信濃の国(長野県・県歌)

                                              明治32年(1899)長野師範学校 浅井冽・作詞

                                              明治33年(1900)長野師範学校 北村季晴・作曲

                                              昭和43年(1968)5月20日 県告示にて長野県歌と制定

 

      しなの くに じっしゅう さかい つら  くに        そび  やま   たか  なが"  かわ   とお

   信濃の国は 十州に  境  連ぬる国にして    聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し

                                                                       

              まつもと いな さく ぜんこうじ よ  たいら ひよくのち  うみ      もの    よろ た    こと

            松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は 肥沃地  海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき

                      

                       

          よも        そび やまやま おんたけ のりくら こまがたけ        あさま   こと  かっかざん    くに しず

  四方に聳ゆる山々は  御岳  乗鞍  駒ヶ岳   浅間は 殊に 活火山 いずれも国の鎮めなり

                                                                           

         ながれ   よど    みず  きた さいがわ   ちくまがわ        みなみ きそがわ てんりゅうがわ    くに  かため

           流れ淀まずゆく水は  北に 犀川  千曲川    南に 木曽川  天竜川 これまた国の 固めなり

                    

          

            きそ   たに  まきしげり  すわ うみ  うおおお    たみ     ゆたか    ごこく みの   さと  

   木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し   民のかせぎも豊にて 五穀の実らぬ里やある     

                 

          くわ    こがい   わざ う       ほそ      かろ    くに いのち つな

          しかのみならず桑とりて 蚕養いの業の打ちひらけ  細きよすがも軽からぬ 国の命を 繋ぐなり

                        

                       

         たずね       そのはら      たび    ねざめ とこ      きそ かけはし  よ   こころ    くめじばし

   尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床   木曽の桟かけし世も 心してゆけ 久米路橋

                        

                   ひとおお  つかま ゆ つき な   おばすてやま        めいしょ みやびお  しいか よみ  つた

           くる人多き 筑摩の湯 月の名にたつ 姨捨山    しるき名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる

                        

                     

           あさひしょうぐん よしなか       にしな ごろう のぶもり   しゅんだいだざいせんせい ぞうざんさくませんせい

    旭   義仲も  仁科の 五郎 信盛も  春台太宰 先生も  象山 佐久間 先生も

 

            みな  この くに   ひと      ぶんぶ ほまれ        やま そび  よ  あお かわ なが  な つ

              此 国の人にして 文武の誉たぐいなく   山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず

                   

                     

           あずま    やまとたけ なげ たま うすいやま    うが トンネル   ゆめ      きしゃ みち            

     吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山    穿つ隧道二十六 夢にもこゆる汽車の道

                     

              ひとすじ   まな   むかし    ひと おとる      こうらいさんが ひい     くに いじん    なら    

             みち一筋に学びなば 昔の 人にや劣るべき   古来山河の 秀でたる 国は 偉人のある習い 

 

 

 

  信濃の国は10ゕ国の令制国(上野国・越後国・越中国・飛騨国・美濃国・三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・武蔵国と堺する)

 

   木曽の桟(かけはし)は木曽川に架(か)けられたものではなく、山の岨道の途切れたところに渡したもの。

 

  仁科の五郎信盛・・・

                         武田信玄の五男、仁科五郎信盛・

                         武田信玄の四女 仁科信盛の妹、松姫・・信盛により高島城から新府城へ逃がされた妹、松姫は、海島寺に滞在後、

       仁科信盛の娘・ 小督姫、 武田勝頼の娘・貞姫、小山田信茂の養女・天光院殿、そして幼き仁科信基を連れ、

       相武国境の案下峠を越えて、武蔵国多摩郡恩方(現八王子市)へ向かい金照庵に入る。

       このとき越えた峠が松姫峠と名付けられている。

 

 

「信濃の説話」

 

  「国を救った老人の知恵」・「親棄てもっこ譚・枝折(しお)り譚」・ 「妙昭の目が見えた」・「供養の力 怨念をなくす」

 

 「出家した王藤観音」・ 「信濃守陳忠 御坂落つ」・「 消え失せた 寸白の国守」・信濃の聖 飛び倉のはなし」

  他・

 

     諏訪社関係、「甲賀三郎」「戸隠山の鬼」

    善光寺関係、「信州更級郡白介翁の事」「短冊の縁」「塩竈(かま)大明神御本地」「かるかや」

       「物臭太郎」          

 木曾義仲関係「清水冠者物語」「唐糸草紙」

 

「ものぐさ太郎」・「唐糸草紙」(長編)

 

                              [一部差別語が書かれていますがご容赦を」

 

   説話とは

 事実として信じられている語り継がれてきた話をいいます。 そして説話文学は、この説話を文字に書き留め、一部を作者の想像で

脚色したものをいっています。 

   ところで日本の説話文学は、僧が釈迦の教えをわかりやすく人々に説く際の話の種本または台本として集められ、書き記された場合が

多かったようです。

 そこで1枚の紙に話を一つ書き、人気の話は度々使われたためか、手あかがついて黒くなっている本もあります。

こんなふうにして作られた説話文学の場合、多くの話は書物から書き写されることになります。

 

 

                    「国を救った老人の知恵」 信濃の説話 P39

                 

           【姥捨山の話とはまったく別に、昔から人々の間で語り継がれてきた幾つかの姥捨伝説が存在している。】

                    

      昔、隣同士(となりどうし)で戦争をしている小さな国があった。王様は年寄(としより)が大嫌(だいきら)いで、国中のすべての年寄を追放するように触(ふ)れを出した。

    しかし一人の親孝行(おやこうこう)の男がいた。 彼は年老いた親を国の外へ追い出すことは、どうしてもできなかった。

思いあまって、縁(えん)の下に秘密(ひみつ)の部屋(へや)を造り親をかくまうことにした。

   ある時、隣(とな)の王様から、

    「七曲(ななまがり)の玉の穴に糸を通してみろ。 それができないのなら降参しろ。」

 との手紙が来た。 でもそんな難題(なんだい)、できるはずがない。 困った王様は、国中に触れを出し、石の中に幾(いく)つにも曲がって通っている小さな穴に、  糸を通せる者はいないか、と捜(さが)した。

  親をかくまった男は、もしかしたら父ならできるかもしれないと思い、こっそり聞いてみた。 年老いた父は、

          「そんなことは簡単(かんたん)さ。 蟻(あり)の足に糸を付け、反対側の穴の口に蜂蜜(はちみつ)をぬっておけばすぐ

   できる。」

    と、答えた。 男は、この方法を王様に教えた。 

  はたせるかな王様がその通りにしてみると、すぐ糸は通った。 こうして国の危機(きき)は救われた。

 けれども隣の王様はあきらめなかった。 今度は、

           「灰でなった藁縄(わらなわ)を千束(せんぞく)作ってみよ、それができなかったら、今度こそお前の国を侵略

(しんりゃく)するぞ。」 と言ってきた。

 困りはてた王様は、また国中に触れをだした。 親をかくまっている男は、またこっそり親に聞いた。 年老いた父は、

            「そんなことは簡単さ、濃(こ)い塩水(しおみず)に縄束(なわたば)をよく浸(ひた)し、その後で火を付ければすぐでき

    る。」 と答えた。

    男は、この方法を王様に教えた。 そこで王様がそのとうりにやってみると、灰縄(はいなわ)の千束はすぐ作ることができ、

国はことなきを得(え)た。 しかし隣の王様はあきらめなかった。 三度(みたび)、「何もしなくても自然(しぜん)に鳴り出す

太鼓(たいこ)を作ってみよ。 それができなかったら、今度こそお前の国を攻(せ)め滅(ほろ)ぼすぞ。」と言ってきた。

こんな難題できるはずがない。 困りはてた王様は、三度国中に触れを出した。 あの親をかくまっている男は、三度こっそり親に

聞いた。 年老いた父は、

       「そんなことは簡単さ、アブを太鼓の中に何匹(びき)か入れ、それから皮を張(は)ればよい。」と、答えた。

     男は、この方法を王様に教えた。 そこで王様は、太鼓(たいこ)の一方の皮をはがし、アブを何匹も入れ、再び皮を張ると、太鼓は自然に鳴りだした。 これでとうとう、となりの王様も侵略(しんりゃく)をあきらめた。 王様は、親をかくまっている男を呼び出し、「どんな褒美(ほうび)でも望みのまま申してみよ。」と言った。 男は答えた。

        「実は難題(なんだい)を解(と)いてくれたのは、すべて私の年老いた父です。どうか王様、年寄を追放することはやめ、

   父たちを自由にしてください。 それが私が望む最高の褒美です。」

  以後、王様は心を改め、だれよりも年寄を尊敬(そんけい)し、大切にする人となったという。

                           (「難題譚」)

                                                    

  親棄(おやす)てもっこ譚(たん)(信濃の説話)P44

                    いちばん最初の難題譚(なんだいたん)から生まれた話。

 王様の命令で、仕方なく親を捨(す)てに行った時の話。

     父親はもともとたいへんな親不孝者で、自分の親を山に捨てに行くことに何も抵抗(ていこう)はなかった。 それで親孝行の息子に後ろをかつがせて捨てに行った。 親を捨てて、さて帰ろうとする時、息子は、もっこを捨てずに大事に持ち帰ろうとした。

 変に思った親がその理由を聞くと、次に私が親を捨てに行く時必要だから、と答えた。

 親は、やっと自分の今しようとしていることの非(ひ)を悟(さと)り、年老いた自分の親を連れて帰ったという。

 

この話は、フランスやスペイン、中国など世界中に広く語り伝えられている。 日本国内では、三十地点でこの伝承(でんしょう)

が知られて いるが、西日本に多く、東日本では稀(まれ)である。 「今昔(こんじゃく)物語集」の「諜父止不孝語

(ちちとはかりてふこうをとどむはなし)」や鎌倉(かまくら)時代の「沙石(しゃせき)集」にも「小児忠言事

(しょうじちゅげんのこと)」の題でこの話が書き記されている。

 

 

              

             枝折(しお)り譚(信濃の説話)P45

                        

                         これも難題譚から生まれた話。

     王様の命令で、仕方なく親を捨てに行った話。 

ところが背負われた親が、道の曲がり角ごとに枝を折って目印を作って行く。息子(むすこ)は、親が自分で戻(もど)るためにしているんだと怪(あや)しんで、そっと枝を捨てて行った。 それを知った親は、

 

   奥山(おくやま)に枝折(えだお)る枝折(しおり)は誰(た)が為(ため)ぞ吾(わ)が身を分(わけ)て産(うめ)る子の為

 

     と詠(よ)んだ。 すると、大音響(だいおんきょう)とともに大地が裂(さ)け、その割(わ)れ目に息子(むすこ)は落ちて

しまう。 息子は、「母さん助けてくれ。」と叫(さけ)んだ。 親は当然のことと手をさしのべ、息子を助け出した。 

 さすがの息子も、今自分がやろうとしたことの誤(あやま)ちに気づき、親子そろって家へ戻(もど)ったという。

 

 

   「日本往生極楽記」・「拾遺往生伝」

     十世紀の後半、学者で風流人(ふうりゅうじん)として有名な慶滋保胤(よししげのやすたね)は、しきりに念仏信者

((ねんぶつしんじゃ)の集まりに顔を出し、やがて出家(しゅっけ)した。 紫式部(むらさきしきぶ)が「源氏(げんじ)物語」を書く十数年前のことである。 保胤(やすたね)は、仏を信じ、すばらしい生涯(しょうがい)をおくった人の話を集め、

「日本往生極楽記(おうじょうごくらくき)」を著(あらわ)した。その中に、現在の中野市にいたという念仏信者の話が含(ふく)まれている。 保胤から百十年ほどたって、学者で、熱心な仏教徒でもあった 三善為康(みよしためやす)は、自分で見たり聞いたりしたすばらしい僧侶の話を集め、「拾遺往生伝(しゅういおうじょうでん)」を著した。

     中に熱心な信濃の二人の僧の話が書きとめられている。

                     

                        「今昔物語集」

        それから約二十年後、十二世紀前半、東大寺(とうだいじ)の図書館に勤(つと)めていた僧覚樹(そうかくじゅ)は、そこにある多くの書物から千以上の話を抜(ぬ)き出して、三十一巻もの仏教説話集を書き上げた。 「今昔物語集」がそれであるといわれる。 この本は、その後 四百年ぐらいの間、東大寺の図書館に積み上げられたまま、だれの目にも触れることがなかった。 その間に、本の

一部は虫に食われ、所々読めなくなってしまったのは残念であるが、説話文学の最高の傑作(けっさく)として、現在、高い評価

(ひょうか)が与えられている。

       この中に、いくつか、信濃を舞台(ぶたい)とした話が書きとめられている。

                                        

        「妙昭の目が見えた」 (信濃の説話)P53

                        

       今は昔、信濃の国に、両眼のとも見えない僧がおりました。 名を妙昭といいました。 盲目(もうもく)でしたが、いつも朝から晩まで法華経(ほけきょう)を読んでおりました。

     ある年のこと、、妙昭はお盆の十五日、死んだ人の供養(くよう)のため金鼓(きんこ)(銅製の打楽器)を打って外へでました。 

そして、いつの間にか道に迷(まよ)い、迷ったあげく、深い山の中の寺へたどり着きました。 その寺には一人の僧だけが住んでいました。 僧は妙昭の姿(すがた)を見て気の毒(どく)に思って尋(たず)ねました。

             「おまえさんは、どうやってここまで来たのですか。」 妙昭は、

             「今日は、金鼓を打とうと、ただ足にまかせて歩いているうちに迷ってここまで来てしまったのです。」と答えました。 

寺の僧は、

             「それでは、おまえさんしばらくこの寺にとどまっていなさい。 私は用事があるので、これから麓(ふもと)の里へ行き、

    明日帰ってきます。帰ってきたら、おまえさんを家まで送ってあげましょう。 こんな晩(ばん)に一人で家へ帰ろうとする

    と、また迷ってしまいますよ。」

    と、よく言い聞かせ、留守(るす)の間のお米を少し妙昭に与えて、出かけてしまいました。

もう寺にはだれもいません。 仕方なしに妙昭は僧が戻(もど)ってくるのを待っていました。 しかし、翌日になっても僧は帰って来ません。 いや、次の日も次の日も、五日たっても帰ってきませんでした。 僧が残していってくれたわずかなお米も、全部

食べつくしてしまいました。

   山の中の寺で、盲目(もうもく)の妙昭にはほかに食べ物を探(さが)すことはできませんでした。 それでも、今に帰って来るだろうと待ち続けて、 三か月たちました。 しかし、まだ僧は戻ってきませんでした。 妙昭は、やむをえず仏様の前に座(すわ)り

ただ法華経(ほけきょう)を読み続けていました。 空腹(くうふく)耐(た)えきれないは、木の実のなる木を手探(てさぐ)りで探し、その実を取って」食べ、それでやっと飢(う)えをしのんでいました。

   いつしか十一月になり、ひどく寒く雪が高く積もってしまいました。

外に出て木の実のなる木を手探りで探し、その実を取ろうと思っても取ることができません。 妙昭はもう飢(う)え死(じ)にするほかないと悲しみ、それでも仏様の前で法華経を読んでおりました。 空腹のあまり、とうとう眠ってしまいました。 すると夢の中で一人の人が近寄ってきて、

        「何も嘆(なげ)くことはありません。 私がおまえを助けてやりましょう。」

こう言って木の実をたくさん妙昭に贈(おく)ってくれました。 あまりのうれしさに、ふっと目が覚(さ)めました。 

すると突然(とつぜん)、大風が吹き出し、大きな木が倒(たお)れる音がしました。 妙昭はますます恐ろしくなり、ただただ一心(いっしん)に仏様に祈(いの)りました。 すると、風がぴたりとやみました。

 不思議(ふしぎ)に思って妙昭は手探りで庭に出てみますと、梨(なし)の柿(かき)の木が倒れていました。 この木にはきっと

たくさん実がなっているにちがいないと探して、それを食べてみました。 その味の甘(あま)いことといったらありません。

 一、二個食べただけで妙昭の 飢(う)えはすっかりおさまりました。 もう飢え死にの恐怖(きょうふ)もなくなりました。

      「これは、すべてありがたい法華経のおかげにちがいない。」と感謝(かんしゃ)しながら、その柿や梨をたくさん取っておいて、それから毎日 この柿や梨を食べました。 その上、倒(たお)れた木の枝を折って焚(た)き物にして、厳(きび)しい冬の寒さを

しのぐこともできました。

  ようやく年が明けて、春二月になったかと思われるころ、麓(ふもと)の里の人たちが、ほかの用事のついでに何気なく山寺へやってきました。

    妙昭は、やっと人がやってきてくれたと、うれしくなりました。 里人(さとびと)は盲目の僧が一人でいるのを見つけ、びっくりして、

     「あなたはいったいだれですか。 どうしてここに住んでいるのですか。」

  と、信じられない面持(おもも)ちで、不思議そうに尋(たず)ねました。 

妙昭は、これまでの出来事をこまごまと里人たちに話をしました。 そして

     「あの寺の僧はどうしたのか、ご存知(ぞんじ)ではありませんか。」と里人に尋ねました。 里人たちは、

     「ああ、あの坊(ぼう)さんは、去年の七月十六日に私たちの里まで下りてこられて、急死(きゅうし)されました。」と答えました。 寺の僧が亡(な)くなったことを聞いて妙昭は泣き出し、悲しがりました。

     「私はそうとは知らず、何か月もの間、戻(もど)ってきてくれないことを恨(うら)んでいました。 ほんとうに申しわけない

  ことをしました。」と悔(くや)しがりました。 妙昭はこうして里人に連れられて里へ下りていきました。

 このことがあってから、妙昭はますます一心不乱(いっしんふらん)に法華経を詠み続けました。 ある時病気で苦しんでいた人が、妙昭に 法華経を読んでもらいますと、病気はたちどころに治(なお)ってしまいました。 

  このことを聞きつけ、大勢の人々がこの妙昭を敬(うやま)い、病気や数々の悩(なや)みをなおしてもらいにやってきました。

そのうち、妙昭の目は両方ともみえるようになりました。 妙昭はますます法華経の霊験(れいげん)を信じ、一心に詠み続け、先の山寺へもいつもお参りし、仏さまを拝(おが)み続けたと、このように語り伝えられているということです。

                                        しなののくにめしたるそうほっけをじゅしてふたつのまなこをひらくこと

                          ( 巻第十三  信濃国盲僧誦法花(華)開両眼語第十八 )

                      

                          

    「今昔物語集」は、きまって、「今は昔」と書き出すので、こういう書名になった。

  この信濃の妙昭は、薬連・平円・長明におとらない、信じがたいほど熱烈な仏教信者だといえよう。 

このように、信濃は、都の人々から見ると、 山の奥の別世界といった土地であった。 毎年馬が連れてこられ、物資も送られてくる、

なじみの国ではあったが、信濃が舞台になった話には、 ずいぶん不思議な内容のものが多く、都人の空想や夢を思いのままにかきたてられる世界だったといえる。

   どんなに不思議なことが語られれても、確かめるには信濃は都からあまりに遠すぎる。 それに第一、山また山の山奥ならば、

あるいはそんなことがあるのではと都の人のロマンとエキゾチックな想像をいやが上にもかきたてた。 当時の信濃は、そんな土地だったのである。

                         「供養(くよう)の力 怨念(おんねん)をなくす」(信濃の説話 P59)

                   

                         今は昔、ある天皇の御代(みよ)、信濃の守であった人が四年の任期(にんき)を終え、信濃の国から京都へ帰ることになりました。 ところが、その道中(どうちゅう)一匹(いっぴき)の大きな蛇(へび)が、どこまでもこの守の一行についてくるではありませんか。 守の一行が 止まって休息(きゅうそく)と、蛇も同じように止まって藪(やぶ)の中に入って休みました。 

   こうして昼間は、一行の前か後ろにぴったり付き添(そ)い、夜は守の荷物(にもつ)でありました衣装櫃(いしょうびつ)の下にとぐろをまいていました。 お供(とも)の人々は、「なんとも怪(あや)しいことだ。    蛇をぶち殺してしまおう。」 と相談をしました。 しかし、守は。

         「絶対に殺してはいけないぞ。 きっとこれには何かわけがあるのだろうから。」

   と、命令しました。 そして心の中でこのように、一生懸命(いっしょうけんめい)祈りました。

         「このように蛇が私を追ってきますが、あの蛇はこの信濃の国の神様でいらっしゃるのだろうか。 それとも悪霊(あくりょう)

   が私にたたりをしよ   うとして追ってくるのだろうか。 さっぱりわかりません。 たとえ私が過(あやま)ちをおかして

   いたとしても、私ごとき未熟者(みじゅくもの)にはそれがわかりかねます。 どうか夢(ゆめ)の中ですぐさまお示し下さ

   い。」

    こう祈りながら寝ました。 するとその夜の夢に、まだら模様(もよう)の水干(すいかん)の袴(はかま)をつけた男が現れて、守の前にひざまづきました。 

          「私の長年の敵(かたき)の男が、前々からこの衣装櫃(いしょうびつ)の中にこもっております。 その敵を殺そうと思い、

   毎日あなたのそばについてきているのです。 もしその敵を渡(わた)していただけましたら、すぐにもここから引き返しま 

   す。」こう守に言います。 

     この時夢が覚(さ)めました。

守は、夜が明けるのを待ちかねるように、この夢のことを家来(けらい)に話しました。 すぐに衣装櫃(いしょうびつ)を開けて見ますと、底に一匹の老(お)いぼれた鼠(ねずみ)がいました。 ひどくおびえている様子(ようす)でしたが、人間を見ても逃(に)げようともしません。 ただ衣装櫃の底で小さくなって震(ふる)えているだけです。

家来たちはこの鼠を見て、「これをすぐ取り捨(す)てましょう。」と、言いました。

でも守は、「この蛇と鼠とは、前の世から敵(かたき)だったのだ。」と知り、急に深いあわれみの心がわいてきました。

                     「もしこの鼠を捨てると、きっと蛇のために必ず飲まれてしまうであろう。 ここで一つの善根(ぜんこん)を積(つ)

      み、蛇と鼠の両方を救ってやろう。」

 そう考え、その宿に泊(と)まり、彼らのために法華経一部を書き写して供養(くよう)しようと決心しました。

多くの家来(けらい)たちも同情して皆(みな)一人ひとり手分けしてくれました。

それでその日のうちに大部(たいぶ)の法華経を全部書き終えることができました。 直(ただ)ちに連れていた僧(そう)に

頼(たの)んで盛大(せいだい)な供養(くよう)をしました。

   するとその夜の守の夢に、今度は二人の男が、ほほえみながら、きれいな衣装(いしょう)で現れました。 守に丁寧(ていねい)に あいさつし、

              「私たちは、前の世からの敵同士(かたきどうし)で、これまでお互いに殺し合いをしてきました。 今度も相手を殺そうとと

    して、ここまで  追いかけてきたのです。 しかし、あなたさまが、こんなに盛大な供養をしてくださったので、二人の怨念

    (おんねん)はすっかり解消(かいしょう) することができました。 このご恩(おん)は永久に忘(わす)れることができ

    ません。 きっときっとご恩をお返しいたします。 ほんとうにありがとうございました。」

 こう言って二人とも空に上がっていきました。 その間中、とてもすてきな音楽が空に満(み)ち満ちて いました。 

この時、守は目が覚(さ)めました。 夜が明けてから見ますと、あの蛇は死んでいました。 そして衣装櫃のそこで鼠も死んでいました  。 これを見て家来は皆、守の善行(ぜんこう)に感激(かんげき)しました。 守にもきっと法華経(ほけきょう)の加護

(かご)があることでしょう

それにしても法華経の偉大(いだい)な力はすばらしいかぎりです。 この話は、この信濃の守が京都へ帰ってきて話をしたのを、代々人々が聞き継(つ)いで、このように語り伝えてきたのだということです.

