頭ない。壁を手に入れそこなったのは残念だけれど、自分の方にもひけ目がある。 おのれをたばかった藺相如</font>を小癪(こしゃく)な奴とは思うけれど、またあっぱれ豪胆(ごうたん)な男でもあるというので、いきりたつ家臣を制して鄭重(ていちょう)に相如をもてなし、無事に趙へ帰らせた【「史記」藺相如伝】

 

  この藺相如(りんしょうじょ)、後には将軍廉頗(れんぱ)と「刎頸(ふんけい)の交わり」を結んで、趙(ちょう)国の柱石の臣となった人物である。

 

 

  「刎頸(ふんけい)の交(まじわ)り」

      

  趙(ちょう)の恵文王(在位前299~266)が和(か)氏の壁(へき)という珍宝を手に入れた時、秦の昭王(在位前307~251)が、

これを秦の十五城と交換してもらいたいと申し出た。

   強い秦の申し入れを断るわけにはいかない。 かといって秦が素直に十五城をくれるとも思えない。 このむずかしい交渉に使者として

 立ったのが藺相如(りんしょうじょ)であった。

  彼は宦官の令、繆賢(びゅうけん)の食客にすぎなかったが、繆賢が彼の人物が並々でないことを見抜いて、強く王に推薦したのである。

   秦王は藺相如に使者としての然るべき礼をそなえず、壁を受け取ると、嬉しそうに侍臣や官女に渡して見せ、もう自分のものにしてし

まったような有様だった。 とうてい十五城を交換によこす気はない、と見て取った藺相如は、

         「壁に瑕(きず)がありますから、お教えしておきましょう」

   といって壁を取り戻すと、柱を背に、すくっと立って、秦王の不信を責め、

         「王が壁を奪おうとなされば、この壁私の頭とともに、この柱で砕けるのですぞ」

    結局この交渉は秦に誠意がなく、不調に終わったが、趙も相如の働きによって壁を秦に取られず、辱しめを受けずにすんだのであっ

 た。

  趙王は喜んで、相如を上大夫に取り立てた。

 その後、秦王は趙を刈って石城を抜き、その翌年、ふたたび趙を攻めて二万人を殺し、使者を送って、澠池(めんち、河南省)で趙王と

  会見し、和平交渉を行いたいと通告した。

 趙王は恐れていきたがらなかったが、将軍廉頗(れんぱ)と藺相如が、

         「王がおいでにならなければ、趙が弱くて卑怯であることを示すことになります」

   といったので、やむなく行く決心をした。 相如が随行し、廉頗が留守をあずかることになった。 廉頗は国境まで王を送り、訣別して

 いった。

         「道程を計算致しますと、往復に三十日はかからぬはず。 三十日たってお帰りのない時は、太子を立てて王位につけ、秦が太子を

   人質に取るのを防ぎたいと存じます」

  王はそれを許した。 みな必死の覚悟であった。

会見が行われ、宴となった時、秦王は趙王瑟(しつ)所望した。 趙王が瑟を弾ずると、秦の御史が進み出て、

            「某年某月某日、秦王、趙王と会飲し、趙王をして瑟を鼓せしむ」

    と記録した。 すると藺相如が進み出て、

             「こんどは秦王にひとつ秦のお国ぶりを奏していただきたく存じます」

    といった。 秦王は立腹して、承知しなかった。 相如は楽器の缻(ふ、瓦器)を秦王の前に押しやり、跪いて、さらに懇請した。

  秦王は応じない。 相如はいった。

              「ただいま、大王と私の間の距離は五歩にすぎません。大王はこの相如の手のうちにおありになるのです」

    秦王の侍臣が相如を斬ろうととした。相如は眼を怒らせて叱咤(しった)した。 侍臣たちはみな気を呑まれてたじろいた。 秦王は

 不承不承、缻を撃って一曲を奏した。 相如は趙の御史を呼んで記録させた。

              「某年某月某日、秦王、趙王のために缻を撃つ」

  秦の群臣がいった。

             「何とぞ、趙の十五城を献じて、秦王の寿をお祝いください」

   相如がいった。

             「何とぞ、秦の咸陽(かんよう、都)を献じて、趙王の寿をことほがれますよう」

   秦王はついに酒宴が終わるまで、趙を屈服せせることができなかった。

 この会談の間に趙の本国では、懸命に軍備をととのえて、秦にそなえた。 このため、秦は行動を起こすことができなかった。

 