 

     しなののくにくちなわとねずみとのためほっけをうつしてくるしびをすくうこと

     (巻 第十四             第二)

       「信仰の力」 (信濃の説話 P63)

 

今は昔、備前国(びぜんのくに)(岡山県)に住んでいる人がいました。十二歳(さい)の時両眼(りょうがん)を失明してしまいました。 父や母が嘆(なげ)き悲しみ、なんとしても見えるようになってほしいと、しきりに神や仏に祈(いの)りましたが、いっこうに効果(こうか)がありませんでした。 薬もあれこれ使いましたが、治療(ちりょう)のかいもありませんでした。

 そこで、親は比叡山(ひえいざん)の根本中同堂(こんぽんちゅうどう)に連れて行き、お籠(こも)りをさせて一心に仏様に

祈(いの)らせました。 十四日が過ぎました。 この盲人(もうじん)はその夜夢を見ました。 すると夢の中に神々(こうごう)しい姿(すがた)をした男が現れて、お告げをしました。

  「おまえは、前の世の行いの報(むく)いとして盲目(もうもく)の身になったのだ。 この世ではどんなことをしても目を開く

   ことはできない。 というのは、おまえは前の世では毒蛇(どくじゃ)で、信濃の国の桑田寺(くわたでら)の西北の隅(すみ)

   に立つ榎(えのき)の中に住んでいたのだ。 一方、この寺には熱心な法華経信者(ほけきょうしんじゃ)がおり、夜も昼も

   法華経を詠み続けていた。 蛇(へび)はいつもこの法華経を 聞いていた。 蛇はもともと罪(つみ)が深いもの。 食べ物も

   なかったので、毎晩(まいばん)そのお堂に行き、仏様の前に供(そな)えられた 常夜灯(じょうやとう)の油をなめつくして

   まった。おまえはそこで法華経を毎晩聞いたので、この世で人間に生まれたが、灯油をなめつくした罪のゆえに両眼

   (りょうがん)を失ったのだ。  おまえはただちに法華経を心から信仰(しんこう)し、その罪からのがれるがよい。」 

ここで夢が覚(さ)めました。

  その後、盲目の男は故郷(こきょう)に帰り、前の世での悪事(あくじ)を恥(は)じ、後悔(こうかい)しながら、熱心に法華経を習い始めました。 数か月後には、自然(しぜん)に全部暗唱(あんしよう)しました。

 こうして法力(ほうりき)を身につけ、病気の人を助けたり、人々の苦しみを救ったりし、皆(みな)に尊敬(そんけい)されながら生涯(しょうがい) をおくりました。 このように語り伝えられています。

                        

                               びぜんのくにのもうじんぜんせをしりてほっけをじすること

                              (巻第十四  備前国 盲人 知前世持法花語 第十九)

 

    大正時代の代表的作家、芥川龍之介は、この「今昔物語集」の大ファンであった。 

 これは小説の材料を無尽蔵に蓄えている宝の山だと、彼は「今昔物語集」の価値を世間に訴えた。 事実、彼の小説には、「羅生門」 「鼻」 「芋粥」 「地獄変」 「六の宮の姫君」など、「今昔物語集」をそのまま現代の小説に書き改めたような作品が数多くあり、その多くは芥川の代表作として高い評価が与えられている。

     次の筑摩温泉の生きた観音様の話も、芥川の小説の「龍」と筋縦てが非常によく似ている点で注目されよう。

 奈良の興福寺にいた一人の僧が、日ごろ鼻が大きいので、皆から鼻蔵鼻蔵とからかわれるのに腹を立て、三月三日に猿沢の池(奈良)から 竜が昇るという立て札をいたずらに立てた。

    ところが、これが大評判となり、ご当人が恐ろしくなるほどの大騒ぎに発展、当日は、大和ばかりか畿内の各地から大群衆が見物に

集まってきた。 すると、ほんとうにその日の午後竜巻が起こり、竜が昇天したというのが小説の内容である。

 

                         「出家(しゅっけ)した【王藤観音(おうどうかんのん)(信濃の説話 P67)

                    

                 今は昔、信濃の国の筑摩(つかま)の郡(こおり)に、筑摩(つかま)の湯(松本市浅間温泉か)という所がありました。

薬湯(くすりゆ)だとの評判で多くの人々がやってきて入浴する有名な温泉です。

 ところがこの里に住んでいたある人が、夜夢を見ました。 一人の男がどこからとも現れて、こんなことを言いました。

         「明日、正午、ここへ観音様がおいでになり、湯にお入りになります。 観音様にお願い事がある人は、どんな都合でもつけて

   ここへ集まってくるように。」

    夢の中で、この人は尋ねました。 「ところで観音様はどういう、お姿でおいでになるのですか。」

     男は、

         「年齢(ねんれい)は四十ぐらい、ひげが黒々と生えた男で、藺草(いぐさ)で編(あ)んだ笠をかぶり、黒々と漆(うるし)を

   塗(ぬ)った大きな矢壺(やつぼ)を背負い、革(かわ)を巻いた弓を持ち、紺(こん)の狩猟(しゅりょう)用の 衣、

夏向きの脛(すね)当てを付け、白足袋(しろたび)をはき、黒塗りの太刀(たち)を腰(こし)に付け、芦毛(あしげ)の馬に乗っています。こういう姿の男がやってきましたら、まぎれもなく観音様だと思いなさい。」

   と答えました。 聞き終わると同時に夢は覚(さ)めました。 この人はびっくりしました。

それにしても考えれば考えるほど不思議(ふしぎ)に思えてなりません。

 夜が明けると、早速この夢の事を村中の人々に触(ふ)れて回り、願いことがある人は必ず集まるように言いました。 

この話はまたたくうちに筑摩(つかま)郡中に、いやそれよりももっと遠くまで伝えられ、多くの人々が皆(みな)この温泉に押しかけてきました。 そして大急ぎで湯を入れ替(か)え、周りを皆で熱心に掃除し、しめ縄をはり、香(こう)や花を湯の一角に供(そな)え、大勢の人々がぎっしり座り込んで、観音様がやってくるのを、今か今かとお待ちしていました。

  ところがなかなか観音様は姿を現しません。 正午はとっくに過ぎてしまい、とうとう午後二時になりました。

ちょうどその時、あの夢で告げられたとおり、頭の上から足の先まで、何から何まで少しも違(ちが)ったところのない男が突然現れました。 男は人々に向かって、「今日はいったい何があるのですか。」と尋(たず)ねました。

しかし、人々はただただありがたがって男を拝(おが)み、だれ一人夢のことを話す人などいませんでした。 

とりわけ熱心に手をすり合わせ額(ひたい)に当てて拝んでいる所に近づいて、

    「いったいどういうわけで、こんなに大勢の人が私を見て拝むのですか。」

   と、ひどい方言(ほうげん)で顔をのぞき込むようにして尋ねました。

仕方なく僧は「実は昨晩、ある人がこれこれの夢を見たからです。」と答えました。

これを聞くと、男はびっくりしました。 「私は、二日前狩(かり)にいって馬から落ちてしまいました。 そして左の腕(うで)を骨折しましたので、この温泉で治(なお)そうと思ってやってきました。 それを皆(みな)がこんなに真剣に拝(おが)んでくださるなんて、理解できません。」と言いながら、気味悪がって逃げ出しました。

   ところが、人々は男の後ろについて行き、どこへ逃げても、大勢の人々が皆大騒ぎで、男のそばへ近づこうとしました。辺(あた)りは

 大混乱になりました。 もう男はどんなことをしても逃げられなくなりました。 男は仕方なく、「すると私は観音様だったのか。

 では、いっそのこと法師になろう。」と叫び、その場で弓や矢を捨(す)て、武具(ぶぐ)をはずし、ただちに髻(もとどり)

(髪をいただきに束ねたところ)を切り落として法師の姿になりました。 男が目の前でこうして出家(しゅっけ)するのを見て、すべての人々はさらにいっそう感激しました。

   この時、たまたまこの男を知っている人が通りかかりました。 この男を見て、「上野国(こうずけのくに)の王藤殿(おうどうどの)ではありませんか。」と声をかけました。 人々はこれを聞いて、この男を王藤観音と呼びました。

  男はその後、本記で出家し、修行のため比叡山(ひえいざん)の横川(よかわ)に上(のぼ)り、覚朝僧都(かくちょうそうず)というお方の 弟子となり五年ほど熱心に仏道修行に励(はげ)みました。

  その後、土佐国に(とさのくに)(高知県)へ行きましたが、それから先は、どうなったかだれもわかっていません。

これは実に珍しい話です。 ほんとうの観音様があの夢の中にお出になったのであろうか。 男があのようないきさつで出家したのは、

とにかく仏様のお導(みちび)きであり、まことに尊(とうと)いことであります。 このように今まで語り伝えられているということです。

                (巻第十九 信濃国王藤観音出家語(しなののくにおうどうかんのんしゅっけすること)第十一)

                     

                        

              信濃守陳忠 御坂落つ      

         「今昔物語集」の二十八巻には教科書などにもよく採り上げられている強欲な信濃の国守の有名な話がある。 

 当時、受領(ずりょう)と呼ばれていた国守は、「倒れたところの土わもつかめ、ただでは起きないものだ。」との名言をはく。 

当時の国守は、任国(にんごく)では好き放題で、取れる物は手当たり次第何でも取りまくったと言われ、この話は、それにぴったりの内容だからである。

  でも、「今昔物語集」から百四十年も前の話で、おまけに、この一族は皆面白い噂をふりまく人々が多く、そこでどこまでほんとうの話か疑わしい。

 

     「信濃守陳忠(しなののかみのぶただ) 御坂(みさか)落つ」 

          

   今は昔、 信濃の国守藤原陳忠(くにのかみのぶただ)という人がおりました。 任国の信濃に下(くだ)って国を治(おさ)め、四年の任期(にんき)を無事終えて上京する途中(とちゅう)、御坂峠(みさかとうげ)(神坂峠)を超(こ)えようとしました。

数多くの馬にいっぱい荷(に)をつけまして、人の乗った馬も数知れず、陳忠の行列は長く連なっておりました。

   ところが峠近くで、こともあろうに、守(かみ)が乗った馬が参道(さんどう)の端(はし)の木を、あと足で踏(み)折ってしまい、守は馬にのったままで、真っ逆(さか)さまに深い谷へ落ちてしまいました。 谷底はいったいどれぐらいかわからない深さです。 

守が生きているとはとても思えませんでした。 十三丈(約四十メートル)はあろうかと思われる檜(ひのき)や杉(すぎ)が谷から

参道(さんどう)へ向かって生(お)い茂(しげ)っていますが、のぞいて見ると、その梢(こずえ)は、はるかに谷底に見えます。

このことからしても谷の深さは、おのずから察(さっ)しがつこうというものです。 こんな深い谷底へ守が転落したのですから、とても無事なはずはありません。

   そこで大勢の家来たちは、途方(とほう)にくれ、馬から降りて、参道の端に寝そべって谷底をこわごわのぞきこみましたが、

どうにも手の施しようがありません。

      「全(まった)くどうにもならないな。 降りる所でもあれば降りて行って守のご様子を見とどけたいのだが。 もう一日も先へ

  進んでからなら、谷の浅い方から回って捜(さが)すこともできようが、ここから谷底へ降りることなどとてもできない。

  どうしたらよいだろうか。」

    など、口々にわいわい言っていると、はるかな谷底から人の叫(さけ)ぶ声がかすかに聞こえてきました。

 それを聞きつけた家来(けらい)たちは、急に顔をほころばせ、「守は生きておいでだ。」「万歳(ばんざい)。」などと言い合い、家来たちも大声で返事をしました。 守がさらに声を張(は)り上げて何か言っている声が、はるか遠くから聞こえてきました。

      「おい、何かおっしゃておられるぞ。 皆静かにしろ。 何を言っておられるのだろう。 皆よく聞け、よく聞け。」

   と言って、耳を澄(す)ましました。

いちばん耳のいい家来が、やっと「籠(かご)に縄(なわ)を長くっつけて降ろせ、とおっしゃっているぞ。」と聞きつけました。  そこで、守は無事生きておられ、何かの上に落っこちて、そこにとどまっておいでになるとわかりました。 皆、守を助けようと、馬の手綱(たずな)を取り集めました。 それを次々結んで長い縄(なわ)にしました。 その先端(せんたん)に籠をしっかり結びつけると、「それ降ろせ、それ降ろせ。」と、掛(か)け声をかけ合って降ろしていきました。 縄がなくなるまで降ろしますと、縄が止まって動かなくなりました。 もう守の所までとどいたなと思っていると、谷底から。「よし、引き上げろ。」と叫ぶ声が聞こえてきました。

 「それ引け、とおっしゃっているぞ。」と言って、皆が力の限りたぐり上げますと、いやに軽く、するすると上がってきました。

    「この籠はいやに軽いなあ。 変だぞ。 守がお乗りなら、当然もっと重いはずだがなあ。」と、一人の家来が言いますと、ほかの家来が、「きっと木の枝につかまりながら上がっておられるので、軽いのだろう。」こんなことを言いながら、皆で力を合わせて引いていますと、とうとう 籠が上がってきました。

  見ると、平茸(ひらたけ)だけが籠いっぱいこぼれるほど入っています。 家来はわけがからず、お互いに顔を見合わせ、「いったい、これはどういうことなのだろう。」としゃべっていました。 すると、また、谷底から、「前と同じようにもう一度降ろせ。」と叫ぶ声が聞こえてきました。 この声を聞き、「とにかく、もう一度降ろせ。」と、皆で籠を降ろしました。 するとまた「引き上げろ。」と叫ぶ声が聞こえてきました。 声に応(おう)じて引き上げますと、今度はひどく重くなりました。 大勢で縄に取り掛かり、力を合わせてたぐり上げました。 やっとたぐり上げて見ますと、今度は籠に乗って守が上がってきました。

  守は片手にしっかり縄をつかみ、もう一方の手には平茸を三株(かぶ)ほど持って上がってきました。 やっと引き上げ終わって、参道(さんどう)の上に籠を置いて、家来たちは皆守の無事を喜び合いました。 

 「いったい、この平茸はどういうわけのものでございますか。」と尋(たず)ね ました。 すると、守はこう答えました。

    「谷に落ちた瞬間(しゅんかん)、馬は先に底に落ちていったが、わしは体重の差からか、あとからずるずる落ちていき、そこへ

     幸運にも木の 枝がびっしり茂(しげ)り、枝がいりくんだ上へ落ちかかった。 わしはその木の枝を必死でつかんでぶら下がった。

ところがうまい具合に、下に大きな枝があって支(ささ)えてくれた。 そこで、それに足を踏(ふ)ん張(ば)り、股(また)に

なった大きな木の枝に取りつくことができたのだ。ああ助かったと、それを抱(だ)きかかえて一息(ひといき)ついていた。 

やっと 落ち着いてその木を見ると、平茸がやたらに密生(みっせい)して いるのが目についた。 これをそのまま見捨てることはないと考え、まず手が届(とど)く限り取って、籠に入れて引き上げさせたのだ。 まだまだ 取り残しがあった。 いいようもなく沢山

(たくさん)あったなあ。 ああ大損(おおぞん)をしたようなきがするぞ。」

 家来たちはこの話を聞いて、「なるるほど、ものすごい大損をなされなしたことで。」と相(あい)づちを打ちましたが、皆でどっと笑いました。

   守は、「心得違(こころえちが)いなことを言うなよ。 おまえたち、わしは宝の山に入ったのに手を空(むな)しくして帰ってきた気がするぞ。 受領(ずりょう)たるものは倒(たお)れたところの土をもつかめ、というではないか。」と言うと、

    一番年上の目代(もくだい)【国司(こくし)の代官(だいかん)】は、心の中では、全くあきれかえった欲張)よくば)り野郎

(やろう)だ、と腹(はら)が 立ってなりませんでしたが、

    「まことに、ごもっともでございます。 手近にある物をお取りになるのに、なんで遠慮(えんりょ)がいりましょうぞ。 

だれであろうと取らずにおられるものではございません。 もともとご聡明(そうめ)でいらっしゃるお方は、このように死を目の前にした 瞬間(しゅんかん)に至(いた)るまで、心騒(さわ)がず、万事冷静(ばんじれいせい)に、普段(ふだん)の時と同じように処理(しょり)をなさることでございますから、あわてず騒がず、平茸をお取りになったのでございます。 こういう心がけでいらしゃいますから、任国(にんごく)の信濃を平らに治め、税金(ぜいきん)はもちろんきちんきちんとお取り上げになられて、すべて思いのまま目的を果たしてご上京なさるのですから、信濃の人々は皆あなた様を父母のようにお慕(した)いし、  ご帰京(ききょう)

 を惜(お)しんでおります。 ですから、これから先々も千秋万歳疑(せんしゅうばんざいうたが)いがございません。」   と、

言いました。そして陰(かげ)では、それぞれ、しらけきって仲間同士顔を見合わせ笑い合いました。

   私が思いますのに、あんな危(あぶ)ない目に会いながら、心をまどわさず、まず平茸を取って上がってきたとは、何と強欲

(ごうよく)な心としか 言いようがありません。

まして在任中(ざいにんちゅう)は、取れる物は何でも手当たりしだい、どれほど取り込(こ)んだことだろうか。 

  これは想像(そうぞう)にあまりありましょう。 

この話を聞いた人は、どれほど憎(にく)み、笑ったことでしょう。 と、こう語り伝えているということです。

                     

                          (巻第二十八 信濃の守藤原陳忠落人御坂語第三十八)       

 

     

         木曽の桟(かけはし)・・・・「今昔物語」の舞台・・・

 

   「木曽はすべて山の中である。 あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨(

のぞ)む木曽川の 崖であり・・・・・」(島崎藤村、「夜明け前」) 木曽は深い山谷の山国ですが、すでに(大宝(たいほう)2年(702)には「岐蘇(きそ)山道」が開かれておりました。 和銅(わどう)6年には「吉蘇路(きそじ)」も開かれました。

  木曽の桟(かけはし)は木曽川に架(か)けられたものではなく、山の岨道の途切れたところに渡したものです。 かつては桟は木曽路のいたるところにありましたが街道の修復により、しだいに少なくなり江戸期には、木曽の桟(上松町)だけになりました。 

それが波計桟道(はばかりさんどう)と呼ばれていました。 

 

    「桟やいのちをからむ蔦(つた)かずら」(芭蕉の句碑)

               

     国主の任国への赴任 

                     

        当時、国主(こくしゅ)は任国(にんこく)へ赴任(ふにん)する時、その国境(くにざかい)へ到着(とうちゃく)した際、

 国中(くにじゅう)の郡司(ぐんじ)(古代の国 造(くにのみやつこ)や在地(ざいち)の豪族(ごうぞく)の子孫(しそん)が

 なっている場合が多い)たちに出迎(でむか)えられ、それぞれ名乗合い、酒宴(しゅえん)をする境迎(さかむかえ)の儀式

(ぎしき)が行われることになっていた。

   もしこの時、まだ顔も何もわからない新任の国守(こくしゅ)に、化(ば)け物(もの)が化けて、国守になりすましていたらどうなるのであろうか。 次はそんな空想話の傑作(けっさく)である。

 

               

      消え失(う)せた寸白すばく)の国守   信濃の説話 P80)

                    

     今は昔、腹の中に寸白(すばく)(寄生虫「きせいちゅう」)を持った女がいました。 ある人の妻(つま)になり、男の子を生みました。 その子がしだいに成長し、元服(げんぷく)も済ませ、だんだん出世(しゅっせ)し、ついに信濃の国守になりました。

   さて、初めてその任国(にんごく)信濃へ下った時、国境で歓迎(かんげい)の宴(えん)が開かれました。 国守がその宴席に着きますと、   連れてきました家来(けらい)たちも一緒(いっしょに席に着きました。 信濃の国の役人も大勢国境まで迎(むか)えにやってきていました。 

   国守が宴席(えんせき)で見渡(みわた)しますと、国守の前の机(つくえ)をはじめ末席(まっせき)の机にいたるまで、すべて胡桃(くるみ) だけをさまざまに調理したご馳走(ちそう)が盛(も)ってありました。 国守はこれを見ているうちに、どうしようもなく不快(ふかい)な気分になり出し、ただただ身体中の水分どんどん絞(しぼ)り取られるように、もだえて苦しみ出しました。 あまりの苦しさから、「どうしてこの宴席(えんせき)は、こんなに胡桃(くるみ)ばかりの料理を出すのだ。 どういうわけだ。」と信濃の役人に文句(もんく)を言いました。

     「この国ではいたるところにこの胡桃の木が生えております。 spれで今日のお料理も、国守様に喜んでいただこうと気張(

きば)って、胡桃料理にしました。 これからはお宅(たく)でも、毎日いろいろ胡桃のお料理を差し上げましょう。」と答えまた。

 国守はますますやりきれなくなりました。 息苦しく、ただ体が絞られるように苦しくなりました。

国守がこうして突然衰弱(とつぜんすいじゃく)してしまったのを、この国の介(すけ)(役人)で年を取り、万事(ばんじ)物事を

よく知りつくしていた  経験(けいけん)豊かな男が不思議がり、あれこれ思いめぐらしたあげく、「もしやこの国守は、寸白(すばく)が人に生まれ変わり、この国の国守になって赴任(ふにん)してきたのではあるまいか。 あの様子を見ると、どうもそうとしか考えられない。 よし、ひとつためしてみよう。」と思いつきました。 そして古い酒に胡桃を濃(こ)くすり入れて徳利

(とっくり)に入れて熱くわかし、徳利は部下に持たせ、自分は杯(さかずき)をお盆(ぼん)にのせて、目の高さに捧(ささ)げ、うやうやしく国守の所へ持っていきました。 国守がこの杯を手に持ったので、介(すけ)は徳利で酒をなみなみとつぎました。

 酒は、胡桃が濃くすり入れてありましたので、色は白くにごっていました。

  国守はこれを見て、死ぬのではないかと思われるほど苦しそうな顔になり、「酒をやたらにいっぱいそそいだな。 この酒の色は普通の酒と違って、白くにごっているが、どうしたわけだ。」と尋(たず)ねました。

    介は、

「この国では、昔からの習慣といたしまして、国守のご赴任(ふにん)の時は、お出迎えの宴(えん)で、三年以上たった古い酒に、

  胡桃を濃くすり入れ、国府(こくふ)の役人がお銚子(ちょうし)を持って国守に差し上げ、国守が召し上がることになっているの

   です。」

   と、もっともらしく答えました。 国守4の顔色は見る見る真っ青になり、がたがた震(ふる)え出しました。

それにかまわず、介が、「これをお上がりになるのが定めです。」と責め立てました。

国守は、あぶら汗(あせ)をたらたらたらし、ぶるぶる震えながら杯を口元へ持って行きましたが、とうとう観念(かんねん)

したらしく、「わしは実は寸白男じゃ。 もう我慢(がまん)ができない。」と叫(さけ)び、さっと水になって流れ、影(かげ)も形もなくなってしまいました。

   京都からついてきた国守の家来(けらい)たちは、これを見てびっくりして騒(さわ)ぎ出しました。 

    「これはまたどうしたことだ。」「これはまたどうなっているのだ。」と大騒(おおさわ)ぎになりました。 

 その時、この介は言いました。

     「あなた方はこのことをご存知(ぞんじ)なかったのですか。 国守は寸白が人間の姿(すがた)になっていたのですぞ。 

        だから胡桃(くるみ)が 沢山盛(たくさんも)られて入れている料理をご覧(らん)になると、たいそうつらそうなご様子になら

  れましたれました。 私はかねてから聞いていたことがありましたので、ためしてみようと思い、あのようにしてみました。

  そうしたら、こらえきれず溶(と)けてしまわれたのです。」

    こう言って、信濃の国の者は皆、さっさと引き上げてしまいました。 国守の家来(けらい)たちは、今さらどうしようもないことなので、皆 京都へ引き返していきました。

  京都へ戻(もど)り、ことの次第(しだい)を話しますと、攻守の妻子(さいし)や親せきの者たちはこれを聞き、

「ええ、なんだって、あの人は寸白の生まれ変わりだって。」と、腰(こし)を抜(ぬ)かして驚(おどろ)きました。 

 寸白もこのように人間の姿に生まれ変わるものなのです。 ともかく、ほんとうに信じられないような話ですが、こう語り伝えているということです。

                    

                            (巻第二十八 寸白任信濃守解失語 第三十九)

                       

 

          『宇治拾遺物語』

                        

              信濃の聖  「飛び倉のはなし」  信濃の説話 P85

                       

           日本四大絵巻(えまき)の一つに「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)」がある。 庶民(しょみん)の世界を生き生きと」描(えが)いたもので、線の躍動(やくどう)と繊細(せんさい)な色彩(しきさえ)の冴(さ)え、舞(まい)い上がる倉に驚き、空を見上げる人々の誇張(こちょう)された表情(ひょうじょう)や身のこなし、漫画(まんが)チックなきびきびとした動きが、実に鮮(あざ)やかに描き出された大傑作(だいけっさく)である。 

  その話は、『古本説話集(こほんせつわ)』(1130年ごろ成立)『宇治拾遺(うじじゅうい)物語』(1212年ごろ成立)に収められている。 奈良(なら)の信貴山(しぎさん)に伝えられた縁起で、 主人公の命蓮(みょうれん)は、935年にこの寺の資財帳

(しざいちょう)を書いている実在(じつざい)の人である。 縁起には、少し怪奇(かいき)と夢が加えられているが。

                       

    今は昔、信濃の国に一人の法師(ほうし)が住んでいました。 ある片田舎(かたいなか)で自分勝手に法師になりましたので、まだ正式に出家(しゅっけ)の手続きをしていませんでした。

 それで、なんとかして奈良(なら)の都へ上り、東大寺徒いう所で戒法(かいほう)(正式の法師になる手続き)常日(つねひ)

ごろ思い続け、どうにか都合(つごう)をつけてとうとう東大寺で長年の望みをとげました。

 さて、生まれ故郷(こきょう)の信濃へ帰ろうと思いましたが、

          「ああつまらないことだ。 あんな仏の加護(かご)のないような山国にはもう帰るまい、このまま都に留(とど)まることに

   しよう。」 と考えなおしてしまいました。

    東大寺の大仏様の前で四方八方(しほうはっぽう)を眺(なが)め、どこか修行しながら、ゆっくり住めるようなところはないかと見回しました。すると西南の方角に当たるところに山がかすかにみえました。 とうとう、その山で修行をしながら住もうと決心し、そこへ出かけて行きました。

    山の中では、言うに言われない激(はげ)しい修行を積み重ね、何年も山で過ごすうちに、法師はふと小さな厨子(ずし)に入った仏様を手に入れました。 その仏様は毘沙門天(びしゃもんてん)でした。                 

 法師は手に入れた場所に小さなお堂を建てました。 お堂に毘沙門天を祭り、さらに激しい修行を重ねました。 今では人々から

聖(ひじり)と呼ばれて尊敬(そんけい)されるまでになった法師は、身につけた不思議(ふしぎ)な法力(ほうりき)でいつも

鉢(はち)を飛ばし、食べ物などを入れてもらっていました。

   この山の麓(ふもと)に、身分は低いのですが、たいへんな大金持ち(長者)が住んでいました。 ある時、長者が大きな

校倉(あぜくら)を 開けて何かを取り出していましたところへ、いつものようにこの鉢が飛んできました。 長者は、

        「いつもの鉢がまた来たな。 ほんとうに欲張(よくば)りな鉢だ。」

   と、はき捨(す)てるように言いながら、長者は鉢を取り上げて蔵の中の片隅(かたすみ)へほうり込んでおきました。 長者が、すぐに鉢へ食べ物を入れませんでしたので、鉢は待っていました。

   そのうちに倉の中の品物の整理(せいり)が終わりました。 長者はすっかりこの鉢のことを忘(わす)れてしまいました。 鉢を倉の外へ取り出すこともしないで、倉の錠(じょう)をおろし、さっさと家へ入ってしまいました。  ところが、しばらくしますと、この倉が何ということもなく、ぐらぐらと揺(ゆ)れて動き出しました。 長者も長者の家の者も、びっくり仰天

(ぎようてん)、 「どうしたのだ。どうしたのだ。」と、大騒(おおさわ)ぎしていますと、倉は揺れに揺れ、とうとう地面から

一尺(いっしゃく)(三十センチ) ほど上へ浮き上がってしまいました。

  ますます不思議がって人々は「これはいったいどうしたことか。」と騒ぎ出しました。 その時になって長者は、やっと

  「ああ、そうそう、さっきの鉢を倉へ置き忘れてしまった。」と思い出し、「さては鉢のしわざか。」と、大声を出しました。

   そのうち、この鉢が倉からぬけ出して、この鉢の上に倉が乗っかりました。 見る間にぐんぐん高く上がり、六メートルぐらいになり、今度は 、どんどん山の方へと飛んで行きました。 これを見た村中の人々は、もう腰(こし)を抜(ぬ)かして驚(おどろ)き、あきれかえりました。

    空を飛ぶ倉を見上げながら、わいわいだれ言うともなく倉の後を追いかけました。 その人数はどんどん増(ふ)えていきます。

 倉は河内国(かわちのくに)(大阪府)の方へ向かい、聖(ひじり)が修行(しゅぎょう)している山の中へと飛んで行き、聖の住まいのわきへ、どすんと落ちました。

   長者は、いよいよもってあきれかえりました。 でもどんなに腹(はら)を立てても、倉をこのまま自分の屋敷(やしき)へ持ち帰ることはできません。 長者は仕方なく、聖のそばへ寄っていきました。 

       「聖様、これはなんとしてもとんでもないことでございます。 この鉢が私のところへいつもやって来るものですから、そのたん

  びに、  物を入れて差し上げてまいりました。 ただ今日は、つい忙(いそが)しさにとりまぎれてしまいまして、鉢を倉の中へ

  置き忘れてしまい、 取り出しもしないで錠(じょう)をかけてしまいました。 ところが、この倉がもう揺(ゆ)れに揺れ出しま

  して、ここへ飛んでまいったのでございます。どうかこの倉をお返しください。」

  と申し上げました。 すると聖は、

        「ほんに不思議(ふしぎ)なことです。 でもせっかく飛んで来てしまったのですから、この倉はお返しできません。 

   ここには物を置いておく倉がありませんので不自由しておりました。 けれども、倉の中の物は、どうぞそっくりお返しします

   から、取って行きなさい。」

   と返事をしました。 長者は、

          「とんでもございません。 私がどうして家へ持って帰ることがげきましょう。 なにしろお米は千石(せんごく)も積(つ)ん

   であるのですから。」

   と、言います。 聖は

           「それは簡単(かんたん)です。 ちゃんと私が運んであげましょう。」

   と、この鉢に俵(たわら)を一俵(いっぴょう)入れて飛ばしました。 すると雁(かり)が空を飛ぶように、残りの俵が一列になって次々と全部 続きました。 やって来た人々は、ますますあっけにとられました。

そして、この聖がとても尊(とうと)いお方だと、長者は敬(うやま)う心がわいてきました。 長者は、

           「どうぞしばらくお待ちください。 全部お運びくださらなくとも、米を二、三百石はここへお残しになって、お使いになって

   ください。」

 と申し上げました。 けれど聖は、

           「とんでもないことだ。 米をそんなに残しておいて何としようぞ。」 と言いました。

            「それでは、ただ聖様がお使いになられます分として、十俵(ぴょう)でも二十俵でも差し上げましょう。」

  と、ご返事を申し上げましたが、聖は 「それもいらない。」 と言って、受け取ろうとしませんでした。

こんなことがあってからも、聖は変わらず、厳(きび)しい修行を重ね続けました。 

   そのころ、京都では醍醐(だいご)天皇が重いご病気におかかりになりました。 都中の人々はいろいろ手を尽(つ)くして天皇のご回復(かいふく)につとめましたが、少しもよくおなりになりません。 皆が心配で心配でたまらない時、ある人が、

           「河内国信貴山(かわちのくにしぎざん)と申します所に、長い間修行を続け、里へ下りたこともない尊(とうと)い

   聖(ひじり)がおられます。とても尊いお方で、たいへんな法力(ほうりき)を身につけておられ、鉢(はち)を飛ばし、

   山にいながらどんなことでもなさいます。 いかがでございましょうか。 その聖をお召(め)しになり、お祈りをおさせにな

   られましたなら、きっと天皇様のご病気もお治りになられますでしょう。」

 と、申し上げました。 万策尽(ばんさくつ)きて人々は困りはてていましたので、「それはよい話だ。」 と言って早速

(さっそく)蔵人(くろうど)(天皇の秘書役の側近)を特別天皇のお使いとして信貴山へ向かわせました。

行ってみますと、聖の様子は、聞いていたよりもはるかに尊く立派(りっぱ)でした。 

  これこれと、天皇のご命令を伝え、 

        「ともかく一刻(いっこく)も早く京都へ出て来て、天皇のいらっしゃる内裏(だいり)へ参内(さんだい)しなさい。」

 と言いわたしますと、聖は、

           「どうして私をお召(め)しになられるのですか。」

 とだけ言って、全然京都へ出かける様子はありませんでした。

   蔵人は、

            「天皇様は重い病気でお苦しみです。 早く行ってお祈りを申し上げてください。」

    と、さいそくします。

             「それならば、何も京都へ出かけなくても、ここでいながらお祈りをして差し上げることにしましょう。」

      とだけ言いました。

             「それでは、もし天皇様のご病気が回復なされたとしても、どうしてあなたがお治(なお)し申し上げたと知れましょう。」

     と、蔵人はばかにされたかと思ってくってかかりました。

  でも聖は、平然(へいぜん)として、

              「だれがお治し申し上げたのかおわかりにならなくても、天皇様のご気分さえよくおなりになれば、それでよいでは

    ありませんか。」

  としか返事しません。 蔵人は仕方なしに、

            「それにしても、天皇様のご病気をお治し申し上げようとして、大勢の人々がお祈り申し上げているのですぞ。 どうしてお治

    し申し上げたのがあなただとわかりましょう。 それがはっきりしたほうがいいのですが。」

 と、言いました。

           「それなら、お祈り申し上げます時に、剣(けん)の護法童子(ごほうどうじ)を京都へ差し向けましょう。 もしかして、

   天皇様の御夢の中にでも、あるいは昼間、幻(まぼろし)としてもご覧(らん)になられましたなら、それは私がお伺

   (うかが)いさせたものとご承知(しょうち)ください。 剣を編(あ)んで着物にした護法童子です。 童子を差し向けます

   ればそれで十分です。 ですから私は全く京都へ行くつもりはございません。」

   聖はそう言うだけです。 蔵人はどうしようもなく、京都へ引き返してきました。 そして天皇に聖のことを詳(くわ)しくご報告しました。

     それから三日が過ぎました。 その昼ごろです。 天皇は少しうとうととなさったかなあとおもわれましたその夢の中に、きらきらと光るものが 現れました。 なんだろうとご覧になりますと、あの聖の言ったとおりの剣の護法童子でありました。 そう天皇がお気づきになられました時から、御心地がさわやかになられ、少しも重苦しいご気分がしなくなりました。

 健康だった時と少しも変わらないほど壮快(そうかい)になられました。 お付きの人々は大喜びで、聖をほめちぎりました。

 天皇もこの上なく聖をご尊敬(そんけい)になられました。 早速(さっそく)御礼のお使いを信貴山にお遣(つか)わしになり、

        「あなたは、僧正(そうじょう)か僧都(そうず)の位をお望みですか、それとも荘園(しょうえん)を寄進(きしん)して

    ほしいとお考えですか。」

  と、お尋(たず)ねになりました。 聖は謹(つつし)んでお答えしました。

              「僧都や僧正になることなど全然望みません。 また、こんな山の中の寺に庄園を寄進(きしん)していただきましても、

    管理(かんり)をする人が必要になり、とても面倒(めんどう)でかえって困(こま)ります。 仏様も、必要もない財産を

    持つことはお許しにならないはずです。どうぞ、このままにしておいていただきたく思います。」 と、申し上げました。

                     

   この聖には姉が一人信濃の国におりました。>

弟が正式の僧(そう)になろうと都へ行ったまま、いつまでたっても帰って来ません。 こんなにいつまでも戻(もど)ってこないのは、きっと何かあったのではないかと心配でなりませんでした。 それで気がかりで気がかりでならなくなり、とうとう都へ捜

(さが)しに出て来ました。

姉さんはあちらこちら熱心に捜し回りました。 東大寺や山階寺(やましなじ)へも

             「妙蓮小院(みょうれんこいん)という人はいませんか。」

  と聞いて回りましたが、だれに訪(たず)ねても、知りません、という返事ばかりで、知っている人はどこにもいませんでした。

姉さんは尋ねあぐんで、もうどこを捜してもだめだ、信濃へ帰る前に、奈良東大寺の大仏様に、

              「どうぞ、私のかわいい弟の妙蓮(みょうれん)のおります所を、教えてください。」

と、一晩中(ひとばんじゅう)お願いすることにしました。 姉さんが熱心にお祈りをし、少しうとうととしました夢の中に、大仏様が現れ、

         「おまえの捜している僧は、ここから西南の方にある山の、雲のたなびいている場所を、訪ねて行ってみるがよい。」

 と、お告げになりました。 はっと目を覚(さ)ましました。 いつの間にか夜明けになっていました。 早く明るくなればいいなあと、もどかしく思って大仏殿の外に出て、じっと西南の方を見ました。 やっと、辺(あた)りがほのぼのと明けてきました。 

たしかに西南の方の山が かすかに見えます。 

  そこには紫(むらさき)の雲がたなびいていました。 姉さんはうれしくて、思わず西南の方へ飛び出して行きました。

  行ってみますと、ほんとうにお堂が建っていました。 人が住んでいると思われます所へ近寄って、

           「妙蓮小院(みょうれんこいん)はおいでですか。」

     と声をかけました。<

  家の中から 「そういうあなたはだれですか。」 と、返事がありました。

中から出てきました僧(そう)は、信濃にいるはずの姉が立っていましたので、

                「これはまたどうして姉さん、ここにいらっしゃったのですか。」 と、びっくりして尋(たず)ねました。

    そこで姉さんは、これまでのことを詳(くわ)しく話しました。 そして、

                「おまえこの姿(すがた)では、どんなに寒かったことでしょう。 どうそ、これを着なさい。 そのために信濃からわざわ

    ざ持ってきましたのですから」

 と僧に話しながら、袋(ふくろ)から服体(ふくたい)という特別太い糸で、厚(あつ)ぼったく目も細かに丈夫(じょうぶ)に編(あ)んだものを 取り出しました。 懐(なつ)かしさとうれしさとで、僧は喜んで受け取って着てみました。 僧はこれまで紙子(かみこ)(日本紙で作った着物)一重(ひとえ)だけを着ていました。 この日は特別寒い日でしたので、これまで着ていた紙子の下に早速(さっそく)着てみました。

 とても暖(あたた)かく、姉さんのぬくもりが伝わってきました。

  こうして、また長い間山の中で修行を続けました。 姉さんも、信濃へ帰らず、この山に留(とど)まってともに修行をしました。  ところで長い間、聖はこの服体ばかりを着て修行をしましたので、しまいにはぼろぼろに破れてしまい、着られなくなってしまいました。  鉢(はち)に乗って来た倉を飛び倉と呼んでいましたが、その倉にこの服体を収(おさ)めました。 これは今でも残っています。 信貴山に参詣(さんけい)に来た人々の中で、その破れの端(はし)きれをほんの少しばかりでも、何かの縁(えん)でたまたま手に入れました人は、大事にお守りにしました。

    また飛び倉もこわれかかっていますが、今も残っています。 その木の端(はし)を少しばかり手に入れた人は、やはりお守りにし、毘沙門天を彫(ほ)って持っています。 このお守りを持っています人は、必ず裕福(ゆうふく)になりました。              

  この話を聞いた人は、なんとか縁を捜(さが)し、その木を高いお金を出して買って行きました。 こうして信貴山はすばらしい幸福を呼ぶ 霊場として、今も人々がお参りする列が夜も日も絶(た)えたことがありません。 実はこのご本尊(ほんぞん)の毘沙門天(びしゃもんてん)は、あの妙連(みょうれん)聖が修行の始め、、偶然(ぐうぜん)この山で手に入れたものであります。

                    

                          「宇治拾遺物語」 巻第八の三  信濃国の聖の事

 

   

   次は、日本の国家が律令制(りつりょうせい)の政治形態(けいたい)を確立する上で、どうしても体験しなくてはならなかった悲劇的(ひげきてき)な内乱(ないらん)、壬申(じんしん)の乱(らん)(672年)をあつかった一種の歴史物語である。

だいたいが歴史上の事実のとおりだが、 歴史書には出てこないようなエピソードをつなげ、登場人物が生き生きと会話を交わしている。 

   こうした大枠(おおわく)は史実どおりだが、すべて創作された虚構(きょこう)から成っている。 

これは「大鏡(おおかがみ)」、「栄華(えいが)物語」をはじめ、現代まで続いている文学伝統(でんとう)といえよう。

 

 

                  壬申(じんしん)の乱(らん) (皇子(みこ)と皇弟(こうてい)の戦い)     信濃の説話 P101

        

                     壬申の乱・・・672年、

                     天智天皇の後継者(弟、大海人皇子、後の天武天皇)と天智天皇の息子(大友皇子)の皇位継承争いの内乱。

                    弟の大海人皇子が後継者であるにもかかわらず、天智天皇が自分の息子である大友皇子に継がせようとしたことが原因。

 

       今は昔、天智(てんじ)天皇の御子(みこ)に、大友皇子(おおとものみこ)というお方がいらっしゃいました。

太政大臣(だいじょうだいじん)になり日本の国の政治を取り仕切っておりました。 そして心の中では、もし天皇が亡(な)くなられましたら、 次の天皇に自分がなろうと思っていらっしゃいました。

  天武(てんむ)天皇はその時皇太子でいらっしゃいました。 このお気持ちをお知りになっておられて、

      「大友の皇子は今政治を行っています。 世間の評判(ひょうばん)もすばらしく、勢力も絶対(ぜったい)です。

         私は皇太子でしかありませんから、大友皇子にはとうていおよびません。 そのうちきっと殺されてしまうでしょう。」

 と恐(おそ)ろしがられ、警戒(けいかい)しておりました。

  そこで、天皇が病気になられますと、すぐに、

       「私は吉野(よしの)の山奥(やまおく)に入って法師(ほうし)になってしまおう。」

と言い残し、さっさと山にお籠(こも)りなってしまいました。

  その時大友皇子(おおとものみこ)に、ある人が、

   「皇太子を吉野山(よしのやま)に籠(こも)らせましたのでは、虎(とら)に羽をつけて野に放ったも同じです。 

  この宮殿(きゅうでん)の中に留(とど)めて置いてこそ、皇太子を思いのままにできるというものではありませんか。」

と申し上げました。 大友皇子はなるほどとお思いになり、軍勢(ぐんぜい)をそろえられ、いかにも皇太子をお迎(むか)え申し上げる様子で、すきを見て暗殺(さんさつ)するようお命じになりました。

  この大友皇子の奥方(おくがた)は、実は皇太子の御娘(おんむすめ)でありました。 妃(きさ)は、父君が殺されそうになっていることを  お知りになり、とても悲しまれました。 何とかして大友皇子の企(くわだ)てを父君にお知らせしようと思いになりましたが、どうしようも ありませんでした。

  思い悩(なや)まれたあげく、ついに、鮒(ふな)を包(つつ)み焼にし、その腹の中に小さく手紙を書いたものを押(お)し入れて、  それを父君に贈(おく)りました。

  皇太子は娘の妃からのこの小さなお手紙をご覧(らん)になりました。 そうでなくてさえ、大友皇子を恐(おそ)れておいでになりましたから、

         「やはりそうであったか、」

と、急いで下人(げにん)の狩衣(かりぎぬ)や袴(はかま)を着けられ、わらぐつをおはきになられて、だれにも知られないように、ただ一人 山を越(こ)えて北の方へお逃(に)げになられました。 <

 そのうち、山城国(やましろのくに)田原(たわら)(京都府綴喜(つづき)郡宇治(うじ)田原町)という土地までお逃げになってこられましたが、 道もご存知(ぞんじ)ではなく、五日も六日もかかって、やっとの思いでここまでたどり着かれたのでした。 

 この里の人は、姿(すがた)を下人にやつしました皇太子を見ましたが、とても不思議(ふしぎ)な人だと思いました。 なぜなら、姿は下人でも、どこか気品(きひん)さがにじみ出ているからです。 そこで、皆で栗(くり)を焼いたりゆでたりして

高杯(たかつき)に盛(も)り、皇太子に差し上げました。 皇太子はその二種類の栗を、

           「もし私の願いごとがかなうのなら、成長して木になれ。」

と言いながら、山の片側(かたがわ)の崖(がけ)にお埋(う)めになりました。 里人たちはこれを見て、ますます不思議に思い、そこにしるしの木をさしておきました。

     皇太子はこの土地を出られまして、志摩(しま)の国(三重県)の方へ、山ぞいにおいでになりました。

 また、その国の人が、下人の姿で気品がにじみ出ています皇太子を不思議に思い尋(たず)ねました。 すると皇太子は、

       「道に迷(まよ)った者です。 のどがかわいてなりません。 どうか水を飲ませてください。」

と、おっしゃいました。 そこで大きな釣瓶(つるべ)で水をくんで差し上げました。 皇太子はとてもお喜びになり、

       「おまえの一族をこの国の守(かみ)にしてあげましょう。」

と、仰(おお)せになりました。

   さらに美濃(みの)の国へおいでになりました。 この国の墨俣(すのまた)の渡(わた)し場(ば)で、舟(ふね)もなくて

お困りになり、お立ちに なっておられました時、一人の女の人が大きな桶(おけ)に布を入れて洗(あら)っていました。 皇太子が、

        「この渡し場を何とかして渡してくれませんか。」

とおしゃいました。

するとこの女の人は、

         「一昨日、大友の大臣のお使いの方がいらっしゃいまして、渡しにありました舟を全部取り上げて隠(かく)していってしまいま

   した。 たとえここをお渡し申しましても、これから先の多くの渡し場を無事お通りにはなれませんでしょう。 あのように

   お使いの方が舟を取り上げて  行かれましたから、すぐにも軍勢(ぐんぜい)が攻(せ)めてくると思います。 だからもう

   お逃(に)げになることはおできにならないでしょう。」

    と返事をしました。 皇太子はお困りになり、

           「それではどうしたらいいでしょうか。」  と仰せになられると、女の人は

           「お見受けいたしますと、あなた様はただの人ではございませんでしょう。 では、私がお隠(かく)しいたしましょう。」

 と言いました。

すぐ洗い桶を逆(さか)さまにしました。 その下に皇太子をお隠ししまして、その上に布を多く置きました。 女の人は布の上に

水をくみかけては洗(せん)たくをはじめました。 

   しばらくしますと、兵士が四、五百人ほどやってきました。 そして女の人に、「ここから人が渡ったか。」 と問いただしました。 すると、女の人は、

           「高貴(こうき)なお方が、軍勢千人ほどお連れになって来られました。 今ごろはもう、信濃の国にお入りになったことでし

   ょう。すばらしい竜(りゅう)のような馬にお乗りになり、なにしろ飛ぶようにしておいでになりましたから、皆さんのような

   少人数では、追いつかれたとしましても、皆殺されるでしょう。 これからお戻(もど)りになられ、軍勢を多く整えなさって

   から、追いかけられるのがよいのではないでしょうか。」 とまじめな顔で言いました。 皆ほんとうと思ったらしく、

   大友皇子の軍勢はあわてて引き返していきました。

  その後、皇太子は女の人に向かって、

           「この辺(あた)りで軍勢を集めましたら、大勢集まるでしょうか。」と、お尋(たず)ねになりました。

 女の人はあちこち走り回りました。 そしてこの国の主だった人たちを集めて、皇太子の軍に加わるように説(と)きふせました。

たちまち二、三千人もの軍勢ができあがりました。

     この軍勢を引き連れまして、皇太子は大友皇子を追撃(ついげき)され、近江(おうみ)の国大津(おおつ)という所で追いつき、激(はげ)しく戦いました。 大友皇子の軍はここで負けてしまいました。 軍勢は散(ち)り散(ぢ)りに逃(に)げました。 

大友皇子は、とうとう  山崎(やまざき)で戦死してしまわれました。 皇太子は大和(やまと)の国にお帰りになり、天皇として

即位(そくい)されました。

     あの田原(たわら)でお埋(う)めになりました焼栗(やきぐり)とゆで栗は、芽が出、やがて大木となり、その実は形も変わらず沢山(たくさん) なりました。 今でも田原の御栗(おぐり)と呼びまして、秋にこの実がなりますと、宮中(きゅうちゅう)に献上(けんじょう)することになっております。

   志摩(しま)の国で水を差し上げましたあの人は、高階氏(たかしなし)の一族(いちぞく)でした。

それで高階氏の子孫(しそん)が代々この国の国司(こくし)になることになっています。 またあの時水をお飲みになられました

釣瓶(つるべ) は、今も薬師寺(やくしじ)に残っています。 墨俣(すのまた)の女の人は、実は不破(ふわ)の明神

(みょうじん)が人間の姿で現れたのだと いうことです。

                     

    (「宇治拾遺物語」巻第十五の一  浄見原天皇と大友皇子と合戦の事)

 

 大化の改新  皇極天皇4年(645)6月12日乙巳の変に始まる

 広義には大宝元年(701)の大宝律令完成まで行われた一連の改革を含む。年若い両皇子(中大兄、異母弟の大海人)の協力により

推進された。中大兄(後の天智天皇)、大海人(後の天武天皇)

後に、天智天皇の策略を察した大海人は、出家すると偽って、妻と共に吉野(奈良県)へ逃れ、力を蓄た後に、内乱を起こした。

大海人皇子は天武天皇として即位。天皇中心の中央集権を目指し、都を飛鳥(あすか)に移す。 

 「八色の姓(やくさのかばね)」、身分制度の確立。「飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)」法典の制度を命じるなど

朝廷政治の基礎を築いた。

 飛鳥浄御原令の完成前に天武天皇は亡くなり、その後、皇后が持統(じとう)天皇として即位、法典を完成させて施行した。

      「選集抄」(せんしゅうしょう)信濃の説話 P108

 

                永眼大僧都のはなし

     昔、山階寺(やましなじ)に、とても徳の高いすばらしい永眼大僧都(えいがんだいそうず)という人がおりました。

この大僧都は、若(わか)い時から熱心に学問をしましたが、寺の中にいると、他の僧との付き合いが面倒(めんどう)だと常々

(つねづね) 思っていました。 寺の副住職にまでなっていましたが、こんな生活は自分の望むところではないと、一人だけで修行しようと考え、だれにも知られず、かき消えるように突然(とつぜん)姿(すがた)をくらましてしまいました。 お弟子(でし)の僧たちは大騒(おおさわ)ぎで、あちらこちら 探(さが)し回りましたが、どこにも永眼の姿はありませんでした。

   こうして何か月かが過ぎました。 お弟子の僧たちも仕方なく、永眼の寺を去って皆散(ち)り散(ぢ)りになりました。

永眼は、実は信濃の国の木曽(きそ)という所へ隠(かく)れたのでした。

   ある時は、山の奥(おく)深く入り込んで、無情(むじょう)という教えを風の中に見出そうとしました。 またある時は、人里に下りてきて、一人暮らしでだれも手伝ってくれない田舎(いなか)の小さな倒(たお)れかかった家へ立ち寄り、その人のために水をくんだり薪(まき)を採(と)ってきてあげたりしました。 これは、まことに僧のする修行とは言えないことでありました。

永眼のこうした行いは、奈良時代の高僧(こうそう)玄賓(げんびん)の行跡(ぎょうせき)と全く同じだといえます。

       かの玄賓も永眼も、どんなことをする場合も、心は澄(す)みきっていました。 自分の心をねじ曲げてまでの人づき合いを嫌(きら)い、 どんなことをする時でも、自分の才能をひけらかすことのないように慎(つつ)みました。  そして、あらゆる生き物をひろく愛し慈(いつく)しんでおりました。 まことにすばらしい高僧でありました。

    およそ、この永眼の様子は、 どんなにうるさい時でも、それを嫌(いや)がりませんでした。 どんなに人づき合いがわずらわしくても、 それを嫌がっておられるふうではありませんでした。 それにしてもどうして永眼がこんなに心のひろい人になったのでしょうか。 永眼はただ深い山奥で一人修行に励(はげ)み、限りなく心を澄(す)ますことに成功しました後は、どんな人とつき合いましても、少しも 汚(けが)れることがありませんでした。 貧しい人を見ますと、その人と同じように悲しくなりました。 逆に、金持ちを見ますと、その人と同じように誇(ほこ)らしくうれしくなりました。 全く空気のように澄みきり、何の汚れもなく透明

(とうめい)な心なのでありました。

    この永眼僧都が亡くなる時の様子は、どんなふうだったのでしょうか。 どうしてもその様子を知りたいと何度も何度も思いましたが、 その場所はいまだに判明しません。 それにしても、今はきっと極楽浄土(ごくらくじょうど)に行っていらっしゃるのでしょう。 慕(した)わしい限りです。

                   

                   ヲ             

      「撰集抄」 巻五第一 (永眼僧都背ㇾ世事、えいがんそうずよをそむくこと)        

 

             一条次郎義景(いちじょうじろうよしかげ)に仕(つか)えた僧    信濃の説話 P116

                      

         昔、信濃の国に一条次郎義景(いちじょうじろうよしかげ)という武士がおりました。 ある時、義景のもとへ、みすぼらしい一人の僧がやってきまして、「あなた様にお仕えしとうございます。 どうぞやとってください。」 と、申しました。

  「おまえはどこからやってきたのか。」と、問いただしますと、

 僧は、「はるかな遠い国からやってきました。 これまで長年、妻とともに幸福に暮(く)らしてまいりました。 ところが妻が亡

     くなり、私は何を生きがいに生きていったらいいのかわからなくなってしまい、乞食(こじき)になってしまいました。」

 と答えました。 

義景は、この僧を気の毒に思いました。 そして僧の望みどおり、家に置いてやることにしました。

ところがこの僧は、食べ物を、一日にお米一合、それもただ一度、お昼時に食べる意外、何も口にしませんでした。

家の人々がかわいそうだと思って、あれこれおいしい物を勧(すす)めましたが、全く食べようとしません。 何もしゃべらず、ただ黙々(もくもく)と実によく働きましたので、義景はじめ家中の人々は僧をとても大切にしてかわいがり、親しみをもって接しておりました。

   ところが一年もたったころ、どういう事情(じじょう)があったのでしょうか、かき消すように姿を隠(かく)してしまいました。 義景をはじめ、 家中の者はあんなに大事にしていたのにと、皆泣いて悲しみましたが、どこを探(さが)しても見つけ出せませんでした。