    帰国すると、趙王は藺相如の功を大として、上卿に任じた。 相如は廉頗よりも上の位についたわけである。 廉頗はいった。

         「わしは趙の将軍として、攻城野戦の大功がある。 しかるに藺相如は口や舌を動かしただけで、わしの上に位しおった。 

 それに、相如は下賤の出だ。 こんな者の下につくなどということが、できるものか」

   そして、「こんど相如に会ったら、きっと恥をかかせてやる」 と宣言した。

  相如はこれを聞くと、つとめて顔を合わさぬようにし、参内する時も、いつも病と称して、朝廷で廉頗と序列の争いが起こらぬようにし

 た

   ある時、相如が外出すると、遠くに廉頗の姿が見えた。 すると相如は、車を横道に入れて、逃げ隠れた。 相如の家来たちがいった。

                 「私どもが殿にお仕えしているのは、殿の高儀を慕えばこそです。 それがこのように廉頗将軍を恐れて逃げかくれるとは、

 凡愚の者すら恥じとするところ。 私ども、お暇を頂戴致しとうございます」

    藺相如はいった。

              「貴公らは廉将軍と秦王と、どちらが上だと思う」

              「それは秦王には及びませぬ」

    相如はいった。

              「その秦王の威力をもものともせず、相如は延中に彼を𠮟咤して、その群臣をはずかしめたのだ。 相如、愚鈍なりとはいえ、

 なんで廉将軍のみを恐れようか。 ひるがえって考えるに、強国秦が、あえて兵を趙に加えぬ理由は、ひとえに廉将軍とわたしと、

 この二人がいるからだ。 今、この両虎がお互いに戦ったならば、その勢いはともに死するに到るであろう。 わたしが逃げかくれてい

 るわけは、国家の急を先にして、私ごとの怨みを後まわしにしているからなのだ」

 ここから、両雄、両強国が戦うのを「両虎相戦う」というのである。

    さて、廉頗はこの話を聞いておおいに恥じ、肌ぬぎになって笞刑(ちけい)に用いる荊(いばら)を背負い(自ら罰する意思をす)、

 賓客に 仲立ちを頼んで藺相如の家に行き、罪を謝していった。

               「つまらぬ賤しいこの私、将軍がこれほどまでに寛大であるとは知りませんでした」

     そして、ついに二人は仲なおりし、生死をともにし、首を刎(は)ねられても心を変えないほどきわめて親しい交わりをした。

                        

 

            「文章は経国の大業」

 

  後漢末、大将軍として魏(ぎ)の基(もとい)をきずいた曹操(そうそう)は、卓抜な政治家であり武人であったばかりではなく、豊かな感受性を備えた詩人でもあった。 彼は同じく優れた詩人であった次子の曹丕(そうひ、のちの魏の文帝)、第四子曹植(そうしょく)とともに、身辺に多くの文人たちを抱え当時の年号である建安(196~220)にちなんで、中国文学史上、「建安時代の文学」と呼ばれる画期的な文学隆盛時代を生み出した。

      「建安時代の文学」の特徴を概括したことばに、「建安の風骨(ふうこつ)というのがある。 「風」とは当時の作品の充実した内容を指し、「骨」とはそれらのたくましい力強い表現を指す。 後漢末の軍閥混戦時代、みずからも生死の境を彷徨し、また戦火と

飢餓に追われ虫けらのように死んでいった悲惨な人民の姿を見てきた彼らは、儒家思想に拘束された固苦しい漢代の文学潮流にあきたらず、「詩経」や「楚辞」などの先秦の文学作品、および「楽府(がふ)と呼ばれれ漢代の民歌に範をもとめ、それらの形式を借りて、

あるいは剛健な、あるいは優美な作品を数多く作りだした。

   これを詩の面でいえば、その質撲剛健さを代表するのが曹操であり、その繊細華麗さを代表するのが曹植である。

曹植は建安第一の詩人として今日なお多くの読者を持っている。 兄の曹丕もまた情感あふれる詩を多く作り、詩形式の面で六言、七言

雑言(ざつげん)などの実験を試みて、その「燕歌行」で後世、七言詩の祖と仰がれる業績を残した。

     彼らは当時第一流の文人たちを身辺に集め、君臣関係にこだわらない友情を結び、文芸サロンを作っていた。 なかでも、

孔融(こうゆう)、陳琳(ちんりん)、王粲(おうさん)、徐幹(じょかん)、阮禹(げんう)、応瑒 (おうとう) 、劉楨 (りゅうてい) の七名は、後世「建安の七子」と呼ばれ曹操父子とならんで建安時代を代表する文人であった。

   この「建安の七子」を顕彰し、後世に残したのが曹丕である。

曹丕は220年、34歳のとき、漢の禅(ゆずり)を受けて魏朝を建てたが、そのしばらく前、皇太子時代(217~220)に1つの文章を書いた。 中国文芸批評の先駆となった「典論(てんろん)」がそれである。