   そこで、寝起きしていた部屋を開けて僧の持ち物をあれこれ当たり、何か手がかりを探そうとしました。 

すると見事な筆跡(ひっせき)でつけた日記が出てきました。

   開いてみますと、そこには、毎日毎日夜中中激(はげ)しい修行をしたことが丹念(たんねん)に書き留めてありました。 

 これを見た人は皆キツネにつままれたように茫然(ぼうぜん)としました。

  そしてあの僧のことを思って涙(なみだ)を流さない人はいませんでした。 だれ言うともなく、こんな立派(りっぱ)な僧が立派なことをひた隠(かく)しに隠し、私たちの言い付けどおり昼間は一生懸命(いっしょうけんめい)働いていたとは、不思議(ふしぎ)なことだ。 それにしてもあの僧の心はなんと奥(おく)ゆかしかったなあと、今さらながら人々は懐(なつ)かしがりました。

           (同巻七第九 信州義景宮セル事)

                      

                     

  中世(鎌倉時代)になると、前の時代(平安時代)とは比べものにならないくらい、交通が頻繁(ひんぱん)になり、人々の行き来が盛んになった。 その結果、信濃を舞台にした人々の世間話・噂話(うわさばなし)が数多く現れるようになってくる。 それも前の時代のような、 ありそうにない内容ではなく、ずっと現実的なものに変わってくる。

 

        けんぎょう   とよひら            たか    か

                          検校  豊平、 鷹を飼う  信濃の説話 P129

                 

             平安時代の中ごろ、一条天皇の御代(みよ)のことです。 天皇が特に大切にしておられた鷹(たか)がありました。 

しかしどういうわけか、この鷹はいっこうに鳥をとろうとしませんでした。 天皇にお仕えしていた鷹飼(たかがい)たちは、なんとかこの鷹が鳥をとって立派にお役に  立つように一生懸命訓練しましたが、鷹はどんな鳥にも目をくれようともしませんでした。

  それでこの鷹をどのように訓練したらよいのか途方(とほう)にくれてしまいましたので、鷹を

粟田口十禅師(あわたぐちじゅうぜんじ)の辻(つじ)の立ち木に止まらせ、そこを通る人に見せました。 この鷹を見かけて何か

言う者がいるのではないかと、そっと目立たないように 人をそばに立たせておきました。 

   そこへ普段着(ふだんぎ)に袴(はかま)、編み笠(あみがさ)をかぶった、一見して地方から京都へ上がってきたと思われる男が通りかかりました。 この鷹を見つけますと、ひらりと馬から降り、周りを何度も回りながらじっと見ておりました。 

        「ああすばらしい鷹だなあ。 こんな鷹はこれまで見たことがない。 けれどもこの鷹はまだ訓練されていないから、鳥をとった

   ことはないのだろう。」

  と、つぶやきながら通り過ぎようとしました。

その時、鷹飼の一人が呼び止めました。

          「今あなたが言われたこと、全くそのとおりでございます。 この鷹は帝(みかど)のご秘蔵(ひぞう)の鳥です。 あなたが

   訓練なさって、帝のお褒(ほ)めにあずかられたらどうですか。」

   と勧(すす)めました。 男は、

         「訓練はとても簡単(かんたん)です。 私でなくては、この鷹を訓練できる人はほかにはいないでしょう。」

   と答えました。 鷹飼は、

         「あなたのような方はこれまでお目にかかったことがありません。 早速(さっそく)、帝に申し上げることにしましょう。」

   と言い、男の宿を詳(くわ)しく聞いておきました。 そしてこの鷹を肩(かた)にすえて内裏(だいり)へ戻り、帝にこのことを

 申し上げました。

帝はたいそうお喜びになられ、すぐさまこの男を内裏へお召(め)しになり、鷹の訓練をお命じになられました。 男はよく訓練し、間もなく 鷹を肩にすえて帝の御前へやってきました。

    男は紫宸殿(ししでん)の池の汀(みぎわ)に座り、帝が御出ましになられるのを待ちました。 帝のお姿を見て、男は、池に集まって 浮(う)かんでいた魚をねらわせて鷹を放しました。

するとすぐさま鷹はいちばん大きい鯉(こい)をものの見事にくわえとりました。 鷹の様子をじっと見ておられた帝をはじめ、

大臣たちは、信じられない面持(おもも)ちでびっくりしました。

どうして鳥も取ろうとしない鷹が、魚までとるようになったのか、と、ご質問になられました。           

   「この御鷹は、鷹を父に、みさご(海辺にすむ鷹の一種)を母として生まれました。 ですから、まず母鳥のように魚とりを

    教えその後で父鳥の芸を仕込むことにしました。 これからは、鳥を一羽も逃がすはずはありません。 きわめてすぐれた鷹

    になりました。」

    と、申し上げました。

帝はたいへんお喜びになられ、ご褒美(ほうび)に何を望むか、望みどおりのものを取らせよう、と仰(おお)せになりました。 

男は 恐(おそ)る恐る、信濃の国のひじの郡(こおり)(上伊那郡長谷(はせ)村非持(ひじ)の家屋敷(いえやしき)と

田圃(たんぼ)をいただけましたら、  と申し上げました。 ひじの検校豊平(けんぎょうとよひら)とはこの人のことです。 

豊平が宮中警固(きゅうちゅうけいご)の役目で京都へのぼりました時のお話です。

                        

                        「古今著聞集(ここんちょもんじゅ」 巻二十 ひじの検校豊平善(よ)く鷹を飼ふ(う)事

 

 

 

              三人の孝行娘   信濃の説話 P139

 

      信州で昔こんなことがありました。 更級(さらしな)の地を支配していました地頭(じとう)が亡(な)くなりました。

 その後三人の娘(むすめ)が父親の霊(れい)を慰(なぐさ)めようと供養(くよう)をしました。 その時長年のつき合いでこの

三人の娘の人柄(ひとがら)や性格を知り抜(ぬ)いていました年老(としお)いた僧は、この法亊(ほうじ)を主催(しゅさい)した三人の娘について仏に  奉(たてまつ)る文章(ぶんしょう)の中に詳(くわ)しく書き記しました。

    その文章の中で、父親が生きていた時、長女は今溝(いまみぞ)(長野市高田)の地頭と結婚していました。 父親への孝養

(こうよう)を 手厚(てあつ)くしようと思い、犀川(さいがわ)の近くに住んでいますから、いつも新鮮(しんせん)な川魚が手に入りました。

   そこでけっこうな魚の汁(しる)を作っては、近い所のこととて必ず父親の許(もと)へ持ってきました。

また次女は、姨捨(おばすて)の地頭と結婚していました。 

 父親が死にそうだとの連絡(れんらく)を受け、姨捨のとても険(けわ)しい坂を一晩(ひとばん)がかりで越(こ)えてかけつけ、親の死に目に合いました。 こうしたいきさつをよくご存知(ぞんじ)なので、老僧はさらに続けました。

        「人間の命は、いつ死ぬのかわかりません。 死んだ父親の霊(れい)は、今はどこにいらっしゃるのでしょう。 今こうして皆

   さん方が集まり、供養しようとしても、もう孝行の気持ちはお父上にはおわかりにならないことでしょう。 でありますから、

   今溝の奥(おく)さんが今またおいしい汁を作ってこられても、お父上はもうお喜びにはなりません。 姨捨の奥さんが、

   今また一晩中かかってかけつけたとしても、お父上はもうお喜びにはなりません。 

           親孝行は、親が生きている時にしなくては何もならないのです。 塩尻(しおじり)の三女の。」

 ここまで仏前で老僧が読み上げました時、塩尻の地頭がこの席に座っていましたが、たまりかねて大声で言いました。

           「私の妻であります三女のことは、どうか言わないでください。」

   三人の婿(むこ)は、それぞれの妻(つま)が、

           「もっと父親を大事にしたい。」 「親孝行(こうこう)をしたい。」

    と言っていた時、十分そうさせてやればよかったと冷や汗を流し合っていました。

 

             (古今著聞集・巻六の一)

 

 

 

                          今溝・・・『沙石集』・・・の舞台

           今溝とは「新しくできた用水」という意味らしく、現在の長野市の北八幡堰(せぎ)がそれにあたるらしく、長野市内の高田

(たかだ)・北条(きたじょう)などの一帯が「今溝」の地域にあたると考えられます。 『沙石集』の本文にも「さい河の辺り

(あたり)なれば、常に魚あるところにて」

  と記されています。 平安の末期にこの辺に荘園(しょうえん)ができ、ここの地頭は古くから諏訪社に仕え、上社の五月会で御射山(みさやま)の 頭役(かしらやく)や、また近くの栗田(くりた)氏と一緒(いっしょ)に上社の造営役も務めていました。

 

 

                           信州出の立派(りっぱ)な尼(あま)さん  信濃の説話 P142

 

         信州に、なにがしとかという名の尼さんがいました。 鎌倉(かまくら)へやって来て、ある家の法事(ほうじ)をしました。 もちろん 尼さん一人ではできません。 尼さんが子どものときから育ててきた若い坊さんが、ちょうど寿福寺(じゅふくじ)におりましたので、その家の 希望もあり、その坊さんにも法事を手伝ってもらいました。 

  さて、鎌倉の宿に帰り、宿の人に向かいほめちぎって言いました。 

               「それにしましても、あのお坊様は、私がおむつを取り替(か)え、大事に育ててきました。 子どもの時のことをよく

    知っている私にはお坊様が頼(たよ)りなく、何もできそうにないと、子どもの時のことをあれこれ思い出しまして、

    とても不安でした。 ところがどうでしょう。 お坊様はほんとうに立派(りっぱ)な風格(ふうかく)でやってきました。

    でもまだ私は外見ばかり立派になってもたいしたことはないと、たかをくくっておりました。 

                      いよいよ法事が始まりますと、お坊様は実によく、立派にてきぱき取りしきられます。

               『あれ、とても立派だなあ、よく修行したものだ。』

      と驚いておりますと、法事の最後に、私などとてもとてもできないありがたい説教を心をこめてやり出しました。

      これには、私はどぎもを抜(ぬ)かれてしまいました。」

  尼さんのことばづかいは、方言(ほうげん)だらけのしかもだみ声で、とても聞きづらいのでしたが、わが子の成長に涙(なみだ)

流さんばかりに喜んでいる親心があふれ、まことに心暖(あたた)まるものでありました。

以上の話は、鎌倉で評判(ひょうばん)になったものです。 でも、この尼さんの名もお坊様の名も忘れてしまいました。

 

                           (『沙石集』巻六の二)

                          

  ほんとうの孝行息子(こうこうむすこ)  信濃の説話 P150

 

                   

  昔、信州に一人の男がおちました。この男京都へ上った折りに、すばらしい京女(きょうおんな)を連れて戻(もど)ってきました。

  ところがこの京女、実は京都で親しくしていた男友達が何人もいました。

      この男友だちが懐(なつ)かしがってわざわざ信州にまで手紙を何通も何通もよこしました。 京女はこの手紙を隠(かく)していましたが、 これこれのことがありますよと、男にこっそりと教えた者がいました。 夫(おっと)はかんかんに怒(おこ)り、

妻である京女をきつく問いただしその手紙の束(たば)を取り上げました。

    しかし男は字が読めません。 困りはてて、戸隠(とがくし)の山寺(当時の寺は学校の役割をしていた)で学問をいろ積(つ)んでいた息子を呼び寄せ、京女の面前で、手紙を読み上げさせることにしました。 

 手紙の中には、この男に知られたら、怒りのあまり殺されてしまいかねない、熱い熱い恋文(こいぶみ)が何通もまじっていましたから。

 ところが息子は、父親と父親が熱愛しているこの京女の幸せを願う深い心から、たくさんあった手紙全部をごくありふれた普通の

手紙のように、さしさわりのありそうな箇所(かしょ)はことごとく改めて、読み上げました。

男はありもしない中傷(ちゅうしょう)だったと安心して、この事件は終わりました。 京女は大いに喜び、これまでの自分の

あいまいな気持ちを恥(は)じました。 男をもり立て、この息子と仲よくやっていこうと固く心に誓(ちか)いました。  

 早速(さっそく)いろいろな 贈(おく)り物(もの)を添(そ)えて戸隠の息子に手紙を送りました。

                  

    信濃なる木曽路にかくる丸木橋踏みみし時は危うかりしを 

 (あなたが手紙を読み上げられました時は、肝(きも)をつぶしましたよ。)

  この息子の返事、

      そのはら      みなははきぎ う 

         信濃なる園原にこそやどらねど皆帚木と思ふばかりぞ

      (私はあなたのほんとうの子ではありませんが、縁(えん)あって義理(ぎり)の母になられたのですから、母親として親孝行

  しようと思います。)

   こうして、この一家は心を一つにして幸せになりました。 やがて息子は家に帰り、三人仲よく暮らしまました。

 

                          (『沙石集』補遣巻三の六)

 

 

  だいかじん うらぎり

  大歌人の裏切り  信濃の説話 P152

 

  信濃の国は、風がとても激(はげ)しい土地です。 このことから、諏訪明神(すわみょうじん)の境内(けいだい)に、

風の祝(はふり)と  いうものを作り、この中へ風神(ふうじん)を深くこめて祭っておき、百日の間は大切にお守りするという。

    それで、このようにした年は風が静まり天候が落ち着くので、農作物がよくできるという。 ところが、祝に自然にすき間ができ、風神が太陽の光を見てしまった時は風神があばれ出してしまい、風が強く農作物のできはよくないと、

 能登大夫資基(のとのたいふすけもと)という人が聞いてきて、

          「こんな珍(めずら)しい不思議な話を聞きました。 これを歌に詠(よ)もうと思います。」

 と、大歌人 源俊頼(みなもとのとしより)に話したところ、俊頼は、

           「そんな話は全く俗(ぞく)っぽい内容です。 これを歌に詠むと手柄になるなどと思い違(ちが)いなさって、歌に詠もうな

             どと絶対してはいけません。 だめです。」

 と教えた。 ところが、この時この話を聞いた当の俊頼が、後になって、

          「信濃なる木曽路の桜咲きにけり風の祝にすき間あらすな。」

  と歌に詠んだのである。 これは、ほんとうにひどい話で、資基が悔(くや)しがることといったらなかった。

 

                           『十訓抄』中巻・第七の十六

 

  諏訪社

  諏訪社の社名は「日本書紀」の持統天皇5年8日条に「遣使者祭、竜田風神、信濃須波・水内等神」と記されています。

 当社は山岳地帯のなかの小盆地にある諏訪湖に近く、厳(きび)しい自然環境(かんきょう)での自然崇拝(すうはい)をもとにした原始的な 信仰から神社ができたと考えられます。 社名の竜田風神もそこからきたものと思われます。

    その証拠に上社の神体は守屋山(もりやさん)であり、神が降臨(こうりん)する場所は磐座(ばんざ)と古木です。

 下社は春秋の二社間の遷座祭(せんざさい)が行われ、霧ヶ峰の御射山(みさやま)の湿原(しつげん)から神が降り、

春宮がスギの古木、秋宮がイチイの古木が磐座に立っています。

 

 

                           「信濃に関する説話の類型」

 

                                           長野県史 通史編 第三巻 中世二

                                                              第六章 室町。戦国時代の文化

                                                              第三節 学問と文学

 

                                                              説話・物語にみる信濃 P612

 

                       

        室町時代にはたくさんの説話が書かれた。 まず、南北朝時代に「神道集」がまとめられた。

   この本は「安居院(あぐい)作」と各巻のの内題の下に書いてある。 安居院は比叡山の京都里坊の一つで、 唱導(しょうどう)の名手の輩出した寺である。 唱導とは、仏教の教理などをわかりやすく話して聞かせる説教である。 「神道集」を書いたのが本当に安居院派の人かどうかよくわからないが、唱導をまとめた本には違いがない。

   西上野(群馬県西部)の話が中心になっているから、そのあたりの人が編集したらしい。 この本は、のちの

「御伽草子(おとぎぞうし)」の種本の一つになっている。 諏訪社の縁起である甲賀三郎の話や、戸隠山の鬼の話などがこの

「神道集」に出ている。

  延文元年(1356)にできた「諏方大明神画詞」には、「諏訪大明神関係の説話がいくつも収められている。 また室町中期にできた

説話集「三国伝記」には「信濃国遁(とん)世者往生事」(二巻二十七)、「信州更級郡白介翁事」(五巻三十)などが収められている。 室町時代に書かれた物語を集めた「室町時代物語大成」に約五百篇が認められている。 

  これは平安・鎌倉時代に書かれた物語や軍記物にくらべて、圧倒的に多い数である。 この時代の物語は「読んで聞かせる」話が多かった。 「物臭(ものぐさ)太郎」は「毎日一度、この物語を人に読み聞かせれば、おたが明神の御心にかない、かならずしあわせをえるであろう」という言葉で終わっており、もともと大勢の人に読んで聞かせる話だったことがわかる。 

絵入写本の「すはの本地」(「室町時代物語大成」)の終わりに近い部分に「この巻物を、内陣より取り出し、詣(まい)りの人に読み聞かせ、神徳を蒙(こうむ)らせ給ふべし」とあり、神官か社僧が参拝者に読み聞かせるべき本であたったことがわかる。 宮崎県えびの市の諏訪神社の「諏訪の本地」は大永五年(1525)の奥書(おくがき)をもつ古本の写本であるが、この地方の方言がまじっており、この地方において写されたと考えられている。 明暦四年(1658)の奥書に、大永五年に奉納された古本が損じたので書き換えたと記しているが、これは保存が悪くて損じたというより、しばし参拝者に読み聞かせたために損じたと考えるべきであろう。

 信濃に関する説話・物語は、善光寺縁起に関するもの、諏訪縁起に関する物、および木曾義仲関係のものが多い。 善光寺と諏訪神社は信濃を本拠としてその信仰が全国に広まった寺社で、その縁起が多く残っているのは当然である。 「師門(もろかど)物語」や

「物臭太郎」はそれぞれ塩竈神社(宮城県仙台市)や多賀大社(滋賀県多賀町)の縁起であるが、善光寺と結びつけて説かれている。  以上諏訪社関係、善光寺関係、木曾義仲関係の三つにわけて、室町時代の信濃関係の説話・物語を説明する。

                  

                  諏訪社関係の物語

  諏訪の神が出雲で天照大神(あまてらすおおみかみ)の使者建御雷神(たけみかずちのかみ)らに負けて諏訪に追い込められたという神話が「古事記」に出ている。 「諏方大明神画詞」の巻頭にもそのあらすじが紹介されている。 しかし「古事記」は中世には

ごく一部の者の目に触れただけの書物であった。 一般に知られた諏訪社の由来は「甲賀三郎」を諏訪神の前身とする縁起である。 「諏訪の本地」「諏訪縁起」「甲賀三郎」などと呼ばれ、たくさんの本が伝えられている。 主人公甲賀三郎の実名を諏方(よりかた)とするものと、兼家とするものと二つの系統の本があり、筋がかなり違っている。 現在伝わっているいちばん古いものは「神道集」に収められている縁起である。

 この縁起は諏方系である。 そのあらすじは次のとおりである。

                        

                         (1)

     近江甲賀郡の甲賀権守諏胤(ごんのかみよりたね)は東三十三ヵ国の惣追捕(ついぶ)使であったが、死にのぞみ、三郎諏方に家督をゆずる。 三郎は大和の国司の娘春日姫と結婚する。 春日姫がさらわれ、三郎は日本中をさがし回り、信濃蓼科山の穴の入口に春日姫の遺品を見い出す。 三郎は地底へ下って春日姫を救い出し、一度は地上へもどってきたが、春日姫が忘れてきた鏡を取りにふたたび穴に下る。 三郎の兄次郎は邪心をおこし、三郎の家来を切り殺し、穴から上がるための籠の綱を切り、春日姫を奪って帰る。

              

                         (2)

     甲賀三郎は地底の七十二の国を遍歴する。 七十三番めの維摩(ゆいま)国で国王の娘維摩姫の婿になり、十三年をすごす。 

  この国では鹿狩りをすりことだけが仕事である。 三郎は春日姫への思慕にたえられず、狩に殊勲をあらわして帰国の許可をえる。

                 

                         (3)

     三郎は鹿千頭の生肝(いきぎも)を集めて作った餅一千個、菅のむかばき、顔あてのの紙、初萩花などをあたえられ、途中の妨害者を退け、浅間山の穴からこの世にもどる。 甲賀へもどったが、蛇身になっていたので人々に怪しまれる。 氏神の教えにより、池で蛇身を脱して人間にもどる。 すでに神になっていた春日姫と再会、旧縁により、信濃蓼科山に赴き、ついて岡屋の里に移った。 

三郎はここで神としずまりたもうたので、世に諏訪大明神と申し上げた、いまの上社である。 春日姫は下社の神となった。  維摩姫も三郎の跡を追って日本へ来て、春日姫と対面した。 いまは愛憎を超えた身であるから、たがいに別れのつらさを語りあわせ、同じ国に御社を建ててしずまりたもうた 。

    いまの世に、浅間の大明神というのはこれである(信史⑥(289)。

この物語でもっとも具体性に富むのはこの冥界脱出の条であり、たとえば三郎がムカデやアブを防ぐのに使用した菅のムカバキや三段の切れ目のある紙を、いまの世に諏訪の祝殿(ほうりどの)がお祭りのとき身につけられるのであるというような、きわめて具体的な説明がある。

    ただ、この話にはどうもすっきりしない点がある。 春日姫が地上にもどっているのに、三郎が姫をさがして地底の国々をめぐるというのは理屈にあわない。 兼家系の話では、三郎は三輪の姫と結ばれ、結ばれたあとでさらに遍歴を重ねて諏訪の神になったことになっている。もともと甲賀地方に伝えられた三輪神の縁起物語であったらしいが、諏訪信仰が近江地方にも強くおよぶようになり、諏訪信仰に結びつけられたのだろうといわれる。 

    話としては兼家系の方が古いといわれる。 兼家系の本は九州に多く残っており、まえに述べた宮崎県都城市諏訪神社の「諏訪神社縁起画」(仮題)は天和三年(1683)の奥書があり、古本の縁起が破損したので、この年に書き替えたものである。 これらの諸本は、みなその地方の方言をふくんでいるという。 えびの市諏訪神社本に「されば大明神をあがめ奉らむ人に、同心の御本地を伝え聞かせて、人にも語り聞かせて、神の験を蒙るべし」とあり、これらの縁起は、たんに神前に収められるだけでなく、諏訪信仰の普及に役立てられるべきものであった。

     諏訪神社は九州南部にかなりある。 ある調査では鹿児島県には118社あり、これは都道府県別では第九位であるという。 鹿児島県におけるこのような諏訪信仰の普及は、島津氏による諏訪神社の勧請(かんじょう)が一つの契機になっていることはたしかであろうが、それだけでは説明できない。 諏訪信仰を広めた諏訪神人の活躍があり、「諏訪縁起」はその布教の手段として使用されたとみるべきであろう。

   滋賀県甲賀郡甲南町には、戦国時代、望月氏が勢力を張っていた。 また望月氏を名のる熊野系の山伏の子孫が存在し、甲賀三郎の

子孫と称している。 甲賀には滋野系と称し、諏訪信仰を広めて歩いた山伏があったらしい。

甲賀三郎伝説は伊賀(三重県)・近江・常陸・甲斐・越中・越前・若狭・丹後(京都府)などに現在も分布している。 九州にも伝えられたことはまえに述べたとおりである。 長崎諏訪神社は太平洋戦争前は国幣中社であり、諏訪神社としては信濃の本社につぐ社格をもち、現在も長崎の総鎮守として信仰を集めている。 この地にあった諏訪社・森崎社・住吉社がキリシタンによって破壊されたのち、

寛永二年(1625)長崎奉行が再興したものという。 この神社が諏訪神社と呼ばれたのは、もともと諏訪神社が中心であったためと思われる。「神道集」には、また戸隠山の鬼の話がでている。 この話は「諏訪大明神の五月会(さつきのえ)の事」というところにでており、諏訪社の五月会の起こりを説明しているのである。

                      

                         「戸隠山の鬼」

                         

            戸隠山に官那羅(かんなら)という鬼がいて、先祖伝来の青葉の笛という名笛を持っていた。 在原業平(ありわらのなりひら)はその笛がほしくなり、笛をたくさん用意して戸隠へ行った。 笛を交換して鬼と秘術をつくして吹きあい、いつわって青葉の笛を奪って都に帰り、光孝天皇に献上した。 鬼は美少年の姿になって宮中にあらわれ、かわりの笛を献上するから青葉の笛を返してくれと歎願(たんがん)したが、ことわられたので、怒って官女をさらって逃げてしまう。 天皇は源満清に鬼の追討を命ずる。 美濃と尾張の境で不思議な武士が一騎加わる。 御坂峠(みさかとうげ)(下伊那郡阿智村)を超えて、信濃の園原を通りかかったとき、梶(かじ)の葉の水干(すいかん)(庶民のふだん着)を着て、鹿毛の馬にまたがったもう一人の武士が加わった。 この武士が「私は当国の住人で地理をよく知っているので案内しましょう。鬼は戸隠山を出て浅間山に城を構えています。」と教える。 その武士の案内で浅間山に向かい、二人の武士の働きで鬼を捕らえた。二人の武士は熱田大明神と諏訪大明神であった。 鬼は三条河原で切られ、熱田・諏訪両社には、それぞれ神領が寄進された。 諏訪大明神の十六人の大頭はこのときから始まった。

                     

                     「金剛女」

               天竺(てんじく)(インド)の舎衛(しゃえ)国王に金剛女という娘があり、 身に鱗(うろこ)が生えて鬼になってしまった。 かの女の前世は善光王で悪行を犯したのでその報いである。 金剛女は祇陀(きだ)大臣に預けられた。 釈迦の説法により、金剛女はもとの身となり、祇陀大臣を婿とした。 諏訪上社ノ神はむかしの祇陀大臣で、本地は普賢菩薩である。 下社は昔の金剛女で、本地は、千手観音である。源満清の立願で諏訪の五月会がはじまった。 (信史⑥294)

                     

        この話も一種の諏訪縁起であるが二つの異なる話がならべられている。 戸隠の鬼の話の方が中心になっており、しかも、その鬼がかならず しも悪玉として描かれていない。 いつわって先祖伝来の宝物を取り上げたのは都の公卿で、鬼はむしろ被害者である。