   この論文は後に散逸し、今日見ることができるのは、「自叙」と論文」篇のみである。 「論文」は、孔融ら七子の作品に則して、文学の本質は「文は気を以て主となす」(文章のもっとも重要な要素は作者の個性である)という有名な「才気説」を展開し、それぞれの作品の得失を論じたあと、徐幹をあげて、彼こそが「一家言」(独自の見解)を打ち立てた人であると激賞している。

 この「論文」篇だけで、「典論」の全容を推察するわけにはいかないが、当時の曹丕が考えていたことが、ここに集約されていることは間違いないであろう。 これより先、217年、疫病の大流行があって、彼は徐幹、陳琳、応瑒 、劉楨らを一時に失い、また同じ時に王粲も失った。 孔融は、これより先、207年に、その歯に衣(きぬ)着せぬ言動によって曹操に憎まれ処刑されている。

     曹丕はこの七人の遺稿集をまとめた。 その感想を述べたものが、「論文」とならんで重要な「与 呉質書」(呉質に与うる書)(213年?)で、これらの事情から見てくると「典論」は、この遺稿集編纂を直接の動機として生まれたものと思われる。 呉質宛の書信にも、彼らに対する哀惜の情が繰りかえし語られているからである。 そして彼は、人の有限の生命と文章の無限の生命について述べるのである。思うに、文章をつくるということは、国家を治めることにかかわる大事業であり、万世不功の偉業である。 人の生命はかならず終わりあり、栄耀栄華もそのからだとともに終わってしまう。 この二つは人にとって免れることのできない宿命であって、文章の無限の生命にとうてい及ぶべくもない。 「文章は経国の大業」というのは、文芸は国家を治める上での大事業であるという意味で、文芸の政治的有効性を規定したものとしてよく知られている。 儒家の教えを体した知識人の理想は、徳をもって天下を治めることであるとされていた当時において、知識人は即ち政治家であったわけだから、この曹丕の規定はそれとして正しいし、このように解すべきなのだろう。

   だが今日の時点では、「文章をつくるということは国家を治めるにもひとしい大事業であ」と解してもよかろう。 文学者の名はその

作品とともに、歴代帝王の名が残るように、無限に残るという意味においてである。 そして、またそのようにとったほうが、次につづく結論部分にすらりとつづくのである。

    故人は尺壁(せきへき)(一尺もある美玉)をさげすみ寸刻を重んじた。 それはひたすらに時間を惜しんだからである。 しかるに多くの人は努力を放擲し、貧賤になれば食うことのみを考え、富貴になればすぐさま逸楽にはしる。 そして、つねに目先のことばかりにかまけて、千年先にまで残る事業のことを考えない。 かくて年とともに衰え、ある日ふと土に反ってしまう。 これは心ある者にとって、痛恨おくあたわざるところである。

    曹丕は226年、在位七年にして死んだ。 わずか四十歳の若さだったが、彼の作品は今日まで残った。 文学はたしかに不朽の事業だったのである。 このことから、「経国の大業」という言葉が、後には文章や文学のことを指すようにもなった。

 

  「瓜(か)田に履(くつ)を納(い)れず、李(り)下に冠を正さず」

 

  周の烈(れつ)王の六年(BC,370)斉(せい)は威(い)王が位にあって、即位してから九年になったが、国内は一向に治まらず

 国政は佞臣(ねいしん)周破湖(しゅうはこ)の専らにするところとなっていた。 破湖は賢才有能の士をそねみ、即墨(そくぼく)(山東省)の大夫が賢明の士であったのに、これを誹謗(ひぽう)し、阿大夫はでくの坊であったのにかえってこれをほめそやすのであった。

   威王の後宮には虞姫(ぐき)という女がいたが、破湖のやり口を見かねて、虞姫は王に訴えた。 

      「破湖は腹黒い人です。 登用なさってはいけません。 斉には北郭(ほっかく)先生という賢明で徳行高いお方がいらっしゃるので

  すから、こういうお方をお用いになったほうがよろしゅうございます。」

    ところが、これが破湖の耳に入ってしまった。 破湖は虞姫を目の敵とし、何かとこれを陥れようとして、虞姫と北郭先生とは怪しいといい出した。 王は九層の台に虞姫を閉じこめて、役人に追及させた。 破湖は手を廻して係りの役人を買収していたので、その役人は、あることないことをでっちあげて、虞姫を罪におとそうとした。 しかし、王はその調べ方がどうも腑に落ちないので、虞姫を呼び出して自分から直々事を質(ただ)してみた。