                   

             「善光寺と関係のある物語」

       「善光寺縁起」の流行については、すでに述べた(第六章第二節一)。 縁起のほかにも、室町時代の説話・物語には善光寺信仰と関係のある作がいくつかある。 それらは当時の善光寺信仰の一面を語るものである。

                     

         「信州更科郡白介(しらすけ)翁の事」

        舒明天皇(じょめいてんのう)(第34代629~641)の御代、信州更科群姨捨山のあたりに白介の翁という人があった。 

允恭(いんぎょう)天皇六代の子孫だが、祖父の代に信濃に流されおちぶれていた。 白介は幼いときに父母に死別した。 

成長ののち、父母の菩提のため、千日の 間、湯をわかして旅人を接待し、千本の卒塔婆(そとば)をつくった。 しかし供養のための導師がいない。 善光寺に7日間参籠して祈願すると 、七日目の朝、一人の僧があらわれ、白介の家へ来て供養してくれた。 

僧(実は善光寺如来)は白介に大和泊瀬(はつせ)山に参詣せよと教える。 白介は大和長谷に赴(おもむ)き、仏の加護により長者になった。 長谷山で十一面観音を夢の中に拝し、その像をつくって故郷の自宅を敷地として寺を建てて安置した。  今の信州更級郡の新長谷寺がこれである。 

   この話は鎌倉時代初期にできた「長谷寺霊験記」に同じような筋で載せられており、そのはじめには、

        「舒明天皇の御代に、当時の観音がまだあらわれたまわぬ前一百年ばかりに」とあり、信濃新長谷寺の観音の方が古いことになっている。

  また、信濃の長谷寺からは仁平元年(1151)の銘のある経筒が発見されている(信史②654)。 また、長谷寺の寺地を白助といい、

寺の裏山にある山城を白助城ともいう。

             

平将門(まさかど)の子孫師末(もろすえ)は陸奥三迫(むつさんのはざま)(宮城県栗駒町)に住んでいた。 塩竈明神に祈って

一子師門をえた。 師門は浄瑠璃(じょうるり)御前と結婚したが、国司中将は浄瑠璃を奪い、師門の一族を皆殺しにした。 師門はのがれて回国の聖(ひじり)となり、まず善光寺へ参詣、諸国の霊場をめぐり、故郷へ帰って、阿弥陀堂再興の勧進をしているところを国司に捕えられ殺されかかったが、阿弥陀如来が身代わりになって下さったので脱出し、善光寺へ赴いた。 浄瑠璃は夫の残した和歌をたよりに出羽羽黒山(山形県)、越後蔵王堂(新潟県長岡市)を経て善光寺に詣で、西大門の宿坊で、夫が数日前に死んだことを聞いた。 しかし山伏たちの祈祷で師門は生き返った。 山伏は熊野権現・羽黒権現・塩竈権現であった。 師門はこのことを栗田殿に報告する。 栗田はまたそれを井上・高梨・大井・村上らの国人(くにうど)に報じた。 国人たちは、「今日は人の上、明日はわが身の上」と思い思いに師門に金をあたえ、師門は都へ上がって宣旨を得て、国司を攻め滅ぼした。

                   

                           「短冊の縁(えにし)」

                      

                常陸(茨城県)新治郡の林左衛門氏頼の娘乙姫は、下野(栃木県)の花輪庄次家定と和歌の短冊を縁に相愛のなかになった。都から下った常陸の国司は乙姫を妻にと求めた。 乙姫は出奔して善光寺へ赴く途中、筑波山で信濃丹羽島の斎藤兵衛入道に逢い、その家に保護される。 国司は氏頼を殺そうとするが、かつて氏頼の助けた狐が国司を滅ぼす。 家定は姫を探して善光寺に参詣し、人を集めるため四十八日の大念仏を催す。 参詣に来た姫と氏頼が再会し、故郷に帰ってしあわせに暮らす。

                    

   さて、この二編の物語は深い関連がある。 東国の武士と美女との恋に都から下った国司が横槍を入れ、女は出奔し、善光寺に赴く。武士は神仏の助けを得て国司を滅ぼし、善光寺で恋人と再会するという筋であり、こういう筋の話は「御伽草子」にいくつかある。  この場合、都下りの国司は必ず悪役であり、東国武士は善玉である。 この種の話が東国で作られたのは明らかであろう。 

「師門物語」に師門蘇生(そせい)を栗田殿に報告するという記事があるのは、栗田氏が善光寺別当を世襲していたころにできた話であることを示している。 また栗田がそれを国人に報告するというところは、「大塔物語」と似ているところがある。

                      

                          「塩竈大明神御本地」

              

             花園小将は謀略により都を追われ、陸奥多賀(宮城県多賀城町)へ下った。 その恋人内大臣の姫君はそのあとを追い、修行者となって善光寺に参詣し、善光寺の尼と称し羽黒に参詣、ついに多賀の小将のもとにたどり着く。 二人の間に文珠王という子ができ、文珠王は都へ出て中納言になり、少将は塩竈大明神になった。

    この「塩竈大明神本地」と「師門物語」にも共通性がある。 塩竈・羽黒・善光寺のコースを修行者がめぐり歩くという筋である。 善光寺信仰は東北地方に強く浸透しており、東北の霊地と善光寺とは深く結びついていたのであろう。

                        

                         「かるかや」

                   

       九州の領主加藤左衛門重氏は世の無常を感じ、法然上人の弟子になり、国元から肉親が尋ねて来ても会わないという誓いを立て、苅萱(かるかや)となのる。 十三年ののち、妻が子を連れてたずねてくる夢をみて女人禁制の高野山にかくれる。 父の出奔後生まれた石童丸は母とともに上洛し、まず法然を訪れ、ついで高野山に向かう。 母を麓の学文路(かむろ)に残し、石童丸は一人山に登る。 六日目に奥の院から花を持って帰る苅萱に会い、身の上を語り、父の行方を尋ねる。 苅萱はその人は去年死亡した」といつわる。山を下ると母は急死していた。 その遺髪を持って故郷に帰ると姉も死んでいた。 石童丸はふたたび高野山に帰り、苅萱を頼んで出家し道念坊となる。 苅萱は親子と知れることを恐れて善光寺に赴き、奥の御堂にこもり、やがて往生をとげる。 道念坊も同日同刻に大往生をとげた。

 この世では親子の名のりはできなかったが、弥陀の浄土では親よ、兄弟、父母よと名のりあったことはめでたいことである。

                         

    これは寛永八年(1631)に出版された説経浄瑠璃本によるあらましであるが、これとほぼ同じ筋書の謡曲「苅萱」があり、かるかやの話は室町時代に「語り物」としてできたと思われる。 謡曲では父子が生前に親子の名のりをすることになっているが、説経浄瑠璃のほうが悲劇性が強く、 仏教説話として筋もはっきりしている。

   この説話は高野山の萱堂聖(かやどうひじり)の縁起談、九州博多苅萱関(福岡県福岡市)や石堂(同)の聖の縁起談や法然上人の

縁起、善光寺親子地蔵縁起などが一つにまとめられたものらしい。 長野市には往生地の菩提院往生寺、同来た石堂町の苅萱山西光寺など関係遺跡ができている。 高野聖と善光寺聖とは関係深く、このため、高野聖の語り物と善光寺の話が一つにまとめられたらしい。 

      この苅萱物語は日本の代表的な悲劇もので、近世の浄瑠璃・歌舞伎に大きな影響をあたえ、善光寺信仰普及にも役立った。

 「曾我物語」にはいろいろな本があるが、原型は南北朝時代、「神道集」とほぼ同じころ成立したと考えられる。 室町時代には

「曾我物」と呼ばれる多数の物語がうまれ、謡曲に二十数曲、幸若舞に七曲が知られている。「虎御前」はこの物語で重要な地位を占めている。 虎は大磯の遊女で曾我十郎の愛人であったが、十郎の死後、その菩提を弔うため善光寺にはいった。 そのけなげな行為が人々の深い感動をさそったことは、「吾妻鏡」ではとくに力を入れて書かれている。(信史③445)。 

「虎御前」の遺跡はきわめて多い。 北佐久郡立科町には虎御前という部落がある。 長野市周辺には五か所の虎御前遺跡がある。          

    長野市岩石町に虎の塚があり、虎石庵という庵があった。 そばに「虎化粧の井戸がある。 長野市上駒沢の「虎石」は「旱魃のとき雨乞いをして、雨が降れば石の重さ十倍す」(科野佐々礼石)というように水神であり、虎御前は雨の神として祀られるのがふつうである。十郎の命日五月二十八日には、必ず雨が降るといい、これを「虎雨」「虎 涙」といって、俳諧の季語にもなっている。 また虎塚と新善光寺との深い関係も指摘される。 佐久落合新善光寺跡(佐久市)には虎塚があり、上水内郡三水村健翁寺(善光寺仏安置)にも虎塚がある。「虎」と称する巫女(みこ)が「曽我物」の説話を広め、また善光寺信仰もあわせて広めたのだろうと考えられる。

                     

                           「物臭太郎」 「下に長編物が有ります」

                      

               信濃国あたらしの郷に不思議な男が住んでいた。 名を物臭太郎ひじかすといった。 竹を四本たて、こもをかけた小屋に住み、なんの仕事もせず、寝てばかりいる。 地頭あたらし左衛門尉の行列が通りかかる。太郎が声をかけても、そのまま通りすぎようとする。 太郎は「ひどい無精者の殿よ」とつぶやく、左衛門尉は立ちどまって事情を聞き、「この物臭太郎に、毎日三合めしを二度くわせ、酒を一度飲ますべし」という命令を領内に下す。 

 三年目の春、都の国司二条大納言から、あたらしの郷へ長夫(長期の夫役)を一人あてられる。村では太郎をすかし、「都でいい女をさがしてこい」と送り出す。 太郎は国司邸で七か月、まめしく働き、帰郷することになり、あわてて女房をさがす。 清水寺の大門に立って物色していると、夕暮どき、絶世の美しい女房が通りかかる。 「これだ」と太郎はつかまえようとする。

 女房はつぎつぎなぞをかけるが、太郎がすぐに解いてしまう。 さいごに「思ふなら問ひても来ませわが宿は からたちばなの紫の門」という歌を詠(よ)みかけ、太郎が考えているすきに豊前の守の邸宅の自分の部屋に逃げ帰る。 太郎も住居を暗示した歌の謎を解き、女房の部屋に押しかける。 屋敷の侍に捕えられたら殺されるだろうと、女房は太郎をかくまう。 歌の贈答をしてみると太郎の才能は並々でない。みがきたてた床にすべった太郎が、琴の上に倒れて大事な琴をこわしてしまったので、女房が「けふよりはわが慰みに何かせん」と嘆くと、太郎は起きあがりもせず、「ことわり(道理、琴割り)なれば物もいはれず」と下の句をつける。

   女房はついに太郎と契りを結ぶ。 七日の間風呂にいれて磨くと、太郎は意外にも玉のような美男子となる。 帝(みかど)に召され、その場で梅の花の歌を詠み、帝が「信濃でも梅の花というか」と問われると、「信濃には梅花(ばいか)といふも梅の花 みやこのことはいかがあるらん」(信濃では梅の花を梅花といいますが、都ではどうでしょう)と答える。 信濃の目代に命じて太郎の家系を調べさせると、深草天皇の御子二位中将が信濃へ流され、善光寺如来に祈ってもうけたのが太郎で、三歳のとき両親を失って、みじめな身になったことがわかった。 太郎は甲斐・信濃両国を賜り、この女房を連れて信濃に帰り、よい政治をおこない百二十年も長生きして、太郎は「おたが」の大明神となり、女房は「あさい」権現となった。 この物語を毎日一度人に読み聞かせれば、おたが明神の御心にかない、かならずしあわせをえるであろう。(信史⑪五)。

                     

        この物語は「おたがの本地物くさ太郎」ともいわれ、多賀神社の縁起談である。 多賀大社は寿命の神として著名である。 

「おたが」を「穂高」とする説もあるが信じられない。 この物語では、信濃はことばもろくに通じない辺境の地と考えられている。 太郎が梅の歌を詠んだのにたいし、帝は「お前の国でも梅というのか」と尋ねている。 この物語が信濃で生まれたものでないことがわかる。 物臭太郎が信濃に住んでいたのは、善光寺如来の申し子だからである。 太郎が甲斐・信濃両国を賜ったのは、本田善光父子がこの両国を賜ったのと同じであり、たぶん善光寺縁起から思いついたことであろう。 「三年寝太郎」など、なみはずれたなまけものが、意外な才能を発揮して成功するという型の民話と、貴種流離譚といわれるものとの複合した説話であるが、「御伽草子」のなかでも傑作の一つで、近世には版本も多く出版され、浄瑠璃に作られた。 松本市新村物臭太郎の住んだ「あたらしの郷」だといわれる。

                       

                    「木曽義仲関係の物語」

                    

                    木曽義仲に関係のある「御伽草子」としては「清水冠者物語」と「唐糸物語」が著名である。

「清水冠者物語」は「清水物語」「志水物語」「清水冠者」「清水冠者絵巻物之言葉」「しみづ吉高」「木曽義高物語」などとも呼れ、繁簡さまざ まの本がある。 鎌倉時代末期に原型ができ、普及するにつれて、いろいろな形のものができたらしい。  

 

      「清水冠者物語」

 

          木曽義仲は北陸を責め上がるにあたり、嫡子清水冠者義高を人質として鎌倉へ送る。頼朝は義高を長女大姫と結婚させる。 義仲の敗死後、頼朝は義高を殺そうとする。 大姫は義高主従を脱出させる。 義高は陸奥へ落ちのびる途中捕えられ、鎌倉で斬られる。 

生年十六歳であった。 大姫は食を絶ち、数日後夫のあとを追った。 わずか十四歳であった。 大姫の遺書には、「無情だった父頼朝の子孫(源氏)を滅ぼし、義高に同情的だった母(北条氏)の子孫は栄えさせる」と書いてあった。 そして、そのとおりになった。 

    この物語は「吾妻鏡」の記事をもとにしているらしい。 大姫が食を断ったのは亊実であるが、再婚を拒否しながらも、十数年生きのびている。

 また義高は大姫の知らぬうちに脱出し、武蔵の入間河原で討たれた。 「御伽草子」はこれらの亊実を知りながら、わざと悲恋物語に

脚色している。 

                      

                    「唐糸草紙」 「下に長編物が有ります」

                     

         木曽義仲の将手塚太郎光盛の娘唐糸は、義仲の挙兵以前から鎌倉の源頼朝の御所に仕えていた。 頼朝が義仲を討とうとしている

ことを 知った唐糸は、義仲や父のために頼朝を暗殺しようと決心し、それを義仲に報じた。 義仲は脇差を唐糸に贈った。                       夫人政子が薬湯(やくとう)にはいり、侍女たちがそれに奉仕したとき、唐糸の脱衣の下から脇差がみつかり、唐糸は石の牢に閉じ込められてしまう。 唐糸は鎌倉へ出るまえ、信濃で万寿という女子をもうけていた。 万寿が十二歳のとき、母が鎌倉の石の牢にいれられていると聞き、乳母更科をつれて家を抜け出して鎌倉へ向かう。 祖母は万寿を追いかけ、雨宮というところで追いついて引き止めるが、その決心の固いことをみて、自分も同行する。 鎌倉へ出た万寿は祖母を藤沢道場に預け、将軍の御所に奉公した。 花見の宴で御所中の人が出払った機会に御所の裏の石の牢をさがしあて、母と涙の再会をする。 それから九ヵ月の間、ひそかに石の牢へ食物などを届けた。 翌年の正月二日、頼朝の御所の仏間の畳のへりに、一夜にして六本の小松が生えた。 陰陽師にうらなわせたところ、

この六本の小松を鶴岡八幡宮の玉垣の内に植え、十二人の乙女を選んで今様(いまよう)を歌わせれば、源氏の運勢は万々歳であろうとのこと。 頼朝はさっそく小松を植えかえさせ、千手の前・手越の長者の娘・虎御前など十一人の美女を選んだが最後の一人がみつからない。 更科の推薦で万寿が十二人めの乙女に選ばれる。 正月十五日、神前の今様が演ぜられたが、五番目に舞った万寿の今様のみごとさには、感歎しない者はなかった。 

    八幡も感ぜられたか、神殿の扉がおのずから開いた。 面目をほどこした万寿は、頼朝に身の上を問われ、「母は木曽殿の身内、いまは 石の牢にとじこめられた唐糸」と涙ながらに申し上げる。 頼朝はその孝心に感じ、唐糸を二年あまりの牢生活から解放し、万寿には手塚の里一万貫の地をあたえた。 八幡大菩薩が孝行のの徳に感じ、万寿の願いを成就させたのである。

   この物語は孝行物語であり、また舞の徳により母を救うという芸能成功談でもあるが、鶴岡八幡宮の霊験談でもある。 今様の上手

(じょうず)としして選ばれた十二人のうち、名前をあげてあるのは五人で、そのうち千手の前・手塚長者娘・虎御前はいずれも善光寺へはいったといわれる人である。(中世一第七章第二節)。 

     唐糸・万寿の出身地の手塚は上田市の塩田平であるが、この物語では出奔した万寿の祖母が雨宮(あめのみや)(更埴市)で追いついたことなどを記しており、手塚を善光寺あたりと考えたのかもしれない。 鶴岡八幡宮寺は鎌倉時代には善光寺の本寺のような立場にあった。

 

  

  ものくさ太郎    (御伽草子)       長編物  唐糸草子P50

 

 

                    1,大きな夢

                                     つかまのこおり

    東海道の道の果てに位置する我が信濃の国は、十の郡に分かれている。 その中の筑摩郡、

     ごう   にいむら

あたらしの郷(松本市新村か)という所に世にも不思議な一人の男がおりました。 男の名は、ものくさ太郎ひぢかすといいました。

                                ぶしょうもの

   この名前は、この男が、この広い信濃の国でも並ぶものがいないほどの無精者、つまりものぐさだったことから人々が名付けたものです。

   ただしこの男、名前こそものぐさ太郎でありましたが、じつに大きな夢をもっておりました。

  いえやしき                                                 けっこう       かま

 住む家屋敷は、人並みすぐれて本当に結構な構えであります。 

                                 へい                ごうか

     まず東西南北の四方には、四百メートル以上にわたって土のいかめしい塀をむぐらし、そのうち三方には門を豪華に作って

あります。          ほ                    う                    たいこ

屋敷の中へ入ると、 東西南北に池を堀り、島を築き、松や杉をそこに植え、島から陸地へは、反りかえった太鼓橋 をかけ、

 

      しゅぬり  らんかん ぎぼうしゅ りっぱ  みが

その橋には 朱塗の 欄干に 擬宝珠を 立派に 磨いて作りたて、また庭のすばらしさも、もうこの世のものとは思えないほどであ

         まど          つめしょ           わた ろうか  つりどの  ほそどの うめつぼ まがき つぼ

ります。 十二もの間取りのある使用人の詰所、九つの間取りのある渡り廊下、それに釣殿、 細殿、 梅壺、 籬が 壺にいたるま

                おもや     まぐち だいごてん          ひわだぶき ふ   にしき     てんじょう  は

で、百種類もの草花をそこに植え、  母屋は十二の間口の大御殿を建て、屋根は立派な檜皮葺に葺かせ、錦できれいに  天井う)を張

  げた うつばり たるき くみいれ  ぎんせい きんせい かなぐ    きんし ぎんし ごしき   お     すだれ

り、桁、 梁、 垂木の 組入には、銀製 、金製の 金具を用い、金糸、銀糸と五色の糸で織りあげた簾をかけ、馬屋や侍所にいた

         りっぱ つく

るまで、この上なく立派に造り立てて暮らすことができたらいいなあと、いつもいつもこのように空想していたのです。

       てってい

      それはそれ、徹底したものぐさ男、夢を実現する努力などするはずはありません。 けっきょく、実際は、ただ竹を四本立てて、

   こも    きみょう

そこに菰をかけた奇妙な小屋に暮らしておりました。 雨が降っても、日が照っても、世間のどの人とも違った暮らしをしていました。

 

     てってい                       

       2、徹底したものぐさぶり

                                                                                                                   あかぎれ のみ しらみ   ぐあい ひじ あか

  このように家の作りがどんなにかひどっかった上に、足や手の垢切れや蚤・虱のたかる具合、肘の垢の付き方など、どれ一つ見て

                    もとで                                      しょくりょう

も、どの人の場合よりもひどいものでした。資本もないので商売はできず、農作業するでもないから 、ものくさ太郎には食糧がない。 四日も五日も、そういう時は起き上がらないで、寝て暮らしておりました。

     なさ         けっこん いわ もち

    ある時、情け深い人の所から、結婚の祝い餅が五つ、どんなに空腹でつらかろうと同情して届けられました。

            ちそう       

           こんなすばらしいご馳走は、めったに口にできないので、すぐ四つ一度に食べてしまいました。 残った一つの餅は、まだあると思って  いて食べないでおくと、きっと後であてにする。 ないと思っていれば食べたい気も起こらず、あてにもしなくなる。 

                                            めぐ

でもやっぱり餅を見ていてば、 あてにしだすにきまっている。 いつまでも、誰かがまた食べ物を恵んでくれる時まで、この餅は残してもっていよう。 そう、ものくさ太郎は固く心に決めました。

                                                        おもちゃ                  

   こうしてこの餅は彼の宝物となりました。 ものくさ太郎は、でも時々餅を取り出し、寝ながら、胸の上に置いて玩具にして、   あれこれ遊んだりしました。

                        

            3,拾わなかった餅

                                     あぶら            ぬ              の

 ある時は、餅に鼻の脂をこすりつけたり、口で濡らしてみたり、頭の上に載せてみたり、こんなことをあれこれしているうちに、

とうとう、大切なこの餅を落としてしまいました。 すると丸い餅は、ころころと大通りまでころがっていってしまいました。

                                                  めんどう

        けれど、それを残念そうに見ていたものぐさ太郎、わざわざ餅を取りにいってもどってくるなんて、とても面倒でいやだと思いました。                 だれ                              さお        からす

           「ええい、いつになってもいいや。 誰か大通りを通るだろうから。」と、ものくさ太郎は、竹の竿を手にし、犬や烏が

   この餅に近寄るのを追い続けたのでした。

                        さえもんじょう      おたかがり    まじろ        す

     三日目のの日、なんとこの地方の地頭、あたらしの左衛門 の 尉のぶよりが、小鷹狩のため目白 の鷹を先頭に据えて、五、六十騎

 ぎょうれつ

の行列を作って通りかかったのでした。 ものくさ太郎はこの行列を見て、、しめたと思い 首だけ持ち上げて、

                   「もしもしお願いです。 そこに餅がございます。 それをどうぞ取ってくださいませんか。」

 と、声をかけました。

  しかし、地頭は耳にもとめないで通り過ぎていきます。 ものくさ太郎は, この地頭を見て、この世の中に、あれくらい面倒くさがり屋はいない。

            りょうち おさ                             ひろ

   あんな人が、どうやって領地を 収めているのだろうか。あの餅を、馬からちょっとおりて拾ってくれることぐらい、とても

かんたん   

簡単なことではないか。 この世の中に面倒くさがり屋は、自分だけだと思っていたが、あんがい大勢いるんだなあと思い、

                       ち              はら                きしょう あら ぶし

「ああ、冷たい殿様もいたものだ。」 と、どなり散らし、たいそう腹をたてました。 この地頭は、気性)の荒い武士でしたので、ものくさ太郎のこの言いようにたいそう腹を立てて、どうこらしめてやろうかと馬を止めました。

                           つめ    やつ           ひなん              

しかし、相手がいっこうに恐れた様子もなく、まだ自分を冷たい奴だ冷たい奴だと非難しつづけているのにあきれて、

             あた  ひょうばん

      「あいつのことか。 この辺りで評判のものくさ太郎とかいうやつは。」

  けらい     たず                    

と家来にお尋ねになられました。 ところがものくさ太郎は耳ざとく聞きつけて、

       「さようでございます。 こんな変わった男は私以外には下りません。 この私がお尋ねのものくさ太郎ひぢかすでございす。」

   とお答えしました。

                       

       4,土地ももとでもいらない

                    

        「それでは、おまえはどうやって暮らしているのだ。」

                      めぐ  

  「さようでございます。 人が物を恵んでくださいます時は、どんな物でもよろこんで食べます。 誰もくださいません時は、

   四日でも五日でも十日ぐらいでも、何も食べず、ただぼんやりしております。

                                う  じ             くふう

         「それはまた、かわいそうなことだ。 おまえ、せめて飢え死にをしなくてすむような工夫をしたらどうだ。 

     かげ やど             の

同じ木の影に宿るのも、同じ川の流れを飲むのも、皆前世からの縁によるというものじゃ。  この世間は広い。 その中で、よりに

                                                       たがや

よって私の領地に生まれあうとは、わしとおまえの縁は決してあさくはないぞ。 どうだ。 土地を耕して暮らすがよいぞ。」

                           「ありがたいお言葉ですが、私は土地などもっておりません。」

                           「では、わしがおまえに耕す土地をあげよう。」

                   だい めんどう

                           「いえ。 私は大の面倒くさがりですから、土地はいりません。」

                           「それならば、商売をして暮らしてはどうじゃ。」

                もとで                  

                           「商売の資本がございません。」

                  もとで

                           「では、その資本を与えよう。」

                 な

                           「今さら、馴れない仕事、知らない仕事など、とてもとても、面倒でいやでございます。」

                           「なるほど、これだから皆から変わり者といわれるわけだ。 よしよし。 それでは、わしの力で、おまえが

             う

          飢えないようにしてやるぞ。」

          すずり                         ふ            かいらん

      地頭は、家来に硯を持ってこさせ、一枚の紙に次のような命令のお触れを書いて、領内に回覧させたのでした。 

 そのお触れとは、

                                                                                       ごう めし

                   「このものくさ太郎に、毎日三合の飯を食わせ、酒も一日一回は飲ませること。 この命令をまもらない

                 ついほう

                    者は、我が領内から追放する。」

                     ふ     まじめ  あせみずた

  と、いうものでありました。 このお触れは、真面目に汗水 垂らして働いている人々にとって、

         りくつ

このうえもなく理屈のとおらないものでありましたが、それは、昔から言われるとおり、

                   「泣く子と地頭には勝てぬ」

                 ふしょうぶしょう                    ふ       やしな

    で、あたらしの郷の人々は、不承不承それから三年もの間このものくさ太郎をお触れどおりに養っておりました。

                  