      「私は十余年の間、一心に王のおんために尽くしてまいったつもりですが、いまは邪(よこ)しまな者どもに陥れられてしまいまし

  た。 私の潔白なことははっきり致しておりますが、もし私に罪があると致しますと、「瓜田で履ををはきかえず、李園を過ぎる時

  に冠を整さない」 という、疑われることを避けなかったことと、九層の台に閉じこめられましても誰一人申し開きをして下さる人が

  いなかったという、私の至らなさでございます。 たとえ死を賜りましょうとも、私はこのうえ申し開きを致そうととは思いまん。

  けれども、たった一つ、王にお聞き願いたいと存じます。 いま群臣がみな悪いことを致しておりますが、中でも破湖が一番ひどう

  ございます。 王は国政を破湖にお任せに なっていらっしゃいますが、これではお国の将来はまったく危いということでございま

  す。」

  虞姫が真心こめてこう言うのを聞いた威王は、俄(にわ)かに夢のさめる思いがした。 そこで、即墨(そくぼく)の大夫を万戸をもって封じ佞(ねい)臣の阿(あ)大夫と周破湖を烹(に)殺し、内政を整えたので斉は大いに治まった。 (列女伝)

                       

   人から嫌疑を受けるような挙動は避けるべきである、という意で、出典は、【文選】の楽府(がふ)古辞四首中の「君子行」。

但し、【文選】には李善(初唐の人)の注本と、呂延祚(りょえんそ)(盛唐の人)ら五人の共同による共同による五臣注本の二種類の異本があり、この楽府は前者には省かれている。

     古辞とは製作者のない漢代の楽府をいい、もともとは民間の歌曲であったらしい。 しかし「君子行」は、民間の歌曲としては、それにふさわさしい内容ではない。 「行」は歌曲というほどの意で、君子の世に処する態度を説いた歌である。

                     

        君子は未然に防ぎ、  嫌疑の間には処(お)らず、  瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、

       李下(りか)に冠(かんむり)を整(ただ)さず、  嫂叔(そうしゅく)は親授せず、  長幼は肩を比べず、

       労謙(ろうけん)にして其の柄(へい)を得(う)、 和光は甚だ独り難し、

                         

    周公は白屋に下り、 哺(ほ)を吐(は)きて餐(さん)に及ばず、 一(ひと)たび沐(もく)して三たび髪を握る、 

 後世 聖賢と称せらる.

  前半は、嫌疑の間にいてはならぬことを説き、後半は、功労を誇らず、謙虚であるべきを説いていて、詩の内容に不統一の感がある。

  逐語的に意味を追っていくと、君子は禍の起こらぬよう、事を未然ののうちに防がねばならないし、嫌疑を受けるような状況に自分の

 身を置いてはならない。 瓜(うり)畑に入って履をはき直したり、李(すもも)の木の下で冠をかぶり直したりすると、瓜盗人

(うりぬすと)と怪しまれ、李の実を盗みに来たと疑われるから、絶対にそんなことをしてはならない、ましてや、嫂と弟とが物を直接に手渡ししたりしていると、その間柄を怪しまれるし、年長者と年少者が肩をならべていると、礼儀知らずの徒輩と軽蔑される。

  功労を誇らず謙遜であってこそ君子たるの本領を得るのであって、甚だむずかしいことだが、自分の知恵を誇らず世俗と妥協することもまた君子として大切な心構えである。

  周公旦(周の武帝の弟で、孔子の敬慕してやまなかった人物)は、粗末な家に住む下賤な人々にさえ、へり下り、食事中に来客があれば

口の食物をいったん出して会いに出たし、髪を洗っている時に客があれば、三度も髪を握ったまま会いに出たほど、自分はへり下り、

他人をうやまうことを知っていた。 だから後世から聖賢と仰がれたのである。 君子であろうとするもの、自分のささいな行動にも、あらぬ疑いを受けて人からとやかく噂(うわさ)されぬよう注意するべきだし、またよく謙遜して他人を大切にあつかうべきである。

                          以上が大意である。

 

  「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う」

 

  鼎はふつう金属製で、三つの足と二つの耳をつけた深い器で、物を煮るのに用い、また、宗廟の宝器とされた。

  周の定王の元年(前606年)、楚の荘王は春秋の五覇の一人に数えられる(五覇の中に入れない説もある) ほどの実力者であり、

大いに天下に対する野心を持っていた。 この年の春、荘王は陸渾(りくこん)(洛水の西南)の戎(じゅう)を討伐してから、

洛水(らくすい)(黄河の支流で河南省を通る)のほとりに出た。 洛水の北には周の都洛陽(らくよう)がある。 荘王は周の国境に大軍をおいて、周王の出方(でかた)如何では攻撃しかねまじい勢いを示した。 定王は楚のデモンストレーションの驚き、大夫の