           ながふ                      

  5,きらわれた長夫

                                                                            こくし     にじょう だいなごん       

       ちょうど三年目の春のおわり、 信濃の国司、二条の 大納言ありすえという人が、このあたらしの郷へ

 ながふ    むしょう                    わ

    長夫『京都へ無償で長期間働きに行かせられること』を割り当ててきました。

                だれ

村人たちは寄り集まって、いったい誰の家から誰をを長夫に決めて京都へ行かせたらよいか相談しました。 皆、

                               わか

                    「私は経験ががありません。 京都へもどう行けばよいのか判りません。」

                       ろとう まよ  う じ

                     「もし私が長い間家を空けたら、家族は路頭に迷い、飢え死にするほかありません。」

          なげ

    と口々に嘆くばかりでした。

        その時、ある人が言い出しました。

                     「どうです。 あの、ものくさ太郎を行かせては。」

   しかし村人の多くは、

                 もち                                  じとう

                     「とんでもありません。 餅を大通りへころがしただけでも、自分では取ろうともしないで、地頭殿が通られた時、

                         なま もの

                    『その餅を拾ってください。』と言うくらいの怠け者ですよ。」

   と、この考えに反対しました。 でも言い出したひとは、

                        「そういう者をうまくだましますと、きっとよいことがありますよ。 さあ皆でだます方法を考えましょう。」

                             しどうしゃ

   と、重ねていうと、もう誰も反対しなくなりました。 村の指導者と思われる人が四、五人で相談して、

ものくさ太郎の所へ出かけていきました。

           しらは                   

        6,ものくさ太郎に白羽の矢

 

   「こんにちは。 

              「今日は。 ものくさ太郎殿。 私ども村にたいへんなお役が当たりました。 どうかお助けください。」

                「たいへんなお役とは、いったいどんなお役ですか。」

    ながふ       わ

             「長夫というお役が割り当てられたのです。」

             「長夫とは、どのくらい長いものですか。 皆さん方がたいへんなとおっしゃるのですから、ものすごく長いのでしょね。」

                                      みやこ のぼ  ちょうてい

            「いやいや、そうした長いものではありません。 私たちの村人の中から、一人都へ上らせて朝廷のお仕事をすることを長夫と

    いうのです。 皆で誰に都へ行ってもらうか相談しました結果、あなたに行っていただくことに決まりました。 

                   そうい                   なさ  めん

   この三年間、あなたを養った村人の総意です。 どうかこれまでの私どもの情けに免じて、都へ行ってくださいませんか。」

   めんどう

しかし面倒くさがり屋のものくさ太郎は、

                                       じとう

           「私を三年間養ってくださったのは、村の皆様方のお考えではありますまい。 地頭殿から命令されたからで

                  こま

   しょう。 だから、村の皆様がお困りだからと言われても。」

 と、言いだし、いっこうに京都へ上らなくてはならないと考える様子はありません。 また、例の人が、

                    すす

            「いやいや、京都へ行かれることをお勧めするのは、私たちがあなたのことを思うからです。 男というものは妻を

                  きふじん       そ                                  そまつ

    持ってこそ一人前なのです。 貴婦人も、夫につれ添ってこそ一人前といえるのです。 でも、こんなむさくるしい粗末な

                                                        げんぷく

   小屋で、いつまでも一人でいらっしゃるより、一人前の男になろうと思われませんか。 だいたい、男は、まず最初に元服し、

        かん(しごと)

   妻を持ち、官を持つことです。 それには、ものくさ太郎殿、男は旅に出る事が第一です。 見分を広め、広く世界を知らなく

               かたいなか

   てはだめですよ。 こんな片田舎にいつまでもくすぶっていてはだめです。 でも都の人は、それは人情が厚いそうですよ。

                                                    すす          

   どんな男とでも、ものすごい美人が喜んで結婚してくれると聞きます。 だから、あなたに都へ上がることを勧めるのです。

   ものくさ太郎殿も、美しいお姫様を妻にして、一人前の男になりたくありませんか。」

       たく 

 と、実に言葉巧みに、だましにかかりました。

 

                                     むがむちゅう         

         7,   都へ上がり無我夢中で働く

                      

      すっかりだまされてしまったものくさ太郎、

                             わか                       すす

  「それならよく解りました。 そういうことで村の皆さんが勧めてくださるのでしたら、喜んでお引き受けします。

  どうか一日も早く、私を京へ行かせてください。」

                                                    たびじたく

  と、言いだし、すぐにも旅立とうとしました。 村人たちは皆大喜び、道中で使うお金を皆で出し合うなど、急いで旅支度をしまし

  とうかいどう                          へんしん               しゅくえき

た。 東海道を信濃から上りながら、ものくさ太郎はすっかり変身し、別人のようにまめまめしく宿駅、宿駅を通り過ぎ、早くも

七日目には京都へやってきました。

                          ながふ

          「私は信濃国からやってきました。 長夫の者でございます。」

  ものくさ太郎がこう言うと、都の人々は、

                   すがた

       「あれぐらい色がまっ黒で、見にくい姿の男は、これまで都でみたことがないなあ。」

                       だいなごん

 と、指さしながらくすくす笑い合いました。 でも大納言殿は、

         「どんな者でもかまわない。 よく働いてくれ、気持ちよく働いてくれさえすれば、それが一番だ。」

 と、おっしゃって、このものくさ太郎を召し使われました。

    ひがしやま   にしやま     ごしょ だいり                                  みや

     都は、東山といい、西山といい、また御所や内裏、どの寺も、どの神社も、どれをとっても信濃では見られない雅びやかで美しい所ばかりでした。 都のすばらしさは、とても言葉では言い尽くせないほどです。 この都で、ものくさ太郎は、

         むがむちゅう                     めんどう

 人が変わったように無我夢中でひたすら働きつづけました。 少しも面倒くさがる様子は見せません。

                                               の     だいなごん

いかに都広しといえども、これほどよく働くものはいないというわけで、三か月の長夫を特別七か月まで延ばして、大納言は

召し使われました。

                  ひま

  こうしてようやく十一月になって、お暇をいただき、信濃の国へ帰ることになりました。

 

    つま              きよみず   

    8,   妻を求めて清水に立つ

                      

       ものぐさ太郎は自分の宿へもどり、 つくづくと自分の身の上を考えました。 あんなに、あたらしの郷の村人に、都へ上がれば、美しいお姫様と 結婚できるといわれてきたのに、このまま一人で帰っていくのは、あまりにもみじめではないか。 どんな女でもいい

                  さが

から一人探して信濃へ連れて帰ろうと思い、宿の主人に相談しました。 同宿の男たちは、この話を聞いて皆どっと笑い出しました。                    にょうぼう

   「いったい、どんな女がおまえの女房になるのかねえ。 もしいたら、その女の顔を見てみたいや。 ワハハハハァ。」

 かわいそうに思った宿の主人は、

           かんたん                                              きよみず かんのんさま

          「女を捜すのは簡単です。 でも、あなたの嫁さんになる女となるとむずかしいなあ。 十一月十八日は、清水の観音様の

    えんにち   おおぜい       まい

   縁日です。 大勢の美しい女もお詣りにやってきますから、またとない機会ですよ。」

 ものくさ太郎は、

           「それはいいことを教えてもらいました。」

 と、言いって、さっそく出かけていきました。

           ふくそう                      あさ   ひとえ                   わか      もよう        

ものくさ太郎のその日の服装は、信濃にいた時から長年着ていた麻の単物で、もうすり切れて、何色とも判らず、模様もすっかり見え

                            なわ おび  ぞうり       は   くれたけ  つえ つ

なくなっているというものでした。 その上にわら縄を帯とし、草履の破れたのを履き、呉竹 の 杖を突くといったものでした。

                          つめ                    はなみず            だいもん

 旧暦の十一月十八日は、真冬のことなので、冷たい風が激しく吹いて、  何とも寒く、鼻水をすすりながら、清水の大門の所で、

    そとば

焼けた卒塔婆みたいに突っ立って、大手をひろげて美人がやってくるのを待ちかまえていました。

                       

    9,  こわがる女たち

  かんのんさま      まい                   

       観音様 へ お詣(まい)りにやってきた人々も、またお参りをすませて帰る人々も、このものぐさ太郎を見て、

           「きゃあ! 恐ろしい。 いったい、誰を待ちかまえて、あんなこわい男が立っているのでしょう。」

     かれ  さ        わきみち                                さい

 と、誰も彼も、避けてずっと遠く脇道を通るので、近づく者は一人もいませんでした。 特に十七歳か十八歳、二十歳 より年の若い女達は、五人十人と連れ立って通るのですが、ものくさ太郎の方は、皆ちらっと見るだけでした。 でも、こうして朝から夕方まで

                                      えんにち

立ちつくしましたから、彼の前を通りすぎた人の数は、さすが清水の縁日ですから何千人何万人にもなりました。

                     

   10,  見初められたお姫様

                      

     ものくさ太郎が

                                                                  ころ

          「あの女は良くない。 この女ももどうも」と考え込んでいますと、一人の美しい姫君がやってきました。 年の頃は十七か

                                                          かみ          まゆ

 十八歳ぐらいでしょうか。 その顔の美しさは春の花のようにあでやかで、その、まっ黒でぬれば色の髪といい、青黒い引き眉

          さくら

といい、遠い山の桜のようなまことに美しいお姫様でありました。

             おもむき      ひとえもの           ひとえ                    みおと

着ているものもなかなか趣があり、色々な単物を重ねたすばらしい十二単でありました。 そして、このお姫様に見劣りしない美しいお供の女を一人連れておりました。 一日中、妻を求めて立ちつくしていましたものくさ太郎、このお姫様を見つけ、

                                                                                                                                                           さ                     こ               

         「この人こそ自分の妻にふさわしい女だ。  ほかの女達のように避けて遠まわりなどしないで、まっすぐこっちへ来い。 

             さあ早く来い。 さあ早く。」

 いき                                                          

と意気ごんで、大手を広げて待ちかまえました。 お姫様は、このものくさ太郎の姿を見つけ、お供の女に、

            「あれは何ですか。」

と、尋(たず)ねました。

           「どうも人間のようですよ。」

と、返事をしました。 お姫様は、「ああこわい。 あそこをどのようにして通ったらいいでしょう。 ずうっと遠まわりをしていこうかしら。」 と思いました。

                               なさ      みらい                      ておく

   ものくさ太郎は、遠くからこの様子を見てとり、「ああ情けない。 未来の奥さんがあっちへ行ってしまうぞ。 手遅れになったら

けっこん                                                           かさ

結婚できなくなってしまうぞ。」 と思って、大手を広げたままで、つっと寄って行きました。 お姫様の美しい笠の中へ、 ほんとうにきたない顔をさし入れ、顔と顔とをつき合わせました。

            「おい。 お姫様。」

      こし だき                 ぎょうてん         とほう

 と叫んで、腰に抱つきました。 お姫様はびっくり仰天。 どう逃げようか途方にくれてしまいました。

 おうらい

  往来には大勢の人が通っておりましたが、お姫さまのこの様子を見て、かわいそうだと同情したり、ああこわいと逃げ出したりする

ばかりで、誰一人お姫様を助けようとする人はいませんでした。

 

       ひっし きゅうこん                                      

       11, 必死の 求婚

                       

                      こうふん                          

  ものくさ太郎は、すっかり喜んで、興奮しながら、

                         おはら しずはら せりう   こうどう かわさき なかやま ちょうらくじ きよみず

         「「お姫様よ。 お久しぶりですね。 小原、 静原、 芹生の里、革堂、 河崎、 中山、 長楽寺、 清水、

  ろくはら ろっかくどう さが ほうりんじ うずまさ だいご くるす こはたやま  よど やわた すみよし くらまでら ごじょう てんじん

  六波羅、六角堂、 嵯峨、法輪寺、 太秦、 醍醐、栗栖、 木幡山、 淀、 八幡、住吉、 鞍馬寺、 五条の天神、

   きぶね みょうじん ひよしさんのう ぎおん きたの  かも  かすが

         貴船の明神、  日吉山王、  祇園、北野、 賀茂、春日と、お姫様とお会い しましたね。 おぼえていらっしゃいますか。

      あなた

  どうも貴方とわたしとはご縁が深いようです。 こんなにご縁があるのですから、どうです結婚しませんか。 どうですか。

  どうですか。」

                   じじょうしき           ばか                       いなかもの

 お姫様はこれを聞いて、「こんな非常識なことを平気で言う人は馬鹿にきまっている。 それにどうみたって田舎者にちがいないか

   うま

ら、上手くだまして、とにかくこの場から逃げだそう」 と考えました。

         「そう、おっしゃられますと、そのとうりですね。 でもそんな大事なご相談を、こんあ人通りの多いまん中ではできませんよ。

   明日にでも、私の住んでおります所へどうぞお尋ねくださいませんか。」

         「お姫様の住んでる所はどこですか。」

                                                        なぞ        けむり

こうものくさ太郎がのってきましたから、お姫様は親切に教えようとはされず、調子よく、わからない謎めいた言い方で煙にまこうとしました。

                      

      は                    

  12,     恥ずかしの里からしのぶの里へ

 

         「私の住んでおりますのは、松のもとという所でございます。」

                        いっしょうけんめい

  と、おっしゃいました。 ものくさ太郎は一生懸命考えて、            

             わか                            あかし うら

        「『松のもと』とは解りました。 たい松のもとは火で明るいですから、明石の浦ですね。」

                                    おどろ               なぞ  と

 お姫様は、おや、この男はまんざらの馬鹿ではないと驚きました。 でも、これ一つ謎を 解けても、もうできないだろうと思って、

                        く

       「いいえ、私の住んでいますのは、日が暮れる里でございますよ。」

 ところが今度はすぐ答えました。

                       くらま おく  あた   

       「『日が暮れる里』も解けました。 鞍馬の奥のどの辺りですか。」

                           ともしび こうじ たず             

       「そこは私が昔住んでた土地です。 どうか、灯火の小路をお尋ねください。」

             ほりかわ ひがし あぶら こみち          あた

       「灯火の里とは? 堀川通り東の 油の 小路ですね。 そのどの辺りですか。」

                                                                                                             は

     「そこも私が昔住んでいた土地です。 どうか恥ずかしの里をお尋ねください。」

      「それは、しのぶの里のことですね。 そのどのあたりですか。」

                           うわぎ

      「そこも私が昔住んでた土地です。 どうか上着の里をお尋ねください。」

              あ       なぐさめ      おうみのくに(滋賀県)

      「それは、恋人同士が逢わないと心が慰られないから、近江国はどの辺りですか。」

    けしょう くも

       「お化粧する雲りがない里です。」

   かがみ しゅく

       「鏡の 宿のどの辺りですか。」

      と

       「秋の穫り入れの国です。」

   いなば 鳥取県

       「因幡の国はどの辺りですか。」

                   はたち

       「そこも私が昔住んでた所。 二十の国です。」

   わかさ 福井県

       「若狭の国はどの辺りですか。」

こうずばりずばり謎を解かれてしまってはかなわない、私はこの男から逃げられなくなってしまったと、お姫様は悲しくなりました。

                  

       からたけ つえ                       

    13,     唐竹を 杖につきたるものなれば

                       

                   がんば                          よ

        「でもあきらめないでもう一度頑張らくては。 そうだ、こんな田舎の男、和歌は詠めるはずがない。 困って、五七五・・・・

                          と                        

と指折り数えて歌を考えだせば、このつかんでいる手が解かれる。 そのすきに逃げ出すことにしましょう。」 と、お姫様は、

   つえ

の杖を巧みにとり入れて、

                  唐竹を杖につきたるものなればふしそひがたき人をみるかな

                                                                                                                             そ

              (唐竹を杖にしている男なので、私は結婚(ふし添う)できません。)

とうたいかけました。

  ものくさ太郎は、この歌を聞いて、ああ残念だ。 このお姫様は自分とは結婚してくれないというのだな。 でも待てよ。 竹を歌に詠むのならば、むしろ、

              よろず世の竹のよごとにそふふしのなど唐竹にふしなかるべき

                ふし                               

             (竹はどんな竹でも、節があるものです。 どうして唐竹に節がついていないはずはありません。)

   よ

    と詠みました。 お姫様はは、「ああ、困ったなあ。このいやらしい男は、どうしても私と結婚したいと言う。 それに、こんな姿

                                             みりょくてき

をしているくせに、和歌をこんなに上手に詠むなんて、見かけによらず、ちょっと魅力的でもあるなあ。」と思いました。

  そこで今度は泣きながら、

     はな   あみ

            離せかし網の糸目のしげければこの手を離れ物語せん

        (離してください。 こんな人目の多い所では困ります。 この手を離してくださったらご相談しましょう。)

                       

       からたちばな         かど               

    14,      唐 橘の 紫の 門

                      

      ものくさ太郎は、この歌を聞いて、「まだ脈があるな、どうしよう手をゆるめてやろうか」と思いながら、

          あみ              す

              何かこの網の糸目はしげくとも口を吸はせよ手をばゆるさん

                                    しょうこ せっぷん

        (人目なんか気にしなくてもいいでしょう。 私を愛している証拠に接吻をしてくださったら、この手を離しましょう。)

                                                                   きたな

 と返事をしました。 お姫様もうたまらなくなりました。 長い間、それもこんなに大勢の人の通る道のまん中で、こんな汚い

      いなかもの

いやらしい田舎者に抱きすくめられているなんて、このまま夜になったらどうしよう。 お姫様は困りはてて、

        と           やど からたちばな むらさき  かど

         思うなら問ひても来ませわが宿は 唐 橘の 紫の 門(かど)

     (私を本当に愛してくださるのなら尋ねて来てください。 私の家は「唐橘の紫の門でございます。」

              からたちばな むらさき かど        わか

  ものくさ太郎には、この「唐 橘の 紫の 門というのだけでは解りませんでした。

                                                                ぞうり

  それであれこれ考え込んでしまい、自然に手に力が入らなくなりました。 お姫様は「今だ。」と、笠も、着物も、草履までも

 ぬ  す   したぎ                        いちもくさん

   脱ぎ捨てて、下着だけで、はだしで、お供の女も置いたまま、一目散に逃げ出しました。

                                                           にぎ

ものくさ太郎は、「ああしまった。 未来の奥さんを取り逃がしてしまった。」と思い、唐竹の杖を短めに握りかえし、

                           「お姫様、どこへ行かれるのか。」

  と、追いかけ回しました。

            せんど                                                    つじ

      お姫様は、ここを先途と命がけで逃げました。 あたりの地理をよく知っておられたので、あちらの小路からこちらの辻へと、

あっちこっちぐるぐるぐる逃げまわりました。 ものくさ太郎は、

        「そなたはどこへ行かれるのか。どうしてお逃げになるのか。」

と、一生懸命追いかけましたが、とうと最後には、お姫様にまかれてしまいました。 道行く人にお姫様の行方を聞いても誰も教えて

            とほう

くれませんでした。 途方にくれたものくさ太郎は、ああそうだと気がつきました。

それはあの清水の大門の所でお姫様をつかまえていた時、お姫様はこんなことを言った、その次にはこんなことを言った、と思い返し最後に「唐橘の紫の門」に考えついたからです。

                                           さむらいどころ

  そこを尋ねてみようと思いつき、まず竹の先にお願いの手紙をはさんで、ある侍 所(今の交番)に、

       「私は、田舎の者でございます。 家を尋ねあぐねて困っております。 その門の様子は、唐橘の紫の門だと聞いてきましたが、

   そのような門はどこにありましょうか。」

 と、差し出し、尋ねました。 侍所の返事は、

              ぶぜんのかみさま                          こうじ

         「七条のはずれの、豊 前 守 様のお屋敷に、唐橘と紫とがありました。 その小路へ向かって尋ねて行きなさい。」

  そこでものくさ太郎はが尋ねて行ってみますと、、お姫様が言ったとおりの門がありました。

                     あ                          ひろ

喜んだものくさ太郎は、もうお姫様に逢った気で大喜びでしたが、そのお屋敷はとても広く、そこには大勢の人々がおりました。

     さが  

  どんなに探してもお姫様は見つかりません。

                    

          じじゅう  つぼね                       

    15, お姫様は侍従 の 局

                     

       きたな        きら                                       えん                           

    そのうえ、汚い身なりが人々に嫌われ、追い出されそうになりました。 しかたなしに、ものくさ太郎は縁の下へもぐり込みまし

               やしき じじゅう つぼね よ              にょうぼ

た。このお姫様は、このお屋敷では侍従の 局と 呼ばれた、一番身分の高い女房でありました。

 ぶぜんのかみ  そば つか             へや       ろうか   なでしこ

  豊前守の お側にお仕えしていて、夕方自分の部屋へ戻る時、廊下の所で撫子という、あのお供の女と立ち話をしました。

                                                                 だ

           「まだ月は出ませんね。 それにしても、あの清水で出会った男はどうなったことでしょう。 もし、あのまま抱きつかれてい

   て、こんなに暗くなってしまったら、ああ、考えてみただけでも恐ろしいこと。」

       えんぎ

            「まあ縁起でもありません。 あんな男、どうしてここまで尋ねてこれましょうか。 でも、そんなことをおっしゃると、

                                  こわ こわ

    あの時の怖かったことが思い出されてきます。 ああ怖い怖い。」

         えん

  ものくさ太郎は縁の下でこの立ち話をきいてしまいました。 そして「ここに私の未来の奥さんがいた。 それにしても、お姫様との

                          うれ

縁は 、どこまでいっても切れてはいない。」と嬉しくなりました。 縁の下からものくさ太郎は飛び出しました。

                       さが

            「おお。 お姫様。 私はそなたを探すのに本当に苦労しましたぞ。」

                             しょうき              しょうじ

  お姫様はこれを見て、本当にびっくりしました。 正気を無くしてしまい、あわてて障子の中へ逃げこみました。

                   とほう

しばらくの間は、どうしたものかと途方にくれていましたが、よくよく考えてみますと、

           「ああ怖い。 でもここまで私を尋ねあてるなんて、不思議で不思議でなりません。 こんなに都中に人は多いというのに、

    よりもよって、あんな汚い、むさくるしい男に、私はこんなに熱愛されるなんて、ああいやだ。 

    ああかなしいことです。」

   なでしこ           なげ                                けいび

  と、撫子と二人で泣き悲しんで嘆き合うほかありませんでした。 そうこうしているうちに、警備の武士がやってきて、

        けはい

               「人の気配がするのか、犬がほえる。」とあちらこちらさがしまわりました。

                        

                        

    16,       せめて、一夜の宿を

                      

                       

     お姫様は、「ああ困ったことになりました。 あの男が私のためにうち殺されるのはかわいそう。 そうでなくても女は罪深いも

    しゃか                                     きょうぐう

のとお釈迦様はお教えになっていらっしゃるのに。」と、お姫様は自分の悲しい 境遇 に涙を流しました。

                                                                                                                              と

 そして、 今晩だけはかまわないから、一晩だけあの男を泊めて、夜が明けたらうまくだまして追い返してやろうと思いました。 古い

しきもの                         なでしこ

敷物を部屋の中に敷いて、ものくさ太郎をすわらせ、撫子から、

         「夜が明けたら、誰にも見つからないように、さっさとかえるのですよ。」

                                                      さが

  と、きびしく言わせ、さっさと皆部屋を出て行ってしまいました。 ものくさ太郎は、約束どおり探しあてたのですから、「今度こそ未来の奥様がやさしくもてなしてくれる。」と思っていましたが、期待がはずれてがっかりしました。 とにかく、あっちこっちと探し歩いたので、何でもいいから、早く夕飯が欲しいと思いました。

      くり かき   なし たけかご               そ  

ところが、栗と 柿と 梨を竹籠にごちゃまぜに入れ、塩と小刀を添え、これを食べなさいといいます。

ものくさ太郎は、もう一度がっかりしました。 「あんな美しいお姫様が、こんな馬や牛に食わせるようなものを平気で出してくるなんて。 ひどい。 ひど過ぎる」と。

            なぞ  しゅみ           

「でも待てよ。 あの謎かけ趣味のお姫様のこと、これは何かあるのだぞ。」 ものくさ太郎はそう思いました。

                                                                    く   く

全部一つにまとめて出したのは、私と一つになりたいという意味にちがいない。 栗をわざわざ入れたのは、あきらめず、繰り返し繰

                                                                        よ

り返し結婚を申し込みなさい。 梨は、私には恋人は無し。 それにしても、柿と塩は、どいう意味なのか。 考えあぐねて、歌を詠みました。

    つ    なにわ うら         わた   

   津の国の難波の浦のかきなれば海渡らねど塩は着きにけり

     かき                             う

 (私は牡蠣、海を渡りませんが塩が付いています。 この柿は熟んでいませんので)

                      

                    

      17,     泥(どろ)の中から蓮(はす)の花       ~姫の同意~

                    

  となり へや                     

  隣の 部屋にいたお姫様は、この歌を聞き、「ああなんとおくゆかしい人でしょう。 泥の中から生まれる蓮の花、わらくずから   

  出てきた金貨とは、あの男のことを言うのでしょう。」

          ほうび     たば

 お姫様は歌のご褒美にと、紙の束を十、ものくさ太郎にやりました。

                         ひっせき

     これはどういう意味なのかと考え、多分、筆跡が残らない返事をしなさいという意味かなあと思い、

                                   やしろ                    

                ちはやふる神を使ひにたびたるはわれを社と思ふかや君

 

        (神と同じ紙を使者としてくださったのは、あなたが私を神と思うからでしょうか。)