王孫満(おうそんまん)をやって荘王の労を厚くねぎらった。 ところが荘王は、歴代の王朝に継承され、いまは周の王室に代々伝わる鼎とはどんなものなのか、かねてから知りたかったので、この時とばかりに、その「鼎の大小軽重(けいちょう)」を聞いたので

あった。 この質問を受けて、王孫満は、鼎の由来から説き起こした。 その説明によると、そもそも鼎は夏(か)王朝の祖 禹(う)が、九州(昔中国を九分した)の長に命じて銅(原文では金)を献上させ、これを用いて鋳させたものである。 鼎の表面には万物の形を図にしてあり、人民に怪物の存在を教えたから、人民は安心してどんな山や川へも入って、生業に励むことができた。 しかし、

夏(か)の桀(けつ)王の世に鼎は 殷(いん)に移り、殷の紂(ちゅう)王の時に周に移った。 周の成(せい)王(第二代の帝)は鼎をこうじょく(今の洛陽)において、ここを王都と定めた。 以後定王に至るまで三十代、七百年間継承されて来たのである。 

 最後に王孫満(おうそんまん)は強調した。

        「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)が問題なのではありません。 徳があるかないかこそが問題なのです。 鼎は常に徳のある所

   に移って来ました。 今周の徳は衰えたといっても、今日まで鼎を伝えてきたことは、天の命ずる所でありまして、天命がすでに

   革(あらた)まったとは思われません。 従って鼎の軽重などたずねられるいわれはございますまい。」

    春秋時代はまだ周王の対面が保てた時代であった。 荘王も力ずくで周を攻めることもできなかったので、やむなく兵を引き上げる

ことにしたのである。

   この説話は「春秋左氏伝」によるものだが、「鼎の軽重を問う」ことは、帝位をねらう下心のあることを意味する。 というのは鼎の

由来を見ればわかるが、わが国の三種の神器のように鼎は帝位の象徴であったからだ。 しかしこれから転じて今は

         「相手の実力や内情を見すかして、その弱みにつけいる」 という意味に用いられるようになった。

  この話は「史記」によると、荘王が「人をして九鼎を問わしむ」となっている。 「九鼎(てい)」は中国全土九州になぞらえた言い方であるが、前の説話の鼎(かなえ)と同じことである。 ただ周室の廟(びょう)の「大呂(たいりょ)(大鐘)と結んで、「九鼎大呂(きゅうていたいりょ)」という言葉があるが、いずれも同じことで「伝来の宝」 「王位」 「重々しいもの」の意である。。

   余談であるが、「戦国策」の「東周」の所に、秦(しん)から九鼎を求められた周王が、臣顔率(がんそつ)の弁舌で斉(せい)王の力を借り、秦を追い払ったことが見えている。 しかし逆に斉(せい)王から九鼎を求められた時、顔率は「昔周は殷(いん)を討って九鼎を得たが、一鼎を九万人で引っ張って来た。 九鼎を移すには、九つで九九、八十一万人もの人手が要りますぞ」(鼎が九つのものか、一つのものか不明) と言って斉王を煙に巻いてしまう。 また同書「秦」の条にも「九鼎」の話が出ている。 

    ともあれその行方は周の滅亡(B.C.249)の時、秦に運ばれようとして泗水(しすい)(江蘇省沛県の北)に沈んだと伝えられるが、はっきりしたことはわからない。

                  

「功名を竹帛(ちくはく)に垂(た)る」

 

 

 

 

「朝三暮四」

 

 

 

 

「香炉峰の雪は簾(すだれ)撥(かか)げて看る」

 

 

 

 

「古稀」

 

 

 

 

「危うきこと累卵のごとし」

 

 

 

 

「老馬の智」

 

 

 

 

「画竜点睛」

 

 

 

 

 

              出典

   中国の故事と名言集         駒田信二・常石茂 編                   平凡社版

   中国故事物語          後藤基巳・駒田信二・常石茂 編     河出書房新社

   日本故事物語          池田弥三郎                                      河出書房新社

   中国の故事・ことわざ      芦田孝昭著                                      現代教養文庫

            中国古典 名言集          守屋洋                                     三笠書房 

            名言の智恵・人生の智恵   谷沢永一  編者                  PHP研究所

            故事ことわざ辞典     鈴木 棠三・広田栄太郎編      東京堂出版 

   中国古典一日一話      守屋              三笠書房