 これを聞いて、お姫様は、

        「もうこれ以上はいやと言えません。 あなたのお嫁さんにしてください。」

             こそで はかま   かんむり えぼし   そろ

 と、一人前の男が着る小袖や 袴、平服と冠(烏帽子)、刀を揃えてきて、

       むこ

       「私のお婿さんらしく、これを着てください。」

                                            おど

といいました。 ひぢかすは、お姫様が結婚を承知してくれたので大喜び、嬉しいな、嬉しいなと踊りあがりました。

     そして、これまで着ていたものを脱いで、竹の杖に巻き付けました。 この小袖は今晩だけ貸してくださるのだろうと、早合点し、

                             ぬすっと

明日は、また自分の着物を着て帰るのだからと、犬や盗人に取られないように縁の下にそっと隠しました。

        はかま   かんむり        

  ひぢかすは、袴も平服や冠もどうやって着たらよいのか解りません。 あれやこれやとひねくりまわし、困りはてていると、

なでしこ                                             きんちょう

  撫子が見かねて笑いながら着せてくれました。 ようやく一人前の男らしい服装となり、緊張しながらお姫様の部屋へと、

      みが                                         きょくど きんちょう

 ぴかぴかに磨きたてた廊下を進みました。 お姫様の部屋の前まで来た時、ひぢかすは、極度の 緊張と、これまで

    は

  一度も履いたことがない袴が足にからみついたため、思わずつるつるすべって、あおむけにひっくりかえってしまいました。

                 

                     

    18,      琴割(ことわ)りなれば

                              こと   しょうじ     たお       めちゃくちゃ こわ

  それも、ころぶにことかいて、お姫様が宝物としていた琴の上へ障子 を破って倒れかかり、琴を滅茶苦茶に損しまいました。 

           もみじ

お姫様は悲しくて、紅葉のように顔を真っ赤にして、

           なぐさ

          今日よりはわが慰みに何かせん

     (今日から、私何を生きがいにしたらよいのでしょう。)

                  きなれ

ものくさ太郎は、まだばたばたと着慣れない着物をばたつかせながら、これは困ったと思い、恐る恐るお姫様の様子をうかがいながら、

     ことわりならばものも言われず

                                                    ことわり        しゃれ

    (そんな当たり前のこと、返事をすることはない。 わしという夫がありながら。・・・・「琴割(ことわり)を洒落として読み入れている。)

                                  みりょくてき   

と、返事しました。 お姫様はハッとしました。 ああなんと魅力的 な頼もしい男でありましょう。 こうしてお姫様は、誰がなん

           しょうがい                                             む

と言おうとこの人と生涯を共にしようと深く深く心に決めるのでした。 下女二人と七日七晩、ものくさ太郎を蒸し風呂に入れては

身体をこすり、入れては磨きたてました。

    するとどうでしょう。 ものくさ太郎は玉のような美男子になりました。 しかも、日に日に彼の男ぶりは良くなっていくのです。

                    れんが     じょうず                         かし

 やがて、その美男子なこと、和歌や連歌がたいへん上手なことが都中の評判となりました。 お姫様は賢い人でしたから、

                                れいぎさほう            みかど

ものくさ太郎に、服の着方はいうまでもなく、いろいろな礼儀作法を教えました。 評判は帝の耳にまで入りました。

                        

      みかど

     19,  帝に対面         

                    

                                                     さんだい   みかど                    

   かくして信濃の国から都へやってきて、まだ一年もたっていない、あのものくさ太郎は、宮中に参内し、帝にお目通りすることにな 

       だいごくでん     

りました。 大極殿で 帝は

                じょうず              よ

     「おまえは、まことに歌が上手だそうだが、歌を二首ここで詠んでみよ。」

                         うめ  うぐいす

  と、おっしゃいました。 ちょうどその時、梅の花に鶯が飛んできて、とても美しくさえずりました。

     うぐいす  ぬ            うめ  はながさ  も   はるさめ                     

            鶯 の 濡れたる声の聞こゆるは梅の 花笠 洩るや春雨

            (鶯のしっとりした鳴き声がするのは、折しも春雨が梅の花笠から濡れかかるからでしょうか。)

                みかど   

  と、さっそく詠みました。 帝は、

          「お前の国でも、梅というのか。」

と、重ねてご質問になられました。 それを聞くやいなや、

        ばいか                    

           信濃には梅花といふも梅花都のことはいかがあるらん

                       

       (はい、信濃では、梅花とは梅の花のことでございます。 都ではどう呼ぶのでございましょうか。)

帝は、すっかりお喜びになられ、

         せんぞ

           「おまえの先祖は誰じゃ。」

 と、おっしゃられますと。

           「先祖はございません。」

 とお返事をすると、

           もくだい こくし

         「では、信濃の目代 (国司の代理)に問いあわせてみよ。」

  と、お調べになりました。

     こも      もんじょ                                       にんみょう

まもなく薦に巻かれた文書が信濃から届けられました。 それをご覧になりますと、なんとなんと、仁明天皇の 第二皇子で二位の中将

                                                                   さず

という方が、信濃へ流され何年たっても子どもが生まれないので、中将 と北の方は、悲しく思い、善光寺へお参りして特別授けられたのがものくさ太郎なのでありました。

                      

      かい        たまわ                       

    20,  甲斐・信濃の二国を賜(たまわ)る

                      

                       

     ところがひぢかすが三歳になった時、両親が死んでしまい、それからは、このお話の最初に書かれていたとおりのみじめな暮らしに

            わか                     はな              しんせきすじ

なってしまったことが判りました。 帝はご覧になり、皇族から離れたとはいえ、もとは我が親戚筋の者だと考えられ、

            かい

 信濃中将に任命され、甲斐(山梨県)、信濃の二国をお与えになりました。

                                             ごう               ごう じとう

 ものくさ太郎は、こうしてあのお姫様を連れて信濃の帰ってきました。 あさひの郷に着き、まず、あたらしの郷の地頭を

かい       そうまんどころ                             つかま

甲斐、信濃二国の総政所に任命、三年間養ってくれた村人にもそれぞれ領地を与えました。 筑摩の郷に家を 建て、それから百二十年二国の人々が幸せに暮らせる良い政治を行いました。 お子様も生まれ、今では長生きの神様として、

         ほたかだいみょうじん       ごんげん

 ものくさ太郎は穂高大明神)、お姫様は朝日の権現として祀られることになりました。

           にょらい      ほたか  

 こうした、善光寺如来の申し子で、穂高、朝日の神のありがたいこの話を、毎日一度読み、人に話して聞かせる人は、

         ふ 

財産がどんどん増え、幸福な生活が送れるよう、今も仏様はお守りになっております。 なんてすばらしいこと。 そのありがたさは

             つ

とうてい  言葉では言い尽くせないほどではありませんか。

                     

                           (御伽草子P50~P86)  (1)唐糸草子 信大付属長野中学校編 信濃教育会出版部                     

                                       

 

          唐糸草子            唐糸草子  長編物

 

   からいとぞうし     おとぎぞうし                     

             唐糸草子  (御伽草子)     

       じゅえい       きそよしなか   みなもとのよりとも ほろ

『この物語は、寿永二年(1183)木曽義仲を  源頼朝が   亡ぼそうとした史実をてがかりして、

てずかたろう むすめ からいと    まんじゅひめ

手塚太郎の 娘  唐糸、その子の万寿姫という二人を創作し、万寿姫の孝行物語に仕立てた作品である。 作者は不明だが寿永から

                                   じけん

150年も後に開かれた藤沢道場が出てくことからみても、義仲の事件からずっと後になって、  自由に空想を働かせながら作り上げられ

                       はちまんぐう                  じしゅう 

たものであろう。 唐糸親子を助けるのは八幡宮の神であり、出てくる地名も仏教(時宗)活動にかかわり深いものであること、舞いの徳によって万寿が母親を救う事が出来ることなど、いかにも中世の日本人の好みを反映しているといえる。 義仲にかかわる御伽草子には、ほかに「清水冠者物語がある。』

 

  唐糸草子

                からいと よりとも   つか

   1,     唐糸、 頼朝に  仕える

 

  じゅえい     ころ        かまくら   しょうぐんみなもとのよりとも     ぶし                     ごてん               

       寿永二年の秋の頃であります。 鎌倉の 将軍 源頼朝は、 関東八か国の武士たちを鎌倉に呼び集め、頼朝みずから御殿の高い

ろうか        いなら

廊下に出てこられ、居並ぶ武士たちに向かって、

              こころえ                  いせい          みやこ

          「さて者ども、よく心得よ。 そもそも、平家は、この頼朝の威勢に恐れたからこそ都を落ちたのである。

   きそよしなか じゅうろうゆきいえ                                かんぱく      てんのう だれ    

それを木曽義仲や 十郎行家が、 自分の力で平家を都から追い落としたと思い上がり、さて関白になろうか、天皇を 誰にしよう

          ほうおう                                            じつ             

か、いっそ自分が法皇になろうかと、この世の中は何でも自分の思い通りになると、うぬぼれているのは実にけしからん。 

    う ほろ                      さたけ よしたか                            おうしゅう

平家を討ち滅ぼす前に、義仲を討ち滅ぼそうと思う。 佐竹の隆義も同じだ。 やつも討ち滅ぼそう。 このことでは、奥州の

ひでひら      よ                  よしつね

秀衡も同じことを余に申し入れてきた。 そして源 義経を援軍に鎌倉へ向かわせたという。 それはこの十月の頃である。 

                よしなか ゆきいえ たかよし せいばつ                     じゅんび

その時は者ども、総がかりで義仲、 行家、  隆義  征伐に立ち向かってもらう。 そのつもりで準備しておくように。」   と、命令されました。 武士たちは、それぞれ

        「承知しました。」

と、申し上げ、皆、国々へもどっていきました。

                         やかた  からいと     にょうぼ  つか

    こんなことがあったちょうどその頃、頼朝の館には、唐糸の前という女房が お仕えしていました。

          しなののくに            てずかたろうかなざしみつもり

この女房は、実は信濃国出身で、木曽義仲の家来、手塚太郎金刺光盛の娘でした。

      びわ      こと                 さい       め                 えんそう

すばらしい琵琶の名手で、琴にもすぐれていました。 十八歳の年、鎌倉へ召し出され、頼朝の御殿で音楽の演奏をすべてとりしきっておりました。

                    

                     

  2,   義仲を救え

 

           せいばつ                      めつぼう    いちぞく                 

 唐糸は、この義仲征伐のうわさを聞いて、嘆かわしいことだ、義仲様のご滅亡はわが一族の滅亡だ、何としても、このことを義仲様

                へや

 へお知らせしようと、自分の部屋で、ひそかに、細かに手紙を書いて、召使の男に持たせ、京都へ急がせました。

めしつかい   かまくら ぶじぬ

  召使 の男は鎌倉を 無事脱け出し十三日目に都へやってきて、唐糸の父親((手塚太郎)の取次で、その手紙を義仲様に

  差し上げました。 義仲は、何の手紙かと開いてみると、

                      みつぎ             おうう かんとう ぐんぜい

         「鎌倉では、今、義仲様を討ち取る密議がこらされています。 奥羽と関東の 軍勢がひとつになって、十月の中頃都へ攻めのぼ

                                       ほうび             えちご

   る相談です。  命がけで、このことをお知らせしました。 ご褒美に、どうぞ父の手塚に、越後(新潟県)と信濃を下さい。

                                                   たから ちゃくい     わきざし   

   鎌倉では、どのようにかして、頼朝殿のお命をねらっています。 同か義仲様のお家の 宝  著衣 という脇差をいただけま

   せんでしょうか。」

                      ゆうかん こうい      かんげき      さっそく

  と、書いてありました。 義仲は唐糸の勇敢な 行為にたいへん感激しました。 早速 返事を書きました。

                                              ほうび

            「それにしても、唐糸の知らせをとてもありがたく思っている。 このたびの褒美に、越後と信濃を与えよう。 唐糸が頼朝の

                       てずか                   からいと  よしなか おくがた  

            命を取ったなら、関東八か国を父手塚に与え、天下の副将軍としよう。 唐糸はこの 義仲の奥方になってもらおうぞ。

                                                             よりとも あんさつ

   万一もし失敗し、おまえが殺されるようなことがあっても、素晴らしい親孝行ができたと思うがよい。 頼朝の 暗殺、

   ぜったい

   絶対 人に知られるな。」

                  ちゃくい          そ                    くろう すえ

と、書きしたため、義仲の家宝、著衣という短刀を手紙に添えました。 召し使いはたいへんな苦労の末に、 鎌倉のもとへ手紙と短刀を無事とどけることができました。

                      

                        

       3,     ふところに短刀

 

                                                    はだみはな                     

       唐糸はこの手紙を読み、感激しました。 それからは、恐ろしいことですが、いつも短刀を肌身離さず、ふところにしのばせて

                                                   こううん めぐ   だいしょうぐん

   頼朝が眠りにつくたびに、命をねらいつづけました。 しかし頼朝は、さすがにすばらしい幸運に 恵まれた 大将軍でしたので、

けっきょくどうにかこうにか、唐糸の短刀をのがれたのです。

                  くすり  ふろ

     ちょうどその頃、頼朝と奥方が薬の 風呂に二人でやってきたました。 あの唐糸もお供としてやってきました。 その日の

        つちやさぶろう                               ぬ                  かく

  風呂の当番は 土屋三郎もとすけでした。 もとすけは、唐糸が風呂場の入り口に脱ぎ捨てた着物の下に、例の短刀が隠されているのを見つけ、

        「この着物は誰の物だ。」

 と、どなりました。 他のお供の女房は恐ろしくなり、

       からいと

         「それは唐糸様のお着物です。」

  と、答えました。 もとすけはびっくりしました。

                   てずかたろう  むすめ

あの唐糸という女は、義仲の家来、手塚太郎の娘であり、まさしくわが殿のお命を狙っていた女なのだ。 一刻も早く、

 頼朝様にこのことをお知らせせねばと、頼朝のいる所へ走っていきました。 頼朝は、

         「どうした。 もとすけは風呂の当番ではなかったか。」

と、不思議に思われました。 もとすけは、

                                                                                                                    ひろ       らん

       「私土屋が、風呂の当番の時、たいへんな宝物を拾いました。 ご覧ください。」

と、短刀を差し出しました。 頼朝はじっとご覧になられ、

         「風呂場で拾ったことは不思議だ。 これは義仲の家に代々伝わる宝で、著衣という短刀ではないか。 もとすけは、どうやって

   これを見つけたのか。」

                                                            てずかたろうかなざしみつもり

         「頼朝様にお仕えする唐糸の着物から見つけましてございます。 考えてみますと、唐糸は、義仲の家来、手塚太郎金刺光盛の娘

                                                                      きけん                                                 

   でございます。 まさしくこれは、わが君のお命をねらっていたにちがいございません。 お身近におつかいになるのは危険

   でございます。」

 と、申し上げました。 頼朝はたいへんびっくりされ、

         「唐糸を呼べ。」

   さっそく

 と、早速おっしゃいました。 もとすけは、

   しょうち

         「承知いたしました。」

 と、答えてさがりました。 頼朝は、御前に召し出された唐糸をご覧になり、

                          ちゃくい

         「どうしてお前は、義仲の家に代々伝わる著衣という短刀を持っていたのか。」

 と、おたずねになりました。

                              きねん

         「それは、私が依然義仲様にお仕えしました時の記念にいただいたものです。」

と、唐糸は答えました。 頼朝は聞きながら、記念にこんな家宝をもらうことはおかしいと思い、気がかりなので、

        おさ      まつがおか とうけいじ   あず          つ

        「世の中が治まるまで、松ヶ岡の 東慶寺に唐糸を預けよ。 もとすけ連れてゆけ。」

と、命ぜられました。 そこでもとすけは唐糸を連れ東慶寺に預けました。

                    

                        

 4,     見つけられた手紙

 

                                                            はちまんぐう  

     その後、もすけは唐糸の部屋で義仲からの手紙を見つけ出し、頼朝に差し出しました。 頼朝はこの手紙を八幡宮の神殿

                ほうび   むさし  いけのしょう                しょうえん

に深くしまわれ、もとすけには、褒美として武蔵国 池の庄(埼玉県児玉郡神川村)に大きな 庄園を与えられました。

 その後、

       「唐糸をもう一度つれてこい。」

                          とうけいじ         あず  あまぎみ はら                       

と、頼朝は命令しました。 もとすけが連れに東慶寺に行きますと、寺を預かる尼君が 腹を立てて、

                             もの            れいぎ    どうり                   

          「いったい、頼朝様は日本の主人となるはずの者ではないのですか。 礼儀や物の道理を知らないで、日本の国が治められる

                                  ほとけ            ごくらくじょうど

   のでしょうか。 もとすけ、よく私の話を聞きなさい。仏 様は悪人を助けようと極楽浄土をおつくりになりました。 

       まね                                      ころ        きず

   それを真似て、人間も、悪人を助けるためお寺を建てたのです。たとえ、主人を殺そうとし、親を傷つけ、牛や馬を殺した悪人   

         つみ くい あら                           く           ばっ   

   でも、その罪を悔い改めれば、とがめだてしないものです。 お寺で罪を悔いている者をさらに罰しようというのでしたら、

       最初からお寺などへよこさなければよいのです。 私に預けておきながら、またさらに

      せ             

   罪を責めようというのは、もとすけ、そなたの考えからか、まさか、頼朝様のお考えではないでしょうね。 いったい、私が

   み仏に仕える身であるがためか、女であるがためか、頼朝様がこうしてわざわざ恥をかかせるなんて、舌をかみ切って私は死に

   ます。」

                          あまぎみ 

 と、怒り出しました。 頼朝も頭があがらない尼君にこう言われてしまい、どうしようもなく、もとすけは頼朝にこのことを報告しました。

    しかた 

頼朝も仕方なく、

             「よいよい。 尼君のお気持ちがしずまるまで、そのままにしておこう。」

         からいと  ばっ                       

 と、それ以上、唐糸を 罰しないことにしました。

                        

    いしろう                       

   5,     石牢の唐糸

                        

      その後、尼君は、

                                           あぶ        しなの                           

  「どっちにしても、唐糸は大切な預かり者なので、、この鎌倉に置いては危ない。 急いで信濃へお逃げなさい。」

                   かこ    みはり  ぶし                    

    と、おっしゃって、東慶寺を囲んでいた見張の武士に見つからないようにして。こっそり信濃国へ旅出たせました。

          むさしのくに ろくしょ                ふうん  かじわらへいぞうかげとき こうずけのくにぬまた しょう

    しかし、唐糸が 武蔵国  六所(東京都府中市)まで来た時、不運にも 梶原 平蔵 景時が、上野国  沼田の 庄で百日参りをして鎌倉へもどろうとやってきた一行に、行きあってしまいました。

          すがた                       

 景時は、唐糸の姿を見つけるとすぐ、

            「そこを通るのは唐糸ではないか。 わが君頼朝様のお命をねらった大悪人だ、者どもひっとらえよ。」

  さけ              しば                             かげとき                    

と、叫びました。 こうして唐糸は縛りあげられ、ふたたび鎌倉へ引きもどされてしまいました。 景時は、鎌倉へ着くと  、自分の家

       ちょくせつごしょ さんじょう

へもどらず、直接 御所に 参上して、頼朝に、

    こうずけ  みやげ                           

  「上野の お土産を差し上げましょう。」

 と、唐糸を引き出しました。 頼朝は唐糸を見て

 

         「これは、何にもまさる土産だ。」

        よろこ 

 と、たいへんお喜びになり、

                                                      おおもの こ  おおぜい

          「それにしても、これは唐糸一人でわしの命をねらうことができるはずがない。 鎌倉の中に大者、 小者大勢がこの計画に

                                              きび  じんもん

   加わっているはずだ。 取り調べ所に引き渡し、その者たちのの名を七十五回厳しく尋問せよ。」

                       あまぎみ           かげとき さ ちが 

と、部下に言いつけました。 ところが、尼君がこのことを聞きつけ、景時と 刺し違えて死のうと御所へ向かいました。

                           うら  いしろう

これを聞いて頼朝は、  とりあえず唐糸を、御所の裏の 石牢へとじこめることにしました。 こうして、どこまで

     うん      ぎゃく              は

いっても運の悪い唐糸、逆に頼朝の運のよさは目を見張るばかりです。 

                  さい               むすめ

    さて唐糸には、信濃国に、六十歳を過ぎた老母と十二歳になる娘とがおりました。 唐糸は十八歳の時鎌倉へ上がったので、

                                  まんじゅ            ろう

 作者の私がかぞえてみると娘は十二歳になると思われます。 その娘の名は万寿といいました。 唐糸が牢に入れられたといううわさは、信濃国まで聞こえてきました。 うわさを聞いた万寿は、

 

                           「ああ。 どうしたらよいのでしょう。」

              あおぎ     ふ

                        と、天をふり仰ぎ地にひれ伏して、泣き悲しみました。

 

                   

     6,       万寿の決意

                      

       万寿は、けなげにも決心しました。    

                                                                                             こ        ゆくえ 

 「もしも私が鳥ならば、すぐにも山川飛び越えて、かか様の行方を探しに行きたい。」

             あますがた                       

こう言いつづけるのを、尼姿の老母が聞きながら、

 

     「私の悲しみも、おまえに少しも劣りません。 このまま信濃で帰りを待っていても、もう会えるとは思われません。」

        なげ                     へや                        な             

  と、しきりに嘆きました。 これを聞き、万寿は自分の部屋に引きこもり、着物をかぶって思いっきり泣きました。 

 

       ころ うば  さらしな 

夜も更けた 頃、乳母の 更科を呼んで、

                       からいと  かまくらばくふ     

 「更科さん、よく聞いてください。 私のかか様唐糸は、 鎌倉幕府の石の牢 に捕えられたと聞きました。 

                                                                  たよ     

  ですから、私はどんなことをしてでも鎌倉へ行き、かか様の行方を尋ねたいのです。 お願い、更科さん、あなただけが頼りで 

  す。どうか私を鎌倉へ連れていってください。」

でも更科は言いました。

            み

       「男でもない女の身で、どうやって鎌倉まで親を尋ねていけましょう。 それは無理です。 万寿様。」

           すじ

  「それはまた、筋のとうらないおっしゃりよう。 私が鎌倉へ上がり、唐糸は私の親ですと、大げさに尋ねて回ったら、皆に疑わ

                                           ちちぶ   わだ               つか

   れるにきまっています。 そうではなく、頼朝様か、そうでなくても、秩父様か、和田様に、五年でも三年でもお仕えして

                           しぜん

  いればかか様と同じ鎌倉にいるのですから、自然にかか様のことが聞き出せるのではないでしょうか。 それならば承知してくだ

 

  さいますか、更科さん。」

 かわいがってきた万寿に、こう言われて更科は、

        おさな         おん

          「ああ、幼いあなたが、親のご恩をこんなにお考えになられるのですもの、たとえ身分の低い私でも、どうしてご主人様

                                                         すえ   おく

               ご恩を忘れたりしましょうか。 よくわかりました。 お引き受けします。 このうえは、野の末、山の奥までも、私がお供

               いたしましょう。」

                            おおよろこ                 こよい

と、感動に身を震わせながら言いました。 万寿は大喜び、とても心強く思い、それでは、今宵のうちにも出発しようとするのでした。

     

   7,    鎌倉への旅

                     

           しょうぞく  はだ  ねりぎぬ あわせ    たず                     きくぞめ   こそで      むらさき           

   万寿のその夜の旅の装束は、肌には練絹の 袷を着、親を尋ねる出発のこととて幸運を開くという  菊染の 小袖に、紫の

うわぎ   ひとえ   はかま いちめがさ

上着の十二単と柳色の袴、 市女笠をかぶりました。 

       しょうぞく あい   みのぎぬ そめこそで  ひとえ あさ はかま                 つつ  うば

乳母のその夜の装束は、 藍の衣に美濃衣の染小袖、七つ単に 麻の 袴、 旅の荷物は  一まとめにして包み、乳母がこれを頭の上に

の  ふるさと

載せて故郷を出発しました。

 まんじゅ さらしな                                  ま        たび

 

  万寿も  更科も、こらからどうなるかわからない旅でもあり、たどる山道の曲がりかどにくる度、行く先がわからなくなって

ぼんやり立ち尽くしてばかりいました。 万寿は、ぼんやり立ち尽くしてばかりいました。 万寿は、

         「なんと更科さん、よく聞きなさい。 鎌倉は東の方だと聞いています。 月や日は東の空から出て西にはいります。 だから、

   月や日を目当てに歩きましょう。」

            いち  めじるし

こうして二人は、月の位置を目印にしていくうちに、ようやく夜が明けてきました。

    てずか

 一方、手塚の里では、

         「万寿様がお見えになりません。」

          さが                さわぎ             まちが    かまくら

 と、皆であちこち探しておりました。 尼君はこの騒ぎをお聞きになり、これは間違いなく鎌倉へ出掛けたのだと考えられ、急いでそ

                                   あめ みや

れをやめさせようと、はだしで後を追いかけました。 信濃国 雨の宮(更埴市)という所で、ようやくこの二人に追いつきました。

あまぎみ    だ

  尼君は万寿に抱きつき、

                                                                                                                                              あきら                   す    きけん 

       「どうか聞いておくれ、万寿。 唐糸は、もう死んだものと諦めていました。 ところがあなたまで私を捨てて、危険な所

    たず        よりとも              にく                しょけい

         へ尋ねていき、もし頼朝殿の耳にでもはいったなら、憎い唐糸の子だといって、きっと処刑にされてしまうでしょう。 

  

  どうか思いとどまっておくれ。」

 と、よよと泣きくずれました。 万寿は、

                                             うたが                わだ                       

 「私が鎌倉へ上がって、唐糸を親だと言って探して歩きましたならば、きっと人が疑うでしょう。 でも、頼朝様か、和田様か、

  ちちぶ                                  ゆくえ わか

  秩父様へ、二年でも三年でもお仕えしたならば、どうしてかか様の行方が判らないことがありましょうか。 そう思って

                                                                          

  出てきたのですから。」

  尼君はこれを聞いて、

                    ふじさわ      ゆうぎょうおしょう

     「それならば、鎌倉の近くに、藤沢の道場といって遊行和尚のお建てになったお寺があります。そこに知人がいるので、私はその

           かく

   藤沢の道場に隠れていて、あなたがたは鎌倉へ行ったらよいでしょう。」

          まんじゅ                                                       ふかのう

  と、言います。 万寿には、年とった尼君が鎌倉まで歩いて行かれるとはとても思えません。 尼君を連れては、鎌倉行きは不可能

 になってしまいます。 思いあまって。

                       いっしょ                                     ふち

      「人目をはばかる旅ですから、おばあ様までご一緒され、大勢で行くのはまずいでしょう。 それならば、いっそどこかの渕瀬

 

  へでも身を投げて、つらいこの世からお別れしたくなりました。」

と、本当に悲しそうに泣きました。<br>

                     

                       

    8,    親思う心

                   

                  めず                     おやこうこうもの         

  「子どもが親を思うことは、珍しいことと聞いています。 あなたは本当に親孝行者。 それならしかたありません。 私は行く

      あきら                たず        さらしな     たよ

  ことを諦めましょう。 おまえはかか様を尋ねてごらん。 更級。 お前を頼りにしていますよ。 

              たいやく は

  どうか十分に、お供の大役を果たしておくれ。」

           うば

 と、言いました。 乳母の更科は、

     

  「お供いたしますからには、たとへ野の末、、山の奥、火の中水の底までも、万寿様とご一緒いたします。 

   どうかご安心なさってください。 尼君様。」

  と返事をしました。 尼君は、

 

        「それでは、せめて鎌倉へ行くまで、男を一人つけてあげましょう。」

      ごろうまる

 と言って、五郎丸に、お供させました。          

 「それでは。」

  と尼君と分かれましたが、行く人見送る人、しきりに涙を流し合いました。

                                                    ちぎり   ふかし

万寿は、こうして雨の宮を出発し、通る所はどことどこでありましょうか。 まず、おやこの契りが深い深志の里(松本市)

           あさま  たけ   けむり                                いりやま      こうずけのくに

はめでたいこと。 浅間の 嶽に立つ煙ではないが、身にあまるほどの思いの火であろうか。 今は入山を 通り過ぎ、上野国では知れ

     ときわ しゅく           みや おが                                     ちちぶやま

わたった常盤の 宿を越えていき、一のお宮を拝み、二のたまはらから出たところが、親の名のみかその父の名を持つ秩父山、

すえ            かすみ     せき         いるまのこおりやせ

末待つ松山を通り過ぎ、霞(かすみ)の関をも分け越して、入間郡八瀬の里と、いくつもの里を越したことでしょう。 曇らぬ光の

     や  とがみがわら                       つる おか さんけい

さす星の谷の、砥上河原をも通り過ぎ、鎌倉へお着きになる。 まず鶴が岡に参詣し、

      なむ   はちまんだいぼさつ                            うけたまわ           からいと     いのち            

            「南無や 八幡大菩薩。 どんな神様よりもお力があり、親孝行の神様と 承っております。 わが母唐糸のはかない命のうち

   に、どうかめぐり合わせてください。」

  まごころ   いの

 と、真心こめて祈りました。 その夜は一晩中、鶴が岡八幡宮にこもって、夜が明けたので、手紙をこまごまと書きました。

                     ぶじ                                からだ

         「私は何事もなく、おかげさまで無事 鎌倉まで参りました。 どちらにしても、おばあ様はお身体をよくよく大切になさってく

                  かめ  ほうらい  

   ださい。 命を完全に保つ亀は、逢萊で出会うとかいうことで、ある歌に、

         いくよ                  つゆ たま お

             命あらば幾夜の秋の月や見えん消えてはいかに露の玉 の緒

                        

 (命あるならば、これから幾晩も秋の月を見ることでしょう。しかし露のように命がなくなってしまったらどうしよう。)

 

  と聞きますと、ただおばあ様がお元気なことを祈るだけです。  生きていてくだされば、娘の唐糸にも孫(まご)の私にも、

     ふたたびお会いになることができましょうから。」

  と、記しました。 そして包(つつ)みの上書には、心をこめて、

             「鎌倉山より、手塚の里のおばあ様へ、万寿姫」

  と、書きました。 鶴が岡まで着いた時、五郎丸に、

             「ここまででけっこう、帰ってこの手紙をおばあ様に渡しておくれ。」

  と、言いました。

 

          つか                       

     9,        頼朝に仕える

 

                                                              たず                     

       その後、万寿は、頼朝の所へ行き、奉公したいと申しだしました。 ちょうど、頼朝の奥方が万寿を見かけ、尋ねました。

                 「お前はどこの国の者か、親の名前は何というか。」

 万寿はかしこまって、

   むさしのくにろくしょ べっとう   もの         じじょう

          「武蔵国六所 の 別当の一族の者です。 けれども事情があって親の名は申し上げられません。 ここにお仕えしましたら、

      さが

   私を捜しに来る人が親でございます。」

             おくがた 

と、お答えしました。 奥方は、親の名を言わないことが気になりました。

                  じじゅう  つぼね

          「それでは、とりあえず、侍従 の 局で、お仕えしなさい。」

                    じつ  はたら

 と、言われました。 万寿はそこで実によく働きました。奥方は、万寿がなかなか働き者だとたいそうかわいがりました。

  こうして万寿が働きだして二十日がたちました。その間、万寿は人の話の中に、かか様の唐糸の名前だけでも出てこないかと注意を

していました。 でも誰も言いません。 かか様はもう亡くなってしまったのでしょうか。 生きておられるのなら、人のこと、よいにつけ悪いにつけうわさするはずです。 ああ、三十五日もかかって信濃から尋(たず)ねて来て、お会することもできないとは、悲しいことです。

こう思いに沈(しず)んで泣きました

 

       うば         はげ               

   10,   乳母 更科、万寿を励ます

               

                           はら

    乳母は、 万寿を励まそうとの心から、わざと腹を立てたふりをして、

                                            がんばる 

        「なんですか。 信濃をお出になる時は、二年でも三年でも鎌倉にでてきて頑張とおっしゃったではありませんか。 だから私も

 

   こうしてお供して探しに出てきました。 それを、まだ二十日もたたないのに、そうして泣き悲しんでしまうとは。 

                      しけい

   これでは人に気づかれて、きっと死刑にされてしまいます。そうなって、私は鎌倉でつらい目にあうのはまっぴらです。

    あす

   明日信濃へ帰りますから、 あなた一人でお残りなさい。 万寿様。」

   しか                         だ                   

    と、叱りつけました。 万寿は、とてもびっくりし、更科に抱きついて、

                                              さらしな                          

  「ごめん、ごめん、もうこんな心細いことは言いません。 信濃へ帰るなどと更科さんも言わないでください。」

 と、泣き出しました。 更科も泣きました。

                      

            いどころ

  11,     つきとめた母の居所

                       

                 まんじゅ ごてん うら                            そとまわ  にょうぼ よって

      こうして朝になりました。  万寿は 御殿の裏へ出て朝の空気を吸おうとしました。 すると一人の外回りの 女房が 寄ってきて、

                 くぎ     

  「もしもし、万寿様、この釘門の中へ行ってはなりません。 ご命令です。」

                 なにげ        たず 

   と、注意しました。 万寿が何気なくそのわけを尋ねますと、

                                ろう                 だれ 

   「頼朝様の女房で、唐糸の前とおっしゃるお方が石の牢におしこめられております。 だから誰もここから中へ入ってはならない

   のです。」

                       のぼる  うれ

と、返事をしました。これを聞き、天にも昇るほど嬉しくなりました。 でも、その場をつくろって、

 

           「おおこわい。 よいことを教えてくださいました。 私は少しも知りませんでした。」

 こう言って、万寿は大急ぎで御殿の中へ引き返し、更科に、

         ゆくえ                  よろこ

          「かか様の行方、たった今聞き出しました。  お喜びなさい。」

                 うれ

と、言いながら、今度は二人で嬉し泣きに泣きました。

                     

      かんげき たいめん  

 12,      感激の対面

                       

         ころ             みな                                          こんばん

   三月二十日の頃になりました。 人々は皆、鎌倉山のお花見に出掛け、御殿には誰も残っていませんでした。 万寿は、 今晩

                 たず                 ぬ    くぎもん                しょうはちまん

こそかか様のいらっしゃる所を訪ねてみようと、こっそり御殿を抜け出し、釘門へ忍んできました。 すると、正八幡の 

ごかご

御加護でしょうか、その時にかぎって、番人もおらず、門も細めにあいていました。 万寿は嬉しくなりました。

                                                                                                                  うば   わき                              さが まわ

 しかし念には念を入れて、犬でもほえてはまずいと乳母を門の脇に立たせ、万寿一人だけ中へ入りました。あちこちと捜し回って おり

     ふ     まつかぜ                                        

ますと、吹きおろす松風が大きな岩に当たって音をたてただけでも、誰か人がいるのではないかとびっくりさせられます。

                                            おく 

  二十日の夜中近く。雲が少し晴れだし、月が出てきました。 松の木立のその奥に石牢が月の光で見えてきました。 万寿は

                                               からいと

  嬉しくて、あわてて走り寄り、牢の扉を押し上げて、内の様子をうかがいました。 唐糸は人の気配を聞きつけて、

                                                                                                                                                                              からいと 

  「おや、門の所に立っているのは誰ですか。 化物ですか。 それともこの唐糸を殺そうとする人ですか。 頼朝様   から

  つか

  遣わされた 人ならば、さあ早く殺してください。」

        うった                      ことば

 と、泣きながら訴えました。 万寿は、このかか様の悲しい言葉を聞き、なおさら深い悲しみがこみあげてきました。 牢のすき間から手を入れて、かか様の手を取り、

       

  「これはかか様の手なのですね。 私は万寿です。 ああおなつかしいことです。」

                      なみだ

   と、泣き出してしまいました。 その涙が川のように流れ出しました。 唐糸はこれを聞き、

                                                   ゆめ      げんじつ

         「万寿は私が信濃に置いてきた子です。 あれから十二年もたちました。 ああこれは夢でしょうか、現実のことでしょうか、

    まぼろし             いっこく       

   幻でしょうか。 ああ夢ならば、一刻も早くさめてしまってほしいこと。 でもさめてしまったら、娘も消えてしまうから、

       た

           とても堪えられなくなりますから。」

                      

 と、せつなさそうに泣きました。 万寿は、

                                              いしろう                           

   「おっしゃるとおり、私は信濃国におりました。 でもかか様が捕らえられ、石牢に押しこめられたとのうわさを耳にしまして

                               か 

    いたたま   れなくなりました。 かか様に代わって私がと、この鎌倉までやって来ました。」

                           うれ

   と、言いました。 唐糸は万寿の手を取って、嬉し泣きに泣きながら、

 

                 「おばあ様は達者ですか。 ああ、なつかしい。」

                 「お元気です。 ご安心ください。」

                 「でも、おまえ一人だけで鎌倉まで来たのですか。」

         さらしな

                 「いいえ、更科さんに連れて来てもらいました。」

                かく                 

    「おや更科はどこに隠れているのですか。」

               あぶ

    「人に見つかると危ないので、門の所で見張らせています。」

               よ

 そして万寿はすぐ更科を呼んできました。 唐糸は、

       ひさ               そこ    どく

  「更科、久しぶりだね。 この私を心の底から気の毒に思ってくれるのですね。 本当にありがとう。 万寿は私の娘です。

 

   こうして訪ねてくれるのは、親子の縁があればこそです。 でも更科は、乳母とはいっても、他人です。 昔から、世に時めく

                                      ためし

   主人ならば訪ねても、落ちぶれた主人を訪ねる使用人などいた例がありません。 それなのに、更科ありがとう。 

 

   嬉しいですよ。」

 

 と、雨が降るほど涙を流して泣きました。

                     

13,       わが命にかえて

                       

 

     やがて唐糸は、涙をおさえ、

           「お前も私も、こうして、お思いもかけず会うことができました。  もう私は、この世で思い残すことは何一つありません。

 

    更科、万寿をお願いします。 あなただけがたよりです。 どうか万寿を連れて信濃へ帰ってください。 たのみますよ。」

 

と、言いました。 万寿はこれを聞き、

                            か     けっしん                         

  「信濃国を出た時から、ずっとかか様のお命に代ろうと決心して鎌倉へ来たのです。 どうして信濃へこのまま帰れましょう。」    と、泣きました。 唐糸は。

               たびたび                               わか                         

  「それでは、ここへは度々来てはなりません。 もし人に見つかったら、唐糸の子であることが判ってしまい、頼朝から、

              しざい るざい                          かく

           私より先に、お前は死罪か流罪にされてしまいます。 よくよく用心して身分を隠しなさい。」

   と、注意しました。 万寿は、

                     だれ

          「生まれた国も言いませんから、誰もこのことは知らないはずです。」

    こんな話をしているうちに、夜が明けてきました。 万寿は、

 

           「それでは。」

               ごてん                           きもの

  と、かか様と別れ、急いで御殿へもどりました。 それからというもの、万寿は着物を売ったりして、母の入り用の品を買っては、

              いしろう                 やしな

  こっそり更科か、万寿が石牢へ運び込み、九か月の間、唐糸を養いました。 その心はとてもいじらしいものでありました。

                     

     ぶつま

 14,   仏間にはえた六本の松

                   

                  いの                       たたみ

    次の年正月二日、頼朝が毎日お祈りをしていた仏間に、なんと六本の松が、畳のへりから芽を出しました。 頼朝はびっくりし、

不思議がって、

                     は         

    「こういう草や木は、土に根を張るはずなのに、わしの仏間の畳のへりに根がついて、生えだしてきたのは、なんとも不思議な

                       わざわ お   さきぶ                                ぜんちょう

    ことだ。 これはこの鎌倉に何か災いが起こる先触れなのだろうか。 それともこの頼朝の身の上に何か起こる前兆なのだろ

         うらな はかせ

    うか。 占いの博士を呼べ。」

                     うらな      あべのなか            め                たず

  と、命じました。 その頃、鎌倉一の占いの博士は、阿部中もちでした。 中もちが召し出され、頼朝はこのことを尋ねました。 

博士は、

        おぎ はぎ     の                     さいおうぼ     もも            さ

        「そもそも荻や萩が花の命を延ばすことは多いといわれています。 西王母の園にある桃は、三千年に一度花が咲き、実が

              じっさい                     じゅみょう

   なるといいましても実際に見た人はおりません。 松は一千年の寿命と申します。その松が一度に六本も生えてきたのですか

                        さか                                     つる おかはちまんぐう

   ら、頼朝様も千年を重ねて六千年、お栄えになることまちがいありません。 これはめでたいことですから、鶴が岡八幡宮  

     たまがき   ほうらい かたち     う                                       

   の玉垣の中に、蓬萊山の形にこの松を植えてから、十二人の美女に今様(当時の流行歌)をうたわせられたなら、神様は

    よろこ

   お喜びになり、いっそう頼朝様をお守りなさることまちがいありません。」

                       

      め                   

 15,  召し出された十二人の美女

                       

          さっそく               たまがき                 

    頼朝は大喜び、早速 六本の小松を鶴が岡八幡宮の玉垣の中へ植えかえました。 そして十二人の美女を集めました。

          たごし ちょうじゃ むすめ せんじゅ     とうとうみのくにゆや じじゅう      きせ   かめつる   さが

    まず一番は、手越の 長者の 娘  千手の前、二番は、東江国 熊野の娘 侍従、三番は、黄瀬川の亀鶴、四番は相模み国

         とらごぜん         いるま   ぼたん   しらびょうし

山下の長者の娘 虎御前、五番は、武蔵国入間川  の牡丹という白拍子(今様(いまよう)や舞(まい)の専門家)、これをはじめとし

      そろ

て十一人が揃いました。

                                                                                                      じょうず

   しかし、 どんなに広い鎌倉の中でも、今様が上手ですばらしい美人となると、どうしても残った一人が見当たりません。 

みないっしょうけんめい  さが                  さらしな

 皆一生懸命で 美女を捜すことになりました。 その時、更科は万寿に言いました。

                             うでまえ        なの

      「あなたは、すばらしい美人です。 今様も名人の腕前、どうです。 名乗りなさいませ。 きっと今様をうたってくだされば

         よいことがありますよ。」

 と、言いました。 まんじゅは、

            ふつう       ちが          いわ                       

  「今度の今様は、普通の今様とは違うのですよ。 お祝いです。 そんな晴れがましい場へ、どうして私が出られましょうか。 

   思いもよらないこと。」

と、取り合いません。 更科は、また腹を立てて、

                               ほうび                           

  「こういう時だから、今様をうたうべきです。 ご褒美もいただけるでしょうに。」

           おくがた                    

  そして、さっさと奥方の前へ行き、

 

   「万寿様は、今様の名手でございます。」

                                     さが

  と、申し上げました。 この話は、すぐ頼朝に伝えられました。 捜しあぐねていた最後の一人が見つかったと、頼朝は大喜びになりました。

頼朝は、万寿を一目見てから決めようと呼び出しました。 万寿を見て、頼朝はいっそう喜びました。 なにしろ奥方からいただいた

じゅうにひとえ                               かた

 十二単  を着た万寿の美しさは、十一人の美女の誰よりも美しく、肩を並べられる人はないのですから。

                       

                まい                       

    16,    酔いしれる歌と舞

                     

                             しんでん  ほうらい かた                              せき

      さて、正月十五日、神殿の前に蓬萊山を型どった山を築きました。 神殿の左手には、頼朝の見物席、  関東八か国の大名や

小名八百八名の見物席。 右手には、奥方の見物席をはじめ、八か国の大名の奥方や女房たちの見物席があって、その人数は

かぞえられません。 鎌倉中の人々が皆見物にやってきましたから、神社の中には馬をつなぐ場所も見つかりませんでした。

                 まいひめ               かぐら そう

       まず舞姫 の舞があり、七十五人の宮入の神楽が奏(そう)されました。 いよいよ十二人の美女の登場です。 最初は

たごし      せんじゅ   だん            はな     ぶし         えんきょく    かいどうくだ                  

手越の長者の娘千手の前が壇に登りました。 とても華やかに、武士の流行歌である宴曲 の代表歌「海道下り」を、 

   おうさか      くも     なが    せた  からはし

  「逢坂山の夜の月、曇らぬ影をや眺むらん、勢多の唐橋・・・・・・。」

  と、うたいあげました。 歌の締めくくりは、

    みよ   いず いずのくに   うらしま  たまてばこ         はこね              つる   おか                  

  「御代には出の 伊豆国、 浦島が 玉手箱、あけてくやしき箱根山、鎌倉山を来て見れば、鶴が岡   とや申すらん、

       とせ        とせ めいぼく 

   鶴は千年の名鳥、松は千年の名木、めでたし。」

               だいぐんしゅう みな     かっさい

  と、しました。 集まった大群衆 は 皆やんやの大喝采です。

      きせ    かめつる       ゆや     じじゅう      いるま   ぼたん   とうだん             

二番目は、黄瀬川の亀鶴、三番目は、熊野の娘の侍従、四番目は入間川の牡丹が  登壇し、皆それぞれにうたい、舞いました。 

ふんいき

雰囲気は、こうしていやがうえにも高まりました。

      くじ  まんじゅ                         ひとえ        おとめ                     

さて、五番目の籤は万寿が引き当てました。 奥方からいただいた十二単を着た、十三歳の乙女は、

      りょうそで      がくや   ぶたい                               うぐいす             

 花のような両袖をひるがえし、楽屋から舞台へと出てきました。 その美しさは、花が咲きこぼれる木にはばたく鶯、いやそれ以上の

                           いちだん                    うば

明るさとすばらしさでありました。 万寿の歌は一段と引き立ち、大群集のこころはすっかり奪われて しまいました。

                    

                       

       たもと そで                     

  17,   袂と 袖との舞い重ね・・・頼朝と万寿・・・

                   

                       

        やつしちごう              さ うめ  やつ   おうぎ                      よわい                    

       「鎌倉は谷七郷と聞いています。 春はまず咲く梅 が谷、 扇の谷に住む人の・・・・・わが君は 千年の寿を

                 さか                                あいおい  えだ

   重ね重ねて、六千年もお栄えになるのでありましょう。 これほどめでたいお身の上、相生の松の枝、

    ふく とく かぎ                  ささ

          福も 徳も限りなく集まる喜びを、わが君様に捧げましょう。」

 と,小松の枝をふりかざし、真っ白な大幕へ、万寿は二度、三度、四度と五度と舞いかかりました。  頼朝は、この万寿の歌と舞いに

                                                                 たちえぼし     しろさや

すっかり  感動し、途中から、立烏帽子を付け、白鞘巻を差しながら、まっ白の大幕をはねあげて、幕の中から舞台へ

                                 そろ                       たもと

 飛び出しました。 頼朝も実は今様の名手、、万寿と二人は揃って舞台で舞いました。万寿の花のような袂と、頼朝の袖とが、

    二度、三度、、四度五度と舞い重ね、舞い重ねしました。

 すると、不思議なことが起きました。 二人がきれいに揃って舞うその度に、風も吹かないのに、神殿の玉の戸が、きりきりぱっと開いたのです。

                                  しょうこ                       

これは八幡の神が頼朝の願いをお聞き入れになられた何よりの証拠です。 これには、見物席の大名、小名、奥方をはじめ、

                    こうふん うず                                ざしき

  大群集も皆ものすごく感動し、その興奮の 渦がいつまでのいつまでもさざめきました。 その後、頼朝は座敷へ

          がくや

  引き上げ、万寿も楽屋へもどりました。 頼朝自身、すっかり感動し興奮しましたので、

            まんぞく                              しきゅう    

  「もうこれで大満足だ。 神様もお聞きとどけだ。 今様は終わりにするぞ。 だれか至急取りはからえ。 これから、

              さかも

          今様の後に予定した酒盛りをはじめるぞ。」

                    ゆかい

   そうして春の日が暮れなずむまで、愉快に酒盛りをしました。

                     

            みが

18,      ぜひ母様の身代わりに

                     

 

                    

   さてあくる日、頼朝は、万寿を召し出して、

                いまよう       りっぱ

         「それにしても、お前は今様の名手だ。実に立派にうたったことだ。 お前の国はどこだ。 親はだれだ。 今こそ

                  ほうび   のぞ           

   親の名を名のるがよい。 褒美は何が望みじゃ。」

                                         きかい

 と言われた。 万寿は、あくまで親の名は言うまいと思いましたが、この機会に名のらなかったら、望みは果たせないだろうと

けっしん 

決心して、思いきって名のりました。

                  ごてん うら いしろう

         「実は、私のかか様は、この御殿の裏の石牢の中におります。 唐糸が私の親です。 私は四つの年に親から

                   ころ

            離れたのですが、去年の春の頃、かか様が牢に入れられたことを、遠い信濃国で耳にしました。 もういてもたってもいられま

                                            ほうび 

   せん。かか様の命に代ろうと思って、ここまで来たのです。 こんどのご褒美として、どうか、かか様の命と、私の命とを取り

                   

   かえてください。」 

    ひっし

 万寿は必死になって頼朝に頼みこみました。 頼朝はびっくりしました。 そうしてしばらくしばらく

  い

何も言わず、万寿の姿を見ていました。 しばらくして、

                                                       つの

             「唐糸は、おまえの母であったのか。 でも唐糸を助けることは、鳥の頭が白くなり、 馬に角が生えることがあっても

     だめ          たび ほうび                お

    駄目じゃ。 でもこの度の褒美は、よろしい。 どんなものも惜しくはない。 でも唐糸の命が、今まで無事であるならば、

 

    急いでここへ連れてこい。 万寿に与えよう。」

 と、言われました。

                    

      すく                      

 19,      救われた母と子

                     

                              とら                      

        あの土屋が、急いで石の牢をうち破り、二年以上も囚われていた唐糸を引き立て、頼朝の前へ連れてきました。 

       よろこ                                                 わす   うれ

万寿はとても喜んで、かか様にしっかりと抱きつき、二人はいつまでもいつまでも、頼朝の前であることも忘れて、嬉し泣きに泣きま

 

した。   これを見て、頼朝をはじめ奥方や、そこに居並ぶ武士たちは、

                 たから

       「人間が持つことのできる宝として、子ども以上の宝はない。 それにしても、万寿は、女の身でありながら、

                                     きけん

   それも十二か十三の子どもなのに、こんなに遠い鎌倉まで、危険を恐れず親を助けにやってきた。 これはとても考えられない

   ことだ。」

   と、口々にほめちぎり、皆もらい泣きをしてしまいました。

                    てずか       しょうえん              おうごん せんりょう 

 その後、頼朝は褒美として、信濃国手塚の里に、広い荘園をくださった。 奥方からも、黄金 千両、

 わた   たば                              あまぎみ  たくさん   おく

    綿を一千束くださった。 そのうえ鎌倉中の人々からも、松が岡の尼君からも沢山の品々が贈られました。 しかし、頼朝は、

 

          「万寿をこのまま鎌倉にとどめたいのは山々だ。 けれども、そなたの母親は心恐ろしい者である。 すぐ連れて信濃へ帰れ。」

 と、言いました。

       ひま                          しじ 

 こうして暇を出された万寿はたいそう喜びました。 頼朝の指示どおり、すぐ唐糸を連れて、信濃へ向かいました。

                                                 とうちゃく        あまぎみ

鎌倉へ来るのに万寿は三十二日かかりました。 でも、帰りはたったの五日で手塚の里に到着しました。 老母の尼君は、重い病気に

                   たず     

 かかっていました。 すぐ尼君を訪ね、

                   わか             

  「万寿が帰ってきました。 お判りになりますか。 私は万寿、ここにいるのは、かか様か唐糸ですよ。」

                                                              いちぞく

 と、声をかけました。 尼君は、ようやく親子二人が無事帰ってきたことを知って、嬉し泣きに泣きました。 一族はもとより、手塚の里の人々も皆喜んで泣きました。 

                こうこう          はちまんだいぼさつ             りょうち                       

 そういうわけで、万寿は親孝行でしたので、鶴が岡の八幡大菩薩のおはからいで、今様をうたい領地をもらい、母を助け、

たくさん                 しそん  すえ しあわせ

沢山の宝までもらいました。 万寿の子孫も 末長く幸せに暮らしました。 これもすべて、

                  かんしん

   万寿の親孝行のためと、万寿に感心しない人はありませんでした。

 

 唐糸草子  信大付属長野中学校編                          信濃教育会出版部

 

       出典

  1) 唐糸草子 信大付属長野中学校編                          信濃教育会出版部

   (唐糸草子・ものくさ太郎・大塔物語・姨捨) 長編

        7)善光寺縁起 信大付属長野中学校編                          信濃教育会出版部

        9)信濃の説話 信大付属長野中学校編                          信濃教育会出版部

   11) 信濃の詩歌 信大付属長野中学校編                           信濃教育会出版部 

  長野県史  通史編 第三巻、中世二                          長野県史刊行会